とんとんとかとんとん、とんとんとんとんとかとんとん、とんとんとんとんとんとんとんとん……慎吾は、頭をぶるっとふるわした。向かい側の並びの席は、真ん中辺りがぽかりと空いているだけで、ほぼ埋まっていた。吊り革につかまっている人も何人かいる。その吊り下がった体が、一瞬きょろっと動かした視線をさえぎってくる。だけど、どこかまばら、という感じがして、少しほっとして、また視線をドア側の隅の席に腰着けた自分の足元に落とした。普段なら、勤め帰りの人たちの時間帯と重なりそうだから、もっと混雑しているのかもしれない。今日は土曜日だから、まだ遊びにでかけた人が帰宅する時刻にはなお早いかもしれないから、それほど圧迫されないですんでいるのかもしれない。電車に乗ること自体が久しぶりで、しかも東京の地下鉄となれば、30年ぶりくらいかもしれず、自身がそこに入っていけるのかが心配だった。乗り方を覚えているだろうか、ということだけではなかった。とくには、乗車というよりかはホームの上で、身に迫る恐怖が湧きおこってきて、そのまま身体が凍り付き、身動きできなくなってしまうのではないか、と想像されたのだ。細長い舞台のようなホームに立ち並んだ人々の間から、一段低い線路が見えてくる。その二本の線は、す~っと伸びて、落とし穴のようにぽんと空いた白い光の中へ消えていく。すると、押し入れの隅に押し込まれていたような記憶が机の引き出しのようにすっと引き出されて、使い忘れて捨てられたような消しゴムみたく存在感を増してくる。これは、おまえのだろ? 先が丸くなって小さくなりかけた消しゴムは訴えかけてくる。俺がわるいんじゃないよ、俺だって、君を一生懸命救ってあげたかったんだ、だけど、もう、手に取る理由が、生きる理由が、わからなくなってしまったんだ、見つからなくなってしまったんだ、俺を、そんなに責めないでくれよ、俺は……あの時、慎吾は、ホームに入ってきた電車に飛び込もうとしたのだった。「俺を死なせてくれ!」体を自分につけるようにして横を歩いていた父親が、ぎゅっと腕をつかんできた。身を振りほどこうともがく自分を、必死になって押さえつける力が伝わってきた。前を歩いていた弟の正岐が、もどり近づいてくる気配がした。「俺を死なせてくれよ! もう、だめなんだ!」もう一度、叫んだ気がする。「ばか言うな!」父親が自分を抑え込む力と、自分の膝が折れてホームに倒れ込み力が抜けていく感覚とが、一緒だった気もする。泣きそうな、悲痛な父の叫びだった。その激しい悲しさが、頭の中で木魂していた。そのあとのことはわからない。家の前で、タクシーを降りた。車が、高速で走っていくような感覚と、頭の中の、時間が滑っていくような感覚が一緒になって、ぐるぐると回転し、窓から見える風景もぐるぐるだった。そのぐるぐるの中で、両脇に密着した父親と弟の温もりが伝わっていた。そうだ、俺は、まだあの暖かい温もりを覚えているじゃないか……。
慎吾はほっとしたが、いつの間にか隣に座っていた中年男の肩が自分の肩に接しているのに気付くと、我が返ったように思い返した。なんだって俺は、とんとんとんとん考えていたんだろう? そう思いつくと、また頭の中に、とんとんという音のような言葉が渦巻くのだった。
これはあれだろう? (と、渦中のなかで意識が飛び出してきた。)太宰の短編小説の、タイトルのやつで、幻のようにどこからともなく聞こえてくるってやつじゃないか……何かやろうとすると、聞こえてきて、やる気が失せていくんだ……戦争後遺症ってやつだな、一種のうつ病なんだろうな。俺だって、敗残者として故郷に帰ってきたんだ、幻聴のひとつやふたつも聞くだろうさ。それを甘えてるっていわれてもな。直希のやつは(と三男の弟のことが思い出されてきた)、なんだってああもうるさいんだろうな。介護士をやってるっていうんなら、もっと病者への理解があってもいいじゃないか。それをあいつは呑気な患者と間違えてやがる。苦しいからこそ、怠け者になっちまってるってことがわからない。いや、そもそも俺は怠けてなんかいないじゃないか。毎日英語の授業を欠かさない。ABCもできるかどうかわからん中卒のあいつに、何が理解できるっていうんだ? それともあれか、「大いなる文学のために死んでください。自分も死にます、この戦争のために」!と太宰に書き送って散華した戦中の青年みたく、深い大義があいつにあるっていうことなのか? あいつの俺にたいする日々の嫌みは、俺の野心を超えていく高尚な思慮からやってくるとでもいうのか? たしかに、あいつは、よくわからんやつさ、何を考えていることやら。真面目なのか不真面目なのか、真っすぐなのか曲がってんのか。しかしあいつだって、どこかおかしかった時が、いっとき、行方不明になってた時があるっていうじゃないか! ならあいつだって、故郷に錦を飾れないで出戻りしてきた敗残者じゃないのか? むざむざ生き残って、あいつにだって、とんとん聞こえてきたって、おかしくないじゃないか! それを、規則正しい生活してれば、俺の苦しみは消えていく、なんて、ふざけやがって! 眠くたって、眠れないんだぞ。睡眠薬をいっぱい飲んでも、眠気に襲われながら、かっと目覚めている。夜が、真昼のように、炎天と俺の頭の中を照らすのだ。言葉の嵐が、渦を巻いて俺をメールストロムの底へと引きずり込んでゆく。何をつかんだら渦巻の中から浮上できるものやら、俺にはわからない。いつの間にか、髪は真っ白なはずだけど、坊主頭にしてるからな、俺は幼くみえるらしい。時が、歳がとまっちまったのかもしれないな……。
慎吾はふと落ちた自分のそんな想念に、身をすくめた。体を実際に縮ませたために、隣の人との接触がなくなった意識に目覚めて、ぷいと横を向いた。もう、そこには誰もいなかった。前の列の席にも、空席が目立っていた。いつのまに降りたのだろう? そして、自分はやはり取り残されている、そんな淋しさが身を包んできた。実家にもどり、子供部屋に引きこもり、軍歌をきいた。同じメロディーを何度も頭に刻み付けていくなかで、いつのまにか持たされていた携帯電話がスマートフォンというのに変わって、最近はそこに映る動画で賛美歌をきいたり、テレサ・テンの歌を繰り返し再生させた。いやそれが朝の日課になっていた。不眠症に襲われていても、それは規則正しい生活にちがいなかった。井の中に取り残された蛙だとしても、蛙はケロケロとしか鳴かないではないか、井の外に出ていった蛙たちだって、ケロケロ鳴くことしかできないではないか、ならば、なんで俺がいつも同じ古の曲で心を落ち着かせてわるいことがあろう! 自分は、外の世界の現実を知らないかもしれない。しかしそれでも、外の人間たちと同じように、ケロケロと鳴く世界とつながっているとしたら! ……ならば、俺は、淋しくないというのか? ひとりではないというのか? 生涯のうちに自分の職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできず、離れようともしないで、どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ね! 死んでいくことこそが、どんな政治人よりも重く存在している大衆の思想であり、自立の基盤なのだ! ならば……なんで、俺は苦しんでいる? 考えて、考えて、その言葉が渦を巻き、眠られぬ夜で朝を迎える。たしかに俺は、それでも食い意地だけは張っているようだ。もうそれしか、楽しみがないかのようだ。けど、苦しんで、考えている、食うこと以外にも、考えている、考えている……なんでそれが、ばかなことだろう! ばかで、あるもんか!
慎吾はばっと席を立つと、開いた扉をさっそうとくぐっていった。急に、腹立たしくなってきた。人をばかにしやがって……そうだ、あの頃も、そう思って、俺は、あいつらと……と慎吾は突然、またぶるっと体をふるわした。あいつめ……あいつら、また人殺しを……首相を狙うなんて、どこまで本気なんだ? エスカレーターに乗り、地上へと出た。自転車道をも交えた広い歩道の向こうの大きな道路の向こうに、マクドナルドの大きな黄色いMがみえる。その真向いの少し狭めの道路の向こうには、バーミヤンというファミレスの看板がみえる。そうだ、俺は、ここで落ち合うのでいいんだ、今度こそ、あいつと、あいつらと、決着をつけてやる……慎吾は、青になった横断歩道を渡った。
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