2024年4月9日火曜日

山田いく子リバイバル――(16)


Youtubeにアップしていた、仮タイトル「チムチムニー」の全体データがみつかったので、いく子のダンスを連続で上げてきたアカウントの方へ、「森のクマさん」と仮タイトルして、アップロードした。前のものは途中までで、音響も壊れてすさまじくなってしまっている。逆にそれが、それなりのアクセス数になったような気もするが。

 

山田いく子「森のクマさん」(仮タイトル)…2008頃 (youtube.com)

 

息子のイツキの体格からすると、まだ幼稚園児くらいの頃であろう。正確な年月はわからない。私は会場にはいなかったようだ。六さんのダンスパスでの、私的な交流公演なのだろう。

 いく子はここで、またどこか私的な奔流に呑まれたようなダンスをしている。やはり何か、トラウマのようなものがせり上がってくるのだろう。

 いま、映画で、1993年公開で、カンヌでパルムドール賞をとった、ジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』が、4kになってリバイバル上映されている。いく子は当時、この映画の感想をノートに書きつけていたので、タイトルだけは記憶にあるがこれを私は見ていなかったので、観賞してみた。以下は、その感想を、妹さんへのライン宛てに書いたものである。このいく子のダンスの出所は、そういうものであると、私は思っている。

 

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「ピアノ・レッスン(原題は、The Piano)」の出だしで、女性主人公の設定が、6歳から唖になってしまったとあって、すぐに了解。最後のテロップで、監督が女性で、設定場所がニュージーランドということで、もしかして、いく子のダンス「エンジェル アット マイ テーブル」のタイトルとなる映画を作った監督と同じなのでは、と推論。スマホで調べたら、やはりそうでした。

 

女性の自立みたいな解説をみたりしていたのでそうかな、と思っていたら、逆で、それが不可能である、という内的現実の在り処を示そうとするものです。描いたのは、女性というより、アーティストといっていた方がわかりやすい。

 

ピアノは、自分の意志ではどうにもならない、抑えられない力、を意味します。オシになった彼女は、再婚のためにスコットランドから植民者の白人のもとへゆくのですが、愛することはできない。彼とマウリ族の間で通訳者をする現地化した男を愛するようになってしまった。その男との交際中にしゃべるのですが、通訳者にはきこえなかったその言葉を、覗き見していた植民者には、制御できない意志の力が自分でも恐ろしいのだ、と彼女がささやいたと聞こえた。彼女の指を切り落としてしまった植民者は、彼にそう伝え、二人が一緒になって現地から去ることを許す。

 

この、抑えられない力は、いく子のテーマです。映画でも、6歳から、ということで、なにかトラウマを負ったのかもしれませんが、とにかくそれに突き動かされる。それは、性と結びついている。最後は通訳者との幸せな結婚のように見えますが、現実には、ピアノは海の底(無意識)に沈んでいるだけです。それが爆発するのではなく、なんとか手懐けられるよう、彼女は発声練習したりして、通訳という境界にいた男との関係で、リハビリをしているのです。そして話すのが恥ずかしいので、今度は目隠しをしているのです。

 

「エンジェル アット マイ テーブル」は、まだビデオ化もされておらず私は見てませんが、精神病院に入っていた女性の話です。

 

当初このテーマは、画家のアンリ・ミショーの言う「噴出するもの」、後期では、ウィトゲンシュタインの「語り得ぬものは黙らなくてはならない」、との言葉として、いく子が自身のノートに引用していたものです。「ガーベラは・と言った」の「・」も、語り得ぬ力、を意味しています。

 

私はたしかに、この通訳者の位置に重なるかもしれません。いく子の短編小説では、女のアパートに何かを買ってきてと呼ばれた男はシャワーを浴びたあと、「おまえは用を頼む以外はしゃべらないんだな」と捨てゼリフを吐いて出ていくのですが、その筋の合間に1行、やることはやったし、と挿入されていてなんのことかと思うのですが、セックスでしょう。いく子はクリステヴァという女性哲学者の「サムライたち」という赤裸々の自伝を読んで、「女は感じるのだろうか?」と問うています。読めば、感じまくってる作品なんですが、いく子にはそれでも、女は感じないのではないか、と思わざるを得なかったんですね。

 


いく子が最後の方の入院中、自分で買って読んでいた本は、荻尾望都と竹宮惠子という少女マンガ家の自伝です。彼女たちは、男女ではなく、少年同性愛を描いた作家です。彼女たちの漫画を読んできた1960年前後に生まれた女たちを、民俗社会学的には、荻尾のタイトルからとって、「イグアナの娘たち世代」と呼ばれているようです。いく子が直面していた問題は、他の女性とも共有共感的になる、歴史的な問題でもあるのです。


 ※ 現地部族にとけ込んだ通訳者には聞こえず、白人植民者には彼女の声ならぬ声が聞こえた、という設定はおかしく感じるかもしれません。が、7歳くらいの娘とニュージーランドに嫁いで行った彼女の最初の夫にも、テレパシー(という言い方はしていないが)が通じたので結婚できたが、その関係が怖くなって夫は逃げていったと娘に手話で言い聞かせています。いく子が、最後に関心をもったダンサーは、アメリカのトリシャ・ブラウンで、まだ封を開けていなかったDVDをみると、トリシャは、デビュー時コラボした男性アーティストに、あの当時のテレパシー現象をどう思うか聞いているんですね。男は黙って答えずはぐらかし、トリシャが困惑するシーンがあります。また彼女は、子供を産んで創造力が湧き上がってきたと言っている。これは、竹宮惠子のSF漫画「地球(テラ)へ」もそうで、そこが男のSF漫画からすると異色になり、もっと突っ込んで考えていく余地があると思います。 

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※ この映画の語りは、7歳ころであった娘、なのかもしれない。そしてその彼女も、オシになってしまって、このナレーションは心の声だ、と言っているのかもしれない。となると、娘が口がきけなくなってしまったのは、新しい父が母の指をオノで切り落とすのを目の当たりにしたショックからとなる。となれば、母も六歳のとき(娘も6歳という設定を暗示しているのか?)、両親の暴力を目の当たりにして、その現実が反復されている、となる。むろんこの暴力性は、植民地主義と結びつけられている。白人の男の賢さ・ずるさを、現地の人や主人公は、受け入れられないのだ。それはまた、この映画の女性監督が、故郷ニュージーラーンドで認識したことなのだろう。

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