2021年1月7日木曜日

状況と選択



「佐藤 私がにわか知識で、メノナイト(引用者註―プロテスタントの一派)について少し語れるようになったのは、指導している学生にメノナイトの子がいるからです。
副島 「殺すなら殺してください」という思想にまで行き着いたことが人類にとって一番凄い。戦争反対、平和、人権というだけなら簡単です。ここに至る完全な暴力否定の思想の積み上げが凄い。私は、「ただ祈りのみ」というコトバの凄さがようやく分かってきた。
佐藤 抵抗権は認めないというところまで踏み込むと迫力が違います。抵抗権を認めると、守ることは攻めることにすぐに転換してしまいますから。専守防衛といっても、相手が撃ってくる直前だったら攻めてもいいという話になる。相手の存在自体が脅威だから潰してもいいという話にすぐに行ってしまいます。
副島 だけど。非抵抗だと、戦争にさえ抵抗しないという思想が一方で生まれます。私はここを見逃さない。これが国家体制に絡め取られていく契機になる。だから無抵抗の思想はよくないのですよ。体制に必ず取り込まれます。キリスト教は反体制勢力ではありませんから。
佐藤 無抵抗ではなく不服従ですよね。
副島 不服従が、マハトマ・ガンジーの思想になった。
佐藤 不服従抵抗ですよ、不服従非暴力です。」(副島隆彦×佐藤優著『ウィルスが変えた世界の構造』 )

今日、1月6日をむかえ、アメリカ大統領がどちらになろうと、アメリカをヘゲモニー国家とした世界構造の転換にあたって、台頭した中国との軋轢が不可避として激烈化してくるだろう、日本にとっては、台湾の問題(中国が憲法記述どおり実行支配にのりだしてくる現実性)に、どう対処するのか、が突き付けられてくるだろう――というところで、正月に読んだジャーナリズム本が一致していた。「日本は進むも地獄、退くも地獄」(佐藤・手嶋隆一『菅政権と米中危機』)、つまりはアメリカについても地獄、中国についても地獄。橋爪大三郎氏は、台湾をめぐる米中戦争の具体例をあげながら(米軍によるAIを使ったシミュレーションゲームでは、米国全敗だそうだが―)、自由と民主主義のアメリカにつくべし、とはっきりしている。トランプを支持している副島氏は、ヘゲモニーは中国に移行するのだから、それでいいのだ、ということだろうか?(宮台真司氏も、中国社会みたいになってもそのなかで庶民の自由はありうるんだ、いいんだ、と言っていた)、佐藤氏は、アメリカの社会価値のほうがいいだろうとどこかで言っていたような気がしたが、自分の立場というより、手嶋氏と同様、インテリとして客観的な、傍観的な立場をジャーナリズムの位置としては固守する、みたいな感じだ。それが、対談中、副島氏から、「佐藤さんは、口ばっかりであらゆる理論を並べるけど、本当は何も信じていないでしょう。自分の信仰以外は。」となじられることになるのだろう。以前の私のブログでも言及したが、佐藤氏の言説はパフォーマティヴで、まともに受けずらい。おそらく、そこに、属するプロテスタントの宗派の世間との関わり方の存在定義が、なんかこの世へのスパイみたいな態度が、挿入されているのだろう。

で、私はどうか? (台湾有事が直前として、どうスタンスするのか? アメリカか? 中国か? いや、私は、どちらにもつかない、つきたくない、という第三の道が選択できるよう模索する。日常生活的にも、いわば仕事現場でも、似たようなどちらにつくか、と突き付けられてくる現実が派生しているが、そこでも、私は、どちらにもつかない、たとえ、ホームレスになっても、という信念が貫けるかどうかわからないが、そうありたいと思っている。が、ここでは、大きな社会問題、社会態度として、ということで――)

① 天皇を掲げる日本国憲法を改正する。9条を徹底する。―前者で、侵略したアジアの国への主体的な態度思想をしめすことで日本国の言論に説得力をもたせ、後者で、アメリカ軍に、日本から出ていってもらう。そのことで、中国等のミサイルが飛んでこないよう担保もとる。
② 徴兵制か、国民皆兵にする。――消防団の延長みたいなのとして。あるいは、アメリカの州兵の小物版。災害や戦闘発生時の人びと救助と軍隊支援の連携とのノウハウや道具技術の扱いに慣れておく。またそのことで、ミサイルでなく、外国からの上陸侵略の思惑を牽制しておく。
③ 自衛隊の一部、あるいはたしか小沢一郎がいっていたかもしれないが、国連に派遣する部隊を作って、その軍の主権を、世界機関に一任する。日本国家としての主権も譲渡していく思想を提起し、よその国々も国家が揚期されていくよう世界的な連帯活動と啓蒙を実践する。

※ ②に関して、昨夜のNHKで、自衛隊員の自殺問題がとりあげられていた。多くなっているというのだが、提示されたグラフをみると、多くなっているわけではない(他の省庁と比べれば多いが、自衛隊自体で増加しているとはみえない統計だった)。多いと受け止めたとして、それが、いわば部活動的な「いじめ」によるという。しかしなら、なんで、いまどきそんな話題を特集であげたのだ? 他にすることがなかったからか、それとも、なにか、国営放送としての意図があるのか? 後者だとして、私は、もしかしてこれは、有事をにらんで、これから自衛隊員を増員する募集をかけていく、そのための伏線的な宣伝なのでは、と推測した。私がこの特集をみようとしたのは、もしかして、すでにスクランブル発進や、実践練習、日米の合同練習も過密さを増してきているときくから、若い人たちが耐えきれなくなってきたのか、という気がしたからであった。が、スクープにもならない部活、いじめ切り口だった。が、ゆえに、見おえた印象は、そんなありきたりのことが人間社会としてもちろんあるけれど、自衛隊自身が、組織として、自殺防止対策や、海外の軍の実践を勉強して一所懸命がんばってますよ、という感じだった。(だから、若人よ、安心して自衛隊に入隊してきてください! コロナ下でも、職はありますよ! と言いたいのかな? と私はおもった。)――こんなテレビをみると、とても②の方策などすすめたくなくなるが、その日本的いじめ問題は、何をやるにも乗り切っていかなくてはならない卑小な現実になるのだろう。

昨夜ではなく、昨朝は、毎日新聞の「論点」、多和田葉子氏へのインタビューを切り抜いて、高2の息子に読んでおけ、と渡した。「受験にでるから。」そのシリーズの前回は、大澤真幸氏の、世界共和国へむけて、みたいなインタビューだったかな、と思い返した。おそらくこの連載特集の編集基準が、いわゆる国際派的なリベラルな思想に立っている、ということなのかもしれないが、大澤氏はともかく、多和田氏の言論の出は、そんなところからではない。「ぶつかり合って生きる」、とが副題だが、ドイツのようにコロナに関しても喧嘩になるくらい異なった意見どうし議論したほうがいい、異なったものとぶつかり、ウィルスのように自分が変異して、国の枠を超えていく「能力を持たなければ。」と主張する。私が息子に多和田氏の記事を息子に読んでもらいたかったのは、息子が、私と女房の夫婦喧嘩から逃げているからだ。たしかに、幼い頃から出くわしていれば、生理的な恐怖と不快感が、無意識に刷り込まれて、人と争うことができないよう洗脳のアンカーが打ち込まれたような心理になり、なってしまっているだろう。けれども息子よ、私たちは、それでも、別れていないだろう? 実際には、私たちは、歳いってからの出会いと結婚だったので、離婚パワーがない、とくには、女性の方は逃げにくい、というのがあっただろう(退職金と年金もらう老後になれば、だから話は別になる)。つまりお互いが、夫と妻が、多和田氏のような思想を、文化的には日本では無理なのだから、個人の意志で自覚していないかぎり、無理になる。しかし男尊女卑では、喧嘩も生まれない。息子よ、喧嘩しろ、そして、共存しろ、その「能力」をつけろ……多和田氏の論点は、女性的な観点からの、「不服従抵抗」だろう。

※ 多和田氏は、いま書いている三部作が翻訳されると、ノーベル賞をとるのだろうな、と私は予測する。世界文学であると、私は考えるが、その文脈は、ちょっと複雑な一文化的なものだ。彼女がとると、とれなかった村上春樹氏の文脈が整理され、ひとつの区切りが、日本の文学史に生産される、刻み込まれることになる、とおもう。村上氏の、無国籍的な、大衆的なニヒリズムは、三島由紀夫の認識を受け継いでいる(ゆえにナショナリズムな文学である)と私は解釈しているが、その日本の現実文脈の大衆化、あくまでフェイクな世界化とは別の、異なった、むしろ対抗してきた世界性が日本の現実の、現代(ニヒルにむかう近代)社会の中にもあった、ポジティブな思想があった、ということが実証されることになる、と私は思う。その系譜は、『源氏物語』以来の女性作家の秘められた思想文脈、とかになるような気もするが、わからない。が、マッチョな論理とは別の回路を、彼女が日本と外国の社会を往来するなかで、抽出し、前方将来へのなんらかのビジョンを架橋しようと、国を超えて、世界に提示していることは確かである。大衆という無国籍なイメージが介在されるのではなく、また大江のような理念という上からの共有ということでもなく(もちろん川端のエクゾチズムでもなく)、それ自身の社会文脈の中に、開かれたものが日本にもあったのだ、という証明である。言語活動として、つまり文学活動として、そのビジョンは新しい、のではないかと、私は思っている。彼女の文学世界では、もう日本は非在なのだが…。

2021年1月1日金曜日

初夢をめぐって

 


池なのか川なのか、その岸の近くに、枯れ葉で埋まった水のなかに、よくみると、蛇がいるのがわかった。こげ茶の斑点をもってどくろを巻いていて、マムシかもしれないとおもい、蛇がうごいたところで、頭が三角なのがわかり、そうだと確認できた。結構太く、長い。修学旅行にきている感じがし、まわりに、子どもたちがいるようだった。私は蛇を、ほぼ真上から、右下にみている。蛇は、川岸にいた、さらに私の右下の、川岸で立っていた誰か、子供のほうへ体をくねらせて、這いのぼってくる。私は、誰かに、うごいちゃだめだよ、と心でおもう。蛇は、じっとしている子供の体をのぼり越して、今度は、私のほうへきた。私は、何かが正解しているとおもった。昨夜の夢で、おそらくはじめておばあちゃんの、父方の祖母がでてきた夢をみて、そのときも、何かが正解しているという夢だったが、目覚めたあとではもうそれが何だったのか思い出せずにいたのを、この蛇の夢を思い返し反芻しているうちに、何が正解だったのか、つきとめることができた。意識はすでに目覚めているという気がしたが、目をつむったまま、頭の中で、その蛇と正解を突き止めた夢を忘れないように、幾度か、繰り返し思い返して反芻していた。そして反芻しながら、その間に、幾度が寝入っていて、意識がさめるたびに、反芻をしていたのだろうと思い返し、またこのまま寝てしまったら、もう初夢を思い出せないだろうとおもった。目覚ましが鳴る時刻までに、まだ時間があるとおもったが、私は目を開けて、目覚めることにした。そうして枕元のスマホをとって、ワープロ・アプロを開いて、蛇の夢をメモしはじめた。が、しているうちに、何が正解だったのか、わすれてしまった。ただ、そのマムシが、おばあちゃんに似ているとおもった、とおもったのも、夢のなかであったことではないかと思い返した。どうも実家の門近くのブロック塀まえの庭で、洗濯を物干しに干していたら、西隣のお宅の方から、門をくぐっておばあちゃんはきたのだった。洗濯籠をもって、私をみあげた。私が、背が高かったのか、見おろしているような視点だった。おばあちゃんは、にこやかな感じで、わずかに笑っていた。私は、無理をしなくていいよ、といったかもしれない。そしてどう夢がつづいたのか、おもいだせなかったが、何かが、正解だったと気づく何かがあったのだ。そんな夢のなかの、私が見おろした視点、そして蛇が、おばあちゃんが、右下から私をみあげた視点が、似ているのである。その構図と、どこか落ち着いた、静かな雰囲気がである。蛇とおばあちゃんの目の表情も、似ていた気がする。それを、蛇の夢をみながら、私は気づいた。これは、昨夜みた夢と同じ夢なのではないか、と。ならば、蛇とおばあちゃんは、何をあらわしているのだろう? と私は、目をあけるまえの、意識と寝沈みの繰り返され、まどろんでいた状態のなかでか、分析もしていた。川と水がでてきたのだから、子どものころから何度も繰り返されてきた、私を飲み込むようせりあがる無意識の洪水の変相だろうか? だいぶしばらくまえの夢で、私はあふれんばかりの川の中にとびこんで人助けをしにいったり、上流へと泳いでいく夢もみていた。そのとき、もしかして、自分は、精神分析な対象になるトラウマのようなものを、とにかく克服したような心的常態になっているのだろうか、と考えさせられた。その延長で、今回の、おばあちゃんと蛇の夢がでてきているような気がする。なくなったおばあちゃんが呼んでいる、だの、蛇を夢見ると金運がある、などという世俗の伝説が当てはまるような、夢の雰囲気ではない。それは落ち着いていた。が、死者と、毒蛇があらわれたとき、私は、そこに、なにか危機が、危険なものが忍び寄っている、と夢の中でも感じとっていたとおもう。だから、川岸の子供に、動くな、と心でおもったのだ。その蛇も、おばあちゃんも、穏やかだった。私も、落ち着いていた。おそらく、次なる水準の試練に、私は入っているのだろう。それが、何か、どんなものなのか、私には気づけない。その気づきと盲目性が、正解だったが、何に正解だったのか、忘れた、思い出せない、出させない、という心的あり方に、あらわれているのだろう。

2020年12月28日月曜日

植木手入れをめぐって

親方のモッコク
私のモッコク

年末の庭手入れで、久しぶりに、親方がずっとみていた植木にのぼって、整枝作業をした。親方の手入れしてきた庭木のあとを手入れするのは、難しい。抜く枝がないからだ。必要な枝だけで、シンプルに整枝されている。一年の間では、枝の発生や伸長も抑えられてあるので、なんとなく伸び、なんとなく混んでいる枝を抜き、詰め、透いて木漏れ日よりは少し光の多い加減で、均等に整枝していくのがむずかしい。今回の木はヤマモモだったが、モチやモッコク、マツといった手の込む庭木は、そうなる。ツバキも、そうなるな。団塊世代の職人さんが切った植木は、次の年にも無駄な枝がたくさん生えてくるので、抜くのはたやすい。というか、どう木を仕立てていきたいのか、その意図がみえない、というか、ない、のだろう。あったとしても、手元に次に使える枝を残しておく、といったマニュアル的な反応だけで、しかも、その残した枝の、先と手元の枝との奥行き感や、芽の左右への方向的なバランスなど、伸びてきたら使えないだろうな、と私などがおもうものがおおい。だから、毎年ばさばさと切り返しの剪定になる。木が、単純問題になって、解答が、簡単すぎる。おそらく、直観的にやっているのだろう。一方、親方のは、論理的だ。翌年その木に登って、その論理をみつけ追いながら、思考訓練してきて、いまはほとんど初めから自分で切り始める腕前になってもう20年以上になるわけだが、久しぶりに、親方の跡をうまく切り抜けられるか、と緊張した。結果は、まだ駄目、だ。すんなりいかない。抜く枝が見つけられないケースが多いので、不用意に手数が多くなって、細部がゴテゴテしてくる感じになる。どれを抜けば、すぱっと解答が得られるのか、親方のようなシンプルな複雑性が縮約されるのか、うまく解答をみつけられないままだった。

来年の私が手入れした木は、ちょっと混み過ぎているだろう。木の伸長は、抑制、制御されてはいるだろうから、根が水を吸い上げる収入と、葉が蒸散していく収支のバランスはとれているだろうが、形として、すっきりしていかないだろう。

翌日には、私がここ数年やってきたモッコクを(もちろんその前は、親方がやっていたわけだが)、親方がやることになった。私はその翌日、マンションのエントランスをはさんで植えてあるもう一本のモッコクを例年どおりやったのだが、それも、なかなか、親方のようにはならない。せめて親方が切り捨てたゴミを見てヒントをもらっておくんだった、など初心者みたく後悔し、『なんでだ、ちきしょう…』とおもいながらやっていると、三角脚立の下で、こちらの手入れの様子をみている男性に気づく。私のカンで、建築の設計者だな、とおもえる。目が合うと、自然樹形とは、みたいな話になって、自宅に「クマシデ」を植えた、と話してくる。放っておけば、そうなるかと切ってないのですが、と言う。「井の頭公園ですね?」と私が質問する。相手はびっくりして「ええ動物園のほう…なんでわかるんですか? やっぱり、あちらの植木屋さんですか?」と聞いてくる。「いやすぐそこの、近所ですよ」と返事しながら、この設計者が、どんなイメージをもっているのかが頭に浮かぶ。まだ四十前後と若いから、子どもの庭も考えたのだろう。遊び空き地のなかに下枝が邪魔にならない樹木、そして黒いクマのような幹肌に垂直に近いストライプの模様が地と空に走る庭(井の頭動物園の森のイメージだ)……「日本の狭い庭では、落葉の高木は、むずかしいいんじゃないですかね。」

でかくなる木を、どうやって抑制していくか、その制御が、日本の植木屋の技術的な要諦になる。盆栽を、実地でできるのかどうか。ミクロな現象を、マクロで生かせるのか、となると、量子論になってしまうが、実際、なんで木のてっぺんにまで、根から吸い上げた水が上昇していくのか、は謎だ。本によれば、葉の蒸散作用、木の呼吸、とか説明があったりするが、ならば、なんでまだ枝葉が生えていない、冬から春先の樹木を切ってみると、幹からどばっとあふれるような水が漏れてくるのか、説明がつかない。まだ、光合成ははじめられていないぞ(呼吸はしているだろうし、人間の呼吸にも、量子現象があるかもしれないという説もでてきているが、それは置いておこう)。だから、まだ謎のままだ、とあった本の一説のほうが正しいのだろうと、私は判断している。が、電子(根から吸い取った水の、あるいはカリウムとかいった放射性物質に近い栄養分の陽子や中性子だとか…)といった、量子が関与しているだろうな、と想像している。量子もつれの、バトン・リレー、波動レベルの粒子が、収束を連鎖させて、いわばテレポートの数珠つなぎで、上に運んでいるのではないか、と予測している。その冬から春へのスイッチの入力も、量子現象が関与しているのではないか。量子時計だ。

となれば、植木屋さんのローカルな身体技術も、原子力と同じで、どう、その人智を超えた量子の振る舞いを制御していくのか、といったフォースの技なのかもしれない。原子力は窯底からの挿入棒操作で、コンピューターは半導体で、量子制御しているとしたら、植木屋さんは、剪定バサミや、素手そのもので、だ。私は普段、腰痛予防に杖をついて歩いているが、いざとなれば、スター・ウォーズのマスター・ヨーダよろしく、杖がなくても平気なのだ。

年末年始に向けて

ようやく仕事もおわり、年末年始へむけて、準備にはいる。

図書館で量子論関連のを借り、本屋にいき、ジャーナリズム関連の本を買ってくる。副島vs佐藤対談『ウィルスが変えた世界の構造』(日本文芸社)、佐藤vs手嶋対談『菅政権と米中危機』(中公新書ラクレ)、橋爪大三郎『中国 vs アメリカ』(河出新書)。

米大統領選では、投票機をふくめ、それなりの不正があったことは確実、と、オリーブの木の党首が、Youtubeで流している。だとしても、誰がなるかという個人をこえて、国家の意志のほうが強い、と上の識者の間では了解されているようだ。まだ読んでないが。

コロナでは、変異のことが世情の話題になっているようだ。一度に12か所、全部で28か所だかの変異部分が発生するのは、自然ウィルスではありえないのでは、という意見もでてきているようだ。新型ウィルスならぬ新型ワクチンにせよ、どうも物質の量子レベルでの関与・振る舞いの操作が要になっているのではないかと、私は推測している。開発途中の量子コンピューターもそうだが。原爆は、高エネルギーの粒子(物質)の性質を、RNAワクチンや量子コンピューターは、そうでもない粒子(波)の振る舞いを利用しようとしているようにみえるが、その制御が、人間に、本当にできるのだろうか? ヒト(生命)が認識するというレベルで取り違え=無理解が発生するのだし、数学とは、生命の認識を単純化したものだろうから、数式の解答が確率的に妥当な線、使える範囲、理解できる範囲、でやってしまうということが、どんな誤解=惨事を引き起こすのか、と予想してしまう。

やるのなら、わかってからやってもらいたいたいが、グローバルに展開されるワクチンなりコンピューターが、他に先取りされたらグローバルな不利益を被るので、ぶっつけ本番並みで実行されていくとしたら、おそるべき新年の夜明けになっていきそうな。

2020年12月19日土曜日

新型ウィルスをめぐって(19)


私もチャンネル登録している「哲学系ユーチューバーじゅんちゃん」が、このブログでも肯定的に評価したといっていい、徳島大の大橋氏を陰謀論者として批判検討しているので、ウィルス・シリーズ(19)として、言及してみることにした。第三波といわれるものがやってきているところでもあるし。

 まず、大橋氏のコロナ・ウィルスに関する評価検討からいこう。

 私の理解というか、受け止め方と、じゅんちゃんのそれとは違うようだ。私は、「コロナ常在ウィルス説」、じゅんちゃんは、「コロナ存在しない説」、と受け止めているらしい。確かに、大橋氏は、当初「コロナウィルスは存在しない」とセンセーショナルなタイトルをつけていたが、話をきいていると、そういうことではない、と私はおもった。それは、日和見ウィルスとして、何かの加減で人に悪さを引き起こす場合がある、と。が、私の理解は他で言及しているので、ここではそれ以上追求しない。

 じゅんちゃんは、参照リンクをはっている「理系院卒の怒り」というnoteに連載されていた個人ブログを引用して、「コッホの四原則」をウィルスにあてはめようとする大橋氏の態度は、基礎的な間違い、素人並みだ、という意見を首肯する。が、そうでもないらしいことは、コメントでも誰かが紹介しているが、ウィキペディアをみると、そこは、大橋氏も見当はずれでもないらしい。

 また、コメント欄にあることだが、大橋氏のようなPCR検査に対する異議申し立て、そして中国論文に対する撤回運動も、初期段階に世界レベルであったらしい。私は、そのMedeical Tribuneなるサイトに登録などしてないので、読んではいないが、私がいいたいのは、そういう水準の反証がでてきたら、この分野での、専門での、大きくは、科学での、どっちが本当なんだ、という判断を、原則的に(専門家も専門外の素人性をもつのだから)、誰もすることはできなくなるだろう、という話になってしまう、ということだ。

 私は、じゅんちゃんが参照している「理系院卒の怒り」を、知的好奇心をもって読んだ。ちょうど、量子論をめぐる読書をしているところだし、量子生物学についてもこのブログで言及したところだから、「分子生物学」にも興味がいっている。翡翠さんは、大橋氏のやってることは「老害」であって、新しい知識や技術をとり入れて適応することができていない、ウィルス抽出作業でも、昔ながらの手作業レベルで今の水準を推論している。2月までだったらまあその説の該当性はあるといえても、5月の赤毛テナガザルだかへの感染実証の論文がネイチャーだかにのったあとでは、もう全く通用しない、嘘になる、……とう、いろいろ、ネタをあげて専門分野的に検証批判していく。で、PCR検査では、まずプライマリーという導入遺伝子の設計が重要なのだが、その新型コロナに対するプライマリー設計で、WHOが、基礎的な間違いをしている、と指摘し揶揄することにもなる。しかし、WHOの研究者は、若くて、優秀だろう。そういう人でも間違えるってことか?(だから、陰陽の結果も変わってくる?) となると、もう、私には、判断できない、というか、文学系ブロガーとしての私としては、「クレタ人の嘘」というパラドックス論理の問題を想起してしまう。つまり、「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人は言った」、ならば、そのクレタ人の発言は嘘なのか真実なのか? 「専門家がその事実は嘘だと専門家に言った」……どっちだい? が、私たちは、そもそも、実は、そういう風に真実を理解しようとしているのか? したいのか? いったいなぜ、翡翠さんは、分子生物学を選び、科学を志向したのか? 科学は、なんのためにあるのか? 専門分野って、なんだ? ガリレオやダヴィンチのときにはなかったみたいだが。なんで翡翠さんは、ブログに書いたの? それは、科学なの? 科学じゃないでしょ、ならば、大橋氏と、やっている営みは、おなじじゃない? なんらかの自分の信念みたいなものへ、科学事実をこえて、実践していこうとしているのではないの?

 *新型コロナのウィルスがきちんと抽出されているのかいなか、という問題でも、それは「分離/精製」されたのではなく、製造されたものだという反論があって、なお遺伝子ソースはわかっていないという話を、「In deep」のオカ氏がリンクをはっている。彼はオカルトがかった陰謀論支持者といえるだろうが、そこには科学的参照もあって、私は全面的には信じていないが、想像力をかきたてられる。

 大橋氏のアップしているYouTubeをみれば、コロナ以前から、いわゆる、陰暴論支持者であることがわかる。私は、陰暴論を否定しない。それは、副島隆彦氏が、世の中に出ている大人たちは、トップの話し合いで物事が決まっていくことをみな知っているではないか、と言っているような、そういう意味延長でだ。私は植木屋だが、そこから類推し、金額のでかくなる世界で、談合がないわけないだろう、とおもう。高校時代の野球部同期で、地元で一番の商業都市の役所で経理のトップをしている者や、WTCの崩壊をニューヨークで直にみていたという金融アナリストなどにさぐりをいれると、にやにやしてたり、よくしってるなあ、とかいわれたりする。もちろん、世界のトップレベルのお話合いのことなど知らないから、だいそれた陰暴論のあるなし判断などしようがないが、苫米地英人氏のようなその近い現場にいた者が、昔はウォール街の人しか知らなかったことが今ではだいぶよその人にも知れるようになっているとの発言を、現場の声なんだろうなと推測する。じゅんちゃんは、陰暴論とは、ものごとを結局はそこへ一元化、単純化していく目的思考だと形式化する。しかしだからといって、真実が相対化されたままの、複雑こんがらがったままのなんでもありでいいということではなく、普遍(的真実)を、目的(エンド、終末)にではなく、始めにもってくるということがいいのではないか、とマルクス・ガブリエルの説をとりあげたりする。柄谷行人を読んできた文学系の者の言葉で言いかえれば、他者(とのつながり=普遍、真実の共有)は認識論的な構えではなく、論理的な前提として必要なんだ、ということになろうか。そしてこの必要は、実践において、生きることの倫理として、ということだ。しかし始原となる普遍とは、いやもうここでは、事実是非を超えた真理ということかもしれないが、その、真理とはなんだ?

 ベンヤミンは、嘘は必要なんだと、『暴力批判論』でいっている。トランプは、嘘つきなのかもしれない、バイデン当選には不正などなかったことを知っており、自分が大統領でなくなったら、借金取りにおわれ、暴行罪で起訴され、亡命でもしなくてはならなくなっているのかもしれない。しかし、そんな個人の動機をこえて、自由という大義名分に藁をもつかむおもいでしがみつき、本当にそれを信じ、ジャンヌダルクのように、遺伝子そのままで人格変貌するかもしれない。あるいは、リバティ大学での講演をきくと、自分をアウトサイダーとして認識する確信犯像もうかがえるから、本当に、ジャンヌダルクになろうとしているのかもしれない。そしてそう、のぞんでいる人の波がある。その波は、陰謀論者の妄想などではなく、小手先の改革で自分のどうにもならぬ現実が変わるものか、という生活の実感=必要がつきあげているのでは、と私は観測している。その波にのって、陰謀論者が空想するトップからの大リセットではなく、下からのリセット、終末思想的な動乱が新型ウィルスの拡散と一体となってビッグ・ウェーブに発展するかもしれないと。いま、いや新年そうそう、私はそうなってほしくはないが、その波はくるだろう、こないわけないだろう、とおもう。トランプがいようがいまいがだ。ソ連崩壊、リーマンショック、9.11、など、まだ小さな破局で……これは願望なのか、現実認識なのか? いやこれまでの社会現実が、そんな願望をつくっており、その目的のない下々の終末論的な波動のなかに、ベンヤミンが肯定して指摘する「神的暴力」が挿入されてくるのではないだろうか?

 しかし私たちは、神の真理を、普遍的な真理を知らない。しかし真実はこっちだという信仰に根拠をおく科学的態度への従属とは、ニーチェが洞察したように(それが正しければ)、遠近法的な倒錯、しかも身体(生体)レベルでのカラクリにはまったままだということになる。ならば、事実是非をこえていく信念が人には必要なのだ、ということではないだろうか? 大橋氏の啓蒙活動とは、そういうものだろうと私はおもうし、その個人の信仰を、私はおちょくる気にはなれない。また、その信者たちを、じゅんちゃんのように、そういう人たちが一定の割合で存在することはなくならない、という生態的理解ですむ問題だともおもわない。ウィルスをめぐる(15)のブログで、私はかろうじて陰謀の可能性を認めたジジェクに言及したが、マルクス主義的な原理的思考を忌避しているらしいじゅんちゃんは、では、どうやって、現実に切り込むのだろう? 宇宙の真理を原理的に解こうとする態度は、量子の発見とその振る舞いの不可思議な現実をまえに、棚上げされた。その態度の行くつく先の一つが、原爆であったと、そう理解してもよい文脈があると、私は理解している。

 <古典物理学にとって、決定論と自由意志の間の矛盾が決して解決されないとしても、物理対象に対する量子的確率という形での決定論の喪失が、矛盾をなくしてくれるわけではない。それはあくまでも、誰も答えを知らない問題である。それが答えが物理の領域にあるような問いであるかどうかさえわからない。量子物理学、古典物理学、神学――いくつかの問いは永遠に解けないように思われる。>(『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』デヴィッド・リンドリー著 松浦俊輔訳 青土社)

 *この世界的な第三波の推移をニュースでみていると、確率的には低いと私は想定してきた、もしかして人為的ウィルスか、という気がしてきた。去年と同様、インフルエンザの入り込む余地がなさそうで。どちらも風邪みたいな自然同士なら、少しはせめぎあってもよさそうなのに。集団免疫も、中国からの亡命者が告発していたように、できない、って気配が。しかし、身近には実感も持てないので、本当にコロナ在るのか、という気もなくならない。翡翠さんは、その説を、提出されたとされている新コロの遺伝子コードの読解から、そこに人為を読むことこそ「不自然」と判断した。また、今の技術では、遺伝子の配列を人工的に操作・製造することは可能だとも言っている。私の知っていた範囲では、科学者のほとんどが、人為はありえない、今の科学技術では無理だから、というものだったが。しかしそう思われていても、アメリカの軍事技術はやったのだ、というのが、副島氏の見立てだった。 

2020年12月13日日曜日

量子論をめぐって(2)


前回ブログで、アメリカの新大統領に、トランプが再選されているアメリカと、バイデンが大統領になっているアメリカと、二つの世界が「並行」しはじめた、とニュース解説した「大紀元」というメディアに言及した。ウィキペディアによると、「法輪功」という中国での新興宗教的団体の参加者が実施しているメディアだそうだ。 弾圧を受けているらしいが、となると、これは、亡命政権的な活動なのだろうか? 日本でのオウム真理教との類似性を指摘している意見も散見したが、中国の歴史をかんがみると、そう社会学的単純さで比較はできないだろう。中国での動乱、革命は、道教的なものと結びついた大衆運動がかかわってくるのが、常態的ともみえるからである。そんな運動が、トランプなのか、トランプ的なるものなのか、を支持している。

日本でも、Youtubeなどが、トランプ賛辞的な報道を削除禁止する方針の報道から、その弾圧が、かつての左翼活動家たちの「転向」問題とパラレルであるかの感として受け取られ、発言されているのが見受けられる。彼らの多くは、一概には、右寄りな言論家、とされている。というよりなにより、トランプ自身がなお権力をもった保守派の大統領なのだから、なんだかよくわからない転倒した事態が起きているとするのが、客観的な見方になろう。いわば、日本におきかえたら、総理なままの安倍晋三とその支持者たちが、メディア弾圧をうけて、転向か沈黙を強いられている、そんな世界が到来しているようなものだろう。

私自身は、今回のアメリカ大統領選、不正があったと解釈するのか常識的だとおもっている。正邪、事実是非の判断は、しようがない。郵便での不在者投票のほぼすべてがバイデンになるなら、郵便物がとどくまえでも、バイデンが優勢であってもよかったとするのが、統計的な確率の現実に依拠することになるのではないか、とおもうからだ。そう選挙中に意見表明した、アメリカの経済学者もいたそうだ。数学的現実にそぐわない結果だ。もちろん、それくらい、トランプは圧倒的に嫌われていて、そういう人たちこそが郵便投票を選択した、という偏向行動も、確率的にないわけではないだろう。量子が、壁を突き抜けて、トンネルしていく確率もあるように。最初に開封されていった用紙に、トランプと書かれたものが偏っていた、という現象も、ありえないわけではないように。選挙が正当だと解釈する人たちは、この偏向した低い確率の現実を観測したわけだ。

私は、この結果を、素直に信じるわけにはいかない。しかしかといって、トランプが、貧しい(白人)労働者たちのために、エスタブリッシュメントに戦いを挑んでいる、というイデオロギーも、突然発生したような、トランプ自身が選挙のためにとった大義名分にすぎない唐突な感じで、本当に信じるわけにもいかない。実際、彼の政策は、金持ち優遇だったろう。が、いま、どちらを取るのか、選ぶのか、と世界が突き付けられているような印象である。エリートにつくのですか、没落大衆につくのですか、勝ち馬にのるのですか、敗者の道をゆくのですか、長いものにまかれるのですか、自分の道をゆくのですか……etc。

とはいえ、私が日本に住んでいるからなのか、日本人だからなのか、そんな騒動、コロナも含めて、としよう――に、巻き込まれているような日常ではまったくない。マスメディアにしろ、ネットやSNS等のメディアであれ、そういう情報を日々確認している知的大衆の間でだけ、観測されるような歴史混沌であろう。もと都知事の猪瀬直樹氏は、東大闘争に参加していたころ、喉がかわいたので東大裏のパチンコ屋にいって景品でコーラを当てて飲んでいたが、このパチンコ屋世界は、すぐ表のインテリ闘争のことなどまったく無知無関心なままなので、この現実を考えてとりこまないと、日本でのことなど考えられず、運動などできないのでは、とネット上のどこかで対談していた。とくに私のまわりは、年寄りな職人世界になってきたので、もう認知症がはじまっているのではないか、と観察されてくる。一緒の現場にいる70歳過ぎのベテランが、どこかずれた作業を繰り返している。たぶん、どうも、今の作業が、20年まえだかの作業を連想させてきて、それを、今の状況の中で固着しだすのだ。その一動作を、熱中して考えている、という感じだ。呼びかけても応じなくなるのは、耳が遠くなったわけではなく、注意力が今にいっているわけではないからだ。私の父もそうだったが、認知症と診断された人のなかには、なぜか掃除をしたがる人がおおい。なにかこだわりのある記憶があって、それを繰り返している。そして、はっとしたように、今にかえるが、そのとき、掃除をしていたという自覚はなくなっている。家にかえると、父は、ゴミをためこんだポケットのことなど忘れていた。

程度の違いはあっても、歳をとれば、言いかえれば、年齢を重ねれば、誰もが今と過去とを重ね合わせて認識していく。「昔はこうだった」、というのが、オヤジ尺度のひとつだそうだが、認知症の世界とは、その現在と過去とが「並行」して存在している事態の肥大化であろう。そして「過去」に言えることは、「未来」にもいえる。それは、現在の状態から過去の規則性をよみとることと、未来の予測をすることとは、同じ能力、計算なのだから。そうやってわれわれは、地球の過去の大気と未来の大気、CO2の増減がどうのと観測しているわけだろう。

以上の話を、もちろん今の私は、考え中、勉強中の「量子論」にひきつけて発言している。SF的な多世界論ではなく、凡庸な、普通の人の多世界論としてである。

2020年12月6日日曜日

量子論をめぐって

 


図書館で量子論に関する本をいくつか借りたついでに、『新潮』12月号の、三浦雅士氏と福嶋亮大氏の最近の文学事情に関する対談を読んだ。さらについでに、ページをぺらぺらめくって、島田雅彦氏の、古井由吉氏の遺作『われもまた天に』の感想を読んだ。そこで、島田氏は、古井氏を量子論的観点から考察している。

私の、古井氏に関する関心も、島田氏のものと重なるところがある。いわば、時間と空間の、マクロ現象では常識的ではないとされる、その量子的なふるまいを文学者側から捕捉しようとしたような営為にである。プルースト『失われた時を求めて』のアジア版、日本語版といおうか。しかし、古井氏の関心が、あくまで、詩的なレベルにとどまっているとするなら、私はもう少し、文学とは切り離された、まずは科学的解析として、より散文的に理解し提示してみたいとおもっている。モデルとしては、ドストエスフスキーが、当時の数学の先端、非ユークリッド幾何学にふれて、それを自身の形而上学的な思想や終末思想にまでひろげながら、多様な主人公を設定して、散文的な議論を闘わせたような営為、になる。

量子論というと、文学的には、マルチバース、多世界論や平行宇宙論など、SF的な関心になりがちだ。島田氏も、そっちへのバイアスが強いようだ。東浩紀氏の『クォンタム・ファミリー』や、このブログでもとりあげた、倉数茂氏の『名もなき王国』もそうだろう。しかし私には、むしろより凡庸なこの世界、波と粒子の二重性という量子の性質でいうなら、波(潜在世界)よりも、粒子(物質世界)にこそウェイトがある。波(潜在性)を現実的に理解するところから、マルチバースになり、スピリチュアリズムの思想がはびこり、逆にその現実性を度外視するところに、俗物的な物質主義が支配的になる。が、大切なのは、<他ならぬこの>、ということだろうと、私は柄谷行人氏の『探究』経由で、量子論を理解しようとしているのだろう。他(可能なる潜在世界の多様性)ならぬ(その肯定による否認)この世界(唯一・固有性)、ということだ。この世界の理解には、量子力学的な波動的観点が必要であるが、それが、統計確率の平均値、ビッグデータみたいに理解されたらもともこうもないだろう。二重スリットの量子実験は、電子ビームを一粒ずつ打って、その多数打った統計的現象として、スクリーンに記録された波模様を観測するわけだから、それは、ビッグデータから一般法則を見だすのと同様な事態なのだ。そして実際に、いまや人間が、三浦VS福嶋氏の対談でも指摘されていたように、主体ではなく、量子的なふるまいをする統計(集団)として処理され、されることを望んでいるようなヴァーチャル世界事態になっているわけだ。AIが解析してネット上に提示される欲望は、明確に集団統計からくるが、それが個人のふるまいを現実化している。ウィルス騒動も、個人の思いを排除し、父母の死に目にもあえず、統計処理に従うよう要請している。

しかし粒子一粒一粒に、実存性や固有性があるわけではないだろう。スピリチュアリズムでは、そう解釈しようとするむきもあるようだが。が、あくまで、粒子と粒子との関係性に、固有な記憶性が刻まれているはずだ。が、その視点は、科学的にはまったく未解明なままである。が、粒子でも、陽子や電子といったフェルミ粒子や、光子のようなボース粒子といった区別があって、そのふるまいの違いと関係構造の考察に、量子関係の固有性をのぞかせる現象がうかがわれているのではないか、という気がしているが、勉強中だ。

夢は、覚めたばかりでも、思い出すのは困難だ。が、事実として収束した記憶は、つまりは経験は、時とともに解釈がかわるとはいえ、そうではない。つまり、潜在的に波としてみたものと、事実的に粒としてみたものとでは、記憶のあり方がちがう。また、ワクチンレベルでDNAの入れ替え治療がおこなわれ、遺伝子が変わって人格もが変わってしまう人もいるのだそうだが、それでも、記憶の同一性はあるようで、別人が同一人物と重なってしまう、というのもあるらしい。さらに、3.11の被害者に、両親から「不思議ちゃん」とよばれていた子供がいて、その子は、なぜか、神社参りして祝詞をおぼえることが大好きだったそうで、そんな現象を理解するには、前世の記憶という仮説を持ち出さないと理解しにくいが、としたら、それは、自然が量子レベルでの関係の固有記憶をリサイクルした、ということになるはずで、それでも、津波という自然の波動は、またシャッフルしたのか、ということになって、なぜなんだ、どうしてそんなことをするのだ、と訴えたくなる。

アメリカの大統領選を報道するネットTVで、アメリカではいま、バイデンの当確と「並行」してトランプ勝利が実現する世界が重なり動いている、と解説するニュースがあった。たしか、「大紀元」とかいう、ニューヨークに拠点する香港だか台湾系のメディアだ。意識的に、「並行世界」などという表現をつかったのかどうか、私にはわからないが、マルチバース論からは、そうなるのだろう。バイデン大統領と、トランプ大統領の世界に、アメリカは分岐した、するのだと。人間の選択が、宇宙(自然)の選択になりうるという、人間中心主義の思想をとることに私はばからしさを感じるが(しかしおそらく、宇宙とは、そんな人間の観測の産物でもあるだろう)、いまは、毎朝、通勤時、その重ね合わせの世界を実感してみようと試みている。引っ越しした借家から、自転車で職場へ向かうのに、先月まで住んでいた団地を通っていくのだ。時刻は七時に団地を出ていたのと、ちょうど同じ時刻に、そこを通過する。近所のお寺の鐘が鳴って、まさに、時間と空間が、そのゴーンという波動とともに重なる感じだ。引っ越ししなかった私と、引っ越しした私が、朝日にむかって、坂を疾走していく。そこから先は、同じ職場が、同じ仕事が待っている。違うのか、同じなのか? 不思議な感覚だ。

以上のような不思議なもつれを、文学的営為として刻みたいとおもっている。


*島田氏は、「ところで、量子のわけのわからなさを如実に示す二重スリット実験というのがある。縦長のスリットを二つ入れた衝立に電子を照射して、それがどのようにスリットを通過するかを確かめる実験だが、電子は人が観察している時は「粒子」として、観察していない時は「波動」として振る舞う。観測が起こると同時に電子は動きを変えてしまうため、観測していない時に何が起こっているのかは知りようがないのである。/なぜこうなるのか、結果の違いを引き起こす「観測」とはそもそもどういう現象なのか、長らく不明のままだったが、量子や原子同士が相互干渉することによって「観測」という事態が生じ、電子の状態が即座に決定されるということが証明された。」と言っている。本当に、「証明」されたのだろうか? というか、上の言いかただと、曖昧すぎてしまう、のではないか? たとえば、機械(観測装置)が反応したままでは、波であるらしいのに、人間が「観測」して、はじめて波が収束する、が、人間も機械も、量子なので、どこに違いがあるのか、ということがわからないので、「証明」になどなっていないのではないのか? つまり、「観測していない時に何が起こっているのかは知りようがない」ままなのではないか? いや、この言いかたも、曖昧だろう。波のとき、シュレディンガー方程式に従うことがわかっているのだから。つまりわからないのは、あくまで、「人間」がわからないのである。電子同士でのもつれも、収束し、波が粒になるが、だからといって、それが人が見て収束し粒として確定する「観測」と同等なのか、不明なままなのではないだろうか? Youtube上での量子論解説には、こうある。―― 「しかし私達自身がこれらの全く同じ粒子から作られているならば、では、私たちが何かを観測する行為が、宇宙の他のすべてのものと根本的に異なるのはなぜなのか? これは史上最大の未解決の科学的哲学的なミステリーの1つです。」

私は、生命というものが、量子の収束した現象なのだと予測し、そのビッグ収束の集まりのなかでも、小さな波のもつれと収束が反復される、という現象が生体内のあちこちで起きているのだろうと予測もする。波動方程式を発明というか発見したシュレディンガー自身が、最後の「生命論」で、そう感じていたようである。だから、生きた猫と死んだ猫が重なり合う曖昧な(多重)世界などおかしいだろう、と、「シュレディンガーの猫」という思考実験を皮肉的に提示したわけだろう。彼は、生命とは出来事なんだ、とみていたわけだ。あれこれではなく、このなんだ、と。が、アインシュタインとともに、その真理追求の科学態度は衰退し、実用科学として、シュレディンガー方程式が利用されてきた。真理追求は、棚上げされたわけだ。が、最近になって、それではすまない状況になり、真理探究的な包括的な理論をめざす動きが若い学者たちの間ででてきている、ということらしい。