2012年9月16日日曜日

一緒くたの最中から

「教育の基本は民族教育にあり。/ この原則を徹底させているのが、アメリカである。/ そもそもアメリカは移民の国家である。そこに暮らす人たちのルーツも違えば、肌の色も違う。さらに自由競争を国是としているから、貧富の差はあまりにも大きい。ビル・ゲイツのような超大金持ちもいれば、日本人の感覚からすれば、信じられないようなあばら屋や壊れかけたトレーラー・ハウス(車輪付きの移動住宅)に暮らしている人もいる。/そのような国家において、民族教育を怠ればどうなるか。/ 言うまでもない。アメリカ合衆国はたちまちに解体してしまうであろう。…(略)…したがって、アメリカの学校では徹底的に民族教育を施す。/ ことに初等教育においては、この大目的がすべてに優先する。/ アメリカの大学の教科名を見て、日本人が仰天するのは大学に英語の初級コースがあるということ。大学に入っても英語、つまり母国語がきちんと読み書きできないなんて!…(略)…まあ、最近では学力低下で日本でもそういう状況になりつつあるが、アメリカは昔からこれが当たり前。/ なぜ、こんなことが起きるのか。/ その最大の理由は、学校教育が「アメリカ人になること」を最優先にしているからである。この目的を達成するためには、読み書きソロバンなんてできなくなっても大したことじゃない。そう確信しているから平気の平左なのだ。/ では、いったい小学校時代に何を教えているのか。/ まずアメリカの小学校で優先されるのは、他人とのコミュニケーションのトレーニングである。自分と違った意見を持った人たちを理解し、自分の意見を相手に伝える。そのためのコミュニケート能力や討論能力を養う。/ これは、もちろんアメリカという国が異文化、異民族の寄せ集め国家であるからに他ならない。/ このような社会においては、他人を理解し、自分を理解してもらう努力をしなければ、国そのものが成り立ち得ない。また個人においても、この努力がなければ、一人前のアメリカ人になり得ない。社会に適合できない。」(小室直樹著『日本国憲法の問題点』 集英社インターナショナル)

結局、仕事も暇で長い夏休みだったにもかかわらず、旅行などそれらしい過ごしかたもしなかったので、三連休になる昨夜、Jリーグは横浜マリノスvs浦和レッズを日産スタジアムまでみにいってきた。その日中、宿題の漢字ドリルを息子がやるさい、女房と息子とのヒステリー・バトルがはじまる。漢字の書き順や線が出るのでないのと、まさに蹴りあい叩きあい押しくりあいをした怒鳴りあい合戦になる。宿題をおえてやってきた近所の子が、そのやりとりにちょっかいをだす。子どもの宿題など一人でやらせとけばそのうち集中ということを覚えて学習していくだろうに、目先の監視で人間を小さくさせていったら本末転倒だろう、と思うのだが、もうこっちは女房に懲りて、一希の反発・言い返し能力の訓練だとおもいなおしている。があまりにうるさいので、「静にしろ!」と、同じ食卓の端の席に座って本を読みながら、こちらも参入するはめになる。そしてそのまま午前がすぎて昼食時になると、冷やし中華をみて、「こんなの食べない。ごちそさま!」と麺の上のキュウリをちょいとつまんで一希はふてくされる。「食べるものがあるだけいんだよ。食べないと、サッカー見にいけないよ。」と、漢字の書き順よりこっちのほうがよっぽど重要な教育だろ、と思いながらも、飯を食わない食べ残すというわがままだけには子どもを許さずぶんなぐった、という大工の親方の言葉を振り返り、自分はそこまで自信を持って言えないな、ほんとにうまくないしな、と口を濁らした物言いになる。が、一希は「こんちきしょう」とばかりに食いついて食べ始める。それだけ試合を見て見たい、ということかもしれず、また、まわりの子どもたちやその親から一目は置かれるようになってきたサッカー・コーチの発言であるからかもしれない。……「サッカーの経験あるなしは関係ないんですよ。はっきりしてないと、子どもが不安になるんですね。あなたはやったほうがいいですよ。」と、社会人チームでもサッカーを続けている父兄コーチからそう言われている。夏休みのバーベキュー大会でも、べつに教えているわけでもない上級生の親からも、「うちの子はスズキ・コーチを崇拝しているんですよ」とか、下級生の親からも、「いいコーチにめぐりあえてよかった」とかも声をかけられる。たしかに、一希世代の3年生は結果がではじめている。がそれよりも、練習や普段では穏やかな私の、試合中でのエキサインティングな采配、ミーティングでの子どもを説得していく言葉を聞いてそう言うのだろう。だが私の内心は、これは私の教養というよりも、まだ父親と一対一で野球をやっていた自身の子供の頃の習性がでてしまっている傾向が強く、もっと違うようになりたい、と思うのだった。ならば、どんなふうに? 何をめざして?

浦和レッズの応援は面白い。通念イメージ的には滅茶苦茶だ。日の丸とチェ・ゲバラが同列に掲げられている。どちらも”赤”だからか? 旧海軍だかの朝日の出イメージの旗もある、ナチスをイメージさせる横断幕もある。が確か、アメリカのイラク侵攻には反対だと、率先して政治声明をだしたこともあったような。……
しかし私が、日の丸とゲバラの一緒くたに連想したのは、反原発デモと領土問題で喚起されてきつつあるナショナリズムとの一体化だ。最初は辺境の領土問題になど、原発反対者は無関心で結合などありえないのではないのかな、と思ったのだが、通う床屋の奥さんが、一緒くたに反発しているので、これはありえることなのか、と思いなおした。サヨク運動家に近いものたちは、その二つの区別を、教条主義的に、記号的に理解するだろうが、「反」なのか「脱」なのかのためにデモをしているフツーの人たちには、デモ(ゲバラ)と領土(日の丸)が同居することに、なんら葛藤を覚えない、知らないのかもしれない。ならば、やはりスガ氏が指摘しているような、ナショナリズムな、排他的な平和運動という、戦後サヨクの潮流(習性)の繰り返し、という傾向が強くなる、ということだろうか?

日本政府は、「2030年代」での原発ゼロの方針を示したという。といことは、40年まで、ということでもあり、さらに、野田総理は、未来のことは確定的に言えないのだから明確には言わない含みをもたして、と断り書きを述べている。しかし今、問題として突きつけられているのは、未来のことではなく、今、われわれがどんな意志をもつか、ということではかったか。そんな一見冷静もっともな「大局」的観点の話ではない。要するにその態度は、機会主義、これからも都合よくころころ変えていきます、自分の習性を変えないために、ということだ。領土問題で中国、日本という両国家がお互いに呼びかけている「大局」「冷静」とは、<居直り>、といっているだけだ。政府は、外国への核技術の輸出、施工着手した原発の肯定、と現状容認を宣言している。その間に、甲状腺の検査を受けた子どもたち3万8千人のうちの35.8%の1万3千人あまりに嚢胞やしこりがみられたという。医者にいってそんなものが発見されたのなら今後も定期検査で注意していきましょう、という話になるのだが、政府は、それが異常かどうかは事故影響のない地域の健全な子どもたちの診察統計をとらないと比較できないので、結論(態度)は先延ばし、だという。いったい誰が自分の子をそんな検査にボランティアで連れていくというのか? ゆえに結果などいつまでもでない。さらに、そう検査結果が出たということは、異常の潜在・潜伏性が本当にあったとわかってしまったということなので、子どもたちには結婚とうの差別が現実的につきまとうことになる、というのが人文科学的な見解だろう。この科学に、現日本政府は立ち向かっていく意志をもたない。

私は、認識の型では、新しい教科書を作る会に親近していくのかもしれない、冒頭引用の小室氏に賛成である。が、その中身において、私は、うなずくことができない。それはたとえば、私が教育したいのは、戦前の理想像、二宮金次郎ではあるまい、ということである。が、私は何を意志するのか、そのイメージは、父親としてはなさけないながらも、いまだはっきりしないのである。しかしそのイメージは、ゆえに、日の丸とゲバラが同列に置かれる一般大衆の近傍から出てくるのではないか、と予想される。ナショナリズムに回収しきれないものを、綱渡りしながら抽出してくる、生きてみせてみる、ということかもしれない。いや小室氏がその著作で、日本国憲法で一番重要だといった13条にいう「生命」という概念それ自体のうちに、私には釈然としないものがありそうだ。国家主義者のいう生命と、過激サヨクのういう生命とは、どうも出自がちがうような気がしてならない。その生命の腑分け作業が開始だということだろうか? となれば、むろん、いわゆるサヨクが嫌う憲法改正などは前提的である。しかし、そうした原理自体の書き換えこそが、今私たちに問いつけられていることなのではないだろうか?

2012年8月13日月曜日

生態と胆(共同体と個人)――柄谷行人と渡辺京二


「なぜなら前五世紀の前半を通じて「思想家」たちが生まれ生きたのは、アテナイではなく他の都市だったからである。この新しい人間タイプができあがったのはアテナイ以外の都市においてなのだ。この新しいタイプの人間と、彼が住んでいた都市とのあいだの関係はどのようなものであったのか、われわれにはとんと思い浮かばない。ただ、前四世紀以来「思想家」とアテナイとの関係が示しているものとはまったく別のものではないかと疑わせるだけのわずかな根拠はある。われわれが手にしているのはきわめてわずかな情報だが、その大部分が、こちらの都市からあちらの都市へと移動したり、あるいは政治闘争に介入している思想家の姿を描いているという事実は、それ以外には解釈できないのである。このことは、前四〇〇年以後、哲学者たちが圧倒的にアテナイに定住したことと対照的である。/ つまりわれわれは、まさに「思想家」の社会的な姿が形成された六〇年間に関して、何も知らないのだ。こうした無知は、ただ一つの情報の光に浴した都市であるアテナイが、こと「思想」に関するかぎりギリシア世界の周辺より遅れた都市であったという事実に帰せられる。思想がその教説の糸を織りはじめてから一世紀半が経過したが、アテナイの人々は「思想家」の経験をいまだに持っていなかったのである。そのためには、前四六〇年ごろ、すべての善き貴族が持つ善良なる俗物根性に動かされて、ペリクレスがアナクサゴラスをアテナイに呼び寄せる必要があった。それから少し後の前四四〇ねんごろには、事態はすでにじゅうぶんはっきりしてきて、われわれの前に思想家が社会的姿をまとって、つまり人民(demos)が見、認める新しいタイプの人間として登場してくる。しかしだからと言って、彼らの見方が適切なものだったというわけではない。そんなことはありえない。/ ところでそうした体験は、アテナイの人々のように根っから反動的で、伝統的信念にしがみついている「人民」がくぐり抜けるには、実に不快な体験であった。」(『哲学の起源』 ホセ・オルテガ・イ・ガセット著 佐々木孝訳 法政大学出版局)

文芸誌誌上で連載していた柄谷行人氏の「哲学の起源」という論考が、上引用のオルテガの問題提起を受け継ぐように書かれているのは、その同名のタイトルからして推し量られる。その哲学史の古典的な本道を刷新するような批評を書くこと事態になんらかの学問的野心があったとしても、その実際的文脈を、われわれは推論的になぞってみることができる。単独者という構えに傾きすぎたきらいのあったは氏は、NAM失敗後、むしろ共同体(封建)的な在り方を再考することに重点をおきはじめたが、最近になって、また単独者(個人)の方をもやはり握持しておかなくてはならない、とおもいなおしたかのようだ。と、朝日新聞などの書評等を読むと、推論したくなる。震災後の状況(相互扶助ユートピア)から、原発事故後の成り行き(アナーキックな、個人自然発生的な大衆運動としてのデモ)が、極左主義者や芸術家といった活動的「思想家」の評価への態度へと変転していったと。以前はそうした活動家を馬鹿にしていたわけだから、状況への対応によって自身の言説が再編成される、といったインテリ的態度に、私はあまり興味がない。どういうことかというと……
たとえば、学生の頃、文芸批評家の渡辺直己の授業で、美人批判というものがあった。美人がおとしめられている、というのである。私はいったいどこの話のことなのかとおもった。まわりの男の間で、そんなことはまったくない。やはりおとしめられているのはブスである。なのに、なんで美人を批判する論を批判する構えというのが成立するのか? 要は、左翼運動失墜後、そういう平等的な正義を背景にしたような言説がジャーナリズム界で支配的な前提になっていて、それに対してなのだ。つまり、あくまで美人をもちあげている世の中そのものに対峙しているわけではないのである。柄谷氏の『日本近代文学の起源』なども、そのような言説世界に対するインテリ的対応である。そのように、一部の言葉世界を操作することによって自身のポジションを定立しようと試みるインテリ世界とは別の次元で言葉を発してきた渡辺京二氏は、どのような対応を、たとえばこの震災・原発事故にみせただろうか? 近世社会の生態をみつめ、水俣病患者と長年共闘してきた氏には、強いて言うこともなく、むしろジャーナリズム世界の言説にはうんざりしているようだ。
渡辺氏のポストモダン批判の言葉を読むと、柄谷氏の、外国人固有名と引用だらけの文体を徹底的に嫌悪している様がみてとれる。が、氏の文章のなかで、私の知る限り一度、柄谷氏の「日本近代文学の起源」を肯定的に引用している箇所がある。その文を読む限り、渡辺氏は、柄谷氏の知性に一目おいていることが見て取れる。私の感性では、両氏の洞察の仕方に、どこか類似性があるのである。それは、実は身近な日常的な場所から普遍的な考察がはじめられていることだ。柄谷氏の引用だらけの文章のなかで、一番面白いのは、そのわかりやすいアフォリズム的な比喩である。イエスの麦種のたとえ話のような。それと、両者の思考の根幹にあるのが、人間(自己)を突き放したところにある、ユーモアある生態的な構造的見方だ。柄谷氏は自身の「構造」を数学的な厳密さと重ねあわせたりもしているが、私には、そうはなっていないとおもう。
たとえば現進行している反原発デモについて、柄谷氏は「ゴキブリ」の比喩をもちだして発言している。一匹いるということは、見えないところ(デモにでてこないところ)に千匹いるのだ、というような。渡辺氏が大衆と知識人の区別を、生態的な構造に起因するとしているのは、以前のブログで引用したとおりだ。率先的な個人と潜在的な個人予備軍としての大衆、という生態的な関係? 自助と相互扶助との、単独者と共同体との自然構造的な関係? そんな図式的な理解でおさまる事態ではないとおもうが、そう比喩的にとらえてみるとして、その実体の、内実の在り方は具体的にどいうことだろうか?

木から落ちての骨折がなおり復帰した仕事で、自分の住む団地の欅を切ることになったことは以前に言った。この団地の管理をずっと請け負ってきた会社の親方が、その半年後の街路樹剪定で、木から落ちて亡くなったことも。その70歳近くになる親方を知る年上の職人や、長いつきあいだという団地の緑化委員の者たちは、その原因を、若い職人にめぐまれなかったから、育たなかったから、といっている。安全帯をつけてなかったのかどうか、などと調査しはじめる官僚とはまったく違う見方だ。私は、当初その会社が団地の欅を剪定する作業を請け負っているさい、その大木にハシゴをかけ、木の下で円陣を組んでいる姿を思い出す。車椅子の私は、6階のベランダから、いったいこの欅を彼らはどうやって切るのかな、と見下ろしていた。円陣の真ん中では、社長らしき人物が、若い職人たちを前に話し込んでいる。30分以上そうしていて、とうとう作業ははじまらなかった。できなかったのだろう。それゆえ、その仕事は再見積もりで私のいる会社にまわってきたのだった。他の業者の職人がさっさとやってのけたことに、その親方はどうおもっただろう? 社長の昔の気質を知る緑化委員によれば、若いものに怒って、いざ大きめな街路樹の剪定をするさいに、若者に気概を教えるために、自らの体を奮い起こしてのぼっていったのだろうという。素人の委員がそう見立てられるのであれば、談合とうで地域仕事を仕切っている業者のボス会社にもわかっていたはずだ。原因は、徒弟制的な技術伝承を疎外する役所の仕事形態にあるのである。そんな奴らが、安全帯を二つつけさせて作業させようなどととんちんかんな官僚手続きを提案するのなら、なんでどやしつけにいかないのか? 結局、親分会社といっても、利害関係しかないのだろう。人は歩けばつまづく。どんなに注意しても、その確率からのがれられない生態的、自然関係の中で生きている。一昔まえのような、建築現場で安全帯をつける手すりも足場につけておらず、ヘルメットもかぶらず男気を強制されるような現場ではない。役人がそうした安全対策の手抜きを監視するのは無論だが、それが完璧だったとしても、ある一定の確率で人がつまづくように事故が起きるのは自然的現実なのだ。そこにおいてできることは、事故を隠さず、きちんと人を保障することだ。しかしこの保障とは、金銭関係的な近代システムのことをいっているのではない。われわれがこの自然のなかで、胆をすえているか、腹をすえているか、つまり、自然から人為的に逃避せず、それを受け入れたところで思考しているか、ということなのだ。
この心臓からは、たとえ自身がデモに参加する少数の率先的なインテリに当っていたとしても、まさにそれは偶然当っている、自然構造から割り振りられているだけで、そこに人間の気概や尊厳があるのではない、と受けとめる図太さやユーモアがにじみでるだろう。それは、参加していない人と同等な、自然的な構造としてあるのである。そう自己を突き放したとろこにしか、人間の気概や尊厳は発生しない、と私は考える。つまり、個人と共同体との関係も、役人的にびびった反応としてのシステムにではなく、それが逃れられない自然の受苦として胆をすえるとき、目に見える世界をこえた、見えない連帯としての信頼が出来してくるのである。
私には、柄谷氏も渡辺氏も、思想的な立場はちがっても、この胆の据え方において同型のものがあるようにみえる。

2012年7月21日土曜日

いじめと反原発運動

「ともあれ、私たちは「外国人化」している、あるいは「女性化」しているという事態は、ずっと以前からそうだったんです。ただし、一〇年前、フリーター労組を準備していたころは、このことの意味の全体がまだよくわかっていなかったのかもしれない。…(略)…いまようやくそのことの肯定的な側面、積極的な意義が、見えてきたような気がします。私自身がそれを確信できたということです。/ 「三・一ニ」を考えるとき、私がある意味でとても解放的な気分になっているとすれば、それは、「日本人ではない者になる」ということの肯定的な力を感じているからだと思います。この力が、あの日私の背中を押して、被曝被害から護ってくれたのです。」(矢部史郎著『3・12の思想』 以文社)
「しかしこれはすでに私たち日本人の”自尊心”の問題なのだ。今後ふたたび私たちが、ずるずると原発への依存に戻るようなことになれば、私たちはもはや「日本人であること」を誇りに思うことはできなくなる。…(略)…要するに、核のトラウマが一国の防衛戦略を決定づけているわけで、自由主義的な立場からすればこれほど非合理的でセンチメンタルな判断もないだろう。しかし私は、これを矜持ある選択と考える。軍備の放棄と核の拒否こそは、「日本人としての私」を思うとき、そのプライドの中核をなすものだ。」(「斉藤環の東北」毎日新聞・夕刊2012.7.18)

一希が同級生をいじめているのを、たまたま早く帰宅したさいに目撃することになったので、最近のその話題にふれてみたいとおもう。
当初は、こう考えていた。団地に遊びにくる子供世界をみてみると、ドラエモン世界でのジャイアンのような、古典的なボスがいるわけではない。むしろ、いじめる側といじめられる側がころころ反転する。これは、たとえば、あるものがあるオモチャをもっていると、その子がボスになり、ちがうオモチャではまた違う子がえばりだし、「貸してあげない」と持たざるをものをいじめだす。たとえ流行のおもちゃがあるとしても、それぞれが面白いおもちゃをもっているので、ころころボスがかわる。つまり、なお中流的な階層社会とテクノロジーの進展状況が、不透明ないじめ世界を作っているのだろう。携帯やネット世界に子どもたちが参加してくれば、単一メディアから支配的な影響を受けるというあり方でもなくなるので、親が何を言ってもつうじなくなるエイリアンのような存在になるのかな、と。ただ大枠の流れは、1980年代に経済力を謳歌した日本体制化で発生した「校内暴力」、その封じ込め抑圧の結果としての「いじめ」への転換、潜伏化、という情勢はかわっていないのだろうな、と。が、実際に自分の子がいじめているのをみて、そんな認識ではすまなくなった。父親としてだからどうするのか、と実践を突きつけられるからである。私は学校の先生や教育委員会の者たちのように、見て見ぬ振りをしなかっただろうか? 私が、あれはいじめだったのだ、と気づいた、あるいは、考えなおしたのは、翌日になってからである。集団で下校した子どもたちから少し離れて、二人の男の子がいた。ひとりのその仕草から、私は彼がそれまでもうひとりの子の首根っこあたりをつかんでふりまわしていたのだろうと推論した。みな同じ学帽なので誰かはわからなかったが、私はある一希の友人にみえた。その数日前、保護者会の席上、クラスの足の悪い子がいじめにあっているという報告を受けたと女房がいい、それが誰かと一希に尋ねると、その友人の名前があがったのを耳にしていたので、そう先入観したのかもしれない。が、次の瞬間、その子が一希であるとわかったのである。そのときはもう、二人は仲良しのような振舞いにもどっていた。私は息子を目にしたうれしさに自転車の呼び鈴をならしたが、一希は気づかなかった。私は「いじめ」という連想のことなど忘れて、コンビニによった。そして団地のエレベーターに乗る際、二人にまたおいついたのだった。一希はその、運動より勉強ができそうで、大人しいが女の子にもてるという友達をエレベータにのせまいと通せんぼしていた。「パパがのれないよ」というと、さえぎる手をおろして中にいれ、こういうのだった。「きみは自殺しそうな人、だいじょうぶか!」額に粒汗をいくつもかいている彼は、いかにも苦しそうか、苦しそうなふりをしていた。「この暑さじゃな」と、私は、暑くて死にそう、というやりとりを二人はしたんだな、と思った。先の階でエレベータを降りる私は、その子の頭をなでて、息子と外にでた。
が翌日の仕事中、何をきっかけにかは忘れたが、ふとその時のこと、エレベータを降りるときのその子の目の表情を思い出し、あれは「いじめ」だったんだな、暑くてかいた汗じゃない、いじめられるのが嫌で冷や汗をかいていたんだ、いじめられているのが見つかったかもしれない恥ずかしさ、気後れと、気づいてくれとあきらめながらも訴えてくる葛藤をもった目だ。おそらく一希は、弱々しいが、バレンタインのチョコレートをクラスで一番もらうというその友達に、嫉妬のような気持ちを抱いているのだろう。そして私は、それが「いじめ」だと瞬時には認識しながら、ゆえに見たくないと否認の作業を無意識にも続けてきたのだ。今はっきりとわかった以上、このまま黙って見すごすのは学校側や教育委員会のものたちと同じになってしまう。しかし、どう息子に話かけたらいい?
……いじめ自体は、子どもの世界でも大人の世界でも、人の集まるところなら自然発生的に生じずる事象にすぎないだろう。しかしここでいう自然とは幼児、ということと同義になり、大人はその社会的意味、効果を前もって了解し、それでもやるぞと責任主体的な残酷さに自覚的だろう。だから問題なのは、そのまま大人、というより、中・高生になってしまうことにある。幼児のまま、面白おかしくすごしていいればいい、それが生きることの普通だ、という意識のままに、である。まがりなりにも、真剣という理念的切断線が生に介入している運動部のシメ、それに近いジャイアンのような古典的ボスの暴力とも違う。人間的に小さいままの、幼いままのふるまい。一希が、夕食まえ、小鳥のピータをつかまえていやがって鳴くにまかせている時をとらえて、「おまえきのう〇〇くんをいじめていただろう」ときりだす。「おまえは、自分がいじめていることを知っていて、だからいじめられるものは自殺するというニュースのまねをして、〇〇くんは自殺するんだ、といったんだろ?」一希は否定して、はぐらかすようにふざけはじめるが、どういえば実践的な説得力をもつのだろうか? 私は、一希が磔にされたイエスに興味をもって、ほんとうにこんな神さまいるの? と問うてくる力を信じて付け足す。「汝の欲せざるところを人にほどこすことなかれ。自分がいやがることを他のひとにやってはいけない、というのがイエスの教えだよ。自分がそうでないとおもっても、相手がいやがっているなら、それはいじめなんだよ。人間はピータ君じゃない。ほんとに死んじゃったら、どうする? いっちゃんは、牢屋にはいるんだからね。」……私は、自分が「リトル・ピープル」になったような気がした。いまはとにかくも、「いじめ」を認識した、という一事を、女房ともに、家庭内で共有してみるだけでよいだろう。問題がもう少し大きくなったとしたら、そのときは担任クラス側と共有していく手立てを試みればいいだろう。しかしその時でも、なんと力のない言葉であるだろう。父親的な権威がまるでない。いやあるのだが、やはり一希は女房をしかりとばす私をおそれて恐縮するのだが、説得的な力がない、というか、その論理が自分でも空々しい。イエスの力を借りるとは! だからその現実的な効能(牢屋)のことを付け足すのだが、私は、宮台氏の、「良いことはもうかる」という世俗論理が説得力をもつとはおもっていない。そんな言葉に説得される人間など信用できるのか? 自分の息子に、そんな人間になってほしくない。

が、父親権威的な論理力の幼児(母子)関係への介入・切断の希薄さ、その歴史的・時代情勢的言説の布置が、自然をのさばらせている、幼児のいじめのまま、中・高生へと、果ては大人になってからの幼児虐待への心情へとつながっているのではないか? ――そして、反原発運動の一面の潮流として、そのような自然ののざばり、ゆきすぎた自然を感じるのである。冒頭で引用した二つのもののうち、私の心情に近いのは斎藤氏のほうである。”恥じをしれ!” それが、厚顔無恥な総理官邸への私の抗議の言葉だ。そしてそういう日本人としての一面もが、官邸前でのデモにも集結していることを私は推論している。

2012年7月8日日曜日

「愚民」の在り方(3)――渡辺京二ノート

「異邦人たちが予感し、やがて全体的関連としての有機的生命、すなわち古き日本の死は、個々の制度や文物や景観の消滅にとどまらぬ、ひとつの全体的関連としての有機的生命、すなわちひとつの個性をもった文明の滅亡であった。…(略)…問題は個々の事象ではなく、それらの事象を関連させる意味の総体なのだ。そして文明とはそういう意味の総体的な枠組みを指す以上、たとえ超高層ビルの屋上に稲荷が続けられようとも、また茶の湯・生花の家元が不滅の生命を誇ろうとも、それらの事象はチェンバレンが「若き日本」と呼ぶ新たな文化複合、つまり新たな寄木細工の一部分として、現代文明的な意味関連のうちに存在せしめられているに過ぎない。文化は生き残るが、文明は死ぬ。かつて存在していた羽根つきは今も正月に見られる羽根つきではなく、かつて江戸の空に舞っていた凧はいまも東京の空を舞うことのある凧とおなじではない。それらの事物に意味を生じさせる関連、つまりは寄木細工の表す図柄がまったく変化しているのだ。新たな図柄の一部分として組み替えられた古い断片の残存を伝統と呼ぶのは、なんとむなしい錯覚だろう。…(略)…死んだのは文明であり、それが培った心性である。民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻っては来ない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである。」(『逝きし世の面影  日本近代素描Ⅰ』 葦書房)

「忠教がここで説いているのは「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」という隷従的忠誠であるかに見えるし、彼自身、主人にそむけば七逆罪を負うて地獄に堕ちるとも言っている。しかしそれはそういう恐怖心に前近代人忠教がかられることもあったというだけのことで、彼の真意は、主人が主従間の相互敬愛という暗黙の合意を破り棄てていても、いや破り棄てているからこそ、従者たるわれらがその合意にあくまで忠実であることが、主人が不正、われらが正義という顕然たる事実を公示することになるのだというにあった。/ つまり、主人がいかに不当な仕打ちをしても、われら従者の義務を守るというのは、主人に対する強烈な面当てでありいや味であって、そういう主人であっても機嫌よく奉公するのが彼の誇りであり強情であった。主人が主人らしくしてくれないので、徳川家を去るというのでは話は帳消しである。主人の咎は従者の離反によって相殺されてしまう。…(略)…再び言う。にもかかわらず忠節を尽くせと言うのは、忠教の徳川家に対する奴隷的服従を示すのではなく、まさにその反対である主に対する自尊の気概のあらわれであった。この自尊の気概に屈折が秘められているのは否定できない。…(略)…しかし、そういう屈折を通してさえ表現されるものは、日本の主従制を貫徹する相互的誠実という暗黙の合意だった。暗黙の合意など情緒的で低級であり、契約であればこそ理性的で高級だなどというのは、人間のことも世の中のこともわからずに、頭脳に詰めこんだ出来合いの「近代的」観念で物事を裁断するある種の「研究者」だけが信じている妄念といわねばならない。(『日本近世の起源  戦国乱世から徳川の平和へ』 洋泉社)

「北が土俗的な思想家であったか、それとも土俗的なものを否定する近代的な思想家であったかという、論者の見解が従来まったく対立して来た問題についても、いまやわれわれは正確な断案をくだすことができる。彼はその思考の論理性において、疑いもなく土俗的なものを拒否する思想家であった。彼が天皇制共同体主義的な思考に生理的な不快を感じないではいられなかったこと、村落共同体の低部にひそむ伝統的心性に一度も関心をそそられなかったことなどを見ても、彼と土俗との関係はあきらかである。彼の社会主義とは、すでに見たように一面においては、個人のあらゆる可能性の無限の羽ばたきを求める近代主義的志向の表現であった。/ ところがいっぽう、社会主義とは彼にとって、<共同社会>主義を意味した。そしてこの、西欧型市民社会は人間にとってのわざわいである、人間の住みうる社会は共同社会であるべきだという感覚から逃れえなかった点、いや逃れえなかったどころか、その感覚を核心として全政治思想を組み立てざるをえなかった点で、彼はまぎれもない土俗的な思想家であった。いうなれば、彼は日本の土俗の深奥から発する主題に、もっとも近代的な手法で解決を与えようとした思想家であったろう。つまりそれは、土俗のただなかから発する欲求の未開な土俗性をそぎとって、その普遍性を最高に近代的なものとして実現させようとする作業といってよい。日本基礎民の反市民社会的な心性を社会主義革命に導く戦略は、そういう彼の、土俗的要求を人類史的普遍性の回路に組みこもうとする捨て身の戦略なのであった。」(『北一輝』 ちくま学芸文庫)

「この個の意味を、当時の思想家や批評家はほとんど誤読した。彼らはそれを近代的な主体意識をもった人民(あるいは市民)とか、知識人的な個我とかいったふうに読み、見当ちがいな批判をなげつけたのである。だがその後の吉本氏の思想の展開に照らしてみれば、このような独占社会に実存する個とは、政治行動のレヴェルに登場するときかならずその時の政治的イデオローグの虜囚とならずにはおかない法則的必然から生活大衆をどこで断ち切るかという、要の一点をおさえたときに生まれたイメージであって、このとき想定されていた個とは、知識的に上昇する自然過程のなかにあるような近代的な個我ではなく、逆に独占状況のなかで自己の生活の根拠へのみ突きかえされざるをえないような、もっとも基底的な生活民の存在のしかたを表象していたのである。そしてそれが個としてイメージされるのは、国家権力に対して真に倒立するのは、労働者階級とか農村部落民とかいった「共同幻想」的なレヴェルの集団ではなく、生活者としての個だけであるという、氏の特異な、そして今日の思想にとって本質的な意味を持つ理解にもとづいていたのである。…(略)…これは古典的な階級闘争論を転倒するまったく異端的な見解であって、労働者の闘争だから価値があり、小市民の闘争だから劣っているといった先験的な常識はここではまったく排除されている。つまりこのような見かたからすれば、労働者であれ農民であれ小市民学生であれ、階層としては等価であり、それらの闘争の優劣はただそれぞれの生活の根拠に立って現実にどのように自力で闘ってみせるかということにおいてしか判定されないということになる。ブントは自分の小市民学生的根拠において倒れるまで闘っているからいいのであり、自分自身を労働者階級を指導する前衛などと錯覚しないところが相対的に評価できるのだ、と吉本氏は考えたのである。そして、ブントが闘って力尽き革共同の古典的な批判に屈して分解をとげたとき、氏はその共闘を解除して単独者の位相にもどった。」(「六〇年安保と吉本隆明・谷川雁」 『民衆という幻像』所収 ちくま学芸文庫)

「チッソのいいぶんを成心なく検討してみれば、彼らは被害者に対して、「被害はお気の毒に思う。何とかしたいとも思う。しかし、被害者に対する企業の責任・補償ということになれば、資本制における利害観念と法体系によって処理しないわけにはいかない。したがって、補償は一種の商取引、交渉ごとである」といっているのであることがわかる。資本制社会において、当然の常識である。水俣漁民のこの世の人間的道理が対立している相手は、チッソ資本の悪逆ではなく、近代資本制社会を組織している論理そのものなのである。その論理からすれば、水俣漁民のこの世の人間的道理とは、近代市民社会の組織法則からとりのこされた封建的遺民の世迷い言にすぎない。/ 水俣漁民にとって、人間的道理は実在する。自分の息子がとなりの息子にけがを負わせれば、自分は何もかも打ち棄てて、とりあえず詫びと見舞いにかけつけねばならぬのである。日常の生活圏ではそうあるものが、話が経済とか社会とか政治とかいう上位構造に移れば、なぜそうでありえないのか。水俣病患者・家族は、その理由を絶対に理解することはできない。近代市民社会が、その制度のなかに生活民、ことに下層民を統合しえなかったという歴史的事実が、ここに横たわっている。その非力を補って生活民を統合したのは、天皇制である。そして、生活民が近代市民社会の論理によっては統合されず、天皇制によってはじめて国家に統合されたという事実は、これまで戦後民主主義のイデオローグたちの嘆きと軽蔑の的となってきた。水俣病患者・家族の人間的道理とは、彼らにとっては痛烈な皮肉でなければならないが、まさに近代市民社会の論理によって統合されない「前近代的」生活意識の表現であった。それは言葉をかえれば、村共同体の論理と心情といってよい。そこでは共同体の利益は相互扶助によって維持され、共同体に災いをもたらしたものは罰せられ、追放される。チッソは当然罰せられ、災いは償われるべきである。患者はこの村共同体権利の回復を、公権力たる裁判所に求めたともいえる。もちろん、裁判所がチッソをさばくのは、そういう論理によってではない。患者は裁判のそもそもの第一回から、自分たちの欲求がけっして裁判によっては表現されぬことを直観した。裁判は彼らの仮装形態にすぎない。真の欲望の表現形態を求めて、にじり寄る一歩にすぎない。…(略)…この世の常ならぬ苦しみをうけた彼らは、どこへ向って血路を開けばよいのか。「銭は一銭もいらん。会社のえらか順から、死人の数だけ有機水銀ば飲んでくれれば、それでよか」。この有名な言葉は結局は言葉である。怨といい、呪殺といい、何かおどろおどろしい地獄絵的な様相で、患者の欲求を描きあげようというのは、その当人の好みではあっても、真実には遠い。前掲の言葉は、ひくにひけぬ断崖に追いつめられた下層民の腹のすわりを示したものである。孤立の中で放った「勝負!」のひと声である。そう読むべきである。良識とか秩序とか共同社会の利益とかにからめて、圧服させようとするものに対し、こちらはそういうものによって無拘束であること、勝負はどちらかが倒れるまでの真剣勝負であることを言い切ったものである。すなわち、抑圧された下層生活民のアナーキーな情念が噴出しているのだ。/ 村共同体は、患者を出した家をきびしく差別した。相互扶助の生活規範は、患者の家には適用されなかったのである。村共同体の本質は、このとき、患者には明らかになったといっていい。人間的道理といい、ふつうの人間のつきあいといい、きわめて容易に解体される性質のものであった。人間が人間に対して狼にならない世界は、単なる村共同体の倫理によって、保証することはできない。彼らが裁判において表現したかった欲求は、村共同体の倫理に基底をおきながらも、結局はそれらを止揚する方向に向わざるをえない。彼らの欲求は、ひとつの仮装からもうひとつの仮装へと試行を続けつつ、真の表現を求め続けているのだ。」(「現実と幻のはざまで」『民主という幻像』所収 ちくま学芸文庫)

「西欧的理解における政治が、貴族の民主主義的伝統にもとづく、利害の調整の体系だとするならば、東洋的理解における政治は、郷村の共同体的伝統にもとづく、夢と欲望の体系と規定できる。それゆえに、東洋では、政治は徒党の非行という性格を帯びるのだともいえる。…(略)…郷村的日常において、人びとは義務と慣行に縛られ、家主となり子を生み、老いて死んで行く。徒党の情念的共同とか夢とかは、若衆組の時期に仮に許される道楽にすぎない。その道楽に固執するものは、政治あるいは宗教として、日常に縁のない上層へ疎外される。しかし、郷村的日常で生を終える人びとに、情念的共同の夢がないのではない。道楽としての夢想的共同への指向を生み落したのは、ほかならぬ郷村の生活原理としての日常的共同なのだから。彼らは日常を破壊する夢想を、政治として日常の圏内から逐いやる。だが、逐いやられたものは、彼の魂の亡霊である。専制政治の織りなす諸事件を、一遍の劇のごとくに娯しみ喝采するのは彼らである。だからこそ、郷村は専制権力の鏡なのだ。/ 西欧的近代は、郷村の共同を分断してマスとしての個の世界をつくりだした。情念的共同を求める衝迫の根拠をとりはらった。政治は徒党の非行ではなく、個別利害の集合を管理する技術となった。だが、その世界でも、人びとは日常の理法に縛られ、親となり、老いて死んで行く。そのなかで感情の飢えは、ことに人と人とをつなぐ感情の飢えは、声もあげずにどこへ消え去るのか。/ 在る生きかたの夢、人間の或るありかたの夢を全社会的に拡張しようとする集団は、いかなる思想や倫理を掲げようとも徒党である。私は彼らの行動を非行としての政治と要約した。ひとが言葉と感情の通じる相手を見いだしたとき、それが徒党の始まりであるのはかなしいことだ。徒党から非行としての政治への回路はどこで絶たるべきなのか。ピョートルの事績はそう、われわれに問うているように見える。」(「非行としての政治」『民衆という幻像』 ちくま学芸文庫)

「学問には方法が必要だろう。だが私には、方法など何の必要もなかったのである。私にはただ解かねばならぬ課題があり、それに経験が強いた志向をもって立ち向っただけだった。私は昭和維新の雰囲気のうちに育った少年であり、中学三年のとき異郷大連で敗戦を迎え、引揚げ後昭和二十三年には共産党に入った。十七歳であった。昭和三十一年、党から離れたとき私は、昭和初期のユートピズムが戦後革命の衝迫に変形された「物語」の意味を、自分なりに読み解かねばならず、その読解の方向を見出す手がかりをはっきり自覚するには、なお十年の月日を要した。/ その方向とは要するに、従来蒙昧ないし狂乱の発作とみなされてきた大衆の右翼的情念を、究極的な共同性の夢ににじりよる革命的衝迫として読みとこうとするものだった。ただし、私はそれを単純に肯定したのではない。私の視線はアンビヴァレントですらあった。にもかかわらず、私は魅入られるようにその主題に関わらずにはおれなかった。前途の私の思想史的な仕事は、いささかも”研究”の意味を吹くむものではなく、自分が生きのびるための思想的根拠を、文章の形で探りかつ確かめようとしたものにほかならない。/ その種の私の文章はすべて二十年前の所産である。そしてこの二十年のうちに、私たちをとり巻く社会と思想の文脈は根本的に変質した。情念的な大衆など、どこへ行けばお目にかかれるというのか。共同性への夢がカラオケとオウムに化けたなどと言っても、しゃれにもならない。/ 私はそういう時代の崩壊のかたちを予感していた気がする。その予感にせかれて、ある種の共同性の幻を追わずにおれなかったこの国の民の悲しい衝迫を、書きとどめておきたかったのかもしれない。だが、この国の民は滅びた。民などもはやこの国にはいない。」(「日本近代思想史と私」『民衆という幻像』所収 ちくま学芸文庫)

ユーロ・サッカーから――世界とコーチング


おしゃべりが多いと、その日のサッカーの練習を中止された一希たち。若いコーチが一人にディヘエンスのやり方を教えている間、ボールに腰掛けた一希が仲間と気ままに話しはじめたのをみて、中年コーチが切れたのだった。それは個人的に突発的な怒りであっても、人間的な倫理から発したものだったろう。しかしそこであそこまで怒鳴り散らすのには、まだ理解できない子どもたちなのだった。コーチも説教をしながら、あまりにきょとんと無邪気な表情を目の当たりにしてそのことに気づく。おそらく、まだ親が死んでもその葬式でふざけていられる年齢なのだ。自転車に乗っていても、交差点を右左もみずにすーっと走っていく。死が恐いという社会的観念が希薄なので、<真剣>にやれといっても、自分の態度になお区別が生じていないのだ。3年生も終わりごろになれば、自然成長的に解消されるだろう。だから私は特別に問題ではない、とおもっていた。しかし母親たちがそうはいかない。この一事を伝え聞いて、メールで話し合い、「しめてください」と過剰な反応をしめしはじめる。コーチ会のほうでも、父兄の話をないがしろにするわけにもいかないので、「ふざけは怪我のもとだから」と話をずらしてかわす対応をしたようだ。しかし若いヘッドコーチがまたなにかのさいに、40分間の説教をしたときくと、「この暑い時期に給水もさせずにそんな長時間も」という異議が父兄会の部長から申し出される。「そんな話は通用しないからほっとけ」と私がいっても、部長の異議自体に批判的な女房はなおごちゃごちゃやりたがる。意見内容がちがっても、ヒステリックに騒ぐこと自体が問題をこじらせるのだ。20年やっているクラブ組織にとって、こんなことぐらいは経験ずみなはずだ。若いコーチも、10年子どもたちをみてきているのだから。しかし、原発事故後の世評をみてみても、そんな真っ当な意見は神経質な声に掻き消される。女たちの場当たり的な反応を、世論やメディアが後押ししているような状況なので、彼女たちは強気なのだ。大塚英志氏は特に放射能におびえたこの母親たちの対応を「ファシズム」の発生と類比的に捉えているが(『愚民社会』)、そういう徴候もあろうかとおもう。

ユーロ・サッカーをみていて、イタリア代表のストライカー、バロッテリについて、「成長中」という解説がなされるのが気になった。それはサッカーの経験知とかいうことではなく、試合中に人の悪口をいわないとか、喧嘩しないとか、裸にならないとか、そういった話なのだった。おそらく我々日本人としては、二十一歳にもなる男にまだそんな「成長」が許容されていることに驚くというより、あきれてしまだろう。ならば、日本でならどうなるのか? おそらく、そんなサッカー選手は追い出されてフィールド上にはいないだろう。ならば、笑われているのは、我々のほうなのではないだろうか? 彼は、移民の子だ。その家庭内は、荒れていたかもしれない。そういうところで育った子どもは、容易には精神的に安定しないだろう。大人になるには、それだけの時間差があるのだ。それを受け入れること。サッカーに参加するとは、そうした世界の多様性、内に発生する他なる現実との共存の意志と理念をもつ、ということではないだろうか。よく日本の理想とするサッカーとして、正々堂々とフェアに美しく戦うことだというふうなモデルが呈示されたりするが、その純粋道徳とが、ひとりよがりな暴力に反転すること、したということは、世界史の中での日本国家自体が証明してしまったことではないだろうか? フィジカルが強い、当たりが強いこと、そのほかの文化圏では当たり前なサッカーが卑怯なのではなくて、その在り方自体が多様な世界を、他者の存在を許容している対応であり、共存の平和性を担保・実証しているものなのではないか?

「しめて、ほんとうにおとなしくなったら、終わりですよ。」と、一希たちが怒られた次の週にあった試合前、ベンチ監督と話し合う。かといって、そのコーチは子どもたちに優しくすればいいというのではない。むしろ逆で、厳しく突き放せ、といっているのである。「だいじょうぶです。子どもたちは、わかりますよ。ついてきますよ。」と、新宿の選抜チームに何人もの選手を送りだしているクラブの監督は保証する。試合での選手起用をみていても、騒いでいるような子でも、積極的な子、能力を示す子を活用する。覇気のない子、訴えてこない子はベンチのままだ。おかげで、一希は全試合ワントップをはらしてもらっているのだが、4年生相手に、当初は体を当てられて可愛そうなくらいくるくるとまわされて倒されていた。私がベンチコーチだったら、もっと皆平等に近い形での選手起用になり、覇気のない子でもなんとか励ましてモチベーションを高めてやって、とかおもうのだが。それが、甘いということなのだろう。実際、私は中学部活動の野球で、そんなエリート主義的な伝統を変革したことがある。気質的に、結果よりも過程を重視する性向があり、弱いもの、いま在るものでどう強者をいびっていくかの創意工夫のほうがおもしろい。どこか美学的な態度の方が好きなのだろう。楠正成をはやす判官びいきな日本的感性?

一希はとにかく、数少ないチャンスのなかで、1点はとってくる。フォワードしかできないような性格だ。私ではなく、女房似なのだろう。今日も練習を放り出して、女房と雨のなか虫取り講習にいっている。気まぐれ、気分や、というのは、子どもだからというより性格だろう。私はいちおうコーチなので、自分の子どもがいなくても、練習にいくのだが。これは、「やりたくなければやめろ!」と突き放しているのだか、成長の遅れを許容しているのだか。あちこちのイベントに子どもを連れ出しては自分が楽しんでいる女房は、それでも「選抜チーム」に入らなければいかん、と口をとがらせている。そんな都合のいい話が通用するわけがない。技術や仕事をなめてるんじゃないか! と怒鳴りたくなる。一人での練習ができず、仲間と騒いでいないと退屈してやりすごせないものに、専門的な技術が身に付くわけもないだろう。アスリート向きじゃないな、と私はおもっている。だから、サッカー以外の興味も失わないよう許しているのだ。しかし、真剣に、一生懸命やったあとの水はおいしい。このありふれた、うまみもない退屈な日常にこそ「喜び」があるということを知らなければ、どんな商品物資や物語にも充足できず、本当の世界で世界終末(ハルマゲドン)を実現させて精神の満足を試みたバブル期の新興宗教が繰り返されてしまう事態になるだろう。裸足でボロキレを蹴飛ばしているアフリカをはじめ他の世界の子どもたちは、ボールひとつのプレゼントで喜ぶだろう。一希はそのことを理解できるだろうか? 喜びを知っているだろうか? 自己満足ではない、他者と共存しているという喜びである。それは真剣に、一生懸命に渡り合えてこそ見出し得るささいな日常の世界に在るのだ。

2012年6月22日金曜日

「愚民」の在り方(2)


大塚 ただぼくは「土人」を「動員」してまで自分の理想とする「良い社会」をつくろうとは思わないのです。「土人」は考えなくてもいい、システムを改変し、考えなくても自然によりマシなほうに行く社会設計してあげるって、本当は一番ナメた話でしょう。まあ、でもたいていの「土人」はそのほうがいいて思うでしょうね、楽だから。だから「近代」をやり直すチャンスをまたスルーすることに絶望を通り越してあきれている。…(略)…
宮台 大塚さんが土人とおっしゃるのは、僕がよくいう「依存体質」にあたります。詳しくいえば「よく分からない大きなものに平気で依存する習慣」「全体性に無関心なまま平気で依存を継続する習性」です。こうした<心の習慣>は短期的にはどうにもなりません。単に、大塚さんがいわれたように、土人としての自画像を見せることができるだけです。(『愚民社会』 大塚英志 宮台真司著 太田出版)

図書館から上記の『愚民社会』を借りて、最近の対談だけ読んでみる。案の定、浅田彰氏の「土人」(私は「野蛮人」と記憶しているのだが…)発言が言及され、その日本人認識の共有前提の上に議論が組み立てられている。ジャーナリズム的、社会表層的には私も二人と現状認識共有できるところが多々あるけれど、その基本的、前提的な認識、人間や自然に対する理解や信頼といった根源的な認識において、やはり違いがあるのだろうな、と感じる。現在も読み続けている渡辺京二氏の言葉に、次のようなものがあるのだが、むしろ私は渡辺氏の理解に共感する。

<つまり人間には、ものごとのイニシャティヴをとる奴ととらぬ奴とがいる。ことに任ずる少数の人間と、人まかせのほうが気楽という大多数とがいる。これは人間の気質にそういう二種類があって、その結果そういう分岐が生じるのではなくて、もともと集団というものに、そういう役割のちがいを生み出す構造が内包されている、と考えたほうがいい。人が交わって存在せねばならぬ領域すなわち社会は、ひとつの文化制度である。国家は人為的制度だが社会はそうでないと説く学説は、観察の一貫性を欠いている。国家はただ抽象のレヴェルの高い制度というにすぎない。人の交わりが処理せねばならぬ業務を生むかぎり、その交わりは制度としてあらわれる。なぜなら、共同ということからあらわれる業務すなわち運営責任は、ひとつの安定的な様式をとらねばならぬからである。つまり、役割の分化のない集団はない。制度とはその役割の分化のことである。何らかの集団があれば、かならず運営の責任を担うものとそれを人まかせにするものとが生まれるのは、人にそもそも集団から免れたい衝動があるからである。/ 人が集団に属するのは、かならずしも好んでのことではない。それでいて集団の運営にイニシャティヴをとるとすれば、それなりの理由がなければならぬ。それが利得であるか支配欲であるか責任感であるか、それはこの場合、問題ではない。いずれにせよ、それにうながされて責任を引受けるものがあれば、他の成員は心労を免れてよい。集団にはそもそもそういう構造があって、一同を抜かりなく見渡しているものと、何となく窓の外を見ているものとの区別が生じるのである。>(「大衆の起源」『民衆という幻像』 ちくま学芸文庫)

渡辺氏は、旅行先での日常的な人間関係から上のような普遍的認識を導き出す。いわば、働き蟻の生態――3割の真面目蟻をどけても、残りの怠け蟻から3割の真面目蟻が出現する――に似た、類的な人間としての構造を予感するのである。たとえば、現場責任者として作業量も質も高い私が仕事を休んでも、現場は成立する。この「成立」のうちには、作業量や質が落ちる、ということも内包されている。しかしだからといって、その”違い”から私をエリートとして定立し、馬鹿を疎外し、選抜者の社会支配を維持しようとする実践前提は間違いなのである。類的人間個人倫理として。私が現場でどれほど馬鹿を馬鹿扱いしても、それでも「社会」は成立すると信頼している。たしかに、その”違い”のために――馬鹿はその違いを認識できず、というか、これ以上馬鹿扱いされたくないのでその差異はないと言い張って自分を慰めようとする卑小なことしかできない――「客ばなれ」が生じて会社に損害がでるかもしれない。(が、誰でも雇うような小さな庶民経営では、そのこと事態が織り込み済みの、寛容というか、諦めた経営者態度になっている。あるいは、馬鹿の方が支配しやすいので、会社は縮小しても経営者の自己は保てるので、そっちのほうがよい。)…しかしそれでも、残る客もいるほど社会には弾力性があるのだ。ましてや、私個人の人生を超えて長期的にみれば、そんな”違い”は何ほどでもない。10年に一人の天才プレーヤー、100年に一人の天才アーティストが出現したとしても、その五十歩百歩な能力差が意味を持つのは、あくまで短期的・微視的な視野においてである。メッシやイチローの記録が千年後にどう評価されるのか? われわれは、当時としては著名だったかもしれぬ者に彫られたミロのヴィーナスとギリシャ古代の他の発掘物たる皿や壺に、その”違い”に、意味を見出すだろうか? ラスコーの壁画から個人差を認識しようとするか? しかしわれわれは、それを差異なくして受け入れているではないか? その類としての信頼。

渡辺氏が面白いのは、その構造に孕まれる時間差を「大衆の起源」と見つめた上で、将来の時間をも観念してみせることだ。

<戦後のわが国の「大衆」についていえば、私は、彼らが民主的参加なり知的自己啓発なりの方向で、社会の運営・管理にあずかることに希望を見出したことは一度もない。私はただ戦後の過程を、「大衆」が個となる方向でのみ理解している。だが、この過程について考えるとき、私の眼の前に現れるのは「大衆」ではなく、私をふくめての日本人である。そして、現代の日本人を考えるとき私の関心は、彼らの特徴とされる個人主義やら、あるいは個人主義の浸透にもかかわらず根強いとされる共同体指向、いいかえれば他者への「あまえ」やらの表層的な社会心理ではなく、自分のなかの個の深まりへのみ向かう。この個の深化こそ、私にとっての「大衆」問題なのである。私はひとりになりたいからこそ共同的なものを求める。日本の「大衆」もまったく同様だと私は信じる。>(前掲書)

2012年5月15日火曜日

「愚民」の在り方……渡辺京二氏からのノート

ゴールデンウィークに実家に帰って、砕石敷いて駐車場がわりにしている裏の自動車の乗り入れ口を平板とモルタルで整備していると、隣家のおじさんがやってくる。そしてコテを手にして手伝ってくれる。おそらく、地元の進学校をでて上京していったお隣の優等生がなんでこんなことができるかのか、何を東京でしているのか興味をもって近づいてきたのだろう。こちらも自分が何者であるか説明しないと居心地がわるいので、「向こうで植木屋を二十年やっているので、まあプロなんですけどね。」と、まるきりよそ者みたい自己紹介する。おじさんは驚いたが、そのうち砂が一袋100円でこちらは安いが東京は高いだの、生垣作りもするのでホームセンターで買ってきた支柱丸太が600円もして高いねえ、とかお互いうなずきあっているうちに、私は育った地元ではじめて隣人と打ち解けた契機を持てた気がしたのだった。後で鎌を使って雑草取りをしている母は、私が自分の職業を自分からばらしてしまったことを、恐縮したように背中で聞き耳をたてているのがわかる。顔をだした父の話といえば、この連休中に近所で起きた高速バスの事故にふれて、自分も大型の免許を持っている、それは学生を送迎するためだったが、との自慢話。かとおもいきや、事故がなかったのはほんとに幸いだったと脈絡もなく謙虚になる。歳からくる耄碌というよりも、「先生」と呼ばれてきた優越的立場が許していた恣意的な論理ぐせを、隣のおじさんは相手にしない、というより、こういう階層の人はそういうもんだと無言の忍耐で相槌をうって返している。工場勤めだった人だ。家のブロック積みも、川から砂をとってきて、自分で施工したという。近所の多く、私が一緒に野球をしていた友達の父親たちは、そうした町工場の労働者や石屋や農家の人たちだったのである。おそらく子どもの私も、浮いていただろう。いま私は、「人民の中へ」とはいっているかもしれない。しかしそれは、渡辺氏が批判するような左翼知識人というわけからではない。――<民衆をたえず自己のコンプレックスとその倒影としての幻想とのかかわりでしか見れなかった左翼知識人は、こういう部落的共同性への嫌悪を倫理的な悪ないし原罪とみなし、知識人がそういう孤立的な感覚を克服して、民衆の共同性の「やさしさ」と合体することがコミューンの創造につながる、といったふうにストレートに錯覚する。>(「民衆論の回路」『日本コミューン主義の系譜』葦書房)……私は意志的には、むしろプチブルに居直った知識人であろう。が、上のような人民への認識感覚は、内に折り返しておかなくてはならない前提であると考える。ゆえに、自らの上面の観念性に気づかず上辺の居直りしかできそうもないインテリたちには、「下放」を命じたくもなるだろう。
私は、戦前大連で生まれ熊本で在野する渡辺氏の作品を読み知ったのは、前回ブログで引用したものがはじめてである。今回、区立の図書館よりその著作を借りて読むにつき、私の思考を刺激してきたので、その箇所いくつかノートとして書き留めておくことにした。そして次回のブログでは、プチブルジョワインテリへの居直り(ブント)思想家としての、柄谷行人氏の「哲学の起源」問題へと、接続の端緒を随想できたら、と考えている。

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「伝統的風土と反権力の思想のかかわりを考える場合、もっとも注目すべきなのは、この村落共同体、あるいはその亜種としての都市の下町的共同体の住民である。彼らの意識の中核をなしている自然観、人間観、ないしは価値意識は、西欧市民社会を貫徹する論理と決定的に異質だった。だから彼らは、明治新政府が導入した市民社会的諸体系(法や社会制度)を、まったく理解不可能なものとみなし、もしそれとかかわりをもたねばならぬことがあれば、天災のような災厄とあきらめ、出来うることなら、一生それとは無関係に、伝統的な共同体的倫理にしたがって生を終えることを望んだ。/ 彼らのそういう生きかたからすれば、権力の思想と反権力の思想の区別は無意味だった。なぜならそれは、共同体の圏外の住人である特権的エリートの思想分裂であって、共同体内でまどろむような生活が続けられるかぎり、エリートたちの抗争は、彼らの生活に何ら具体的な作用をもたなかったからである。彼らには法とか政治とかの言語を必要としない、いわば自然の言語に属する生活があって、そのなかから追い立てられぬかぎり、政治社会で何ごとが起っていようとも、それは湖底から見た水面のさざなみにすぎなかった。…(略)/ 昭和初期の政治的激動のもつ意味は、このような基底生活民が、その共同体内でのまどろみから揺り立てられて、市民社会の進展する現実と直面させられたことにある。大正中期からはじまった社会の地殻変動は、いわば彼らを包んでいた繭を決定的に破壊したのである。血盟団のテロリストたちの出現は、そのような共同体民の、政治舞台への登場の象徴であった。そしてこのとき彼らが、西欧的革命思想への反対者としてのみでなく、同時に反権力的革命者として現れたことは、革命と風土の関係を考える場合、何よりもまして重要な事実であったように思われる。/ 彼ら右翼的な下層青年たちは、たんに伝統思想の立場から、ヨーロッパ進歩思想を敵視しただけなのではない。彼らはもはや共同体に安住することのできなくなった若者たちであり、彼らを深部で動かしていた衝動は、まぎれもない個への自覚であった。にもかかわらず彼らが、当時支配的であった移入思想としてのデモクラシー、ないし社会主義に同調できなかったのは、そのようなイデオロギーの担い手である都市知識人が、社会的に特権エリートとして存在し、下層青年たちの個への自覚が同時に、共同的なものの再建への熱望であることを、まったく理解しようとしなかったからである。/ 彼らの政治思想的な自覚は、だから本質的は反権力的なものでありながら、権力の国家主義思想のえじきとなるほかはなかった。この悲劇は、日本共同体民の伝統的心性が、反権力の思想回路を設定しそこなったまことに痛恨すべき事例として、今日のわれわれにも示唆的である。戦後市民社会は、明治以来の懸案であった全国民の近代市民的統合を、一見みごとになしとげたように見えながら、深部においては、伝統的な心性がもっともラディカルな革命への衝迫をさそい出すという、矛盾をなおたたえ続けているからである。(渡辺京二著 「風土と反権力」『日本コミューン主義の系譜』 葦書房)

「だがわが国民の庶民たちはもともと、このような分立競合する利害の合理的調整体系としての市民社会的現実に適合的な心的構造をそなえていたわけではけっしてない。「悪事のあらん限りを尽くさざれば一生の損だぞ」というのは、そういう現実に元来は不適合である彼らの悲鳴であった。ながいあいだ共同的小社会の伝統のなかで生きて来た彼らにとって、市民社会のなかで個として漂流しなければならぬというのは恐怖以外の何ものでもなかった。国家を家族として擬制し、天皇を全家族の保護的な家長に比定する天皇制イデオロギーは、このような伝統的な庶民の心性と、結局は彼らがその成員として統合されねばならぬ市民社会的現実とのあいだにおかれた、一種の緩衝装置として機能したということができる。」(「ニ・二六叛乱覚え書」 前掲書)

「しかし彼らの”愛国的”熱狂はなぜ、近代ナショナリズムというよりむしろスパルタ風な古拙なパトリオティズムに似ていたのか。宮武二等卒が「世間に顔出し出来ぬ」という思いで腹を切ったのであることは一点の疑いもない。佐喜が「世間に顔出し出来ぬ」と口に出し、宮武藤吾が同じ思いで腹を切ったとき、彼らを拘束し駆りたてていたものは、近代ナショナリズムなどというのには遠い、部落共同体に対する古風な義務感であったということができる。たとえば村落が洪水なら洪水に見舞われて一村水没の危機に遭遇したとき、川堤に俵を積む義務から逃げるものがあればそれは最悪の卑劣漢である。ほかの悪徳は許されてもこの悪徳は許されない。佐喜の怒りはこのような村落共同体の倫理の表明であったというべきである。すなわち彼ら明治の庶民は村落共同体への義務との類推において国民国家への義務を理解したのであって、彼らの古風なスパルタ的献身の出どころはこのような国家と村落共同体とのいたいけな短絡のうちにあったのである。」(「戦争と基礎民」前掲書)

「明治の国家指導者たちが国民に対して、一視同仁の愛を垂れる倫理的裁断者としての天皇というイメージをふりまかねばならなかったのは、彼らにこの国で資本制を建設するうえで深刻な不安があったからである。その不安は何よりも、この国の基礎民の共同体的生活伝統から来た。資本制を建設するというのは、それを社会構成レヴェルでみれば市民社会の諸システムを導入するということである。彼らは明治の最初の十年間のにがい経験によって、市民社会的諸体系がこの国の基礎民には、神も仏もない異様な論理につらぬかれたものに見えることを否応なく学んだ。日本国家は天皇という神のみそなわす共同体国家だという神話は、事実において基礎民を市民社会的論理の支配する資本制社会に追放する代償だったのである。/  だが、天皇制イデオロギーという安全弁的回路を設定したのは、結果から見れば明治の支配者たちの危険な冒険であった。彼らはその危険さをまったくさとることがなかったが、逆流は大正中期に始まった。この逆流は右翼ラディカリズムの形態をとってあらわれたけれども、その実体は端的にいって<共同性への飢渇>と規定することができる。この共同性への飢えは直接わが国の共同体民の伝統的心性から発したものというより、市民社会的現実の進展のただなかに、共同体から駆り立てられ漂流する個の、特殊に昂進した欲求とみるほうが正確である。したがってそれは、近世の村落共同体や下町共同体において保たれていたおだやかな生活感覚とは異質な、過激さと幻想性を特徴としていた。このような病的に近い飢渇感は、かつてこの国の伝統にはなかったものとさえいうことができる。この飢渇は天皇制共同体神話とのあいだに、おそるべき共鳴をひき起こした。昂進は相互的であった。その共鳴から相互昂進にいたる過程の結果について多くをいう必要はない。それは周知の昭和前期の騒乱へ行き着いたのである。」(「戦後天皇制は可能か」前掲書)

「日本人の男たちは、戦前にくらべ見ちがえるほど家庭を大切にするようになった。しかし彼らが家庭にあつい思いを寄せるほど、家庭は彼らを裏切る。…(略)…今日の同人誌のしろうと小説の三大テーマは、マイホーム建設などをめぐる金の話と、子どもの進学問題と、女房の浮気である。夫が家庭に幻影を付託する度合いに応じて、妻と子どもは個としてつつき出されるのだといってよい。しかし、家庭が共同的なものへの欲求をささやかなりと擬似的にみたしているあいだは、日本人が天皇を必要としないことだけはたしかだ。家庭と共同体的天皇がけっして両立しないということは、日本人が戦争から学んだもっとも尊い教訓である。/ おそらく日本人の意識には、幕藩封建社会から明治近代社会への移行のときに匹敵するような大きく深刻な変化が進行中なのだ。私にはそれが、共同的なものへの幻想を次第に剥ぎ取られて個に還元されて行く過程のようにみえる。個に還元されてつくしたとき、日本人の共同的なものへの欲求は、つきものが落ちたようにきれいさっぱり消え去るのであろうか。逆のように私には考えられる。そのときこそ、共同的なものへの飢えという、わが近代史の底流となって来た欲求は、まったく別な次元で思想的課題となりうるはずである。なぜなら人間は、それがよいことか悪いことかは知らぬが、かならず他者との関係で飢えるからである。私は個的現存と共同的現存との統一が、人類史の本質的課題だということを承認する点で、若かったときと同じようにマルクスの生徒だと思っている。ただそれが未知の思想的領域であるとする点で、私はもはやマルクスの生徒ではあるまい。ただその未知の領域でもあきらかなことがひとつある。天皇はふたたびこの領域に出没することはない。」(「戦後天皇制は可能か」前掲書)

「われわれはなるほど資本制的商品社会から逃れることはできませんけれど、われわれの生の基底、生の実質は商品の貫通力に侵されぬものとして厳存しています。存在するのはいわゆる個性ではありません。個です。おもしろおかしく商品化される差異が個の実質を形づくっているのではなく、ともに人間でありうる共通の基底的実質が、他をもって代置しえぬ個、すなわち孤としてあるゆえにこそ、世界全体・人間全体との意味的な統合なしには生きられぬ個、そういう個こそわれわれの真の現存であります。人類史とはまさにそのような、陽気な暮らしの次元では充足できず、「天地生存の感」を自己のうちに抱え込まざるをえない個の、永久に完結しない課題のあらわれであったのです。」(『なぜいま人類史か』 葦書房)

「私は人がかくもサルに似ているということに希望を見出します。といことの意味は、人間がこの地球上に突然出現した怪物じみた欠陥動物ではないということが、私に希望を与えるという意味です。文化にせよ制度にせよ言語にせよ、いずれも前人間的な基礎、つまり生命的連続性のうえに立つ現象であることに、深い救いを覚えるという意味です。文化は生物的進化の法則から離脱した現象だといいますが、それは生物進化をネオダーウィニズムの突然変異と自然選択の組み合わせとしてイメージするからそうなるので、進化がダーウィニズムの総合学説的枠組みのなかで起って来たということは、いまだ立証されざる仮説、今日破綻しつつある独断にすぎません。そのようなネオダーウィニズムのイデオロギーさえはずせば、文化は地球的進化の法則から離脱した現象などではまったくないことになります。若き科学史家の米本昌平さんは、「生命は合目的である。生命の合目的性は進化の結果としてある。生命の合目的性は進化による結果合目的性である。」といわれています。この進化とは、ネオダーウィニズム的枠組みに固定され狭隘化された進化ではないことはもちろんのことです。」(前掲書)

「何が一番いいかというと、ごたごたいわなくて付き合っていける関係ですね。お互い黙って隣にいる、それで満足だ、ましてや議論して言質をとったりしなくていい。そういう感じですね。もちろん学問的思想的な議論は別ですが、要するに黙っていることのできる関係というのが、私の場合一つの理想として考えられております。ただそういう了解性というものには、あらゆるマイナス性がくっついているもので、これは私がことさらいう必要もございません。でなければ、明治から大正にかけて、青年たちが大挙して村から出るはずがないのです。そんな天国のような村なら、そのまま村におれば良かったわけであります。そしてまた、人類はすでに共同体から離脱したのです。人間というものを宇宙の中に神話論的に位置づけて、一つの秩序をもった共同的な関係にしばりつけた、そういう期間はもう過ぎ去ったわけであります。とすると、後に残るのは「個」しかない。ところがその「個」の世界というのは、現代においては資本制という形で実現されているわけであって、それ以外の存在形態を考えるのは非常にむずかしい。ここに難問があります。/ 共同体論について、私の結論的なことを申せば次のようになりましょうか。人間は共同体という古き衣を脱ぎすて、もう返れない「個」の世界に移動したのである。しかし、かつての共同的な了解の世界というのは、人間の心の中の一つの憧憬として、ある時には血みどろな情念としてなお存在し続けている。そういうものを、どう人間のあり方として再建していけるのか。それはいわゆる「社会主義」になればいいというものでもない。ただどうしようもなく「個」の社会の中で漂流しながら、人間の共同的な関係というものはどういうものであるか、それはどうしたら創り上げることができるのか、ということをたえず課題として持たねばならないのです。これについて、簡単な処方箋というものはございません。むしろわれわれは「個」の世界でもちこたえねばならないのだし、そのもちこたえるということのなかには、人類史を理論的につかみ直して、共同性の歴史的根據をさぐるという仕事も含まれていると思います。」(前掲書)