2018年5月23日水曜日

日大アメフト部事件から

「会長が桑田で、テレビのドキュメント番組で紹介されていたこともあり、セレクションには大勢の小学生と保護者が集まった。25人の枠に対して、300人もの応募があったという。それほどたくさんの親子連れを前に、桑田はこんな挨拶を行った。
「これから3年間、ウチで学ぶことは、高校へ行くまでの準備だと思ってください。野球の練習やトレーニングはもちろん、基礎知識を身につけ、集団生活を送るための礼儀作法などもきちんと覚えてもらいます。バットやグラブを大事にしたり、親や周囲の人に感謝したり、そういうことも学んでほしい。」
 さらに、こう付け加えた。
「だから、ウチのチームは弱いです。練習は合理的にやるので、4時間程度です。根性や精神論でお子さんたちを鍛えるということはやりません。ですから、勝ちたい人、勝てるチームに入りたい人は、どうぞほかのところへ行ってください。」(『野球エリート』赤坂英一著 講談社α新書)

日大のアメフト部問題。うんざりしてくる。なんでああも正義面というか、被害者擁護にかこつけて逆イジメたたきみたいなことを繰り返しマスメディアはできるのか? 森友問題も同じだが。貴乃花親方をめぐる報道の傾向がぶりかえされてもいるわけだが、そこに偏執する言表行為に、何か時代の症候が顕著に発症されているのかもしれない。

加害学生は、コーチの言葉を通して、監督の意図を「忖度」してやった。

「忖度」とは、官僚制の問題というより、日本では天皇制の問題としてより文脈・系譜化される。

暴力行為の実際まで行くのは例外的、少数的であるとしても、そう行き着かせる考え方として、それが日本の世俗的な本流であるとは、運動部・体育会系出身者なら、そう自覚するのではないだろうか? 森友学園みたいな実践にはならなくとも、君が代を要請させる政府の方針・考え方に、すでにそれに連なっていかせる考え方が潜んでいることに、教育の現場にいる者は自覚的ではないのだろうか?

女房は、たとえ社会が変わらなくともウミをだすために今のように日大の監督・コーチをマスコミが叩き上げる、つるし上げることが必要なのだと豪語する。で、おまえは子供を蹴とばしながら受験・学校勉強をさせているわけだが、日大の監督は生徒を蹴とばしていないよ? どちらが本当の暴力なの? 自分の足元を見れないものたちが、被害者面してスケープゴートに加担する。

私の、40年まえ近くの、高校の野球部の頃、3年生が抜けた夏場の練習では、強豪校のチーム、一人、二人と、熱中症や硬式ボールが当たって死人がでる、という話を毎年ほの聞いていたとおもう。私も、野球をやるとは、それが当たり前、そうなるよな、と自然なこととして受け入れていた。試合に勝つ、戦いに勝つことを目指すとは、比喩を超えて、文字通り殺し合いのような気迫で勝負に挑むことを意味していた。そうした考え方は、中学生の時には、もう無意識に刷り込まれるぐらい育まれていた。もちろん、本当に、実際にそう実践してしまえる者などほとんどいないだろう。今回、日大の生徒が「やってしまった」のは、ある意味、どこかナイーブな、真面目な性格だったのだろうな、と推測する。大概は、そこまで一生懸命できないし、適当にごまかしてやるはずだ。コーチとの関係でも、そこまでいかないところで、折り合いをつけてしまう官僚的なずる賢さを、大学生ともなれば、身につけているはずだ。

もちろん、それが暗黙の、無意識な主流であるのは、制度として、教育として、コーチングとして、未熟だからにすぎない。おそらくヨーロッパのサッカー育成組織などでは、育成途中でふるい分けられて、そんなナイーブな人は競争から落ちている。が、日本では、みんなを掬い上げようとする、だから、良くも悪くも、複雑になる。小・中学生を教えるとなれば、なおさらだ。「あいつをけずれ」とは、新宿区の3年生大会で、私たちのチームに当時いて、のちに日本一にもなる埼玉のレジスタに移っていった中心選手に、プロあがりのコーチが自分の率いる選手にいった声かけである。サッカーで「けずる」とは、選手のボールプレーが終わったあとで、後ろからスライディング・タックルをしかけて、アキレス腱を負傷させて退場させることをめざすことを言うそうだ。私たちのチームは弱い。上手な子、モチベーションの高い子は、どんどん目指すところへ出て行ってかまわない。が、私は、それでも、「みんな」で戦って、そうやってサッカーエリートが集まってくるチームに勝ってやることをあきらめない。冒頭の桑田元選手のようにはなかなかなれない。来月のワールドカップで、日本負けてもいいじゃん、とはとても本気でおもいたくない。では、どんな実践があるというのか? これまでの、追いつけ追い越せ、ではなく。

監督やコーチ、先輩が怖く、上司・上官が怖く、「黙って処理する」ようになる国民の「忖度」の原型が、<母ー子>関係にあることは、日本の文学的な教養の一つだろう。単に上からの暴力ではないところに、ねじれた闘いが発生するというのも、教養の一つであったはずだ。「死のれ、死のれ、マザー! マザー!」と中上健次は小説を書き、その<母―子>関係から秋葉原事件のような若者が発生し、それが井上日召のような日本のテロルの在り方とも関連している、とする中島岳志氏の最近の論考もあったとおもう。
*関連ブログ ①http://danpance.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html
       ②http://danpance.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html

果たして、誰が、誰をいじめているのだろうか? 目に見える加害者が、目に見える被害者をいじめてたのか? どうもそうではないな、というのは、きちんと顔をだして記者クラブの質問に答えた学生を見ればわかる。じゃあ、監督やコーチということなのか?

Yahoo!ニュースをみていたら、「学校へ行けない人はなぜ増えた? 歴史20年を振り返る」という論考にであった。これと、朝日新聞での柄谷行人氏の書評を並列させて読むと、何かぞっとするものに突き当たる。それは、6月に岩波ホールで上映されるという「ゲッペルスと私」という予告での秘書である「私」のセリフ、「今の人はよく言うの、私なら、あの体制から逃げられた」「無理よ」、と。

私たちは、部外者として、観客席からの野次馬のごとき罵声をあびせていれば、いいのか? 私はしないから、と。逃げられるから、と。

私には、とてもそんな風にはみえない。だから、あくまで、フィールドで、現場で、具体的に闘う。そうすると、女房は言うのだ、「あなたはいつも自分のことの話になる。最後は自慢話になる、きいてらんねえ!」

「ぞっとするもの」とは、「20年」前以上に文学で学んだ潜在(構造)的な「いじめ(天皇制)」問題が、ここでもあすこでも、稚拙に見えてきてしまっている、この親しみ深いわかりやすさの直面から、逃げられないのではないか、ということだ。

山崎行太郎氏がブログでしめす状況認識、大勢把握と私の上意見も同じになるだろう。ちなみに、私の弟は、日大・文理学部の運動部特待生で、同級生に、ゴルフの丸山茂樹やシンクロの小谷美香子とかがいたそうだ。中学部活の軟式テニスでそのまま授業料免除という制度で入学していったのだが、それと同額を結局は部活費に貢がせられている。その分野では、日本一が当たり前だったようだが、弟のとき、日本2位になってしまった、するとOBが部室に乗り込んできて、集団リンチ、弟も内臓破裂で入院している。今でもその原因不明な後遺症は残っているようだ。

2018年5月7日月曜日

「動いている庭」と風景

「十一面観音立像 元禄五年(一六八二)七月に性海が建立。舟型光背に半肉彫り。右手に錫杖、左手に華瓶を持つ。銘文に「浅間本地 出生大坂性海建之」とあり、この像が富士浅間信仰の本地仏として富士信仰により造られたことがわかる。昭和二年頃まで現在の山手通りと早稲田通りの交差点付近にあった浅間塚(富士塚)に関わるものと推定される。高さ一七二センチ。」(『ガイドブック 新宿区の文化財 石造編』新宿歴史博物館)



私の他に、むつかしいことを言う植木屋さんを発見した。庭師を自称しているようだが、研究者に近いだろう。
このブログで書いた映画時評『大和(カルフォルニア)』の宮崎監督の特集が、池袋のシネマ・ロサで催されると言うのでその映画館のWEBを閲覧していると、もうじき『動いている庭』というフランスの庭師のドキュメンタリー映画をそこでやるという。その映画の紹介者、京都の方で大学講師をしているという山内朋樹氏の論文「宇宙の持続と身体の論理――「共感の美学」としてのベルクソニスム」が面白い。

一般論的には、フランスを中心としたヨーロッパの庭は幾何学的な整形庭園といわれているが、それが実はヨーロッパでも貴族階級中心の特別な庭園であって、そうではない庶民的な庭が別にあるのだ、という知識というか教養・情報については、20年前に書いたエセーでも私は言及していた。なので、具体的にはそのヨーロッパ庶民の庭がどんなものか知らなくとも、「動いている庭」で紹介されるような庭師がでてくるだろうような文脈には、驚かない。というか、日本の植木屋からしてみたら、庭が動いている、とは、ある意味前提的な自明条件だろう。植木職人の手入れ自体が、自然生成の生け捕りのやり口、偶然の馴化である。このフランスの庭師が、日本の庭から「自然に直面した人間としての私」を見出すのも、比較文化的には、了解しやすいことだ。

が、木が成長し、ハチが飛び、自然が動く――この当たり前な現象がどんな事態であるかを了解してみようとすることは、難しいことなのだ。山内氏は、この洋の東西を超えて現象しているであろう当たり前なことを、ベルクソンを通して解きほどこうとしているのだ。氏が注目している庭とが、「閉じられた」、「囲われた庭」ではなく「動いている庭」であるとは、それが庭というよりは「風景」に近いもの、より自然に近いランドスケープに近接していると言えるだろう。が、「風景」とはなんであろうか? つまりは、それこそ、この自明的な「風景」、「開かれた」<地平>こそが問題なのである。

清水真木氏が、『新・風景論』(筑摩選書)で、ベルクソンにも言及しながらむしろフッサールの「生活世界」を下敷きに素描しようとしたのもその問題だ。私たちは、日常的には、風景など見ていない、というか意識していない、が、その見ていない無数のものたちにおいてこそ、立ち現れて来る「風景」がある。文学史的に著名な例では、ラスコーリニコフのネヴァのパノラマのような光景だろう。いわば実存的な風景のみが、「風景」になりうるのだ。逆に、柄谷行人氏が近代文学に指摘する「風景の発見」とは、その陰画だ。国木田独歩が記憶として思い出したのがその当時意識していた知人ではなくその背景にあった宿屋の主人だった、というイロニカルな転倒。私は夢について指摘したブログで、政治・思想的な意味を排すれば、そんなことは人間にとっては日常的なよくある当たり前なことだ、と夢分析した。実存的な「風景」が生成するには、意識せず見えていない無数の諸風景が前提とされるのである。

しかし私の理解では、清水氏の「風景」理解は、早すぎる理解である。見えないものたちから「ぬっ」と風景が現れるとは、どういうことなのか? その「ぬっ」を、もう少し詳細に把握しようとベルクソンを使ったのが、山内氏である。ピクチャレスクなイギリス風景式庭園のような囲われた庭ではなく、このまさにの自然の風景に立ち現れてくる私に固有な風景の出来を芸術体験というなら、その芸術体験とは実際にはどんな出来事なのか?山内氏が示すベルグソンの「共感の美学」を、私はとりあえずより自然科学的に、諸風景のリズム(持続)の「同期」として理解した。山内氏がジル・クレマンというフランスの庭師の庭に見たものとは、そこにある風景を成立させている様々な木々、草、昆虫たちの、あまたのリズムであり、それらと共感(同期)してみせることで自然を野放図にはでなくクレマン固有な風景=庭として創作されている現場なのだろう。

しかし、山内氏も、清水氏も、その試みは、あくまで諸構造への理解である。むろん私の夢分析も、早すぎる理解をまずもっては除けて、もっとよく見てみようとする構造の、一般的な把握の努めである。がそれでも、柄谷氏が、諸構造(無意識)をこそみようとする立場をイロニーとして指弾してみせるとき、つまりはあくまで、意識的な、意志的な態度にこそ重きを置くとき、握持しているのはイデーの、理念の領域だろう。美学ではなく、倫理的な位相である。清水氏は、なんでその風景が「私自身」に風景として在るのか「理由がよくわからぬまま」であるという。が、わからぬとも、それが私自身を取らえているという感覚、諸持続と共感(同期)しているという根拠なき確信、つまりは感動の強度が、言いかえれば、それに対する信仰の問題を、忘れてはならない、と私は私自身を戒める。

が、それは、早く理解してはいけないのだ。

2018年4月13日金曜日

映画「大和(カルフォルニア)」を観る――座間事件(2)

「ジェット機はあたりを震わす轟音をあげ、ピカピカに磨かれて滑走路の端に待機している。
 探照灯は高い塔の上に三台ある。恐龍の首みたいな光の筒は僕達を通過した後、遠くの山々を照らし出している。光の束で切り取られた彼方の雨の一塊は、一瞬凝固し、輝く銀色の部屋となる。最も強烈な探照灯はゆっくりと一定の場所を照らして回転する。僕達から少し離れた引き込み線路の上に一定の間隔で回ってくる。僕達はさっきの衝突で意志を失くし、ネジを巻かれ歩く方向を決められた安物のロボットみたいに、車を出て、大地を震わせるジェット機の爆音の中をその線路まで歩いて行った。」(村上龍著『限りなく透明に近いブルー』 講談社)

朝日新聞の映画評で知り、この作品を見てみたくなった。このブログで「座間事件」として言及した、そのときの考察を、もう少し深められるかも、とおもったからである。

私はそのブログで、死臭さえもが単に「変な匂い」・「生温かい匂い」として近隣から素通りされていった日常の異様さを、基地在所の特異性であるのではないかと指摘し、そのこと自体が今の日本本土の一般的様子を象徴している、と述べた。しかし、今年はじめ、たまたま、座間で植木の手入れ仕事をすることになって、基地周辺に居る、ということの特異な厚みを、部外者として目の当たり、というか、耳当たりにしたのである。たしかに、映画の18歳になる少女サクラの口癖で、「はあぁ?」と聞き返さないといられないほどの轟音が、とくに午前9時半過ぎからだろうか、次から次へと発進する飛行機の爆音が1時間以上は続いていく。すぐ頭の上を、つんざくような高音とともに戦闘機が、うなるような低音とともにばかでかい輸送機が、地響きを砂煙のように巻きあげて通過していく。

この強烈な異常さに「慣れる」とはどういうことなのか? 私は、自分でブログに言ったことがわからなくなった。もう一度ブログを書くことによって、整理する。

     *****     *****     *****

この映画の時評をネットで読んでみて、私の着眼点に近い意見は、次のようなものだ。

<『限りなく透明に近いブルー』にも、のちに村上龍が繰り返し描くことになる命題の萌芽がすでにある。それは、「不幸の芽は自分の知らないところでまかれて育ち、ある日、突然自分を襲ってくるものだ」(村上龍『ライン』)というもの。同じ命題は、村上龍と同時代を代表する作家・村上春樹が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という作品で、東京の地下に住む”やみくろ”という邪悪な魔物を通して描いたものでもある。映画『大和(カリフォルニア)』から話が少しそれているように感じられるかもしれないが、「『慣れ』と『あえて』によって沈黙している(宮崎)」ことによって日常が成立し、その下で黒々とした”邪悪な”ものが育っていくという状況を描いた点において、本記事で紹介した作品はすべてつながっている。たとえその結末が違っていたとしても。

ちなみに、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、その後に起きた地下鉄サリン事件を予見していた、と言われることもある。

では、映画『大和(カリフォルニア)』は、いったい何を予見しているのだろうか?>(山田宗太朗 映画『大和(カリフォルニア)』都市のすぐそばにある黒いもの

この評者が問う「予見」の私の答えは、「座間事件」、ということになる(日本での映画公開は今でも、創作されたのは事件前のようだ)。しかしならば、1970年代半ばに発表された村上龍氏の時代性とは、その差異も見えてくることになる。そしてそのことの差異については、映画監督自身が指摘しているとおりなのだ。

<…ひとつ具体的なことを言えば、厚木基地の兵隊さんたちはほとんど外に出て来ません。敷地内が広大でそこだけでほぼ町を形成し、事足りるため、外に出てくる必要がないのです。ですから横須賀や沖縄などと違い、地元住民は騒音以外には彼らとはほとんど接点がなく、まさに近くて遠い他者なんです。>(宮崎大祐・パンフレットより)

村上龍の作品、あるいは、その作品が切りとった時代の寓意には、人(日本人)と人(アメリカ人・黒人)とが交流(セックス)していることが前景化されていることが舞台の設定、前提である。が、この映画では、米兵に代表されるべき外人との交流はなく、ただ騒音の空気として、しかもそれが「異常」なことでもない日常的なこととして慣らされてしまった、いわば”存在”と化してしまっている。そして実際の事件は、つまりあの「座間」の殺人事件は、むしろそれのほうこそが不気味であることを露わにしている。『限りなく―』では、米兵が日本女性とレイプまがいに性交しても、殺すことはなかった。顔のみえる相手として、具体的な関係が、抑制として効いていたかのように。が、具体的な人間付き合いが消えてしまった今では、ただメディアをとおして発生した抽象的な関係の慣れの果てなように、密室的な殺人が連続してしまったのだ。
この映画に、そんなどきつい場面が挿入されているわけではないが、あの轟音の存在、バックグラウンドが、今の時代、事件に触れた観客たるわれわれをとおして、不気味な事件を現前させてくるのである。いや、この監督自身の前作の予告だけをみてみても、この不気味さに監督が敏感的、意識的なのではないかと勘ぐらせる。いや、当初は、本人はこの異様な日常音源に意識的ではなく、他のミュージシャンからこのノイズを使おうという提案があったと告白しているのだから、無意識的なのかもしれない。逆に、村上龍氏の作品に戻れば、村上氏は意識はしたが、それを前景化したのではなく、後景として追いやったのである。だから作品の冒頭は、「飛行機の音ではなかった。」なのだ。彼にとってアメリカは、手に届き触れえる友人と化しつつある他者である。が、宮崎氏にとって、それは隣接していても手には触れ得なくなった他者、しかも、私たちの存在の内とも化してしまった他者なのである。まさにその在り方は、「不気味なもの」、身近な者こそが他者である、という精神分析の概念に当てはまる。「自分の知らないところでまかれ育」った「魔物」ではないのだ。

しかし宮崎氏のこの映画では、むしろ、そこから、が描かれようとしている。見えなくなったアメリカが、われわれの内に存在して占領している(それは、サクラの父アビーの不在によってこその存在圧倒、しかも産みの親(戦前)ではなく育て(戦後)の親として、に寓意されている)、だけではなく、それが見えなくなる過程(歴史)において、見出し得る存在をも産み出している、という現実である。端的に、ハーフが、日本語をしゃべる混血児が登場するのである。『限りなく―』では、そういう視点は、まだないのだ。しかも、その混血児、映画で一番その存在感をもって登場してくるのは、サクラの喧嘩相手の、同級生だった女たちであろう。彼女たちは、おそらくラテン系だ。米兵との間というよりは、日本に出稼ぎにきた日系の、またはニセ日系、不法移民なブラジル人、あるいはペルーや他の南米からの者たちの子か、彼ら・彼女たちと日本人の男女との間で産まれた子供たちであろう。私にも、夜の荷物担ぎのバイトで一緒になった南米からの友達がたくさんいた。厚木にアパートがあった。20年以上もまえの当時、基地があることは知っていても、爆音に出会うことはなかった。そんな彼ら、彼女たちの子供たちの存在である。産み落とされた他者たちは、隠れようもなくそこに居る。ヘイト・スピーチに取り巻かれ、または自らが、ホームレスに石を投げながら(映画での一情景)。

いや、おそらく、この映画で使われている音楽たちが、産み落とされた他者たち、なのではないだろうか? 私は、音楽音痴なので知らないが、『限りなく―』で引き合いにだされる音楽は、みなあちらのものである。村上龍は、少なくとも当時、黒人のようにサックスが吹けるわけでもない日本人のまがいものの音楽には批判的だったはずだ。が、この映画こちらの音楽は、コピーというよりも、クリオージョ、なのではないか? 映画中でサクラのいう「サンプリング」という概念を私は知らない。が、あの南米の友人たちに連れられていったディスコやレストランでの、音楽の雰囲気を、私は思い出す。彼らたちの多くは消えていったが、産み落とされて居着く他なかった者たちがいる。目に見える存在として、そこにいる。

そしてそんな現実は、引用した山田氏の時評を参照すると、あの「川崎事件」が起きた川崎という場所でも、可視化されてきた事態であるようだ。

見えない存在と、見えてきた存在――われわれを支配する存在と、そこから逸脱しはじめた存在。
この映画は、存在下にあるわれわれの無意識な闘争の在り方を示唆し、そこから何か新しいものが産み落とされるのではないかと期待させてくる。不気味な事件の予示だけではなく、積極的な予兆をも感じさせる。

*この映画『大和(カルフォルニア)』が上映されているK's cinemaは、二度目の観賞になる。去年の9月に澤田サンダー監督『ひかりのたび』というのを見ている。学生の頃、よく映画をみたが、その頃の、田舎者には変な感じ、今からなら「文化」とも呼べる感じがする。そういう感じのする映画館がいったん衰退していってしまったような気がしたが、人が在るかぎり、復活する、反復されてくるのではないだろうか? 高田馬場にあったACTミニシアターが懐かしい。巣鴨の三百人劇場も。

2018年4月10日火曜日

西部氏の死

身禄の墓
「「我は六十八歳までの寿命なれども、六十三歳にして、丑の六月十三日を命日とし、とそつ天之三国の万ごうの峰の鏡に身を参り候」と意思を表示しているのである。身禄が六十三歳で死を決意した年は、享保十八年(一七三三)である。この社会背景には、日本橋本石町の米屋高間伝兵衛たちによる米の買い占めがあった。高間伝兵衛ほか七名だけに、幕府は上方からの米の荷受けの権限を与えたのであるが、折柄、享保十七年に起った西日本地方の蝗害による影響で、いわゆる大飢饉が発生し、米価は高騰するばかりであった。その元凶を高間伝兵衛の買い占めに求めたのが、当時の庶民の意識であり、享保十八年二月には、江戸における最初の打ちこわしが起こったのである。…(略)…その高間を使っている幕府の役人たちを含めて、この世は末世に至ったというのであり、「ぬめのよし原」つまり泥海に化しているという終末観が示されているのである。
 富士山頂に近い釈迦の割石を、「とそつ天」つまり弥勒の浄土に見立てているのは、彼の入定の行為が、弥勒仏出現を前提にしていることを予測させるものであろう。
 身禄行者にとっては、富士講の主張する終末の到来を表現する予定の行動であったが、社会的には、江戸市中の危機意識が高まっていることと相まって、身碌入定は当時のトップニュースとなったのであった。」(宮田登著『江戸の小さな神々』 青土社)

ニュースによると、西部氏は、腰に建築現場の安全帯を巻き、そこに川辺の木に結びつけたロープの先をひっかけた姿で、亡くなっていたようだ。現場の安全帯は、普通のベルトの締め方とは違うし、留め金を開くのに力も必要になるので、手が弱っていたそうな西部氏本人が、自ら装着したものではないだろう。

具体的に、その場面を想像してみよう。
中年とはいえ精悍そうな男二人が準備を整え、川べりの氏の傍らに立っている。氏は、どんな表情をしていたろうか? 「行ってくるぞと勇ましく!」、であるはずもなく、優しそうな目をしていた氏の表情は、弱々しかったのではないだろうか? 男二人は、黙っていたかもしれない。が、それでさえ、その態度は暗黙に、さあ、先生、準備はできましたよ、行ってくださってけっこうですよ、さあ、先生の思想を果たす準備はできましたよ、さあ、どうぞ、どうぞ!――ということにしかならない。そんな無意識に追いたてられて、リールコードにつながれた老犬は、とぼとぼと、川の中へとよろめいてゆく。

そんな姿をみて、庶民ならば、「やめなよ」、と単にとめるだろう。
安全帯の装着にも慣れている現場の人間ならば、「えっ、まじでこんな格好でいくの? いくらなんでも、みっともなくね?」とゲラゲラ笑いだし、「やめよやめよ、帰るぞ、おいっ」となるだろう。

無意識的な実際では、西部氏は独りで死ねず心中したのであり、幇助した男二人は、殺人を犯したのである。

自分で自分の身の回りのことができなくなった老人に、自死だのなんだのありえない。自殺でも、自然死のようなものだ。認知症になった老人でも、ある瞬間我に返れて、ふと魔がさしたように自ら命を絶ってしまう衝動に襲われるかもしれない。が、それでも、それが老いという自然の力ではないか? 死にたい、死にたい、と老人たちは言っている。ほぼ誰もが長生きできるこんな社会において発生してしまった、人為的な自然現象だ。しかし庶民はいつも、そんな自然の中を耐えて生きてきた。だから、知恵もある。だから、「やめなよ」と、声をかけるのだ。死にたい、という老いの自然に抗うその思いやりこそが人為的な思想に変移するのだ。

西部氏が、当初の決行の日取りをのばしたのは、安倍総理による衆院選挙があったからだとか。がいま、その雲行きはあやしくなっている。大衆とひとくくりにはできない、庶民的な位相は、連綿と伏在しているだろう。

2018年4月7日土曜日

朴石と富士講

鎌倉の佐助稲荷神社の朴石
「富士講は町触れにみられるように「職人・日雇取・軽き商人等」の間で広まっていたわけで、「富士の加持水」により病気を治したり「病人え加持祈祷」する富士行者の霊能が信仰対象となっていた。」(宮田登著『山と里の信仰史』 吉川弘文館)








20年ほどまえに書いた「朴石をめぐる論考」、東京や関東の町植木職人がよく用いた富士山溶岩石で作った庭をめぐる考察を、富士講という民間信仰の方面から再考してみたくなり、文献を読み始めている。きっかけは、前回ブログでも引用した『富士塚ゆる散歩』であるが。

とりあえず、20年前の小論をのせてあとづける。

*****     *****     *****

ぼく石をめぐる小論考

造園の研究、特には過去に作庭されたものへの考察となると、その様式的な変遷を歴史実証的に物語っていくか、各時代に影響をあたえた宗教的・思想的意味づけによって当時の石組み等を形態論的に分類してみせるとか、あるいは個々の庭園にあたってもその実測図や写真などを掲載したうえで分析者の印象や感想を独断的に付記しておわってしまうのが趨勢であってきたようにおもわれる。
そうした風潮に進士五十八氏が一石を投じるような論考を提出したりしているが(『日本庭園の特質』)、それとて他分野において批判検討されてきた考察から遊離しているため、たとえば「自然」という語彙ひとつとってもあくまで通念的な概念運用に居拠するがゆえに、論の根本のところで信用しがたい、あるいは前提的に論の成立が危ういのである。通念によって通念を批判してもトートロジー的な事態しかうみださないが、実際に氏の科学実証的な考察はこれまでの物語りを追認してやっているだけではないのか? 混同されてきた「形式」と「様式」という言葉の概念を区別する作業は必要だったろう、しかしそれが内輪な論理の内部でなされるかぎり、批判的な検討・検証とはいいがたい。
たとえば歴史・科学主義的な思考の歴史性とそのカラクリを上野千鶴子氏はフエミニズムの分野から徹底的に批判している(『ナショナリズムとジェンダー』)。誰がその「歴史」を「真実」とするのか? 誰がそれを物語ってきたのか? 誰がそれを聞いてきたのか? 強姦の加害者と被害者とではその経験内容に相当な乖離があるというのに、どうしてそれをひとつの「事実」として成立させえるのか? 被害者が思いきって口を開いたその切れ切れの断片、つじつまのなさ、記憶違い、沈黙、……この「圧倒的な『現実(リアリテイー)』から出発するほかない」のではないのか?
このような問いかけは、造園の分野においてもひとごとではない。
いわゆる日本の庭とされるものにおいて、誰がそれを作ってきたのか? いや、誰が作ったとされてきたのか?
中根金作氏は『京都の庭と風土』において、次のように物語ることをはばからない。

 明治時代は、政治権力が全く新しい若者達の手に委ねられたのである。彼等はそれまで文化的に質の高い家庭環境には育っていなかった。このことは日本文化の歴史の上に一種の不幸をもたらした。それは優れた日本の文化財の海外流出であり、伝統技術の低下であった。中には断絶したものもある。そして作庭もこの時期を境として糸がきれたごとく、その技術は低下する。(中略)治兵衛は無隣庵の作庭を契機として日本の庭園史のなかに躍り出た幸運児である。しかしこの時代の治兵衛や植木職はあくまで職人であった。日本の庭園は、古代・中世・近世を通じて作庭の世界に中心的な役割りを果たしたのは、それぞれの時代の文化人であった。貴族・僧侶・画家・武家・茶人たち、そして中世に輩出した山水河原者のうち、僧侶に優るとも劣らない学識を身につけた者であった。この中世初めに活躍した夢窓国師を頂点とした作庭家たちと治兵衛他の植木職とを比較することは無理であり、同じ技術を要求することはできない。そして明治を境として日本の作庭技術は中断する。日本の近世中頃までの作庭家たちは最高の教養とそれによる美意識、広い視野を持って作庭に臨んだ人たちである。

しかし何が「教養」だというのか? どんな「美意識」だというのか? どれが「文化」だというのか? 「伝統」として誰が正当(正史)化してきたというのだ? 「技術」とはなんだ?──要するに、近代以降において自明(=自然)視されはじめた言葉によって庭園分野における歴史を理解(=支配・マスター)していくための物語りをことさらのように流布しているにすぎない。
私がこの小論考で提示してみたいのは、上の引用にみられるような、いわゆる研究者、および兼作庭家と呼ばれる「文化人」からまるで口をあわせたように出てくる支配的な物語りに対する、質的に異なったもうひとつの物語りである。その物語りは「下手趣味の最たるもの」(重森三玲・完途著『庭』)として、そうした京都(の庭)中心の文化人から排除されてきた「墨石」(*)から、そしてその「下等品」を使って作られ東京近辺のあちこちにみかけられる「職人」の庭から語りおこされるだろう。またその資料は私達「庭0」で管理し作庭した身近なものからとることにしよう。しかしあくまでこの物語りは歴史実証的な「真実」ではなく、「現実」から構成されえる仮説であり、また庭を読むという創造行為を通した仮説モデルである。
ボクイシは漢字では「朴石」と書くのだそうだが、私が他著作から引用するにあたり「墨」と書き換えてしまったのか、原文に従ったのか、忘れてしまった。調べがつくまで、そのママにしておくことにする。
     ───      ───      ───     ───
黒ぼくともよばれる墨石とは、火山岩の一種であり、玄武岩質の溶岩塊のことである。庭石として珍重される多くの石が、川の流れに洗われ天ばと面をはっきりさせた固有の顔をもっていると言われえるのに対し、表面がごつごつし、あちこちに気泡の穴をあけているようなこの墨石には、一見しての表も裏もないような代物である。豊富で多様な石を入手できた関西の庭ではまずほとんど使用されることがなく、石という素材に恵まれなかった関東において、玉川の玉石とともに、この富士からの墨石が多用されてきたといわれている。しかし当初その用途はあくまで土留めという目立たぬ技法のうちに閉じ込められてきたにすぎなかった。この「従来述べて来た庭石類に比して下等品扱いされて」(上原敬二著『庭石と石組』)きた墨石が、いつ頃から庭石としてその黒い顔を露にしてきたのかはわからない。軽量で加工しやすく、またブロック積みのように組んでいくこともできるといった機能、あるいは西洋からはいってきたロックガーデンの影響といったこともあったかもしれない。上原氏は「しかしこの岩石にはそれ相応の特徴もあって、そう見すてられたものではない。要は石組の技巧如何にかかっている」と付記して述べるが、しかしこの石の前景化には、おそらく上原氏をも含めたこれまでの造園家や研究者が美学的にとりあげてみる技巧とはちがった、むしろそんな見方を批判していく闘争としての技術が潜在しているのだ。それは戦争という大きな物語り的進行の過程で、「下に、下に」と抑圧されてきたマイナーなものたちの分子的な噴火である。
墨石は美しくはない。それを組み上げて構成されたものが美しくあるわけがない。しかもその石は中国の庭に据え置かれる太湖石のように、捕獲するにもおおごとな貴重で珍重される価値あるものでもない。採取容易で多量であり、安価でさえあるだろう。それはもともとが素材として重宝されるようなものではないのだ。しかしそう価値規定する尺度とは何処からくるのか? おそらく江戸時代までは、庭石は金銭といった交換という神秘性をはらんだモノとおなじく、一種の宗教的な呪術行為として取り入れられてきたにちがいない。戦国の武将たちがひとつの石をめぐって奪いあいのような事態をみせているのも、単に美しいという感性的な見方からかきたてられるのではなく、己の行為を正当化してくれる宗教的な正義といった意味あいをその石が内包していると信じられてきていたからということもあっただろう。つまりなお石には神が宿っていたのである。しかし特には明治以降、単に西洋化というだけではなく、貨幣経済の日常的な普及から、その交換という不可思議な神秘性を平板化させてゆく近代化の進展とともに、神は石から霧散し、ただその形だけを愛でるという美学的な見方が支配的になってゆく。むろん、そんな思考自体が近代の産物にすぎないわけだが、いわゆる造園の研究者や兼作庭家とよばれる者たちの多くは、この近代の所産からそれ以前の庭を裁こうとしているのである。
しかしわれわれの思考自体が日常を支配する生活基盤的なものに従属しているとあれば、そこから抜け出すのは難しい。ひとりいや石には神が宿っているのだと頑張ってみることにもはやどんなリアリテイもない。ましてや形だけ以前の石組みを伝統の継承だと換骨奪胎してみても、単に自堕落になるだけだろう。
ではどんな実践があるというのか? いやあったと読みえるのか? 
再び繰り返すが、それは決して美しいものではない。










上の写真は私達「庭0」で管理している新宿は上落合の月見岡八幡神社の墨石による富士である。造営は昭和37年ということであり、中心となって作庭した人は他界している。先代の親方が手伝ったと思われるが、詳しいことはわからない。私はただ、この富士からの衝撃(「リアリテイー」)から読み考えるだけである。
富士山は美しい。その裾野をしなやかに広げた姿形は、万葉の時代から歌いつがれ、築山としても庭園のなかへととりいれられ、借景としても利用されてきた。しかしその用法はあくまで観賞的な立場からなされるものであり、たとえ宗教的な畏怖心といったものが介在していたとしても、富士は対象としてあったにすぎない。つまりは富士が美しいとされるのは、それを遠くから眺めているからなのである。それを間近でみたら、あるいはその峰の最中にあって直面するものであったなら、どうなるというのか?
八幡神社の富士は、その美しいとされてきた見方を意に介さないかのように、むしろ醜いとされてきた墨石によってごつごつと組み上げられている。富士が排出した溶岩塊によって富士を作ってみせること、この倒錯した造形を前に、ただ眺めるという観賞的立場は圧倒され、苛立たされるだろう。そして実際、この富士は登る、あるいは頂上の祠へと参るという行為を誘うように作られている。この誘惑、あるいは衝迫はどこからくるのか?
富士の山中へと最初に立たされたものが、その出くわしたこともない光景、果てしなく広がる樹海、風化した岩石の塊、砂漠のごとき大地、もしそこで圧倒されたまま立ち尽くすことが許されていないならば、人はこの殺風景な現実の最中を歩きはじめるほかはない。しかし一歩、一歩奮えながら押し出された足が次第に力強くなってその頂上へと至るとき、人は山を征服したというだろう。しかしこれは正確な言い方ではない、征服したのは山という対象物ではなく、その自然の「現実(リアリテイー)」に圧倒された自己自身に他ならない。そのとき富士とは対象としての「美」としてあるのではなく、自己への働きかけを通した「崇高」としてあるのである。
「美」に対して「崇高」を区別し対置してみせること、その必要はまず西洋の近代化過程の最中においてあらわれている。宗教的な畏怖心をはらんだ中世からの戦乱、しかしこの世界が無際限な闇に沈んでいくわけのものではなく、地=球として閉じられた「実無限」であることの発見、この歴史=自然的な「現実(=衝撃)」の直面に、人は無力な自己をなんとかもちこたえさせえる技法を発明しなくてはならなかった。
柄谷行人氏によるカントの読解によれば、この「崇高」という感情の動き、つまりはカントのいう「超自我」の働きとは、「理性を駆り立てる『不死』への欲動」としてもあるものだという。つまりはある形而上学的・理念的ななにものかの永世のために、生物学的な個体の死をも厭わないという感情、それは精神分析学上フロイトが人間の根底に仮説した「死への欲動」と同等なものとしてある、と。死という不快(醜)なものを快楽(美)へと転倒してゆく欲望である。ゆえに「崇高」という技法には、両義的な働きがみだされることになる、ひとつは無力な自己自身をなんとか延命させていこうという技法、そしてもうひとつは平和のための虐殺という近代史上においてはじめて歴史化したナショナリズムというロマンチックな戦法である。しかし近代の言説において、このナショナルな感情は美(学)的に認識され、掲揚されてきた。しかし「死の欲動を抑えるのは死の欲動である」。「美」の範疇としてではなく、「崇高」なるものの次元で思考を策動させなければどんな「現実」への対処・技法をも過たされるのだ。(「死とナショナリズム」・『批評空間』1998・第二期-16号)
八幡神社の墨石による富士は、戦争を生き抜いてきた者による戦後になってから造営されたものである。ある意味でこの富士は、『竹取り物語』においてフジという名の由来が追記されることから推論されえるような、戦没者の「不死」を、つまりはあの世での「無事」を祈るような慰霊碑としても造られているかもしれない。それは鎌倉から由来するこの神社の歴史的文脈においても敷えんしえることかもしれない。たとえば頼朝がまず永福寺の建立を思い立ったのは、蝦夷とよばれた東北征伐にあたって、当地の高度な文化的絢爛さに打たれたということともに、数多の兵士(富士)が亡くなった現実への戦没者慰霊の意がこめられていたという。「庭0」では早稲田の北野神社の手入れにもはいっているが、そこに梅の木が数多く植えられているのも、もちろん実朝が鎌倉の北野神社に梅を植えたという伝説的な由来があるゆえだろう。しかしそうした歴史的文脈は二次的なものにしかならないだろう。このホームページの業務紹介でも紹介してある最勝寺の改造まえの境内には、先代の親方が造営した墨石による庭があった。今はなく写真では紹介できないが、それは戦没者慰霊碑の立つ墓地への入り口とは対称的な位置にあるもうひとつの墓地への入り口、階段の左側には銀杏の大木(ここから異界だということを象徴さすものだろう)、そして右側のツゲの高生け垣で仕切られたその内側=境界にあった。樟の大木(ここが緑の消えることのない天上であることを象徴さすだろう──)の下に繰り広げられたその庭は、八幡神社の構成と同じく、規模は小さくとも墨石による築山であって、そこを歩くことがいざなわれるようになっている。桃ではなくて蜜柑、クチナシ、玉散らしに仕立てられたツゲ、常緑樹に囲われた山の麓の洞窟には、七福人が据えられている。要するには桃源郷が表象されている。しかしそれはあくまで醜い=不快な「下等品」とされてきた墨石によって構築されているのである。墨石とは、地下の溶岩ふきだまる煉獄から排出されてきたものに他ならない。となれば、この庭はまさに地獄(不快)による極楽(快)という両義的な意味を働かされている。すなわち、「崇高」なものとして実存しているということだ。
しかしならば、墨石で構成されたこれらの庭は、どちらへ生き延びようとしているのか? あるいは死のうとしているのか? 国体へか? あくまで無力な自己自身へか?
庭を造った作者へと尋ねてみる必要はない。作品の背後に作者の意図を読み込もうとする近代的な営みは、この世の背後に神の意図を探ろうとする形而上学的な強迫反復に無自覚である。つまりその営み自体が「死への欲動」なのであり、近代の虐殺史に結び付いているのだ。あくまでその庭に直面することからはじめなくてはならない。








上写真は、八幡神社の富士が祭られた敷地のすぐ手前にある筧であるが、ここで考察しようとおもうのはその背後の石の用法である。滝口としてイメージされて立てられた庭石を囲繞するように墨石が組まれている。美観的にみても決してすっきりしたものではない。むしろ奇妙でさえあるだろう。しかしこの奇妙さを、美学的なひとつの趣味として理解=解消させてしまうことはこの作品のもつ「現実(=衝迫)」を見失うことになってしまうかもしれないのだ。なぜなら、この構成では、これまで価値あるものとみなされてきた庭石が主人公であるのか、それを取り囲む下等なと呼ばれてきた墨石の方が主役として据えられているのか、判然としがたくなる厳然さとしてあるからである。いやこれが墨石による庭だということははっきりしている、ならばこの構成が現前させているものは、重宝される石とはこういうものだという伝統的に培われてきた価値体系をひっくり返していく批判の力としてあるということになる。つまり企まれているのは、ヒエラルキーの転倒という政治的・階級闘争なのである。 この作庭者があの戦争をどういう態度で生き延びてきたのかはうかがい知ることはできない。しかしあの戦争にかり出された多くの兵士(富士)たちが、砂漠や雪原やジャングルにおいて、心象風景などという自然主義的な観賞的・美学的態度などでは対処できない、決して内面化しえない自然の「現実」に直面してきた。いや都会の中にあってさえも、上官や同僚、そして人間の顔をもった敵、いや自己自身の内にさえ吹き荒れる自然の「欲動」に直面し翻弄されてきたのだ。そしてたとえば、この「現実」に直面した戦後派と呼ばれた小説家たちが、どんな構成をもつ作品群を提出してきたか? それは不完全であり、奇怪であり、美しくはない。しかしそれが彼等のそうでなくてはならない本領なのであり、意欲なのである。国家のために死ぬ美しさ、そんな支配階級が鼓舞し駆り立ててきた戦法に抵抗する形を、彼等は自らの作品で作り上げようとしてきたのだ。
しかしもちろん、この奇妙な形が、ナショナリズムに連綿としてゆく美学的な見方への批判という闘争の力(厳然=現前)をもつのは、そうしなくてはならぬという意欲があってこそである。つまり「死の欲動」を形而上学的な戦法の内へとなびかせ発散させていくのではなく、それをなんとか抑えていこうとする自己制御的な技法へと工夫しているかぎりである。余談になるが、先代の親方は、常雇いとしてはいっている家の主人が、一服の時間に熱いお茶ではなく、冷たい飲み物を召しだされても、決して口にしなかったという。(現親方の奥さんによると、仕事もしなかったという。)だからもしこの闘争の意欲なければ、それはいつでも美的趣味の形骸と反転するのだ。
この庭石を墨石で取り囲むという石組みは、しかしここで物語ってきている作庭者の独創的な力によって生まれたというのではない。無からの創造などというものがあるとしたら、神のみによるだろう。戦前にさえすでにこうした用法がみられたのかもしれない。しかし私が調べ推論するかぎりでは、その源流は江戸に幕府が開かれ、貧困な石しか採取されなかったとする関東において、はじめてその地方独特な回遊式の庭園として築かれた小石川後楽園にある。
というか、この八幡神社の「富士」という構成自体が後楽園からの引用としてあるのではないか、と推察する。江戸で頻繁に起こった火事、当初のものからの改造、関東大震災、そして戦時中の大空襲、こうした変遷と災害を経て原形をとどめた石組みがどこにどれほど残っているのかは知りえないので確実さはないが、しかしそれは、玉川の大きな玉石らしきものとともに、それと並列されて使われているような単なる土留めとしてある使用からきているのではない。それは琉球山という当時の入り口からは一番の奥に位置するともいえる築山にある。西湖提を渡りこの山に敷かれた延べ段を登っていき、中腹にある大井川を見下ろす見晴らしの敷地を抜け、その頂に着くやと覚えるまっすぐな山道の突き当たりの場所に、登ってくる自分を写す鏡であるかのような表面の平らな石が傾斜の土留めとして埋めこまれている。そしてその周りをより小さな石たちが取り囲んでいるのだ。参観者はこの突き当たりの石に相対したあとで、右の曲がりへと振られすぐにこの山の天上へと立つだろう。この山は、江戸の治保時代には通称「富士山」と呼ばれた。
下1がその石の写真である。この写真と、八幡神社の富士の中腹に窺える石組みとを比べてみるとしよう(下2がその拡大)。後楽園の富士では、鏡を表象しているような石を取り囲む石群は、墨石ではない。ただし、右上で押さえる石が墨石らしきものにも思えるのだが、はっきりとはわからない。しかしこの構図、八幡神社の富士でもこの鏡としての石の据えられた位置から参拝者は右に振られ頂へといたるのである。さらに、後楽園に築かれた山が琉球と名付けられたのには、ツツジがたくさん植えられていたからだという。八幡神社でも山という斜面上で強調させられている植栽はツツジである。(頂には金木犀、峰にはヒマラヤが並木として植えられているのだが──「業務紹介」巻頭写真を参照<註;前回ブログ写真)──、その植栽の存り様はこの山が単なる模倣的引用ではなく、批判的引用だということを現前させている。頂に映える金の後光はここが死者たちの天界であることを、しかし昇天として祈られる場所とは日本的な内輪の表象なのではなく、世界の山峰なのである。しかも、その明治になってから日本に輸入された巨大な樹木は、芯が止められ職人の受け継いだ技術によっていわゆる和風に仕立てられることがめざされる。それはまさに自然の圧倒的な現実を前にした己の無力を、その「死(=不死)への欲動」をなんとか抑えこもうという技法=意欲である。つまりはこの頂へと訪れる者は、あるいはその「崇高」さに直面する者は、日本の神からより普遍的な次元への飛翔を死者からの願い=諭しとして誘われていることになるのだ。)
下1
下2

独創ではなく引用で造られていることが、作品の価値を失うわけではないということを改めて強調する必要はないだろう。重要なのは、先行作品に対する関係の強度である。それはひとつの作品においても、その凄さを決めてくるものが、素材と素材との、あるいは部分と部分との関係や連結の緊密度であってくるのと同じである。しかし引用がただ単に趣味的な美観によってなされるならば、つまり恣意的な折衷でなされるならば、作品どうしの、あるいは素材間の関係は弛緩してくる。引用が力を持ってくるのは、あくまで批判という意欲があるかぎりにおいてである。しかし力なき反復は、作品へのこだわりが形に集約してくるために、洗練されてゆき、それが伝統とよばれるものになってくる。
下の写真は、昨年「庭0」で改造した最勝寺の境内の一部分である。門から入来した者がこの境内を一巡しようとするとき、本殿をよぎるアスフアルトの道はこの鏡を表象するような墨石で囲われた石に突き当たり、右へと振られ、裏の内庭へと回ってゆく。以上三つの写真を見比べてみるとき、その選ばれた石の形といい、構図といい、あまりに似ていることは驚くばかりである。









小堀遠州の庭は、庭園技術の達成的な歴史的現実を前にした、先行作品に対する編集作業としてあったのではないかというような意見が建築家の方から言われたりする。もしそうであるなら、その己のまえに既に提示尽くされたとみた庭の「衝撃(=現実)」からの組み直しとは、批判的引用の作業にほかならない。彼の庭が凄さを、「厳然」さを「現前」させているとしたら、その批判の力が遠州好みとよばれる伝統=様式化した庭とを分け隔てるだろう。そして批判的引用とは、読みなおすという作業のことでもある。だからそこには、どう読んだのかという文脈がなくてはならない。おそらく遠州にあっては、それまで宗教的・思想的に意味づけられて構成された庭から、その政治的バックボーンを徹底的に排除し、純フオルムとして抽出してやるというイロニックな政治性であったかもしれない。彼は様式化しえない多様さとして厳然=現前してある庭の歴史=現実を、形式化しようとしたのである。「形式化」とは、現実として直面する「死の欲動」をなんとか押さえ込もうとする「超越論的(=超自我)」な、自己制御的な技法である。逆に遠州の庭から形だけを模倣した政治的対応を欠いた庭、すなわちは支配権力として自明=自然化した体制=大勢に「欲動」をなびかせるにすぎない庭とは「様式化」としてあるにすぎないのであって、そしてむろん、後者の強迫反復的連綿さが「伝統」とよばれてきたのである。利休や織部といった先人たちが当の権力に殺されてきた戦国を生き抜いてきた遠州の政治的姿勢とは、皮肉なものであったにちがいない。
八幡神社の富士が後楽園からの引用であるならば、その批判的読みの文脈はいまやあきらかだろう。しかも鏡として表象されるような石組みは象徴的な技法でもあるだろう。鏡とは自己を参照させる装置、自然の現実に圧倒されておののく足を一歩一歩踏み出しはじめた自己自身を見つめ直すきっかけである。そう、確かにそれは自己愛的に割り振られた道具仕立てなのではない、人はこの鏡を契機に自己を振り切るように右へと旋回し、山の頂へと立つのだ。そしてその山は、天下を牛耳った権力者たちが周遊する価値ある石で埋めつくされたその形をごてごてと覆い潰すように、下品な物たちが囲蝟している。古代から語り継がれてきた典型的な大きな物語りを、語られることさえはばかられた下等な者たちが占領している。この黒い面(ツラ)も定かでない顔をした包囲網の現前は、しかし「美」しき観賞に己を任せることしか知らぬ連中を圧倒させてやまぬ企みを実存させた「崇高」な厳然さなのだ。
                            1998..
追記  東京は駒込の旧古河庭園は、洋風と和風が上下に並列的に構成された大正初期の庭だが、その和風の方の回遊式庭園は、植治が作庭したものだとされている。そしてその心字池の奥まったところに、枯滝が組んであるのだが、そこでは滝口としてイメージされた豪華な庭石を引きずり降ろすような気迫をもった構成で、墨石が多用されている。高価な庭石を包囲するまでにはいたっていないが、それに迫る勢いとして使用されているのである。それはこの庭の土留めの用法としての墨石についてもいえる。後楽園や六義園などでの用法があくまで目立たぬ脇役にしかすぎぬのに、ここではあるはっきりとした造形力として着眼されているのだ。ここからも植治が自然主義風の作庭家にすぎなかったというのは俗説にすぎないと推論できる。ロマンチストな文化人・山形有朋にその俗説はあてはまっても、激動の余燼の中を生きた職人である彼が、思想や意味などで創作できるわけがないモノとの対応に迫られたはずである。この庭からも、あるはっきりとした階級闘争の意欲を感じ取ることができる。
                           1998.9.13

2018年3月9日金曜日

青写真

「天狗や猿だけがこの塚の魅力ではない。絶壁のような塚へと誘うのは、ジグザグの道。形のいい植え込みも美しい。配置のセンスはバツグンだ。よく見ると、ボク石でポケット状のプランターまでできている。庭師はどれだけ心をこめて塚を造ったのか。いい仕事をしたものだ。」(『富士塚ゆる散歩』有坂容子著 講談社)




*****    *****     *****


青写真

(1)  名称(仮) <ワーキング・サロン にわ>
・この場所名称のもとに、①「植木手入れ すずき」
            ②「車いす付タクシー すずき」
            ③ ○○塾(都市体験ツアー)、出版、民泊……など。
などの自営業がある。(1)の場所(サロン)名称は、NPO法人化を目指す。経理上の在り方は、税理士と相談。

(2)  動機 ①今の職場㈱庭○は、3代目35歳の方針をめぐって親子齟齬、および、若い従業員が3代目ともめてみなやめて、私と71歳になる職人さんしかいない。家の手入れだけでなく、役所の重労働に3代目から借りだされるので、将来的に、体と精神がもたない。
   ②一希の相続問題;孫が1名しかいないので、藤岡二つと千葉の三つの不動産の相続の件を、10年後には検討しなくてはならなくなる。法人化には、相続税はかからないので、一つでもそのように活用しておく。たとえば、輝明の家の階下は、自営うまくいかなければ法人に貸し出し、その家賃をとる。
   ③<庭>という分野での創造的な試みを通して、自分の運命を読みたい。運(自然)は変えられず、ゆえに試すこともできず、決まっているようにみえる。人にできることは、それを正確に読み取ろうとすることだけである。<にわ>という古語の概念把握は、おそらく私が日本で初めて理解した。それが現実上動くか、見てみる必要がある。

(3)  具体的に ①場所;弟の家からの場合、近所に造園屋があるので、菓子折りをもって挨拶にいく。近所の参考団体は、生活クラブと提携している<助け合いワーカーズ 歓 フォア○>や<NPO法人 じゃんけんぽ○>。女房は中野や杉並区とかいっているが、どちらにせよ、東京と地方を私が行き来することからになるだろう。
     ②時期;庭○の出方による。3代目が喧嘩を売ってくれば、早ければ来年からと考えられるので、準備しておく。庭○という職場・技術自体には、意義が継承されているので、問題は露わにしたくない。かといって、私がそこに居続けても、もはや知的に退屈するだけ。2代目親方は、私に居続けて技術と職人の考えを伝承させてもらいたい一方、まだ子育て中の現役職人を抱え込んでいることに疲れを感じている。会社の方針や職人としての倫理の在り方が、息子と相違していようと、もうどうともなれと、全面的に任せて、楽になりたい、というのが本音だろう。

*****     *****     *****

なかなか、外堀が埋まらない。おまえには迷惑かけたくないから、と母は実家の方には来なくていいと考えている。いわゆる仕事をしたいわけではないから、いきなり内堀埋めて、見切りで独立しても、やることないだけでなく、面白くない。文脈を作る、という知的過程の延長において実践していかないと。家では、まだ女房と息子の勉強バトルが激しさを増している。「バカな大学でても就職などない。あなたは文学部などでて就職あるとおもってたの? 何もしらなかったのでしょ!」と、こちらに食ってかかってくる。そこらのばあさんがそう言うならまだしも、おまえはダンス(芸術)をやっていたのではないか? 文学(芸術)が世俗の営みとは別次元の活動としてある、というのは当たり前な前提だろう? 就活なんて初めからする気がなかったぞ。と言っても「何を言っているんのかわからない」のだそうだ。オノ・ヨーコが売れないアーチストのままだったとしても、漢字の書き順がちがうスペルが違うと、子供を蹴とばし続けるか? 官僚家系で育った無意識が噴出して、自分が職人の家族にいる、という現実的基盤がまったくわかっていない。親方の長女の息子も勉強できないらしく、夫婦バトルも激しいらしいが、子供たちは明るく育っているようにみえる。が、イツキは、暗い、暗くなってきた。……私が独り身だったら、植木屋は知的にあきてきたので、山仕事を探しにためらいもなく行くだろう。が、こんな状態では、逃げるわけにもいかず。とにかく、もっと外をと、外堀を埋めるというより、開拓作業に手をつけていこう。


2018年2月2日金曜日

文士の言葉と、文学の言葉

中上 江藤さんは、ほんとうに土建屋とか左官屋とか植木屋とか、そういう言葉を吐いてるんだもの。
江藤 そのとおりだよ。
中上 僕はそれしかないと思う。
江藤 僕はね、僕は小林秀雄からならった言葉はそれしかないよ。インテリとかなんとか言ってるのは、だいたいにおいておかしい。まともなやつは土建屋や植木屋や左官屋の言葉がわかるやつだ。そういう表現ではなかったかもしれないけれど、僕が小林秀雄にならったいちばん大事なことは、そういうことだった。…(略)…
中上 いつか聴いたんです。江藤さんが、五十いくつになって、夜中に目が覚めちゃうんだというんです。その時、俺はそうだろうなって思った。俺は四十、まだ十年……」(『文学の現在』 江藤淳連続対談 対・中上健次「今、言葉は生きているか」 河出書房新社)

私が植木職人なのに、いろいろ難しいことを言うからか、もと早稲田の古本屋さん、上の江藤淳の本を読めとすすめられる。読んでいるうちに、これは学生の頃、読んだことがあったんだろうなあ、と懐かしい感じが起こる。しかし当時は、上引用の言葉など、理解するにはほど遠いはずだよな、と思われてくる。この引用箇所だけ読まされても、意味はピンとこなかった。家に帰って、寝床で江藤・中上との対談をゆっくり読んでみて、今の私でようやく合点する。そして、私は彼らの立場とは違うことを意識する。私も、たしか四十代で亡くなった中上の歳を超えて、江藤と同じ五十いくつになろうとして、「夜中に目が覚めちゃう」ようになった「植木屋」だが、私の言葉は、彼らのいう「文士」のものではなく、それと区別して、あくまで「文学」の言葉と言おう。

物書きになって、相手と議論(喧嘩)する場合は、「原稿料の二ヵ月分は貯金しろ」という江藤のアドバイスのような言葉、それが「批評」の言葉なんだと中上は言う。それは、小林秀雄が、相撲の批評は、もと関取が現場の実践に即して適格におこなっている、という見方につながっているだろう。逆に、中上は自身の結婚式のとき、両親の手前、肩書きをもっていた友人・柄谷行人に仲人を頼んだのだけど、文学のことなどまったく知らない身内たちの前でとうとうと中上健次論みたいなことを述べ出した言葉の在り方は、まったく批評ではない、という。こうした例から、文士の言葉としての批評は、関取ー土建・植木屋、とかの実地から出てくるもの、生活者の言葉、というものに近いもの、と理解されてくるが、二人の言おうとしていることは、もっと大きく、深い文脈に真意がある。

おそらく、言語学者の、田中克彦氏が追求してきた「マイナー言語」、あるいは「差別としての言語」というような視点を考慮すると、理解が助けられる。たとえば、「天皇」という言葉、これはあくまで、大国・中国への抵抗、身を守る術として案出されてきた弱者の言葉である。万葉の時代、和歌が政治であったのは、当時の日本が、夜中に目覚めた50過ぎの男のつく溜息と同等のような力しか、世界関係の中ではなかったからだ。いや、今でも同じだ、と二人は認識していること、そのことを他の物書きたちは自覚していないことを批判しているのだ。戦争の焼け野原から経済大国になって、人口が1億人を超えている現在まで、あたかも日本語が普遍言語の一つなように錯覚されている、が、たとえば、このまま少子化が進み、人口が5千万人とかになったらどうだろう? そうして国家的な経済力が衰えてきたらどうだろう? インフラを維持するためにたくさんの外国人労働者をいれるならば、社会では英語で家族の中だけで現地(日本)語で、とかになる潜在性はないだろうか? あるいは、政治的駆け引きで負けて、近隣国の属国になり、日本語を話すことが禁止されたり、そうして自分の子どもたちの代では忘れられてしまう言語になってゆく――そうした、日本の歴史的な地政学的現実の覚悟を、二人は説いているのである。

が、江藤・中上は、それゆえに、諦める、を受け入れる、という立場を表明しているということだ。彼らのいう批評の言葉とは、それゆえ「和歌」であって、現状に内向していくものである。それに対し、たとえば、中野重治は、「歌の別れ」を説いた。そもそも、日本の近代文学の萌芽のうちに、現状(社会)を変える、という外向きの志向が存在していた。二葉亭がドストエフスキーに影響されたのも、そのテロリスト的な実践意欲にであって、それが、漱石のいう「明治(改革)の精神」と連なっている。それは文人というより、武人的な系譜からくるものだろう。ドストエフスキー自身は、死刑を赦免されてからの文学活動において、晩年まで、実は若い革命的な運動家たちとの接点を維持しつづけて、ロシア当局自体が監視をつづけていた、というのがわかってきたことだろう。たしかに、ドストエフスキーの言葉は、「マイナー言語」というより、帝国の言葉、の世界である。その実地において、意味が生きてくるのかもしれない。日本の近代文学は、結局は敗者の美学、つまり「歌」になっていった。

私は、二人の認識立場を受け入れる。が、そこからの実践が、50歳をすぎて溜息で終わるのをよしとするような気になれない。弱者の、マイナーな立場であっても、なんとか自分の声を発する、世界にとどけさせるようあがきたい。

もと早稲田の古本屋さん、わざわざわ早稲田の自宅から野方の銭湯やまで通うそうだ。現在では珍しく雰囲気があって、番台のばあさんもいい人だからだそうだ。私も、植木職人としてそうした社会に生きているだろう。が、私はそこから、歌う(嘆く)のではなく、プーチンや習近平と戦える言葉を探したいのだ。相手も、相当な理論武装をしている。それだけでなく、「北朝鮮は雑草食ってでも核開発するんだぞ」、と脅してくる。こっちの首相は、優等生的な当たり障りのない聞き流してすむような言葉だけだ。「北朝鮮は何を考えてるんだ?」とトランプから聞かれたのなら、「私たちもやりましたからね。」となんで脅せないんだ? それが、「文学」の言葉だろう。「文学」が終焉して以降、言説の言葉は、「社会学」、そして今は「政治学」の言葉が流布傾向にあると指摘されている。もと古本屋の亭主は、最近亡くなった西部邁氏にも言及していたが、私の推定では(氏の作品を読んでないので)、彼の言葉は「歌」であって、文学=政治ではないだろう。銭湯やのばあさんが生きている、社会がない。