2015年5月16日土曜日

イスラム国の人質(6)――引用文章


イスラム国にまつわるたくさんの出版物のなかから、目ぼしいとおもったものをいくつか読んでみた。池内恵氏の著作が一番説得力があるかな、と思われたので、その著作からの引用をノートし、そこに関連すると思われる、最近出版の他著作の言葉を参照列記した。
次の<イスラム国の人質(7)>>で、そうした引用から考えられることを書いていこうとおもう。

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「アジア・アフリカ会議でネルーや周恩来と並んで脚光を浴び、スエズ運河を国有化し、それに続く英・仏・イスラエルの侵攻に立ち向かったナセルには、アメリカでもソ連でもなく、資本主義でも社会主義でもない第三の道を提示してくれるのではないか、という漠然とした期待が寄せられていた。「非同盟」「第三世界との連帯」こそ日本の取るべき道だと考えた知識人も多かった。…(略)…このようなナセルに投影されていた「夢」がその後のナセルの敗北と死によって失われたことは、アラブ世界に思想的な危機状況をもたらした。思想的危機は「分極化」という形で顕著に現れた。言説空間が、一方でラディカルな現体制批判から急進的なマルクス主義へ向かう流れに、他方で宗教信仰への回帰現象や、そこから動員力を汲み取るイスラム主義へと向かう流れに、激しく分裂したのである。「アラブ統一」や「民族社会主義」のもとに一体性を感じることができた時代は終わり、混迷と対立の時代が到来した。」(池内恵著『現代アラブの社会思想――終末論とイスラーム主義』 講談社現代新書)

「人民闘争を謳うイデオロギーがアラブ世界に希望を与え得た期間は短い。それは「人民勢力」とみなされた世界のさまざまな運動と盛衰をともにした。
 まず、パレスチナでの闘争が挫折したことが大きい。一九六七年を画期として独自の活動を始めたパレスチナ解放運動は各国の政権に封じ込められ、活動の場を転々と移すことになった。アラブ諸国もイスラエルも、「人民勢力」を封じ込めるという点では一致していた。アサド政権のシリアも、影響下にある組織が国外で人民闘争を行うことが国益に適う限り支援したものの、自国内から世界革命が始まることを許すはずもない。」(池内・同上)

「現在、このような「アラブ現実主義」が現実の各国の政治を方向づけていることを、どう評価すればよいのだろうか。「アラブ現実主義」は、現政権の安定を最重要視し、国益を最大限追い求める。それが結果的には生活環境の向上や国防・治安といった面での国民の利益に寄与する、と主張する。
 しかし、「アラブ現実主義」は、思想的分極化の根源にある精神的な空白を満たすには至っていない。そして、国民を支配するという局面では現実主義が標榜されるものの、国民が主体となって現実主義の観点から国政に参与する機会はほとんど与えられていない現状は、「アラブ現実主義」を国民から遊離したものにしている。」(池内・同上)
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「近代はさまざまな価値観を相対化してきた。これまで信じられてきたこの価値もあの価値も、どれも実は根拠薄弱であっていくらでも疑い得る、と。
 その果てにどうなったか? 近代はこれまで信じられてきた価値観に代わって、「生命ほど尊いものはない」という原理しか提出できなかった。この原理は正しい。しかし、それはあまりに「正しい」が故にだれも反論できない、そのような原理にすぎない。それは人を奮い立たせない。人を突き動かさない。そのため、国家や民族といった「伝統的」な価値への回帰が魅力をもつようになってしまった。
 だが、それだけではない。人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。なのに、世間で通用している原理にはそんな力はない。だから、突き動かされている人間をうらやましく思うようになる。たとえば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。人々は彼らを、恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。…(略)…だれもそのことを認めはしない。しかし心の底でそのような気持ちに気づいている。
 筆者の知る限りでは、この衝撃的な指摘をまともに受け止めた論者はいない。ジュパンチッチの本は二〇〇〇年に出ている。出版が一年遅れていたら、このままの記述では出版が許されなかったかもしれない。そう、二〇〇一年には例の「テロ事件」があったからだ。」(國分功一郎著『暇と退屈の倫理学 増補新版』 太田出版)

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「実際、その先に自分の死が待っていることを承知の上で死を恐れずにムハンマドの風刺画を掲載し続けた「シャリル・エブド」の人々がなしたのは確かに自殺の試みではあったが、彼らのその自殺は「何もまして美しい振舞い」と呼ぶに値するものとなったか。…(略)…もしフーコーが存命だったならば、彼の関心をより強く引いたのはむしろシェリフとサイードのクアシ兄弟そしてアメディ・クリバリによる自殺の試みのほうでありその失敗だったに違いない。死を覚悟して彼らが実行した行動は風刺雑誌の人々のそれと同様、自殺の試みだったと言えるが、彼らもまた失敗したと言わざるを得ない。ただしその失敗は「シャルリ・エブド」の人々が陥ったのと同種の失敗ではまるでない。そもそもクリバリとクアシ兄弟には「軽率さ」など微塵もない。事務所の場所を厳密に特定できていなかったということを除けば彼らは綿密に計画を立て、また、女性を二名殺害してしまったということを除けば自己制御を以って逸脱なく計画を実行した。事件は彼らの構想通りに実現した。その意味では彼らは自殺に成功した。しかしその成功が失敗でもある、少なくとも失敗と表裏一体のものとしてある。けっして裕福とは言えない環境で育った三人の若者(クアシ兄弟はとりわけ悲惨な境遇で育ったがクリバリもパリ郊外貧困地区の出身である)が、成功が失敗でしかあり得ないことの初めからわかっている「自由な実践」をそれでもなお字義通り「決死の覚悟で」実現しようとしたのであり、だからこそ彼らの振舞いには誰にとっても胸を打つ何かがあるのだ。」(廣瀬純著「我々はいったいどうしたら自殺できるのか。」『現代思想』3月臨時増刊号「シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃」所収)


「しかし全体としては、イスラーム主義過激派は行き詰まりに直面しているといえよう。現世を超越した宗教的理想を現世の政治秩序において実現しようとするところに、根本的なジレンマがある。権力を掌握した組織もそうでないものも、理想社会の現実形態をまだ示し得ていない。
 ウサマ・ビン・ラーディンの一派に代表される国際的テロリズム組織の台頭は、イスラーム世界の各国内におけるイスラーム主義の行き詰まりを背景としている。エジプトのジハード団やイスラーム集団、アルジェリアのイスラーム救国戦線といった組織の一部は、それぞれの国での闘争で劣勢に立たされ、アフガニスタンやパキスタンを経由してイギリス・オランダや北米に居を移している。これをイスラーム世界の中でも特に強い宗教意識を持つサウジアラビア人の財力が側面から支援する。異教徒であるアメリカ人の支配する国際秩序を拒絶しその破壊を図ることに、イスラーム主義過激派は新たな使命と存在意義を見出そうとしている。」(池内恵著『アラブ政治の今を読む』 中央公論社)


「また、イスラーム主義過激派の信仰に基づいた行動は、極めて大きな犠牲を許容しうる。実行部隊の個々人どころか組織全体が殲滅されることすら、宗教的な観点からは失敗を意味しないからである。神がみずからに絶対の真理を告げたと信じる立場からは、必ず別の者が後に続くと信じられる。状況を変え、後続の者を触発するためであれば、組織全体の消滅すら選択肢に入ってくる。…(略)…これが例えば共産ゲリラであれば、報復によって組織が一網打尽にされてしまうことが予想されるような行動は取り得ないだろう。あくまで闘争を勝ち抜いて現体制を転覆した後にみずからの手で政権を握ってこそ、目的が達せられると考えるからだ。世間の関心を引くために時に自殺的な作戦を遂行することがあっても、組織そのものの消滅は許容し得ない。一方、民主主義であるアメリカの許容しうる犠牲はいうまでもなく少ない。
 このような極端な「非対称性」により、「戦争」は制御不能に陥りかねない。従来の最低限の「戦争のルール」が無効になるだけでなく、戦場において互いの指揮官が交わすコミュニケーションが不全になることから、予想外のエスカレーションが進み得る。」(池内『アラブ政治…』)
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「一月七日にかけてパリで起きた惨劇から「イラクとシャームのイスラーム国」による日本人人質二名の殺害にいたる事態の展開を前にして、いくつもの歴史的、地政学的コンテクストが衝突し、急速に化学変化を起こし、ドラスティックな融合の段階に入ったのではないかという思いを禁じえない。この渦中にいる誰もが自分が何をしているのか分からない、そんな状況が生まれつつあるのではないか。ちょうど一世紀前、第一次世界大戦の渦中にいた人々が、政治家、軍人、民間人の別なく、何のための戦争なのか、自分たちが何をしているのか、もはや不明の暗闇のなかで戦っていたように。」(鵜飼哲著「一月七日以前」『現代思想』3月臨時増刊「シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃」所収)
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「……本源的生産要素の商品化の限界は、単純な物理的限界ではなく、歴史性・地理性を帯びている。言い換えれば、労働の背後にある人間の定義、土地の背後にある自然の定義、貨幣の背後にある聖性の定義のいずれもが歴史的・社会的に構築されている社会――「大転換」において市場は、その網の目にともかくも接合されなければならないわけであるが――の底は抜けてしまうことがありうるということこそ、私たちは恐れるべきなのである。」「近代に入り近世帝国が解体するとともに、人間、自然、聖性の定義がゆらぎ始め、その流動化は現在、臨界点に達しつつある。それが世界の<帝国>化の条件を構成しているということだ。」(山下範久著『現代帝国論 人類史の中のグローバリゼーション』 日本放送出版会)


「アラブ諸国の問題の根源は、単なる経済発展の後れというよりは、社会システムのあり方や、その改善に欠かせない良好なガヴァナンスの不在といった問題に関わっているという指摘である。この報告書は具体的に、「人権と政治参加などの自由」が制限され、その中でも特に「女性の権利獲得と社会参加」に立ち遅れていること、そして「教育と研究活動の不活発と不全」が著しく、「知」を獲得して利用する条件の整備において不備を抱えている、といった点を、アラブ諸国が人間開発の観点から低位にランクされている原因として特定している。この報告書の作成はUNDPアラブ地域局に参集したアラブ知識人によってなされたものであり、内部からの改革に向けた貴重な試みとして注目すべきだろう。…(略)…経済的には「中進国」の位置を占めるアラブ諸国の問題は、今現在「食べられない」ということではなく、生まれ育った社会において将来に希望を描けない状況にあるのではないだろうか。逆に、現在はより低い所得水準に置かれた国であっても、将来の発展を思い描くことさえできれば、はるかに心やすらかに暮らすことができるだろう。アラブ世界の問題とは、社会システムの硬直化に悩み、将来の凋落を予期する下位の中進国が抱える問題ということになるのではないだろうか。」(池内・同上)
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西谷  …私と二〇年来の付き合いがある知識人にフェティ・ベンスラマがいます。彼は「イスラームとは自分にとってお茶を飲むようなものだ」とかねてから言っていました。人々の生活習慣の基本的なベースとしてイスラームがあり、そのベースを捨てることはできない。それはある教義を選択し信じているというのとは違います。その彼は、今回の事件を受けて、イスラームがグローバル化する世界のなかで、人権や表現の自由といった価値観と連動するようにいかに改革しうるかを、イスラーム世界の宗教指導者に対して問うています。古いテクストに固執するのではなく、そのテクストを今の世界に適合的に解釈していく努力の必要性を語っています。イスラームの名のもとでテロが行われていることは、イスラーム社会の責任でもあるということです。これは西洋化を求めているのではなく、イスラーム内部に自己改革の可能性を見出そうという視点です。」(西谷修×栗田禎子「罠はどこに仕掛けられたか」『現代思想』前掲書)


「単純に、近年の社会意識や思想史の進展の中で、アラブ世界がテロリストを輩出してしまっていること、イスラーム教の教義の特定の解釈の進展によって、テロを助長し正当化する形の理論が形成されていること、それがアラブ世界において一定の信奉者を持ち、それを黙認する一定の人口が存在し、表立って反論できない世論が形成されているという事実を指摘しているだけである。アラブ世界に固有の理念やイデオロギーの展開がいかにしてテロを正当化するに至ったか、それを理解し克服することが、すなわちテロの「種」をなくすための作業である。…(略)…貧困がテロと関係があるとすれば、それは、できてしまった「種」を育てる「苗床」を提供したことにある。アル=カーイダに拠点を提供したアフガニスタンやソマリアは、まさに貧困が蔓延している地域である。…(略)…そしてテロが花を咲かせる「畑」とは、グローバル化した世界全域にほかならない。国際テロリズムはグローバル化に反対するどころか、グローバル化に乗じて資金を活用し、グローバル化によって提供される情報伝達や移動の手段を縦横に駆使してテロを実行する。アル=カーイダのような司令部のレベルでも、末端の実行犯のレベルでも、グローバル化に反対するなどという思想の形成やその表明はなされていない。何よりも重視されているのは、宗教的な規範理念に基づいた価値的・軍事的優位性の回復の希求であり、欧米や日本の反グローバル化論者がみずからの願望を投影して期待するような問題意識をそこに見出すことは困難である。」(池内・同上)

「戦闘員らは、金銭的な代償よりも、崇高なジハードの目的のために一身を犠牲にするつもりで、あるいはそのような高次の目的に関与することに魅力を感じて渡航している、という基本を押さえておく必要がある。少なくとも主観の上では、傭兵ではなく志願兵に近い。志願する目的の普遍的価値や手段の妥当性が、他者から見て承認し得ないものだとしても。そのような個々人の主観や個々人を包む集団の共同主観が前提にあることを認識しなければ、「イスラーム国」のような現象が生じてくる原因を探り、その解消のための適切な方策を考えることはできない。」(池内恵著『イスラーム国の衝撃』 文春新書)

2015年4月11日土曜日

少年サッカーの少子化問題

明日から、全日本少年サッカー大会の地区予選がはじまる。本年度から、サッカー協会の指導により、トーナメント方式から、リーグ戦方式にかわる。その趣旨は、できるだけ多くの子どもたちに試合経験をもたせることと、一試合ごとの内容を受けた修正意識(フィードバック)をもって、一発勝負の発想ではなく、持続的な戦いの考え方を育てていく、というもののようだ。この趣旨には私も賛成だ。日本サッカー協会の人たちは、サッカーの分野での世界標準ということだけを視野に、その理念の実現に一歩でも近づこうと制度変更を考えたのかもしれない。が、もっと大きく、文化的な視野で考えてみても、島国日本では、サッカーに伺えるその大陸的な論理、他者と陸続きに接した世界での付き合い方を、子供のときから教え意識づけてやる必要があるとおもう。

日本では、人生自体が一発勝負的、トーナメント方式だろう。受験に失敗したら、もうそれだけで人生は暗く失敗したようなプレッシャーを暗黙に、つまりは習慣的に受ける。この発想の最たるものが、特攻隊という作戦だろう。死ぬまで戦え、生きて俘虜のはずかしめを受けず、とかなんとか。いまの子供たちも、戦争になったらそれが当たり前、とおもっているかもしれない。が、ヨーロッパでの戦争倫理はそうではないそうだ。まずは死ぬことを前提とした作戦は、軍事プロのたてるものではない、と拒否される。たとえ少なくとも、確率的に生き伸びる道筋を示していなかったら、それは作戦ではないと。また一般の兵士も、まわりの仲間たちの70%が死んでしまったならば、戦いを放棄して投降していい。それが、慣習的であったと。むろん、捕虜への待遇も、国際法的に明記されている。(註*)

そこで子供たちに、「あなた(がた)は、どちらの社会に住みたいですか?」「中学の受験に失敗して、それで君たちの人生は終わりになりますか? 日本は戦争に負けることで、それで終わってしまいましたか? どちらの社会が本当のようにおもいますか?」

といっても、少年サッカーのリーグ戦への変更問題、私は当初、ただそれをJリーグにならって文字通り実行に移すのなら、逆にリーグ戦への趣旨に逆行してしまうのではないか、と危惧していた。私の所属するチームの第七ブロック(新宿・渋谷・目黒・文京・千代田地区)では、約40チームを実力差から三つにわけたのだが(J1からJ3のように)、強いチームは強い者同士で戦い続けることを強いられるので、コーチは負けられないと固定的な先発メンバーを使い続ける傾向がつよまるのでないか、と。しかし最近とどいた予定表をみると、ちょっと複雑なアイデアでその矛盾が揚棄されている。最終的には実力的にA・B・C・Dと4つに分けたリーグ戦のあとで、シード権をもつA1位とB、C・Dの各最下位チームのミニ・トーナメント方式をいれ、そこでの優勝者がまた優勝者どうしの決勝リーグ戦をおこうなうというのだ。都大会代表を決める決勝リーグは、結局はAリーグに選ばれたチーム同志がまた戦うことになるのではないか、という矛盾点も発生するが、上のアイデアだと、コーチはもっと余裕をもって選手起用、チーム作りをできるだろう。「こりゃ東大出の官僚あがりが考えた答案みたいだな。」そうおもいながらも、私は感心した。

が、今度は、そのコーチ体制が問題なのだった。ベンチには、最低3名のコーチが入らなければならず、しかも、サッカー協会が開催するコーチのライセンスを取得したものでなければならない、というのが、3年後くらいを目途にした方針だというのである。私も急きょ、先月、D級のコーチライセンスというのを、チームから2万円ばかりの受講料を払ってもらって取得した。サッカーは各学年別に大会があり、それも重なる時があるのだから、そんなコーチ数を抱えこむことができるチームには限りがある。緊急パパコーチというチームも多いだろう。私が所属するチームでも、今大会をめぐって、子供の人数が増えたので、今回は他チームとの合併でのぞむのではなく、自チームのみで参加しようと意欲していたのに、コーチが、大人の数が足りない! しかも3年後には、みながライセンスを取得していなくてはならない……。おそらく、この協会側の趣旨は、子供へのモンスターペアレント(パパ)の排除と、日本代表へとつなぐ、育成方針の統一化、ということだろう。D級講義でも、どのチームの指導もベクトルをできるだけ同じくすることで、成長の伸びしろをあげていく、と算数的な図が提示されていた。当初、大人が三名ベンチにはいるとは、負傷した子供の対応ということだったが、それがそのまま、指導員ということに拡大されている。これから、子供の数は少なくなる。一緒に参加してくるパパコーチも少なくなってくるだろう。私の所属チームも、もう数年したら、自分の息子・娘がいないパパコーチだけになってき、子供のメンバー自体が試合成立にたりなくなってくるので、合併するのか、続けるのか、考えておく段階に入っている。

自分の息子も少年チームを卒業し、各チーム自体が少子化になる。それでも、サッカー・チームを続ける意味とはなんだろうか? そのすそ野において、維持しようというモチベーションは、なんだろうか?

もちろん、第一は、サッカーが好きだ、楽しい、サッカーをやってきたもの、みてきたものの情熱だろう。それで、ここまでになってきたのだ。こんどのハリル・ジャパンが、ロシア・ワールドカップへむけて、図らずもな期待感を抱かせているが、将来的な体制は厳しいのは目に見えている。底上げ、追い上げ激しいアジアでもそうは勝てなくなり、そうなれば、サッカーに興味を抱く子供たちの数も減るだろう。ならば、好き嫌いという趣味的判断だけではなく、それが必要なのかどうか、在ることにどんな意義があるのか、サッカーをする意味は何か、と論理的に詰めて判断準備しておく必要がでてくる。それは、サッカーを知らない、無関心な他者(たち)を説得する準備であり、他者(たち)と共存することを受け入れた倫理の前提だろうし、そのことこそ、サッカーを通して子供たちに伝えたいことのひとつ、論理力、論理ということの必要性、世界標準、ということではないか?

註*  しかし捕虜への待遇は、国家間での保障に集約されていったもので、ゲリラやテロリストには考慮されない。だから昨今の国家間とはえいない戦争においては、双方とも国際法的に慣習化されたルールを守らない。またそれに従って投降し捕虜になっても、むしろ殺されてしまうほうが慣例化されているかもしれない。もし本当にそうなったら、何が世界基準なのか、ルールなのか、子供にも教えられなくなるだろう。そしてそういうことが、本当に今の世界戦争のなかで起き始めているのかもしれないのである。もう少しその辺を意識化できたら、「イスラム国の人質(6)」と題して書いてみるかもしれない。

2015年3月21日土曜日

イスラム国の人質(5)――『相棒』最終回を読む、その構造と偏差

「相棒」撮影中……私もエキス
トラになっていた、木の上で。
 とはいえ、民芸的なものによる世界の安定というモリス的なビジョンもあまり信じられません。それは「ゼロ年代批評」の言葉にも置き換えれば、アニメやマンガがあれば鬱屈も溜まらない、テロは起きないというような話に聞こえます。実際にそういうことを言っているひともいる。…(略)…自分で作品を作って自分で消費して小さく楽しむ。それはそれでいいんだけど、それだけでは満足できない人間は絶対に出てくる。
 中沢 それはこの三人ともそうですよ。浅田さんもウィリアム・モリスといっているけど、あの生活が周りを覆ったらいやになるでしょう。
 浅田 実際は確かにその通りなんだけど、とりあえず今日の話の路線にこだわっておけば、「死の欲動」や「死に至る悦」の激発を避け、欲望をいかに迂回させ多様化させ長引かせるかという倒錯的な快の技法があるわけですよ。たとえばフーコーは、ラカンの言う「サドとカント」(絶対的な悪と絶対的な善の背中合わせ)のような「死の欲動」と「崇高」に近いところから出発しながら、古代ギリシアとアメリカ西海岸のゲイ・カルチャーを経由することで、そういう別種の「快」と「美」の、また別種の社会関係の発明に向かおうとしたんだと思いますよ。
  サディズムとマゾヒズムの問題はまさに美と崇高の問題ですね。最後に別の補助線を引くとすれば、やはりフロイトの「不気味なもの」に触れるべきだと思います。「不気味なもの」は美にも崇高にも近いものでありながら、そのどちらでもない。>(『新潮』2015.4 特別鼎談「浅田彰 中沢新一 東浩紀 現代思想の使命」)

テレビ朝日の『相棒』最終回というのを、息子の録画で昨夜みた。正義感気取りの傷害事件犯人「ダーク・ナイト」が、相棒の刑事だった、というストーリー。前半はいかにもなストーリーで、これまでの作品とは違い緊張感なくつまらんな、とおもっていたが、模倣犯の男が「俺が本物だ」と主張しはじめるその仕方が繰り返されるうちに、私は面白く感じ始めた。「張り子のトラもトラ」とかいう毛沢東の言葉や、ボードリヤールのシミュラークルとかいう概念が脳裏によぎりはじめる。そして、これはイスラム国のテロリズムを意識して書き換えられて出来上がっていったものなのではないかな、という気がした。

湯川氏や後藤氏に手を下した覆面男「聖戦士ジョン」は、モハメド・エムワジというイギリス人の男であるといわれている。田中宇氏のニュース解析によれば、もともとはテロとは無縁な人だったが、そう疑われてたびたび拘束されることに心境が硬化し、イスラム国へのメンバーに本当になってしまったようだと。しかも、イギリス当局等はその渡航を承知し、わざとテロリストに仕立てあげているのだと。彼(ら)がテロに関与し、計画し、その実行を防ぐも、敢えてやらせるのも、その時の都合次第なのだと。世界の支配体制側は、そうでもやって、自らに都合のいい状況を作ろうとしているのだと。……そうだとして、そうやって体制側にテロに仕立てられた(模倣させられた)モハメド・エムワジは、本当に、オリジナルな、真実の、「聖戦士ジョン」なのだろうか? 権力側が、自らの体制側の者を、杉下右京という正義・原理主義者の「相棒」にすることによって、彼を「ダーク・ナイト」に仕立て、その犯罪が行き過ぎたときに逮捕し、そのことによって、つまり右京の管理者責任を問うことによって、もはやお役目ごめんと警視庁から追い出す、そうしたカラクリのなかで、「ダーク・ナイト」は、「聖戦士ジョン」は、自発性というオリジンを抱え込んでいるといえるのか? 本当のテロリストといえるのか? しかし、偽物ともいえるのか? これは、核爆弾をもっていなくとも「持っている」と言い続ければ、「持っている」と同じ効果があるのだと考えた毛沢東の思想戦略ではないし、ボードリヤールの記号論的解釈にも余りあるだろう。本当は持っていない(偽物な)のだが、自らは知らないあいだに何ものかに(?)「持たされて」、本当に持ってしまった、テロリストになってしまった……というのが実情だとしたら、彼らの内面は、そう強固なものではなく、虚ろであろう。もちろん、これは個人の問題というだけではなく、たとえば、「持ってない」のに「持っている」とされて攻撃された旧イラクのフセイン体制や、そうなってはいかんと、いつのまにか「持って」しまっているだろう北朝鮮のような国家にも当てはまる事情かもしれない。そしてイスラム国は、アルカイダの後釜として、なお利用価値ありとテロを許されている、ということなのかもしれないのである。もちろん最後的に、体制側の意図した通りに結末するのかは怪しいが。――ともかく、個人の話にもどれば、「何ものか」によって「持たされた」と私が言う時、その何ものか、とは、大きくは権力や体制的な世の中、であるといっても、直接的には、たとえば「ダーク・ナイト」なら友人の死ということ、「聖戦士ジョン」なら移民であることによる日常的な軋轢等が色々あったかもしれない、その動機は、複雑でその人の謎、ということになるだろう。

しかし私が、今回の『相棒』を見てこのブログを書きとめておきたくなったのは、そんなストーリ転回から読み取れることではなく、11歳の息子がそのテレビを見たあとでいったこんな言葉に衝撃にも似ている違和感を覚えたからだ。「ママは人ぶんなぐったことある?」……おそらく、「ダーク・ナイト」の殴る蹴るの暴行(それは相手が死ぬまではやらないプロ的なやり口なのだが)、被害者の血まみれの顔、崩れ倒れた身体、そうしたものを見たからだろう。私も、これまでの『相棒』にはなかった、ずいぶんどぎつい映像の反復であり、カットであるな、と差異を感じていた。この差異の感得が、なおさらイスラム国での人質事件からの影響を連想させたのだが。……、つまり、テレビのストーリの中だけでなく、この本当の世界にも、子供にも、こうやって、まさに紛れもなく今の内側の構造が外へと折り広げられて、子供は、そのとき、テレビを超えた、外を感じ取る……子供の自分にはまだよくわからないが、なにか本当のものがあるらしいな、と。現代思想的にいえば、息子は、このテレビドラマから、「リアルなもの」に触れたのだ。もちろん、もし息子が、川崎国での18歳のテロ模倣や、人を殺すまえに学校で飼育していた山羊の首をカッターで切ってみたという少年たちのように、そんな事件を仕出かしたなら、それは構造的には模倣反復したにすぎない。テレビとうメディアの悪影響という話にしかならない。イスラム国のテロ映像自体が、ハリウッドの模倣、影響であり、後藤さんの映像も、テレビや映画の撮影のように、何度も撮り直しカットし、いい画像のものだけで編集したものだとは、そこからの脱走者が発言している。が、そこには、まずこれまでとの差異があるのだ。この最終回の『相棒』は、これまでとは違うのである。イスラム国の衝撃も、どこか違うところがあるからなのだ。その影響を受けて犯した動機のうちには、感性には、構造として制度・習慣化されてはいない、彼らがリアルなものに触れたときに発生しただろう「偏差」が孕まれてしまっているのだ。つまりその偽物(模倣)の内側には、つまりは内(テレビ)から拡張された外(偽物)となって現象した内(面)には、まだ我々には理解できない本当の「外」が懐胎されているのではないか、と。子供の発言の無邪気な抑揚は、不気味ですらある。もし、すでに寝床に入っていた私がそう質問されたなら、「あるよ、ママ」と、女房しかなぐったことがないと答えただろうか? 女房は、子供の質問に答えようもなくおどおどとはぐらかしていたが。

さて、冒頭引用の鼎談は、後藤さんがなお人質中になされたものであるらしい。私は、最近の、というか、NAM以降の浅田氏の言動をほぼ知らないので、氏が何を言うのかな、と興味を持ち、図書館で借りて読んだのだった。相変わらず「イロニック」な、斜に構えたようなスタンスだな、と感じたが、それも、あの9.11のテロ以降、構造的反復性しかないような、縮小再生産的な事態が展開していたといえるのだから、当然かな、ともいえる。ニューアカやその上の年代の日本インテリたちは、ソ連の崩壊時に露呈してきて見えてしまったものは、すでに発言指摘していたのだから、それが衆目にもはっきりしてきたからといって、興ざめるだけだろう。「とりあえず今日の話の路線にこだわっておけば」、と幾度なく自身のスタンスを表明するのではなく限定してみせる浅田氏の態度は、理性的ともいえるし、ずるいともいえる。「とりあえず」オタク(ウィリアム・モリス)でいいというのなら、それは飛行機オタクの美的追求をいったんは明瞭に肯定してみせる宮崎駿氏の『風立ちぬ』の立場を「とりあえず」認める、ということになろう。むろん浅田氏は、それだけではすまない、と知っているのだが、文脈上、ではどうするのか、したいのかは言わないのである。が、そうした振り分けは、頭の中だけでできるのであって、いま私が生きている実践では、混然とする。そこに、暗中模索、真の思考があると私は思うのだが、その混然さを提供できない、ということは、本当はその人が考えていないか、表明するのが怖いのだろう。端から何言われるかもわからんし。私の思想的立場ではなく、考える立場は、東氏に近いものである。

整理すれば、3.11は、なお目覚めていなかった日本大衆には衝撃だったとしても、それは世界を変化させようとした出来事ではなかった。(と原発事故も含めたその災害当初に、私は言っていた。)9.11は、表向きの冷戦構造化で隠されていた、より下部的に動力的な構造――それ自体はソ連の崩壊によって露呈してきた――が在る、という感触を周知にさせるきっかけだった。そしてその後、それが本当だ、世界を、というよりも、資本主義世界を動かしている、表向きの政治以上の、得たいの知れない怪物的な経済的構造があって、それが世界政治や社会の細部までをも振り回してるようだ、と衆目させる構造因的事象が反復された。しかしこの誰もが認めたがらなくてもいつの間にか認めるよう仕立てられてしまう模造的反復の最中で、ささいな、本当に個人心因的かもしれない偏差が導入されてしまったのだ。しかも、あちこちの亀裂として。現在のイスラム国の精神的指導者とされる者も、アルカイダのビン・ラディンのような自発的な首謀者というよりは、イラク戦争時に無暗にひっとらえられて受けた屈辱から、本当のテロリズムに転向していった者たちだとされる。彼(ら)は、仲間(友人)を想う気持ちから、いつのまにかそうなってしまったのかもしれない。杉下右京は、そんな「相棒」に「バカ!」と怒鳴る、叱りつける。しかし構造(体制)を突き破るまでの暴力を育んでしまったのは、この正義の激情=劇場なのだ。右京が管理責任を問われたように、20世紀世界を支配したアメリカ帝国とその追随者たちは、アルカイダやイスラム国のテロリストたちを育てた管理責任を問われるだろうか?

*実際、アルカイダ(杉下右京)は、過激に走る前イスラム国(相棒)をたしなめたので、そこから内ゲバ的な分裂が発生したのだとも言われている。

杉下右京は、「とりあえず」、去った。ということは? つまり、帰ってくるとしたら、その原理主義者の原理性は、どのように帰ってくるのか? そのとき、我々の知性は、その過去の回帰を、構造的に読み解く素材と知恵を持っているだろうか? 私は先のブログで、この混沌を生む偏差を「古代史」とたとえたのかもしれない。その古代の謎を、読み解けるだろうか? 息子の無邪気な言葉を、不気味さを超えて理解する認識作法を、心得ているだろうか? それがない、まだ持てていない、認識力がない、とは、混沌の苦しみをそのままで味わい尽くさねばならない、ということである。マルクスは言っていたはずだ、知性にできることは、生みの苦しみをやわらげることだけである、と。

私は今、自分の息子が、本当にはどのように生まれてくるのか、おびえはじめている。

2015年3月10日火曜日

イスラム国の人質(4)――「川崎国」での中学生惨殺事件に寄せて

「私は、国体なるものの本質とその戦後における展開の軌道を見通し得たと信じる。問題は、それを内側からわれわれが破壊することができるのか、それとも外的な力によって強制的に壊される羽目に陥るのか、というところに窮まる。前者に失敗すれば、後者の道が強制されることになるだろう。それがいかなる不幸を具体的に意味するのか、福島原発事故を経験することによって、少なくとも部分的にはわれわれは知った。してみれば、われわれは前者の道をとるほかない。その定義上絶対的に変化を拒むものである国体に手を付けることなど、到底不可能に思われるかもしれない。しかしながら、それは真に永久不変のものなどではない。というのも、すでに見たように、「永遠に変えられないもの」の歴史的起源は明らかにされているからである。それはとどのつまり、伊藤博文らによる発明品(無論それは高度に精密な機械である)であるにすぎない。三・一一以降のわれわれが、「各人が自らの命をかけても護るべきもの」を真に見出し、それを合理的な思考によって裏づけられた確信へと高めることをやり遂げるならば、あの怪物的機械は止まる。なぜならそれは、われわれの知的および倫理的な怠惰を燃料としているのだから。」(白井聡著『永続敗戦論』 太田出版)

中学1年の少年が犠牲となった、川崎市での事件は、私には衝撃だった。その子が、息子の一希のように思えたからだ。新聞に張り付けられたその笑顔写真とともに、誰からも好かれた人気者で、その感性は島根県の小島の村落自然のなかで、村人の爺さん・婆さんたちから可愛がられて育まれたものだろうとの記事を読んで。一希はむろん住んでいるのは東京の大都会の真っただ中だか、父親は雨天中止の植木職人で、かつての長屋アパートの隣人だった爺さん・婆さんに今でも可愛がられて、週に三度はそちらのお宅で夕食を食べてくる。そうして育った天真爛漫的な子が、都会の人間関係に傷ついてくる……そして、その原因を作ったのが、脱サラした父親なのだ。その子の父親は、漁師になろうと川崎から島根県の小島へと渡ったのだった。この第一歩の問題を、問題としてとらえて記事にする論考を私は知らないが、資本社会に雁字搦めにされて擦れてくる人間関係、無駄に廃れて疲労していく自分を刷新しようと、自然により近い農業を中心とした営みに転身していく人たちは他にもたくさんいただろう、そして特には、ある知的方面によって、その思想的意義を説いて推奨していなかっただろうか?

私は、この事件の最初の記事を読んで、まずは上のように、犠牲者の父親との関係のことを思ったのだった。それから、この事件の有様を新聞とうで追ううちに、自分が当初想像した以上の深刻さを湛えているのではないかと思うようになった。ゲームセンターで知り合った不良グループが、イスラム国をまねて「川崎国」と自称していたこと、東南アジア系の移民の子が多かったので、「ハーフ軍団」と呼ばれていたこと、その殺し方も、カッターナイフで首を斬首する気配があったこと……しかし私に書く衝動を引き起こしたのは、これらなお真偽定かではない社会学的表象ではない。私はふと、首を切られた上村少年が、そうなると知っていたがゆえに、むしろ自ら殺されに出向いたのではないか、と気づいたからだ。

彼は、同じ中学へ通ういわゆる「普通」の少年たちとも仲がよかった。事件の引き金は、この普通の仲間たちが、おそらくは勇気をだして、殺人にいたってしまうことになる不良グループのリーダーの家へ、友をいじめるな、と抗議しにいったことだとされる。不良グループとはちがう他のコミュニケーションツール(ライン)に入って「ちくって」いたことを知った18歳のリーダーは、そこで制裁を考えるようになったようだ。上村少年は、「殺されるかも」ともらしていたそうである。しかしにもかかわらず、なんで、逃げなかったのだろう? 自分を応援してくれる「普通」の友人たちに付き合いを限定していく、そういう振る舞いや駆引きはできなかったのだろうか? 事態が深刻になる以前に、どうして一方と手を切り、普通にならなかったのだろうか? 私はそこで、彼の自然な感性をおもったのだ。彼が、相反する二つのグループとの交流をつづけたのは、「平和」を願ったからではないだろうか? なんで、同じ人間なのに、お互いが反目しあうのか? なんで、あっちの人が好きで、こっちが嫌いと分かれるのか? 人種や、自分のような貧乏で片親のような境遇がそれを生むのだろうか? 僕は、みんなと仲良くしたい。それは、できないのだろうか?

私のそのような想像は、当然のように、後藤さんの姿を呼び起した。少年の父は、後藤さんのように脱サラして、真の人間関係を求めた。その子も、偽りのない、区別のない平和な関係を求めて、覚悟して、自分を殺すかもしれないグループの所へと出向いたのだ。……

一希は、どうなるだろう? 区の代表サッカーチームに入った息子は、その新しい人間関係を、悩みながら構築しはじめている。その素材のなかには、自分の自然的な感性とすでに都会ずれしている者たちとの思考の違い、アパートに住んでいるか持ち家か、父親の職業や収入、どれくらいDSをもっているか、携帯電話は?……とう、いろいろ混入してくる。その混在のなかで、お笑いスタンスでごまかし、道化的な立場をとっているようだ。むろんこのポジションは、上村くんのように、トリックスターの位置、どっちつかずのイエス的両義性、ゆえにいかがわしいと生贄の子羊にされやすい構造化にある。
そして2年後、3・11の地震でヒビの入った11階だての築40年以上はなるこの団地は、団地住民の町会上は、建て替えが決まって、立ち退きをせまられることになる。実の祖父・祖母だけでなく、昵懇の爺・婆も、もう亡くなるかもしれない。サラリーマンよりずっと両親と同じ部屋にいることが多かった息子、それゆえに、人間的感情の豊かさとその起伏も人より大きく育った一希は、自分の願望を、自然的な感性を、どのように折り畳んで成長していくだろうか?

イスラム国の人質(3)で、10年前騒がれた「自己責任」風潮とはちがう、それを変えていかせようとするイデイロオギー的転換が権力側によって企まれているのではないか、と私は推論したが、それを冒頭引用した白井氏が自身のブログでより正鵠に分析記述してくれている。とはいえ、私は、氏が分析する戦後の「国体」の有様については賛同できるが、それが明治政府によって意図どおり創作されたものとすること、またその近代的起源から、個人の「命をかけても護るべきもの」への発見へと至る論理には、なお疑問である。後藤さんや上村くんは、「命をかけて」願ったのかもしれない。が、その個人の平和希求と、国体的な位相は、論理文脈としてつながらないとおもうからだ。実践的には、国家には、やはりそれに準ずる集団的なものでなければ、論理としても、対置できないとおもう。出自がちがうのだ。つまり、伊藤博文を中心とした明治インテリの創作で、国体が成ったのだとは、私は考えない。

2015年3月2日月曜日

宮崎駿『風立ちぬ』を録画鑑賞――日本技術史の反復と転向(引退)


テレビで初放映されたジブリのアニメ映画、『風立ちぬ』を、昨日ようやく録画でみた。息子の一希は、5分でみるのをやめてしまったようだったのだが、それがなぜなのか、自身でみて合点した。とても小学生の子供には難しいだろう、と。中学生くらいならば、そのロマンチックな一主題に感応して見られるかもしれない。そしてネットでちょこっと映画の感想を検索してみるかぎりは、その範疇でのものがほとんどのようである。私が読んだ感想で「なるほどそうだな」と感心させられた推論は、飛行機の実験に失敗した主人公が、軽井沢と思しきホテルでであうカストルプというトーマス・マンの『魔の山』の主人公と同名の男は、「ゾルゲ」だったろう、というものだ。そしてその指摘は、私の感想、この作品はあきらかに、3.11の地震と原発事故に追いやられて構想させられている、という感じを後押しした。主題的に言えば、自然と、それを主体的に制御すべく人間の技術への姿勢、思想的考察や立場への葛藤、ということだ。そしておそらく、作者の宮崎氏は、図らずも、まさに映画中の時代にしてあったこの問題を、3.11によって受動的に、パッシブに動かされることにより、反復してしまった、またそれゆえの自覚により、引退という結論に至ってしまったのではないか? いわば、日本思想史上にみられた科学・技術者の転向という現実を、自身の内的論理として繰り返し犯してしまった、という責め苦?

日本の科学・技術の思想面を担う人物群が、ノーベル賞をとった湯川秀樹の弟子たちで、彼らがマルクス主義、左翼思想に傾倒していった者たちだったという指摘は、たとえば、最近のネット上では、副島隆彦氏の学問道場でも取り上げられている。が、より緻密にその思想史を考察している著作とは、スガ秀実氏の『反原発の思想史』である。
ジブリの『風立ちぬ』に関わるだろう部分を、物語仕立てになるよう引用列記してみる。

=====以下引用(すが秀実著「武谷三男の技術論と新左翼」『反原発の思想史』 筑摩選書)

「一種の科学主義に基盤を置く社会党・共産党はもとより、社共を批判して登場した日本の新左翼の理論にも、原子力の平和利用といったパラダイムをこえられない限界が、当初からあった。それは、初期新左翼の理論が、先行する戦後主体性論/技術論の摂取という問題系から出発したことに規定されている。」

「新左翼の創設にもっとも影響を与えた理論家の一人であり、革マル派の最高指導者となった黒田寛一の、きわめて晦渋な最初期の代表作『ヘーゲルとマルクス』(一九五二年)は、「技術論と史的唯物論・序説」と副題されているとおり、武谷三男の「技術論」と、特異な主体的マルクス主義者として知られる梯明秀の「物質哲学」との「統一的把握」を問題としたものである。」「『ヘーゲルとマルクス』には、「本書を/戦争の犠牲者たちに/そして いま/ふたたび 戦争を 肯んじない人たちに/――捧ぐ」というエピグラフが掲げられ、本文には、武谷三男の戦時下を推察してであろうか、「『戦力増強』のための生産活動や殺人兵器の研究に対する、良心的な技術者や科学者の『苦悩』」についても、言及されている。」

「意識的適用説は、戦時下の武谷が逮捕、取り調べされた時の「特高調書」に記されており、敗戦直後発表された「技術論」では、先に引用したその定義も含め、調書それ自体が引用されている。このことは、戦中後を一貫する武谷の戦時下抵抗の輝かしいあかしとして、戦後の出発を飾った。
 しかし、中村静治が、武谷の批判対象であった戸坂潤や、武谷の協働者であった内田義彦(経済学者)を引用して指摘するように、それは、「戦時下の技術者運動とのつながりにおいて、さらには所与の生産手段の有効利用という『生産工学』的観点から発想されたもの」(『新版技術論争史』)ではなかったか。そこでは、「主体的」に生産力増強にコミットすることが技術の本質であると言われ、そのことは、総力戦体制に適合するものだった。
 武谷の意識的適用説は、その「転向」の完成だったのである。そして、その転向の論理が、そのまま「戦後主体性論」として、無傷のまま流通していった。言うまでもなく、これは、他の戦時下マルクス主義者において、繰り返し起こったことでもあり、近年の研究でも多くの指摘がある。
 すでに公害問題が大きくクローズアップされ、科学者の反原発論も顕在化していた一九七一年、武谷の忠実な後継者・星野芳郎は「戦後日本思想体系」の一冊として『科学技術の思想』(筑摩書房)を編んだ。星野は、その本と同名の巻頭論文で、公害や労災を克服しうるのは「高度の技術」を必要とするが、資本主義はそのことを阻んでいる、反公害闘争や反労災の闘いこそが「技術発展を促進する」と述べていた。つまり、反核・反原発闘争こそが、原子力の平和利用を促進するというわけである。」

=====引用終わり=====

宮崎氏の『風立ちぬ』が、いわゆる左翼思想に共鳴していることは、いわばソルゲと思しき人物の登場と、おそらくは彼との接触により、主人公二郎が特高から追われてしまう、という設定から推察できる。ただそのセッティングだけでは、むろん、その思想へどんな関係をもっているのかまではわからない。が、二郎は技術者であって、戦闘機を作る設計者である。すでに原子爆弾の開発に携わっていた上記引用の武谷氏でさえ、特高に捕まるぐらいなのだ。映画の主人公が、自身が実際に行っている仕事に、どうも「良心的な技術者や科学者の『苦悩』」を感じていないらしい、としても、それは彼が捕まらなかったから、という物語的な理由ではすまされない。そういう現実・歴史を、日本人が抱え込んできているのだから。宮崎氏は、映画を作るための資料読みで、そんな技術者のこと、技術史のことは知っていたはずである。が、にもかかわらず、少なくとも映画物語の表向きでは、二郎は葛藤しない、というか、作者は頑固にもさせない。主人公二郎は、どこか歴史から超然としている。そしてこの感じ、スタンスは、恋人の菜穂子との関係でもそうである。ネットの感想でも、彼は実は残酷ではないか、というのが多いのもうなずける。「美しいところだけ」をみて、その背後には感知しない。が、本当だろうか? 彼は、純粋に、自身の天命に、夢にまい進しているのだろうか? そうではない、ということが、タバコを吸う、というシーンの反復と、その意味を開陳する恋人同士、その時は夫婦になった二人の最後のシーンではっきりするのだ。

この「タバコ」問題も、日本の医学界をも巻き込んで賛否の議論が発生した。一方は、体に毒なシーンが多いといい、一方は、これは一時代の風景にすぎす、余分な意味をもたせるな、みたいなことをいう。が、このタバコを吸うシーンが反復されること自体が、単なる風景ではなく、意味を持たされていることをしめしている。結核で寝込む妻の隣でタバコを吸っていいか、と夫は尋ね、妻は肯定する。むろんそれは、害があっても肯定する、ということだ。そうやって、二郎は菜穂子を捨てて、ではなく、受動的に捨てられて、仕事に成功していくのである。菜穂子が自ら立ち去っていったのが、可憐であるのか、男のもとに押し掛けたと同様強気なものであるのか、明白ではない。明白なのは、夫の二郎のスタンスが、実はイロニックであるということだ。害があると知っているのに、「美しいところ」だけをみて、それへの対処は頭にはまわらない、というよりも、頑固にものぼらせまいとしているからである。これは、「眠れる美女」だけをめでてみせる川端康成に代表されるような日本浪漫派的なイロニーであって、現代ならば、村上春樹であろう。菜穂子とは、左翼時代を描いていた『ノルウェーの森』の「直子」かもしれない。ともに、その時代を、「風景」としてだけ伺えるように描きながら、その実、裏にある現実や歴史をほのめかしている。いわば、無知の知、ソクラテスのイロニーを装うのだ。戦時中の技術者の歴史・現実を素材にしながらも、ロマンが主題であるかのようにみさせているのも、そのイロニックな手法である。単純に、タバコとは戦争にも連なるような科学や技術のことである。しかしそこに、敢えて、快に通じる美しいものしかみようとしない。作者は、むろんその背後にある毒や害を知っているのである。飛行実験が成功したとき、サナトリウムに帰った菜穂子は、抑圧された者のように回帰し、二郎の幻覚として迫る。この突然の強迫観念の生起こそが、彼が意識的に苦悩を生きていたのではなくて、無意識にそれを追いやっていたことを証しているのだ。そしてそのとき、菜穂子は、あなたは生きて、と言ってくる。あなたは、とは、もはや二郎のことではないだろう。より一般的な問題提起として、科学者・技術者のことになるはずである。主人公二郎の意識を超えて、彼の無意識にこそ当時の現実にもまれた科学・技術者の苦悩が露呈してくるのだから。あるいは、もっといって、その苦悩とは、当時の科学技術の進展の最中でそれを使用して生きざるを得ない、我々自身のはずである。そんなわれわれに、菜穂子は言ってくれるのだ、毒や害のことにもまけず、死んだ私のことなどかまわないで、そのまま生きよ、突っ走れ! と。となると、これはもう、吉本隆明ではないか

そう。宮崎駿氏もまた、その世代に特徴づけられる思想的立場を感受し、創作していたのではないか? ならば、「生きよ」とメッセージのあった『もののけ姫』だったか、のその意味は、この氏の最後の作品からみれば、その意味はだいぶ変わってくるはずである。当時のそれは、いじめられて自殺してしまう少年・少女たちへのエールと読まれていたが……。今回、この映画のキャッチコピーは、「生きねば」、というものだそうである。たしかに、われわれは、放射能にまみれながらも、タバコの害を分煙として区画排除しながらも、生きねばならない。が、この生は、単なる現状肯定(平和利用)とどこがちがうのか? 氏は、当初、この『風立ちぬ』の企画を持ち込まれたとき、「子供」むけのものではない、と拒否していたという。しかし逆に、いわばこの現実を受け入れる、妥協する大人の、生活者の生の視点に焦点をあててみれば、ニーチェ的に過剰な生を礼賛・肯定するかにみえた、『もののけ姫』的な「生」は、むしろ自殺をも肯定して現状を超越していかせる志向こそが本位なのだから、実はまやかし的な期待にすぎなかったのではないか、とおもわれてくる。子ども当事者の苦悩をそのままで肯定するのではなく、あくまで大人的に、もっと生きてみればそれが、当時のことなどたいしたことなどないと気付くものなのだ、と諭していくものとしての「生」、レトリックとしての「生」である。むろんその在り方は、イデオロギー的な欺瞞である。それで、子供の、(当時の、当事者の)苦悩が解決されるわけがない。ただ、言葉である。解決する技術ではないのだ。

しかしおそらく、宮崎氏は、それが欺瞞であると気づいているのだ、暗黙に。この映画を、引退作品として提示するまでになったのは、3.11でひきずりだされた自分の在り方に、その欺瞞的な在り方に、図らずも直面してしまったからなのではないか? 原発に反対、憲法改正に反対しても、その言葉を生み出している深みには、それ(技術と戦争)をそのままでむしろまい進させていかせてしまう論理が、思想がある。その自身が陥っている論理の帰結を、夢として美的に肯定提示することですまされるのか? 飛行機の、原子力の、技術の美しさに魅せられるのは、私の趣味でしかないのか? 人間の問題なのか? 主人公二郎は葛藤しなくても、やはり、宮崎氏には葛藤があることを、「引退」という決断が示してはいないか?

*ジブリの『風立ちぬ』の公式HPでは、二郎が葛藤し、ズタズタに引き裂かれている、と宮崎本人は言っているのだが、私はネット検索で多くみられた鑑賞者と同様、一度みたかぎりでは、そう描写されているようにはみえない。ただ作者自身が引き裂かれているということではないのか、と作品からは読めてくるのである。しかし、作者は、スガ氏が指摘したような技術者の思想的反復、現在の転向問題に連なるような、つまりは毒があってもそれを吸う、放射能があってもそれを開発していかなくてはならない、とするその発想自体の問題・論理性には葛藤を覚えていないようである。だから私は、「図らずも」、この問題群に触れて、「図らずも」、引退=転向してしまった、というのである。また、この作品が3.11と通称される東北大震災の影響のもとにあるとするのは、作中当時の、関東大震災での地震が、津波のように波立つ大地、として描写されていることに端的に示されているとおもうが、その物語から逸脱した突然のカットは、圧巻である。

*飛行機がよくて、原発はだめだ、というのは欺瞞ではないか、という見方の真偽性は、次のような指摘を考慮すればだいぶ納得がいかないだろうか? 化石燃料によるCO2の濃度上昇が地球温暖化を招いているというのが真実であるならば、むろん、重油で飛ぶ飛行機のほうが、原発ゴミの放射性物質拡散の危機という「ただちに害はない」時間軸においてではなく、ずっと近い将来の地球破壊・破滅に寄与している第一の技術産業、しかも、地球を保護している大気の間近に害をまき散らしているという事実。しかし誰も、だからといって航空産業を問題視しない。おそらくは、原子力村よりもずっと世俗的な利害が大きいからだろう。CO2による温暖化説がまやかしだという槌田敦氏は、ゆえに、飛行機も、原発にも反対なようである。

私は、ジブリの映画は一通りはみているが、なにか感性的に好きになれないところがある。やはり趣味的に、村上春樹氏の読後感に似ているように思えるのだ。『風立ちぬ』の冒頭、空にすわれし少年が、夏の積乱雲の向こうから、大きな飛行物体が姿をみせてくる幻覚をみる……そのシーンはいいのだが、あの飛行物体の形、そこでの感性がフィットしない。私は、もっとメタリックなものがいいのかもしれない。が、主人公や飛行機が飛んでる感じ、疾走する感触、空中を浮遊する感じはいい。私もよく、そんな夢をみる。その夢での感じが表現できているのがすごい。が、フロイトによれば、それはマスタベーションの感じであり、ナルシストということなんだそうだ。

2015年2月18日水曜日

イスラム国の人質(3)


「まず、理屈だけからいえば、現状でも日本が「テロリスト掃討作戦」に参加することは、「憲法違反」とならない場合がありえます。憲法第九条が禁じているのは「国または国に準ずる組織」への武力行使であり、「国際紛争の解決の手段」としての武力行使です。テロリストは「国または国に準ずる組織」ではありませんし、テロリストとの戦いは「国際紛争」とは別物です。したがって、憲法がこれを禁じているわけではない、ということになります。…(略)…
 仮に日本人がテロの被害に遭ったとして、「許せない。報復せよ。相手を殺せ」とはなかなかならないのではないでしょうか。現に、9.11テロの際にも二五名の日本人の犠牲者がありましたが、この時にそのような声は国内からはほとんど上がりませんでした。」(石破茂著『日本人のための「集団的自衛権」入門』 新潮新書)

たしかに石破氏が言うように、「許せない。報復せよ。相手を殺せ」とはなかなかならない、のが日本人の集団的な心性であるかもしれない。がゆえにこそ、安倍総理が「許せない。その罪を償わせてやる」と売られた喧嘩を買うように主張したときには、日本人の心からは乖離したぞっとするような違和感を、多くの日本人が抱いたかもしれない。が同時に、たとえば自分の子どもや肉親が殺された親が、その犯人へ「死刑」という復讐を望むのも一般的なようである。ならば、一見忍耐強い日本人の集団的心性というものが、その実は、本心を隠したものであるか、他人のことには無関心でいたいという、消極的な対応表現でしかないのかもしれない。身内の事件でなくてよかった、あとは我関せずでいこう、が大勢であれば、「報復」してやりたい個人の気持ちは孤立する、だからこそ、その一般的ではあるがバラバラなままの気持ちを集約していくためにも、総理大臣の強気な発言が人為的に必要となってくる、という構造というか成り行きなのかもしれない。

湯川氏や後藤氏の振る舞いをめぐって、10年ほどまえに騒がれたような「自己責任」批判の風潮は盛り上がっていないようにうかがえる。もう若い者というよりも、大人がやったことだから当然と冷静になっているというよりも、そういう風潮にもっていかせたくない別の風潮の方が強い、という印象をメディアから受ける。上いった日本人の集団心性が本当に近いなら、もともと「自己責任」論議のほうが日本人にはあうことだろう。むろん、それは西洋的な文化圏の考えとは出自も結果もちがって、欧米の人権が責任をもって行う個人への連帯という集団性をもって生起してくるとすれば、我々のそれは、無関心なバラバラなままの現状を追認するように揚げ足取り的・野次馬的な掛け声で終始してしまうだろう。だから、その日本文化的な自然(=風潮)にあらがって、なんとか個人の責任問題においやってしまわせない、集団的な動員の風潮を形成していかせようとする政治的な作為が、だいぶ発動されている、ということか? アメリカ経由の新自由主義的なイデオロギーに親和した日本人の集団心性の「構造」をそのままにした「成り行き」で、そこに一般的に潜在している「報復」につながる強い気持ちを生け捕りにしようと。

安倍総理の報復発言は、そうした作為の一環なのかもしれない。だとしたら、形としては、それは間違ってはいないのではないか? 我々は、自然なままに、無関心なままでいるわけにもいかないのは本当であろうから。だから、とりあえず見えている方向性は二つということになる。その無関心を、欧米人権的な責任論の集団行動性へと、つまりはより一層の近代化へと自己陶冶するか。あるいは、安倍とは違う集団を対峙させてゆかせるか。少なくとも私は、いま「表現の自由」をめぐって世界連帯的な動きが発生しているような、その近代的な価値観に便乗してみたいとはおもわない。私は北朝鮮といえど人をバカにしたような映画などみたくもないし、風刺とはまずは自己批判の延長だとおもうので、自分の所属集団を離れたものへの批評は慎重にやるのが道理だと感ずる。やはりこちらの自己責任実践も、私には「日本人の心からは乖離したぞっとするような違和感」をもつ。そして安倍総理の発言も、むしろそうした欧米エリートの口真似のようでぞっとしたのではなかったか?

私は、もっと自然な作為を欲する。もっとうまくやってくれ。あるいは、もっとうまい手だてはないのか?

2015年2月1日日曜日

イスラム国の人質(2)



「 私を焼き殺そうとした男のことなど、感情の隅にも入れたくなかった。その私がテレビのスイッチをなぜ切らなかったのだろう。一時間近いその番組が終わったとき、凶悪な男と思っていた加害者のあまりにかわいそうな人生に、私は涙があふれた。その時、その男への憎しみは消えてしまった。退院した私は事件に関する記事を集めて調べ始めた。そこから知った男の人生は、やはりあまりにも悲惨だった。加害者となってしまったその運命が、「荷物」となって生きていかなければならない自分の悲しさに重なった。
「加害者を憎んではいない」と言った私の言葉に、家族の者たちは唖然とした。その顔が怒りに変わっていった。
「あんな奴は、焼き殺してやる」
「あんな奴を放置しておくからこんな目に遭うんだ」
「憎むべき、だ」
家族の者たちの言葉を「つぶて」のごとくに聞いていた。
 私には、「加害者」を「憎めない」という自由もないのか。こうして人に厄介をかけて生きていかなければならなくなった人間は、ただ言いなりになっていくことしか許されないのか。「自分」を剥奪され、行き場を失って叫び声を上げてしまった加害者Mと、私も同じ……。
 悪いのは、「加害者」だけだったのか……。
 晩夏の庭には柿が実のっている。私は家族の会話を耳にしながら無表情を装い柿を見つめていた。柿はまだ、青い。
 ――大丈夫。いつまでも生きてはいないよ。大丈夫だよ。今だけ。今だけのこと。柿が赤くなる頃には私は死んでいる。」(杉原美津子著『炎を越えて 新宿西口バス放火事件後三十四年の軌跡』 文芸春秋)

後藤さんが殺されてしまったようだ。ビデオに映る後藤さんの毅然とした表情から、私は彼らの友情が発動されるのではないかと希望していた。交渉が可能な相手ではないと世間は言うが、私は、彼らはそれ、友情を理解したとおもう。ただその心の動きに従うには、世界に動かされているそのことの情動に駆られるのが大なのだろう。心の芽吹きに耳を傾けさせる余地をあたえまいと、世界が、国家群が、より大きなうねりをひねり出して、人々を、後藤氏を殺した彼らのように、押し流してしまうのではないかとおそれる。戦争を抑止するために意図した同盟関係が、たった一人の殺害を契機に、意図しない拡大を招いて世界大戦になってしまった、という現代史の警告を紹介しているのが佐藤優氏と手嶋龍一氏の最近の対談である(『賢者の戦略』新潮新書)

かつて、私の女房のダンス公演を論じたものをおもいだした。――2003年「テロリストになる代わりに
また、チェチェンの紛争の犠牲者になった子供たちの映画に言及したものを、自分のHPから再引用、再確認したくなった。