2025年11月28日金曜日

ミスター・ジャイアンツから

 


長嶋茂雄も、大リーグでプレーしたかった、と、栗山元日本代表監督とのインタビューでもらしていた。しかし渡邊恒雄にいうと、だめだ、と言われたのだそうである。この戦後昭和のヒーローと、日本プロ野球界を破門されても大リーグにいった(いかざるをえなかった)野茂英雄と、どちらが偉く、続く世代に影響を与えているだろうか? 野茂は、仰木監督の下で近鉄時代を続けたかったが、星一徹のような鈴木(啓介)監督に変わってしまったので、この指導者のもとではできないとやめていったと、言われる。これは、日本シリーズで、野村ヤクルトの管理野球に負けたのが一番悔しいともらして渡米していった、イチローにも通じる。そもそも、一般のプロ野球選手会が、労働組合を作り、プレーのストライキなどを経て、そこで獲得した労働条件によって現今の大リーグへの移籍条件が確立されていった、のではなかったか?

 

しかしこの日本のプロ野球界の保守革命のような転回は、日本の末端の政治組織においても、引き受けられているだろうか?

 

私は今、千葉市のスポーツ推進委員とかをやらされているが、そこでの会議では、会議を主催するスポーツ振興会の会長が、人員不足もあって、八十歳すぎの委員に審判をやってもらうというと、その委員も、「命令とあらば」、とやりとりされるのである。その議論の前提には、私が参加意欲と人員の欠乏から、ソフトボール大会はもう中止にしたほうがよい、との提議に、高校野球あがりで千葉市のもと経理課長のその委員は、「野球は国技だ」と推し進めようとし、それに東大でで銀行マンあがりの会長が、「野球は国技でないし、これはソフトボールです」と、自身はどうもソフトボールをやってき人たちがヤンキー系で好きでなかったのか中止の方にのろうとしたのに元課長に言い張られるので、ならばあなたが審判を、と脅した、という経緯だった。

 

私は、まさか戦後ももう八十年にもなるのに、まるでジャングルからでてきた横井さんや小野田さんのような発言が平然とでてくることに、唖然として二の句が告げなかった。

 

そもそも、こうした末端の政治組織の在り方自体が、戦前の反復というか、模倣なのだ。PTAとかもそうだが、組織は二系列になっている。ボランタリーな市民たちがいるので行政はその人たちを支援するための組織(ネットワーク・評議会)だけを作ってやっているのですよ、責任主体ではありませんよ、となっているのだ。都合が悪くなると権威ありの方の会長が別だから、と言い逃れする。中心があって中心がない、と意図的に無責任体制になれるよう仕組んでいるのである。戦前・戦時中の、御前会議と内閣国会のようなものだ。官僚的エリートはよくそんなことまで考え実践するものだ。町内関係の行事だけではなく、市側主催のスポーツ委員講習会のような行事にまで参加をしていないと、役所側は給付がでているのだからおかしいと振興会の方へ圧力をかける。そしてその会長が、推進委員へと圧力をかける(準公務員、みなし公務員になるのだ)。だから「この運営の存在意義を認めていない私はお金いらないので協力員でいいですから」、と言い返すと、「そう簡単にやめられないんだ」と、ぼそっと会長は言う。はっきりいえば、パワハラだが、実際はそのためにこうした組織構造があり、高度成長期の集団高揚がなくなった現在では、運営の実質は、市レベルの天下りポストを維持するために機能集約していくだけだろう。

 

町内会もそうだが、もう若い世代は、そうしたものにかかわっている余裕はない。終身雇用制をバブル期に崩し、さらに生涯人材活用政策だかなんだかで、死ぬまで働けとなっているのに、町内会をはじめとした関わりなど具体的にできるものではなくなっていく。この地区の小学校の校長も、8割が共働きで格差大きく片親が多いと私に言った。入会だけではすまず、やたらボランタリーでやることもある。おそらくやらなくてもすむような活動も、どこかの利害組織と結びついているのだろう。マッカーサーは町内会を解散させたが、高度成長期に復活させられている。いまそこに入らないと、ゴミ捨て場がなくなる、との脅しを受けることになるのだそうだ。が、人が生きていればウンチをし、生活していればゴミがでるのは不可避なのだから、それは生存権と最低限度の生活権利に関わる。つまり基本的な人権問題に抵触するのだから、だから、町会入らないとごみ捨てさせない、というのは、権威的であり、人から尊敬されない卑しさを人々に感じさせる。

 

昨日の千葉市の地域新聞では、町内会への加入促進の先進的取り組みには支援金をだすとか広報している。逆だろう。なくてもすむにはどうしたらいいのか、と考えないのか。税金払わせておいてゴミ捨て場を拒否するなら、公衆便所のようなゴミ捨て場を作らなければならないだろう。

 

ロシアはソ連のペレストロイカから、いまアメリカもトランプが旧体制を自己改革している。中国だってそのうちあるかもしれない。が日本はまた、マッカーサーのような外人に、やってもらうのだろうか? 「命令とあらば」などの追従は、主体性なきものと人間とは認められず、科学実験(原爆)のモルモットにされ、ぼろぼろにされてからの?

 

佐藤優は、民主主義という一つの価値ではなく、各国による多様な在り方があるのだと、ペレストロイカから反動化したプーチン・ロシアを擁護している。そのために、家族形態の多様性を説いたエマニュエル・トッドや、交換様式の多様性を説いた柄谷行人の理論をもちあげている。が、その読解理解は、中途半端だ。トッドは、だからアメリカから人類始まって以来の母権性が発生するかもしれず、と推察し、柄谷は核家族(双系)的な自由・平等の潜在的現実性が、抑圧されたものの回帰として反復されてくる、と前提しているのだから。いま世界を席巻しているマッチョ体制(帝国の逆襲)は、文明の進歩(父権制)の再起動かどうかは不確かだ。長く見積もっても一万年しかない文明よりか、類人猿の数百万年の痕跡の方が長すぎて、本当に変更(文明)化しえるのかどうか、むしろ懐疑的になるのが普通ではないのか?

 

さて、千葉に来て、具体的な闘争から解放されたと思いきや、まだ逃れられない。試行錯誤しながら見つめていくことになるのだろうが、自分の使命を果たすのに、時間が足りない。どうしていったらよいのやら。

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