前回ブログの山下悦子の『高群逸枝論』は、母性的なものが「下からのファシズム」として機能した、という視点であるが、宇野常寛の『母性のディストピア』も、そうした認識にたっているものである。ただ、高群が古典的な文芸作品や日記などを文献としているとしても、家族構造をみようとしている点で、前者はあくまで下部構造に関わってくる話であり、後者は虚構世界の上部構造を焦点化したもの、という見方を私はとる。上・下というかつてのマルクス主義的な区別が古いというなら、柄谷の交換様式論をふまえてもいい。柄谷は交換A(互酬・贈与)に注目しその高次元化を目指すというが、その交換Aを支えた氏族制の、父権的(サムライ魂――最近文芸誌に発表した「風景の再発見」で新渡戸稲造の「武士道」の英語版からの翻訳を提出していることをみてもいい)な面を救い上げようとする。が高群も同様に、氏族制の時代を喚起させるのだが、それは群婚制という、むしろ母系的な現実性をすくいあげるためだった。
この上下の位相の違いを踏まえたうえで、「母性」性質的なものをめぐる是非論議を追求してみよう。
☆
まず宇野は、1991年に柄谷・浅田・いとうせいこう・高橋源一郎・中上健次らによって提出された「湾岸戦争に反対する文学者声明」を批判的にとりあげる。
<…当時から既に批判されていた「文学者」たちの愚劣さ(実効性のなさ)と非倫理(紛争地域の見殺し)ではなく、むしろ彼らがその愚劣さから目を背けるために「あえて」偽善性を引き受けるという主張を採用していたことだ。>
この偽善性は、守られるべき女を演じる妻の犠牲(庇護)のもとで父(治者)は維持される、江藤淳のような右よりの批評家から村上春樹にも共有される、心的な規制であり構造である。この<母子相姦的な構造を「母性のディストピア」と表現したい。>
<ここでは世界と個人、公と私、政治と文学のうち前者が後者に、世界の構造の問題が(男性的な)自意識の問題に回収されながらも、それが隠蔽され擬似的な関係を結んでいる状態にある。「母性のディストピア」の常態化によって、戦後日本における成熟とはこの擬似関係に自覚的でありながらそれに気づかないふりを演じること(引用者註;「あえて」ということ)を意味するようになったのだ。>
そしていまや、
<情報技術に支援されることによって、いま戦後的な「母性のディストピア」は解体されるどころか延命し、肥大している。いや、情報技術の支援によって、それはアイロニー(引用者註;「あえて」ということ)を内包することなく機能するものに進化したとすら言えるだろう。いま、この国を(あるいは世界を)覆っている情報環境は巨大な、目に見えない、母胎のようなものだ。そこでは人は目にしたいものだけを目にし、そして信じたいものだけを信じることができる。政治と文学は切断され、「父」として前者(政治)にコミットしたつもりになりながら情報環境という「母」に守られ後者(文学)の中に引きこもる。何の喪失感も、悪の自覚もないままに。かつて戦後日本を包み込んでいた母胎はサンフランシスコ体制の産物であった。しかし、冷戦終結から四半世紀を経た今日、この母胎は情報技術のつくり上げたネットワークに置き換わり、そして強化されている。>
そしてここに、<どちらかといえば母権的な、日本的なムラ社会の、丸山眞男のいう「無責任の体系」が情報技術によって進化したボトムアップの権力にどう対峙するのか、という古くて新しい問題がここにはある。>
以上が、当時の宇野の状況認識の要約である。
おおまかには、私もそう認識している。
ただ、柄谷の「湾岸戦争に反対する文学者声明」等のジャーナリズム内での実践(パフォーマンス)行為に関するものには、少し違った見解をもつ。柄谷は、それらは、「あとで意味をもってくる」としてやっていたのだ。今は「効果」はないかもしれない、が、あとで、効果をもってくるとして、つまり、“布石”としてやっているのだ。だから、NAMの二年ほどのみの解散も、少しのためらいで決断・容認する。さまざまに、いくつか打った布石が、時の経過とほかの状況との絡み合いあの中で、三十年ほど経ったいま、どう本当に機能効果を持ち始めているのかは、私は知らないが、と言っておこう。(こう指摘すれば、その意味効果が、推定されてくるところも出てきているのでは、とも認識する人もいるのではないか、と思うが…私は、その「あとで」の「効果」自体に、反対している、ということなのだが…結局は、マッチョに居直っているということなのか、と思われてくるので。)
そしてもう一点。
宇野はあくまで、日本というこの国の状況を読んでいるわけだが、暗黙には、引用か所にも、「あるいは世界を」、とあるように、この母性的状況を、世界に拡大しようとしている。が、トッドの家族人類学的な認識を重ねれば、核家族(双系制)的なイギリス・アメリカでは日本傾向はあるかもしれないが、大陸文明の中心(父権・共同体家族)やそれに近いところでは、そうはなっていないのではないか、ならないのではないか、ということだ。しかも、ロシアによるウクライナへの侵攻、イスラエルの進撃、等、またはコロナ下でのかつての文明大国の対応をみると、資本やテクノロジーへの統制・検閲が、強靭に決行できてしまっているように見える。かつて、資本主義はアメリカナイズが頂点だ、いや日本での子供の資本主義が達成点になる、とのコジェーブの分析を受けてフランシス・フクヤマが「歴史の終り」を説いたわけだが、ぜんぜんそうはなっていないのと同様のことが、この母性をめぐる認識議論にも、言えてくるのではないだろうか?
世界は、厳しい、というか、こわっ。これが父権か、いったいこれに、どう対応するんだ? というのが、むしろ今突きつけられている日本での問いなのではないだろうか?
とにかく、宇野は、日本(世界)を覆う「母性のディストピア」に対し、次のような対応認識を示す。
①
所有する/される、父権/母権的な縦のつながりの記述するナルシズムではなく、家族にいかない兄弟/姉妹的な横のつながりの記述する関係性へ。
②
世界と個人、公と私は「政治と文学」ではなく「市場とゲーム」で結ばれる中では、物語の語り手/読み手としての成熟ではなくゲームのデザイナー/プレイヤーとしての成熟になる。静的・一方向的・自己完結的な文学ではなく、動的・双方向的・開放的なゲームである。他人の物語への感情移入によって成立するものから、自分の物語を自分で演じるものへの変化である。
以上の参照例として、ボーイズ・ラブや同性愛的な荻尾望都、竹宮恵子などの少女漫画、オタクな成熟、ニュータイプをもう一度、のようなものがあげられてくる。
私としては、なんともいえない、考察中ということになるのか。私のこのブログは、もしかして、「自分の物語を演じるもの」ということになるのかもしれないが、自覚はない。ただ、少女漫画ということでいえば、冒頭写真は、妻の遺品として、最近気づいたものである。「少女フレンド」の特製付録品だ。中には、ヘアピンの類がいっぱいつまっている。この1972年からつづいた少女漫画で、まさに荻尾や竹宮が連載を開始しはじめたのだ。私は、妻・いく子は、どうも60歳すぎてから自分のセクシュアリティを再発見したのでは、と、少女漫画のことなど知らない妻の妹さんの発言とうからも、予想を改めたが、そうではなく、当初どおりの推測が当たっていたのだ。中学時代、おそらく友達のあいだで、流行ったのだ。当時の中学生の間での年賀状の挿絵などが、やはりその推測を補完するものだったのだ。
世界と個人、公と私をつなぐテクノロジーという媒体(中間的なもの)を肯定していくときの技術、態度、実践の在り方が問題である。宇野はそこから、自然(原始)の森ではなく、「庭」という中間的な在り方の話になっていったのかもしれない。が、この森と庭に関する議論でも、私は考え中だ。石牟礼は、自身がそだった「うまわりのとも」(湿地帯で、それは私が暮らした東京中野区にある「ばっけ」と呼ばれたかつての土手地帯の言葉を、現地水俣のそこを見て思い起こさせた。)を森として復活すべく、その再興の学者・実践者と対談したりしている。そうしたことが、どういうことになるのか、まだ私は一定の見解に達していない。
それと、以上に重なるだろう問いを、別の角度から整理、考えてみたい。中島岳志編集の『RITA MAGAZINE 2』で、「死者とテクノロジー」という特集をやっている。これは、柳田国男の「先祖の話」、家の継承、墓(葬儀、喪)をどうするか、という、父系側からの問いかけだ。私はまだ、妻を納骨できていない。この他人事ではありえない問題を、考えるだけではなく、解決していかなくてはならない。
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