2025年2月9日日曜日

陣坂

 


「権現様の森を抱いた陣ノ坂や竜山の上の方から、重みを帯びた雲がどっしりと町の上に垂れこめてくると、道の埃も落ちついてきて、馬が曳くわだちの音が非常に近々と聞えだす。そのような曇天になると、中空のあたりに、地上の音のさまざまを呼吸して、再びそれを地上へ下すしかけが懸るらしくて、不思議な、暮らしの音のさまざまが、町の上にくり出されて来るのである。」(石牟礼道子著『椿の海の記』「第四章 十六女郎」)

 

幾分だけ長めの、オレンジ鉄道のトンネルを出でみると、水俣は雪国だった。

ホテルに荷物をあずけると、吹雪くようになるなかを、まずは一番の目的である、陣ノ坂とおぼしき場所をめざした。小6のいく子が、松の大木によりかかりながら見つめていた風景をみたかったのである。

グーグルのマップではでてこない。いく子の母が書いたアルバムでの説明書きに「陣、坂」とあったのと、石牟礼の上記述が頼りだった。

山上の神社、権現様はわかったのだが、写真にあった場所らしきものは辺りにない。木がうっそうとしてきて、わからなくなったのだろうか。翌日の、相思社での街案内のコースには入れてもらっていたので、ここは断念して、次の陣内社宅をめざそうとした。今でもチッソの社宅でもあるそこはコースにはいれられない。があきらめかけていたところ、地元の七十過ぎくらいの男性と出会った。事情を説明すると、そういう坂は知らないが、あすこだろうと歩き出す。妻の生まれた西暦を言うと、弟と同じだという。小学校も、第一小学校だから、同級生かもしれない、名前はなんて言うのかと聞かれた。今は出かけてていないというその弟も、チッソに勤めていたのだという。みなばらばらになって、どこかへ行ってしまった、と言う。が雪というより雨が激しくなってきて、その最中を連れていってもらうのも気が引けてきて、しかもどうも遠そうだし、権現神社から離れていくので、違うのではないか、と思い直し、もう一度、二人で写真を見つめなおした。たしかにあすこからは、工場だの小学校だのはこんな風に近くには見えないのかもしれない、となった。引き返し、お礼をいって、わかれることになった。

 

が翌日、雪も溶け、青空がみえるなか、案内された場所は、やはり前日の男性が連れていこうとした見晴らしだったろう。案内者の女性は、二車線のアスファルト車道から目的の坂下にたどり着いたが、男性とあと二百メートルも山道を歩けば、その車道と合流していたのだった。女性は、権現神社のことは知らなかった。が、陣の坂と呼ばれる一つの頂のすぐ下の山上に、山王神社というのがあって、そこに案内してくれた。

 

陣の坂とは、西南の役の事変のなかで、西郷方が陣をかまえた場所の一つなのだろうか。それとも、秀吉の九州攻めのさい、この辺りには水俣城あともあり、陣と名の付く場所がいくつもあるようだから、戦国時代の名残りなのだろうか。水俣病被害者の支援活動をしている相思社も、陣原と呼ばれる地のすぐ下に事務所と考証館を設けている。隣の山では、切り開いた頂上に、高速道路を通すための橋梁工事がおこなわれていた。事件のことに地元の人々はふれたがらないと、神戸出身の案内者は説明していた。加害者側の子息になる妻の話を、地震の時は幼くて記憶にないという彼女は、ずっしりと重い、と千葉に戻ったあとのメールで返信してきた。

 

山のなかには、あちこちに、薩摩街道といわれる獣道のような細い山路が走っている。しかし街道筋とわかるように、犬槙なのか、葉が細く密な樹木が並木として列をなしていた。それが低いアーケードのような、洞穴のような不思議なトンネルを作っていた。

 

案内してもらった翌朝早く、まだ真っ暗闇の中を、掌に入るLEDの懐中電灯を夜道に照らしながら、薩摩街道を過る裏山を通って、また陣ノ坂へと向かった。もう、いく子が寄りかかっていた松の木はない。けれども、写真の背景に伺えた山並みの形や、家々の風景も点景になるから、ほとんどそのままだった。学校のグランドも、その通りであったろう。見ていた視線の先の風景、眼下に広がる街並みや鉄道、煙突の立ち並ぶ工場、その向うの海、島、それらの情景も、昔と同じたたずまいであるだろう。

 

朝日は、まだ東の空を埋める曇天によってさえぎられていたが、空と山に輝きを吹き返させていた。通勤に出るのだろう自動車の赤いテールランプが動くのがわかる。ほのかな明るみのなかで、妹さんが腰かけていた頂上の平たい石には、神石、という誰かが刻んだ白い跡が浮かんでいるのに気づいた。もう一度、いく子が見ていた風景を目に刻んで、手すりのつけられた階段を下りて、駅へと向かった。

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