ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、父殺しをめぐる三人兄弟の話だが、日本の文脈でなら、むしろ母殺しがテーマとして浮上してくるだろうと、『中上健次ノート』というエセーを書き、自身も『いちにち』という小説にまとめてみたのだった。が、妻が遺し与えた課題を追及しているうちに、石牟礼道子や高群逸枝にゆきつき、そういう方向性からの追及ではすまないのではないかと考えるようになっている。しかし、母をもちあげるとは、日本の文脈では、戦時中の国防・母運動や、現今の子育てにおける父は黙って母の圧制(負担)のような状況下においては、どういう言葉、物言いで説明していけばいいのか、となる。とくに、高群は、まさに母を根拠に戦時中のイデオロギーを強烈に補完する言葉をだしていた者である。
そう思いめぐらすなかで、上二著を読んでみた。まだ高群の作品自体や彼女に対しての他からの批判書を読んでいる途中であるが、母(性)をめぐる考えをいったん整理してみる。まずは、山下悦子『高群逸枝論 「母」のアルケオロジー』から。
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石牟礼道子は、本当は、高群逸枝を研究したかったのだが、水俣病事件に出会うことによってそれを中断し、その関わりが一段落したあと取りかかろうとした四十歳すぎに、目がほとんど見えなくなってしまい読書することがかなわなくなってきたので、あきらめた、というようなことを言っている。『苦海浄土』のタイトルは、本人当初は「海と空のあいだに」だったが、編集者の意向で変更された。のちに、このタイトルは、短歌集に採用されていることからみても、彼女には思い入れがあったのだろう。私の推察では、このタイトルは、高群逸枝の最初の詩集『日月の上に』から来ている。というか、それへの批判なのだ。ひとまわり以上も年上な高群は、「日月」という天(自然)上の理想を望むことができたが、わたし(たち)はもはや、「海と空のあいだ」、つまりは人間界の苦しみを引き受け、「天の病む」世界を生きていくほかはないのだ、という覚悟の表明なのだ。
石牟礼は、高群の晩年にちかい時期だったか、面会謝絶を続けていた東京の自宅を訪問することを許されている。『最後の人 詩人高群逸枝』の半分は、高群というより、その夫橋本憲三の話になっている。石牟礼の高群への関心の中心は、男女関係とその世間における女性の不当さ、自身が受苦したものの不合理さへの探求ということだったろう。
山下悦子は、高群の初期詩集から、日本浪漫派に通じる哀愁や寂寥感をただよわせた「故郷」を読んでいる。そしてその「山の平和な生活を一変させた」のが橋本憲三との出会いであると。その熊本の故郷には、当時まだ、若集宿のような、夜這いの風習のようなものが残っていたのではないかと、高群の詩から推察できる。がそれは、「山の平和」として受け止められていたようには、私には読めない。むしろ、高群は、夜這いに来る男たちを気味悪がり、嫌がっていたのではないかということが、詩の背後にある。『日月の上に』は、おそらく幼少から大人へと成長していく時間軸におおまかに沿っているが、娘に達する頃の時期とみられる詩の言葉に、その嫌悪がひそまされている。が、インテリでニヒルの憲三は、この群れる男たちとは違ったのだ。だから、彼女は興味をもち、恋に落ちたのだ。そこには、同じに近い故郷の男であっても、マレビト的な外人性があった。彼女は、外人を選んだのだ。しかし、群れを捨てることもできなかった。それは、民衆(大衆)への想いのようなものからではない。戦後ののちに、彼女は、男には、カマキリのオスのようにメスに食べられて死にたがっているような、マゾヒズムが根底にあるのではないか、と言っている。それは、生物は分裂して生まれてくるが、またもとの物質と一体になりたがっているのではないか、という認識とつながっている。フロイトはそれを、死の衝動(タナトス)と読んだが、高群は無に帰すそれを生命といい、愛と捉えたのである。そしてこの根底に抱えた洞察、おそらく夜這いの男たちとの関係から得た認識が、詩人としての直観が、彼女の女性学、歴史の考察へと応用されてゆくのである。
山下悦子は、高群の方法は、「現象学的還元」であって、歴史実証的なものではないのだという。それは通史ではなく、共時的に把握されていたものを通時に置き換えた歴史としての誤解なのだという。が、起源に母権性があり、母系の現実があったというのは間違いだが、南北朝時代に父権的なものへのパラダイム転換があったという時点の証明は正しい、つまりは、高群の根底的な洞察は間違いではなかった、ということだろう。がそもそも、高群の思考を、柄谷行人からアドバイスを受けたという現代思想で難しくする必要があったのか? 高群は、自身の体験から得た洞察仮説を、歴史文献を使って実証してみせようとしただけである。そしてエマニュエル・トッドの家族人類学でも、柄谷の日本精神分析でも、日本(人類)は双系(核家族)的なのが起源的であるなら、父系とともに母系もあったのが現実ということになる。しかもこの母系的なものは、たとえば子供を産むと母方の親元の方へ妻は子供と一緒に退避していく子育て傾向が今もって見られることからも、その残存は推察できる。「現象学的還元」という「内省と遡行」の方法というなら、それはむしろ柳田国男の方だろう。だから、遡行で意識化できうる時間範囲は、限られる。高群は一気に古代までいった。高群から贈呈された本をみたら、柳田は黙って(絶句して)しまう他ないだろう。そして高群が母系に注目したというなら、柳田は父系に注目した。柳田の「いえ」に対する認識には、内省を超えた自身の理想というか夢のようなものがひそまされている感じがする。高群は、「内省と遡行」をしたのではなく、体験し、直観し、歴史的にはおおまかにはそれは当たり、認識的には、昆虫などの生態(群れ)を量子力学的に理解していこうとする郡司ペギオのような思考射程も入ってくる。
山下は、こういう思考をしているから、こういう行いになるのだという。デリダの脱構築、形而上学批判の踏襲である。高群は、母を無ととらえ、それを根拠にした。だから、西田幾多郎のような東洋思想にゆき、天皇体制のイデオローグになったのだと。ならば、なんで石牟礼道子はならなかったのか? 母を根拠に、国家と資本に闘ったではないか。もし高群に子供がいたら、ああはならなかったのではないか、と山下は一方で言う。高群は死産(男の子)で、無事育っていれば、徴兵される年頃であった。私もそう思う。俗にいえば、女性はそうなんだ。子供は嫌いだと言っていた妻は、いざ自分が産んでみると、溺愛するようになる。「おまえ子供はいやだって言ってなかったか?」ときくと、「そんなことは言っていない」となる。こう考えるからこう行うとはならない。むしろ、そう現行一致と理解すること自体が、男性の早とちりだったとしたらどうだ? 高群の、外人との結婚が日本古代にあったとする文献仮説は、自国内だけではおさまらなくなった大東亜共栄圏のイデオロギーとしても機能した。それは、歴史的にも天皇氏族は混血だったとおおまかには当たっていようが、実は単に、マレビト的であった夫橋本憲三との経験の応用なのではないか? がそんな彼女でも、子供がいれば変わったかもしれない。となれば、こういう考えをしている奴はこうなるんだ、とまだ行ってもいないのに切断する思想的基準に、説得性はあるのか?
今の社会的制度・条件下において、女性たちがとち狂い、ファシズム体制を補完したとして、そんな考えしてるからそうなるんだ、と批難できるのか? 受験勉強に子供の尻叩くママゴンの狂気より、受験制度自体がおかしいのではないか? 子供におせっかい(自分の腹を割って出てきた幻視的な一体感なのか?)する母性自体が、人間的であり必要悪な性質だと言うのだろうか?
かつて、「保育園落ちた日本死ね」という無名お母さんの投稿が話題になったことがある。今は、ほとんど保育園には入れるようにはなっているようである。がそうなれば、赤ちゃんは37度の熱をだせば両親が引き取りにいかねばならない、となっているから、どちらがいくのだ、となる。朝から夫婦喧嘩だ。私の職場まわりの若夫婦は、そうである。どちらも行けなければ、多くは母方の両親に頼む、である。子育ては、夫婦二人でできるものではない。私たち夫婦は、長屋住まいみたいなところにいたから、大家さんや隣老夫婦に子供をあずけて、妻は息抜きによくひとりでかけていた。つまり、群れの中で、社会で育てる。そうした人付き会いが無い、無くなっていくことを前提に、AIで子育てができるのだろうか? 現今まできたテクノロジーは、この母性をめぐる個と群れとの問題を、解決していけるのだろうか?
次は、二冊目の、宇野常寛著『母性のディストピア』をめぐって。
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