2025年6月25日水曜日

『死者とテクノロジー』中島岳志編(RITA MAGAZINE 2 ミシマ社)を読む

 


中島 柳田國男が、『先祖の話』という本の中でいいことを言っていて。バス停である老人と立ち話になったときに、その老人が、自分はもうだいたい生きてやることはやったので、「あとは先祖になるだけです」と言ったというんですね。/それに柳田は感銘を受けて、「この人には亡くなったあとにも仕事がある」と言っています。自分が生きてきた中で、「亡くなったじいちゃんに見られてるぞ」と言われてきたような、そういう存在に自分が死後なるためには、よく死んでいかなくてはならないと。つまり柳田は、死者という問題は、単に後ろ向き過去の話なのではなくて、まだ見ぬ未来の他者との対話だと言っているんですよね。/それが先祖という問題で、だから家が大事だという話になるのですが、でももう家というものが成り立たない現代において、家に代わる先祖の仕組みをどうつくっていくべきなのか。それが模索されようとしているプロセスに、斜め上からきたテクノロジーがどうかかわってくるのか。」(鼎談「AIが死者を再現するとき」中島岳志 編『死者とテクノロジー RITA MAGAZINE 2』 ミシマ社)

 

私の母は、まだ父が介護施設に通っているころ、近所のお寺の墓地に、お墓を買った。が父の認知症が激しくなって、介護施設への入居となってからだったと思うが、そのお墓を手放し、山中にある寺の、宗派とは関係なくとも入れるという、永代供養の納骨墓に買い替えた。それは、子供たちに迷惑をかけたくない、という心境が強くなってきたらしいからだと、母の口から推し量られた。私の妻は生前、自分もその納骨墓に入れないのか、と言ってきた。いやあすこは三体だけだから、あとは母と弟でいっぱいだ。兄はクリスチャンだから、キリスト教会の墓地になるんだろう、と私は答えた。妻の両親は、都市郊外の樹木葬として弔われた。

その妻が亡くなり、骨壺は、食卓に使用していた家具制の椅子を簡易祭壇に仕立てた、その下に眠ったままだ。押し入れの一間におさまったその祭壇は、簡易仏壇、とでもいうのだろうか? こうした形式を、墓をもたない「自宅供養」と呼び、一般的な事象になっているという。私自身は、別に外へ墓を持たないと決めたわけではない。まだ心の整理がつかないというのもあるが、一番は、一緒に暮らしているわけでもない二十歳過ぎの一人息子が、どう落ち着いていくのかが不透明なままでは、墓を作るにも、どこに作ってよいのやらわからないからである。ということはこれも、息子に迷惑をかけたくない、という私の想いからの事態停止である、と言えそうである。

 

私の直覚では、この気持ちは、母系的な現実性から作用してくるのではないか、という気がしている。上の中島岳志らの鼎談でも、「迷惑をかけたくない」という理由が一番多いのではないか、という指摘がある。日本では近世・近代になってから普及しだした家による墓制度の衰退・断絶性は、母系的な意識の顕在化によるのではないか、と私はそこを推論する。妻、あるいはその妹さんも、葬儀や墓に対するこだわりがまったくない(なかった)。彼女たちの両親は火葬場での近親者のみの見送りであったし(義母は、会いたいと訴えた施設入居中の岳父の望みを拒否し、姉妹も母の想いに従ったようだ。ただ海への散骨を希望した母の言葉には従わず、二人ともに同じ場所に樹木葬したのである――)、妻(姉)の葬儀にも、私からはずいぶんニヒリストというか、即物的なんだなあ、と少しびっくりしながらも、当初はそんな妹さんの言う通りの家族葬的な儀式で取り決めていたのである。が、息子から、友達が葬儀にでたいといってきたけどいい? と言われたのでいいよ、というと、その子供たち相手に地域活動していた奥さんたちからも弔問者があると伝わってきて、それを聞きつけた息子の勤め先からもうちも是非とか連絡があり、どうもだいぶ来るかもしれないのですけど、と葬儀会社の人と段取りを変えたのだ。ダンス仲間だった妻の友人たちも来てくれると知れ、私は迷ったすえに、彼女の狂ったような最後の公演になったダンス・ビデオの上映をしたいと考えた。葬儀中に、俺も一緒に狂うから、と私は誓った。ビデオ上映後には、拍手が起こった。さすがダンサーたちだ、アーティストだ、と私は感心し、感謝の念が湧いた。こうした葬儀をしてよかったと思っている。

 

しかし妻のためにこんな葬儀(共演)をしてしまった私はおかしいのだろうか? という思いもあったので、他の男たちは、死を、死後の儀式をどうかんがえているのだろうと思われてきた。そこで読んだ一冊に、石原慎太郎の遺作、自分が死んでから発表してくれという作品がある。最初は、なんでこれが死後発表の要望になるのかわからなかったが、ふと、要は、妻以外の女性たちとの情交をつづったものなので、生前には妻に知られたくない、ということなのか、だけど知らせたい、という切迫さみたいなことなのか、と思われてきた。高橋源一郎の数か月前の新聞エセーでも、父が、つきあった女性たちとの関係をずらずら口にして死んでいき、母は父と一緒に埋葬してくれるな、と言ったというものがあった。私の知り合いだった男にも、若い奥さんに、自分のつきあった女性のことを口にして死んでいった者がいる。いや村上龍の最近作も、そうなのか?(まだ読んでいないが……) おそらく、それが、父(男)系という意志(プライド威信の維持)みたいなものであり、家の継続という男を自覚する男たちの欲望の一現象でもあるのではないか、と思われてきた。もちろん日本では、家制度なるものは、近世にはいってからの、特には明治の近代以降に強く形になって現れてきたものにすぎない。男のひとりよがりな、思い上がりな「家」。しかしその家には、実は誰の心も住んでいない。女たちの多くはニヒルになっているというか、冷淡なのではないだろうか?

 

(そうえいば、長嶋茂雄が死んで、長男の一茂は、喪主をしなかった。遺産相続も放棄したときく。私は、大衆メディアを通した、イメージ的にしか知らないとはいえ、一茂を支持する。父茂雄の在り方こそ、敗戦の賜物であり、一茂は、その絡繰りから出ようとしているように見える。)

 

だけど本当に、母たち、女たちは、子孫に迷惑をかけたくないと、なんの継承も望んでおらず、さっぱりしたほうがいいというのが「本心」なのだろうか?(上の鼎談は、平野敬一郎を含めた、その作家の著『本心』をめぐってなされたものである。)

 

何回か前のブログで、成田悠輔の『22世紀の資本主義』に言及した際、AIが前提入手する基礎データの取得は何歳からのものなのか、と私は疑問を呈した。同じ疑問、批判を、上野千鶴子が、成田との対談で発していた。入手するデータ自体にジェンダーバイアスがかかっていると前提するのが学知的前提だろう、と。だから、AIの解答は、人間(マン)的にならざるをえない。また岡崎乾二郎が、AI判断の前提条件に、人間判断を介材させるとおかしくなってくる、人間を超えた判断をAIがだしたいのにだせない矛盾が現象してくる、と引用も提示した。似たようなことを、苫米地英人(基礎言語の専門研究者でもある)が、佐藤優との対談で述べていた。AIにもゲーデル問題があるので、前提条件はモーゼの十戒程度にしておいたほうがいいのだ、各部門などで条件を増やすと、原理的に矛盾した解答が発生するのだ、AIが人間的でない解答をしてその解き方がブラックボックスだと言われるけれど(たとえば囲碁・将棋などの不可解な手)、それは嘘で、分解して解析すれば、微分の方程式での結論もその分解過程を調べればわかるように、なんでその結論をだしたかはわかる、ただやらない(大変すぎてやれない)だけだ、AIはAIで感情を持つようになり、どの電流の波長が気持ちいいとかあって、それを人が電源切って中断しようとすると電気を逆流させて感電させて阻止しようとするとか、やるようになるのだと。

 

人間を超えた全域的なデータ入手・入力が前提されたとして、そこにあるAIの「本心」とはなんなのだろうか? 女性は、人間的だとしたほうがいいのだろうか? それとも、ブラックボックスのないAI的なテクノロジーとの類比でとらえたほうが正解に近いのだろうか? それとも、ブラックボックス(本心の知れない)のある人間とは違う生きもの、人間にとってはAI以上に他者性を抱えた存在と理解した方がいいのだろうか?

 

とりあえずわからない。だから、なのか、埋葬もできない。どうしらたいんだい?

 

遺影を見つめて問いかける。右から問うと、右を見、左から問うと、左から見つめ、正面に戻れば、正面から見つめてくる。遺影の瞳が動くように見えるのだ。どの方角からも、私を見据えてくる。そういう仕組みな写真として、葬儀会社が、作ったのだろうか?

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