2020年4月25日土曜日

新型ウィルスをめぐる(5)



なかなかやってこないアベノマスク。今朝の新聞によると、不良品おおく、いったん配布停止するとか。アベ君自身は、毎日それを愛用しているようだが、そのマスク姿をテレビでみかけるたびに、子供のころきいた、マスクの歌をおもいだしてしまう。

〈コンコンクシャンの歌;https://youtu.be/-q5oA7RZUGI

リスさんがマスクした、ちいさいちいさいマスクした……アベノマスクは、せこいせこい、というべきか。

とにかく、新型ウィルスに対する私の見方はかたまってきたが、まずその根拠として参考になってきたwebの紹介。

・<ロックダウンのフランスでの日本人報告>
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200419-00071953-gendaibiz-int
・〈フランス在住ヒロユキさんの報告〉
https://youtu.be/b50dWx0Hqy4
・〈ロックダウンという愚行〉 https://indeep.jp/this-is-real-lockdown-uk-and-non-lockdown-sweden/
・〈ワクチンの副作用可能性〉
https://tanakanews.com/200416corona.htm
・〈消毒手洗いの副作用〉 https://indeep.jp/perfect-spanish-disinfection-could-suggest-perfect-doomsday/
・<苫米地氏の科学対処からの解説>
https://youtu.be/FOKWM6xtiqo

*要は、ロックダウンのような行き過ぎた、過激な対策は、発生源たる武漢以外の都市・国でやっても意味がない、ということ。ただ、その意味のなさを大衆に説得していくというより、慣れさせていくために、自粛要請だのなんだのという強権的な宣伝は必要なのだろう。いわば、やってもあまり意味がなかったといやでも納得してもらう過程として。しかし、それでも、パニック的に、行き過ぎた消毒手洗いの履行や、商売の停止要請がだされて、取り返しがつかないかもしれない間違った政策がなされてしまったわけだ。これから急造された実験不十分なワクチンなどが奨励でもされると、余分な危険性が増すのだろう。私としては、資本がストップし、地球環境もよくなってきているのだから、この線で、個人・家計的なエコノミー、本来的な経済の意味を回復していけるよう中長期的に構造を変えていく方向で構想をねっていくべき、とおもう。が、そうはならず、おそらく、これからも間違った政策と、パニックと、なぜかは知らないが政治的な強権発動の世界的続行が、ウィルス問題をこえた、とんでもない、人類やその世代の生物たちにとって、壊滅的な事態を引き起こすような気がする。経済より命が大事だろう、という話になっているが、ヒトの営みを否認した生命の存続に、どんな意味があるというのか? ただちに死んでしまうのならともかく、現状、本能は、そうなっていない。これまで人類は、そして今でも貧しい国々の人々などは、死と隣あわせで生きてきた。日本のような戦後平和な国でも、たとえばビルの足場を組むような職種の人などは、自分の命というより、自分のミスひとつでみずしらずの人を殺してしまうかもしれないという緊張をメンタルコントロールして生きてきたはずだ。そして哲学するとは、ソクラテスが言ったように、死への準備、だったはずだ。

私の女房は、持病の悪化でか、心臓肥大し、肺が圧迫されて呼吸が困難な状態だ。こんな状態でコロナウィルスにやられたら、まず無理だろう。息子も、若い奴らは症状がでない、といわれていても、アトピーのためか、すぐに風邪をひき発熱し学校を休んでいた身の上だから、一般論があてはまるかわからない。おそろしいことだ。しかしその個人的な感情と対処と、大きな構造とその中での考えや心の持ち方の問題は、別のことだ。自分の内でのそんな区別、メンタルコントロールが、パニックをふせぐ。野球のバッターが、ストレート5割カーブ2割フォーク1割つり球1割とか、脳を整理コントロールしてピッチャーに向かうことができるように。そうしながら、試合全体の流れにのまれないよう対処していくように。頭を整理しきれずボール球に手をだして三振し、その個人の結果が、試合の流れを決定づけてしまう、ということがある。チームとして、そういう個人と全体の関係性があると共有していれば、その三振を流れに結びつかせないよういっそう個々人が注意し、声だけでもだしあって、お互いを鼓舞しあう……私のこのブログも、そんな注意喚起と鼓舞の一環かもしれない。

70日たてばこの人口ウィルスは活動をおえる、と観察報告する学者もいるそうだ。ボタンがじきにシャクヤクにもどってしまうように、ヤマザクラは1000年生きても園芸品種のソメイヨシノは100年の寿命になってしまうようにか。説得力はあるが、今回の事態は、ウィルス騒動があろうがなかろうが、そのうちやってきたであろう世界構造の成れの果てが、より早くきてしまっているのでは、ということだろう。だから、そんなことで一喜一憂しててもしょうがない。

このコロナ騒動で、カミュの『ペスト』なり小松左京の『復活の日』などの文芸書が売れているそうだ。私が連想したのは、ドストエフスキーの『罪と罰』のエピローグである。誰か他にもいないのか、とスマホ検索したら、山口県在住の町医師の方がヒットしてきた。

「静かな日」;http://nodahiroo.air-nifty.com/sizukanahi/2020/03/post-d7f21e.html

「エピローグ」や『復活の日』のようにならないことを祈るが、私が啓発されてきた柄谷行人氏が、ここ数年の朝日新聞書評でいってきていることは、人類は近いうち絶滅する、ということだろう。それを本当のこととして受け止めて、はじめて希望がみだされるかもしれない、と。近いうちとはいつか? 無農薬リンゴを開発した木村秋則氏が、宇宙人に口止めされていたその絶滅の年月を、取り巻きに酒をのまされてもらしてしまったという話によると、2030年代だそうである。そんな神秘的な話が、リアリティーをもってきている、という状況だろう。そして本当に、そういうものだとして、死を準備して生きたほうが、より充実した、意味のある人生をおくれることだろう。

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