2020年7月9日木曜日

都知事選を受けて(2)――新型ウィルスをめぐる(11)


今では、党派をこえて、あるいは個別利害こえて、一般大衆的な人気をとる言動をふりまくやり方を、ポピュリズム、と通称しているとおもう(政治学概念としては、そういうことではないらしいが)。そうした政治現象が明白になったのが、1993年に連立政権としての総理についた細川護熙氏のときであった。その情勢を受けて、文芸批評家としての柄谷氏が、マルクスの「ブリュメール18日のクーデタ」分析を、ソシュールの言語学を援用しながら、意味するもの(代表するもの)と意味されるもの(代表されるもの)の結びつきは恣意的であって、ゆえに、現実的にはまったく自己の利益に反する者が代表者として選ばれてしまうことは、代表制というシステム原理において必然性をはらんでいるのだ、と説いたわけだ。この間接民主制という制度を利用して、ボナパルトというナポレオン3世という著名さだけしか持っていないような無能な男が、党派を超えて代表するものになっていった複雑な過程の成立と同型な事態を、「ボナパルティズム」と呼ぼうと提唱して。ファシズムも、そうした民主主義の隙間から登場しうる形式的には同じ構造をもつとしても、政治社会的にもいろいろな含蓄がついてしまうその言葉にかえて、より純粋形式的にそう呼んだらどうか、と。がいまは、もっと不純端的に、ポピュリズム、となっている、というわけだ。ということは、少なくとも、巷では、そうした情勢のおおざっぱな成り行き自体は、一般にも共有されていった、というわけだろう。つまり、細川という殿様ネームバリューから安倍三代目まで、この「ボナパルティズム」的な構造が反復されているわけだ。

構造的な反復とされるからには、それは空間的な把握であって、事態の新旧をみる時間的見方はとりあえずどけられる。今回の都知事選、宇都宮氏以外は、ポピュリズム、代表と被代表との恣意的な結びつきが明白になっている浮動票をどうとりこむか戦略の、ボナパルティズムの反復だった、ことは確認できるだろう。しかし、たとえば、当選し、時期総理ねらいも公にささやかれはじめた彼女には、三世のような、ネームバリューはない。ウィキペディアで経歴をうかがっても、やはり、陽樹というより、陰樹にちかい半陽樹な育ちにみえる。というか、日陰者として研鑚したクノイチにもみえる。が、ゆえに、日本的な特殊性の文脈もくっついてくる。陰影礼賛、だ。小池氏は、出る杭は打たれる側の戦術、判官びいきな心情に一度復讐されたからよりその心情に返って、慎重に影を宿したまま表に露出しているだろう。俗に言いかえれば、かかあ天下の正妻になる女性ではなく、側室妾あつかいされてもそれでもあなたについていくという態度(戦術)をにじみださせる、演歌の情念だ。私と一緒に仕事をしている団塊世代の職人の、「小池さん」というときのトーンは、まさに演歌調だ。びっくりしたが、その連想は発展して、なぜか、日の丸ハチマキに「なめんなよ」と書いた猫の姿や、「小池命」とかのハチマキで応援する男たちの姿までが思い浮かんだ。本人は淡いグリーンなイメージに呼応するような浮動票狙いがあるのだろうが、その部分の大半は、前回ブログでも示唆したように、新規投票者は懐疑的にであって、今回は、日本の保守的な層の一部をコアな支持として確定的にした、ということがあるのではないか、と思う。となるとこれは、広義の意味での、天皇制の文脈とかさなってくる。狭義的には、天皇=権力者、となるが、広義的には、権力と権威を意図的に二重化して、天皇はあくまで陰の、権威として利用される傀儡性が自然視されてくるという日本文化の構造的問題だ。「女帝」とか形容されたりしているが、そもそも、日本で中国の皇帝のように偉そうにしてたら、大衆的支持などえられない。もちろん、支持などえられなくとも、代表制の間隙をうまく利用して泳いでいけば、現総理なように、四選か、ということも現実味をおびる。おそらく、天皇制とボナパルティズムには、親和性がある。みながいっしょくたになる翼賛会的体制の現実化とは、ボナパルティズム+α=天皇制(「未完のファシズム」片山杜秀)ということだろう。理論的に、私はその結びつきをうまくいえないが、女系天皇、女性総理、という現実的な文脈のなかで、構造反復を異化していくような、特殊な差異が、時間的新しさがみえてくるのかもしれない。が、そうであるにせよ、それは、ガラパコス諸島での進化みたいなもので、内輪の議論にしかならない。三流国になっていく実際のなかで、そこに住む当事者としては切迫な問題だとしても、世界でどうやっていくのか、という文脈からは切れてしまっているだろう。情けない日本から脱出、移民、亡命だ、とか想像してみると、世界では、中国人と日本人の区別などついていない。コロナ下でも黄禍論がみえてきたわけだ。自分が世界帝国の中国人とあつかわれる三流国の日本人として、どうメンタル的にも現実的にも立て直していくか、の方が、理論上としても、世界に開かれた本当の切迫した問題になってくるのだろう。それとも、多和田葉子氏的に、すでに非存在となった日本を前提に、ユートピア言語のヴィジョンを見ていける希望的方向で、つきつめていったほうがいいのだろうか?

で、その世界情勢をなおおびやかしている新型コロナ・ウィルス。
また、東京を中心に陽性者増加していることに関し、東京発の変異ウィルスが拡大しはじめているのでは、といわれる新局面にさいし、以下、ふたつリンクをはる。

ひとつは、いま指摘した話のもの。
デモクラシータイムス「ワクチン神話を疑え!

もうひとつは、田中宇氏の論考。「新型コロナのウィルスは存在する?
このブログでも紹介した、「学びラウンジ」の考証。
*追記; 田中氏の考証を受けて、「学びラウンジ」の大橋氏も応答している。大橋氏の本意は、肺液から純粋な遺伝子情報をとってきたという非慣例的なやり口論文を根拠にしようとしていること事態に、国際的な陰謀が伺えるのだ、ということのようだ。

素人でも、玄人でも、断定的に考えることはできない。考えるだけでなく、じっさいの生活の場面ではなおさらだ。これでは、お盆に実家に帰ることもできなくなってくる。私としては、以前の野球バッターの心構えのたとえでいえば、(1)少なくとも、東アジア人には大したことない説4割、(2)今回、そう抗体検査した学者が、東京での新変異ウィルスをいいはじめたので、ここも危ないを3割、(3)世界的にも風邪みたいなもの2割、(4)無症状の若者も歳がいってから免疫異常がでてくるかもしれないエイズ等と遺伝子操作した人為的ウィルスで危険、ゆえに、対処はほぼどうしょもない説を1割、と頭を整理し、打席にたつ。この思考割合から状況をみて、女房から頼まれた千葉の実家への芝草刈り、や、植木手入れをふくめた群馬への帰省をどうするか、判断することになるだろう。旅行して息抜きもしたいが、女房の手術もあるので、コロナ用心もかねて、それは当分おあずけになるのか?

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