2019年12月22日日曜日

大学入試改革をめぐる

「佐藤 一例を挙げると、早稲田の文化構想学部の入試問題は、近代文語文、要するには江戸末期から明治時代の文語文で出題されます。これを出題範囲に入れているのは、後は一橋大と上智大学の経済など。高校では普通学ばないので、「東大文Ⅲには受かったけれど、早稲田の文化構想は落ちた」ということが、実際に起こるのです。
 ところで、これらの大学がなぜそういう入試をするのかというと、入学後の授業に必要だからではありません。「うちの入試問題は、最低二か月は近代文語文を勉強しないと、点がとれませんよ」という意思表示なのだと思います。つまり、「特別の勉強をしてでもこの大学に入りたい」という「第一志望の学生」を集めるための入試戦略なんです。」(『教育激変』池上彰・佐藤優著 中公新書ラクレ)

「渡部 …で、その変化の流れを、今回の出来事が大きく加速することになった。早稲田はこれを機に思い切りコンプライアインス系に変わってきたといいます。…(略)…自分のことを棚に上げて済みませんが、その気持ち悪さが、「戦前的」なものにみえてなりません。しかし、戦前はそれでも、中等高等教育だけは、しっかりしていたわけですよね。少年少女に難しい本を、遠慮なく読ませる。大学生ともなれば、英語以外にもう一つ、二つ原書を読めねば、周囲が納得しない。ところが、現在の「戦前」は、その文系教育までも決定的に否定しはじめているんですね。新しい大学入試制度と、それに準拠した高校の新指導要領。これは大問題で、高校の国語の指導要領が大きく変わります。紅野謙介さんの『国語教育の危機』という新書本に詳しく書かれていますが、それによると、三年後の二〇二二年から指導要領が変わって、国語が「論理国語」と「文学国語」の二本立てとなり、驚くべきことに、「文学国語」を受講しなくても高校は卒業できるようになってしまうんです。その「論理国語」とは、駐車場の契約書の内容を読むとか、いくつもの文書を整理するとか、つまり、ただの情報としての日本語を学習するそうです。簡単に言うと、今度こそ本当に、教科書から『こころ』も『舞姫』も消えるようです。」(「特別インタビュー 文芸評論家・渡部直己はなぜ、早稲田大学文学学術院教授を「解任」されたのか その2」『映画芸術』2019.469号)

「しかし、「民主主義社会」において存在しうるのは、たかだが相対的に目立つコソ泥に過ぎない。それが「原父」であるかのように自身を見誤ったとすれば、遅かれ早かれ「殺される」ことは、まま起きるだろう。渡辺直己に間違いがあったとすれば、その批評それ自体ではなく、誰もが村上春樹の批判者になるべきだし、誰もがユングをバカだと思うべきだと信じたところにある。もちろん、そんな大学のありかた自体が今や過去のものである。現在の大学が求めているのは、学生が聞いていようがいまいが、つまらぬ精密なシラバスどおりきっちりとニュートラルな――せいぜい、辛口の書評ライターがやる程度の?――授業をやってくれる教員であり、ゆくゆくは、それもAIに取って代わられようとしている(のかもしれぬ)のは、すでに述べたとおりだ。」(絓秀実著「自由と民主主義万歳! われらコソ泥たち――ケーススタディ」 『G-W-G(minus)03 特集 天皇/制と文学』2019.5)

延期になった大学入試の新テスト導入。
その国語テストの主な理由は、記述式になるので、採点が曖昧になって公平性が保てそうにない、ということらしいが、本当は、何か政治的、経済利害的な駆け引きがあるのだろう。もともと正解のある答案なので、採点にぶれなどそうは生じないはずだ。これまでだって何字以内で記述せよ、というのは二次試験でやってきたはずで、しかももっと答えがはっきりするものになるのだから、マニュアル的に対応できるはずだ。一昨年だかに公表された新問題を私はやってみたが、上記引用著作での佐藤氏の肯定的な評価よりも、私は渡部氏のような印象と評価をもった。文学が読めるものはマニュアル書も読めるようになるだろうが、マニュアル書しか読んでこなかったものは、文学など読めないだろう。ということは、その文字どおりな答えの理解で終わってしまって、相手の返答の真意まで読み込めず、コケにされるような人間教育となるだろう。前回ブログでもいったように、「官僚を育てたいのだな」、というのが私の感想だ。もちろん、明治時代からの教育目標はそうだったわけだが、なお江戸的な教養のあり方が尾を引いていて、今回、それがもっと純粋に目的化される、ということなのだろう。

そして早稲田大学の教授であった渡部氏がセク・パワハラの容疑で「解任」されたのは、氏の解釈では、そうしたことどもの政治的駆け引き、大学改革にまつわる政治的変化の背景に巻き込まれた、ちょうどよい生贄を自ら提供してしまった、ということになるらしい。私も、そういうことなんだろうなとは思うが、それも呑気に大学の先生をつづけ、今さらながらの遅れた、遅すぎた認識だ、というのが絓氏が示した評価であろう。また、ネット上で渡部氏をつるし上げるに一役買ったであろう私の知り合いの範囲の感触では、PC的な観点からというよりは、大学変革の瀬戸際時点で抵抗していた認識前提を、今になってひけらかして偉そうな弁解をするな、ということのようである。それは実践的に、もっともな批判なのではないのか?

そう批判した友人のメールでの突っ込みがなかったら、私は、そもそも渡部事件に興味はもてなかっただろう。今回ブログで取り上げようと思ったのは、冒頭引用の池上・佐藤の対談本を読んだからである。素材として、上記の雑誌文章などをその友人からメール送付してもらった。当初、つまり私が今年に入ってからの新聞で、渡部氏が「辞任」したという記事を読んだときの第一印象は、日大アメフト部の事件と同じなんだろうな、だけど、何もやってなくとも、つまり無罪であっても、「心で姦淫したものは姦淫したのである」というのが文学の洞察的立場なのだから、すぐに「辞任」というのはさすがな対応だ、というものだった。だから、おそらくはネット上では相当PCでやられてるな、とおもい、自身のブログで、絓氏と入れ替わりで早稲田の文学部に教えにやってきた渡部氏の最初の年の教え子の一人な私なので、「一番弟子」だという自認を表明してみたりしたのである。ところが実際のところは、事件時期も日大アメフト部事件後の2017年のことでほぼ同時期、「辞任」ではなく「解任」であり、そのフェイク・ニュースに抗する渡部氏の弁解は、私にはあまりに当たり前的、つまり文学的でないので、がっかりしたのだった。あの当時の、現皇嗣の女房・紀子様のことを「白豚」と読んで授業していたように、何か過激なことでも言っているのかと期待したのである。とくには、ネット上の炎上で人が殺される、などというのは、柄谷氏のはじめたNAMに主体的に関わっていれば、経験ずみのことであるはずであり、少しは慣れて技術も習得していただろうに。あの組織の瓦解が、一人の女性(現私の女房)への魔女狩り裁判(評議会)での全員一致な決議を端緒に伝播していったことを、私はどこかの総括WEBみたいなところで指摘していたはずだ。

日大アメフト事件をめぐっては、自身のブログでも何回か書いたが、要は、スポーツや文学をやる学生の質が落ちた(変わった)、前提(育成)的な考えが共有されなくなっている、ということだ。真剣にやるスポーツで、ファウルがあるのは当たり前だが、それはギリギリな線でやるというところに技術とスポーツマンシップ(友情)がある。鹿島アントラーズにいた内田選手が日本代表としブラジルのネイマールとマッチアップしたとき、最初にしかけたのは内田選手だった、それ以降、二人での削り合いの姿自体が一つの見ものだった。が、日大選手のアフターファウルは、論外で話にならないが、問題なのは、そのスポーツ的にはとろい選手が日本代表候補である、ということである。文学でも、男女の性関係問題などサシで勝負・対処できなければしょうがないのに、そういう前提がないものが大学院で文芸創作をめざしている女性だという。ヤクザがなぐられて交番に駆け込むのが正当的な時はあっても、おかしい話ではないか。そこにあるニュアンスが共有されていない、つまりは、暗黙の前提である共同体が崩れているのだ。すでにして、新テストでしか受からないような、文字通りな理解しかできないような、監督や教授の話を鵜呑みにしかできないようなプロの卵になってきていた、ということだ。

暗黙の共同体が崩壊していくのはしょうがない。しかし、ニュアンスのわかる生徒、子供を育てていかなくてはいけないのではないか? 佐藤優氏が教育の前提とする、「共感」する能力といってもいい。たしかに、それを身につけさせる方法の一つとして、きわめて日本的な、部活動的な、といおうか、教師の人格的感化、という作法というかやり口もあるだろう。渡部氏はそう意識的に実践してき、佐藤氏にも、根本はそうだという共有がある。が、そんな根底的なことが、大学という現場で、つまりはすでに成人に近い人が集まる場所で、そもそも可能なのか? それが不可能だからこそ、渡部氏は、まずは生徒の人格前提を破壊するショック療法からはじめ、佐藤氏は、教える前から自分の著作を読んで語学や数学の勉強もしてきている良い子にだけ教えるのがメインになる。つまり両者とも、実践的には無理をしており、理論的には偽善的だということだろう。私自身は、子供(小学生年代)にサッカー(パパ)コーチとしてかかわることで、若い父母とうに接しながら、結局は、世界の動きに現場で負けて、ただその運営転換に巻き込まれないよう手早く身を引いた。ということで、実践的にはお手上げ状態ということだ。

理論的にはどうか?
サッカーを通して、子供にどうその技術を教えるのか、だいぶ翻訳をふくめた書籍もでていて、勉強して分かったのは、少なくとも、もはやあちらでは、部活動顧問のような渡部氏のやり口はしていない、主流にはなりえない、ということだ。子供を楽しませていつの間にか技術を習得させる練習メニューの開発をふくめ、コーチの指導法とう、驚くべき科学である(NHKの「奇跡のレッスン」とかいう番組の、テニス指導の様子が典型的だ)。しかし考えてみれば、それこそが日本が世界大戦で負けた、負けた原因の思想性ではなかったか? おそらく欧米の大学教授が、スパルタ的に教えるなんてことはないだろう。渡部氏は、留学はしていないのだろうか? しかし厳密には、あちらの思想の根底が変わった、真に反省したということではなく、いわば女の口説き方がうまくなった、ちゃんと歴史教訓を科学的に検証して取り入れている、ということだろう。パパ(コーチ)の位置を、譲っているわけではないのだ。強い「原父」にかわる、柔らかい「コソ泥」パパ。
絓氏の現代思想的な言い方では、次のようになるだろう。

<男根中心主義的あるいは男性中心的パースペクティブは、今日では、デリダやフェミニズムをはじめ多くの立場からの批判にさらされている。男根中心主義の権化のように批判されていたラカンでさえ、「すべてーではない」女の享楽の存在を主張しているとして、そこに可能性が見いだされている(しかも、そう言う論者の多くは、あたかもファルス享楽が簡単にのりこえられるかのごとく主張している)。男根中心主義をあからさまに主張することは、いかに保守派といえども、はばかられる。保守派が、なお「民主主義」を拠りどころにせざるをえないのも確かだろう。現在ささやかれている「民主主義の危機」なるものも、一夫一婦制の危機とそののりこえ不可能性に深く関係しているはずである。>(前掲書)

この箇所を、私は、このブログでも書評した、河中郁男氏の『中上健次論』への応答と読む。が、それは私の考えている最中の問題でもあるので、一言する。

エマニュエル・トッドの家族人類学と柄谷行人の世界史の構造をふまえていえば、「一夫一婦制(核家族=双系制)」とは、近代(民主主義)においてはじまったのではなく、むしろ歴史(文明)以前の人類、狩猟的な遊動生活時にまでさかのぼる習性となる。フロイトの「ファミリーロマンス」とは、文明(帝国)に接したことによる、葛藤の症状である。それは、「原父(帝国=共同体家族)」に一元的に支配されてしまったことへの、「抑圧されたものの回帰」である。自由とは、家から出られるということであり、平等とは、その遺産の兄弟姉妹への平等的な分配である。が、文明(歴史・帝国)は、そうさせないような制度をもった。父が、死ぬまで子供を手放さず、相続は長男(男系)へとされて、その体制の保持・伝播が図られた。が、人類の基底習性には、むしろ「父」ではなく、「母」に影響されやすい自然趨勢が強いのが実情で、そこを問題として把握しておかなくては、父権性への対抗も十全たりえない。柄谷氏の、歴史以前(核家族)にあったろう「贈与交換」を「高次元で回復」というアイデアや、ラカンの、キルケゴールの哲学、「ドン・ファン」という概念から示唆された「すべて―ではない」という発想も、そういうことではないか? 私は、去年、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」を今さらなように読んで、キルケゴールの女性の「献身」というヘーゲルへの対抗概念を想起した。実際的には、女房と息子との関係、そして、やたらユニクロのパンツを私(夫)のために買ってくる女房の行動形態を観察していることからくるが。むろん、「献身」などといったら、それこそPC的に非難の的となる。換言・敷衍すれば、トッドや柄谷の理屈も、結局は、男根中心主義批判の一ヴェリエーションとして現状に包摂されるだけなのである、とするのが、絓氏の立論、見立てなのだろうか?……

マッチョ的でない教え方、教育をめぐるあり方に関しては、岡崎乾二郎氏の『抽象の力』(亜紀書房)というのもある。私は、サッカー勉強の途上で、将棋の藤井聡太氏も受けたというモンテッソーリの幼児教育方法などにも触れていたし、「アクティブ・ラーニング」という実践の肯定的な理解も、その延長としてあった。が岡崎氏の複数主体という概念提出をめぐっては、絓氏が「簡単にのりこえられる」ように表現していると脱男性主義的な主張に言うように、安易な主体超克ではないかと疑義を述べたのだった。

中上健次論を上梓している渡部氏は、私の知る限りでは、河中氏へは応答していない。
渡部問題を河中氏の中上論で揶揄すれば、次のようなるだろうか?――渡部氏は、『地の果て至上の時』の秋幸の父・浜村龍造(「大学」)が、原父としての荒くれ者から、「資本家(企業)=文化人」へと変貌しているにもかかわらず、その変化に気づかないまま、相変わらず小「原父」として、「中本の一統」たる若い衆のようにふるまい「殺されて」いった、ということなのだ。フリーターになることも辞さなかった秋幸にはなれなかった。さらに、図書新聞での文芸連載再開の様とは、龍造に裏切られて精神病になり、アル中になって嘆き悲しみ語りに没頭する、『奇蹟』のトモノオジのような立場になっていく、ということだ。坪内逍遥賞に貢献したのに、早稲田ブランドに手を貸したのに、あの頃の文学は……と。龍造に切り捨てられ、ジンギスカン伝説を妄想するようになった『地の果て――』の「ヨシ兄」ではないだろう。とにかくも、私はそういう生き方を、悪くはないとおもう。が、河中氏によれば、そうなってしまうのは、渡部氏の批評のあり方、文学の考え方からくる、論理的な必然なのだ、として論考されているのである。それに対し、渡部氏は、なお何も言っていないのではないか?

しかし、ここからの「文学」の問題は、次のブログにまわす。渡部事件をめぐって提出された、ネット上の議論と、先に上げた河中氏の論考などをからめて、もう少し、突き詰めてみたいとおもう。

2019年12月8日日曜日

映画『ジョーカー』とハロウィン騒ぎ


「佐藤 ただ、自分で「エリート教育」をやっていながら思うのだけれど、このアクティブ・ラーニングについていけない人たちがどうなっていくのかというのは、深刻な話だという気もするのです。詰めこみ教育同様、新しい学び方の現場でも「落ちこぼれ」は生まれるはず。面倒なことに、今度はそこにAIが絡んでくるわけです。
池上 前におっしゃった、AIリテラシーを備えた人間のところに情報やお金が集まっていく、という問題ですね。選ばれた人たちは、アクティブ・ラーニングによってそういう能力を獲得していけるけれども、そこからこぼれ落ちると、以前にも増して悲惨なことになりかねない。」(『教育激変 2020年、大学入試と学習指導要領大改革のゆくえ』(池上彰・佐藤優著 中公新書ラクレ)

映画『ジョーカー』が、若者の間で好評だという話は知っていたが、自身で見てみたいとはおもわなかった。がvideonewsでの宮台氏のコメントを聞いて、このブログで書評した河中氏の中上論を想起し、確認してみたくなったのである。また、子供の教育にハイになりすぎていきそうな女房に気分転換させるためにも、風呂敷広げたハリウッドの大衆映画に連れていくのはいいだろう、と考えたのだ。月曜日の天気は雨という予報だったので、前日の日曜日からその心構えでいた。二人で見るのは、『スノーデン』以来だろうか?
が、見続けていくうちに、私は、“超”がつくぐらい、女房のことが心配になってきた。やばいんじゃないか、と。この映画は、母親殺しがテーマになっていたからである。そして、そのテーマを本人に意識させるような成り行き、下地の上で、この映画を見ることになってしまったからだった。私は、日曜日に、試みに作ってみたYouTubeでの自作動画、女房と幼稚園児時代の息子のコラボになってしまったようなダンス・シーンのアップを、二人のラインで紹介していたのだ。私としては、二人にもこんな共作になるような仲があったんだよ、と思い出してもらえたらいいな、という感じだったが、実際の狂気のような女房のダンスと、背後の音響装置の破損から偶然に生じた破壊的なノイズ音の連続によって、私の思いやりは正反対へのメッセージにもなりうる、両義的な意味を含ませたトーク投稿になっていた。でこの『ジョーカー』は、私の希望とは正反対の方の意味の露呈へと後押しさせていたのだ。

橋本治が遺作にもなった『父権性の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』で、アメリカのヒーロー映画を題材にしながら、まさにその新書タイトルにあるような話題を提出していたのを、私も村上春樹をめぐって言及した。が、私自身がここ数年、このブログで主張してきたことは、むしろ「母殺し」をめぐるもの、いわば、日本の文脈だった。それを、トッドの核家族論や、柄谷氏の双系性議論で補完していったのだが、その以前は、中上健次を題材にしていたのだ。本当に相手にすべきなのは、父である龍造ではなく、母であるフサなんだと認識しなおし、「死のれ、死のれ、マザー、マザー」と若者に歌わせた『地の果て至上の時』以降の認識をとりあげて、である。
ジョーカーが立ち上がるゴッサム・シティーとは、宮台氏が指摘しているような、善悪の彼岸(「法の外」)である「地の果て」であり、そこに放たれた「火」が象徴させるものとは「至上の時」の出現であっただろう。資本家でもあるだろう父の殺害は、ジョーカー本人ではなく、それに感染した他の者が代行したという設定は、自らが手を下すまえに自殺してしまった父・龍造という秋幸をめぐる状況とも重なる。しかも、目の前で両親を殺されたヒーローとなるバットマンは、ジョーカーと異母兄弟であるかもしれぬという設定も、家族関係の入り組んだ、双系的現実を前提とした中上の設定と重なるだろう。が、『地の果て――』での秋幸は、まだ母の殺害の想定にはいたっていない。が、この洋画では、中上の『地の果て――』以降の認識が、『地の果て――』にすでに織り込まれているような構成をとっているのだ。トッドや柄谷の理論で敷衍していえば、核(双系)家族や高次元で回復されるべきだという交換A(互酬)の基礎を突き崩していくような衝動の前景化である。父の向こうの、母の存在、脱構築派が隠れたテーマとして問題としてきた欧米の抑圧された地盤が、テーマとして提出されていたのである。

私は「やばい」とおもいながら、一度ならず女房の様子を斜視でうかがった。さらに、ジョーカーが、息子とだぶってきた。女房は、息子から殺されるという母親の物語を、どう受け止め、その映画を観に連れてきた私を、どう思い始めているのだろうか? 私は、秋葉原事件を起こした青年のこともおもいだした。息子が小学生の時に発生したその事件をめぐって、このブログでも「小さな過去」と題して考察したが、私は最近YouTubeでみた動画のことを想起した。犯人として捕まえられた青年への、母親の過干渉がクローズアップされていた。さらに不況というか、クライシスになっていく社会状況の中で、若者は、息子は、どうなるのか、他人事のようには、この映画をみられなくなってきたのである。このブログを書く前に、『ジョーカー』の映画評を検索して、いくつか読んでみた。劇団ひとりの、自身の若い頃を振り返っての感想は、なお息子が入っていく、入っていっている世界をめぐって、私を深刻にさせる。
この映画の若者の間での好評、という巷の話題からは、私は、渋谷でのハロウィン騒ぎを連想していた。その現象をめぐって、私はフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」にかこつけてブログ考察したけれど、なお客観的対象としてだった、ということになろうか。私はそこで、江戸時代中期以降の、若集宿のような伝統的な中間団体の機能不全からの現象と、集団(仲間意識)を養育していくための唯一の機関になってしまったような現在の義務教育・高校までの下部的なシステムの不全状態を重ねてみたのだった。江戸後期から明治へとは、この不全を強権的な父権性導入によって解消させた時代、とも言えるのだ。

佐藤優氏のような論客も、こうした若者たちの現象に、ファシズムへの兆候をみるようである。最近の舛添要一氏の『ヒトラーの正体』への書評も、その一環態度だろう。私も、そうした歴史の反復性に言及したこともあるが、息子が成長するにつれて、国家機能を前提にしたファシズムが、本当に成立するのかどうか、疑問に思い始めている。スマホ導入の資本主義の現実を見据えた河中氏の中上論を読んでからは、なおさらだ。カリスマ的人物、なる集団的幻想が成立するのか? 橋本治が言ったように、もう「指導者はやってこない」のではないか、そしてそれは、ファシズムよりも危機的で壊滅的な、「地の果て至上の時」を、この現世に出現させてしまうのではないか……映画『ジョーカー』は、そんなカタストロフィを現実のものとして、私に想像させてきた。

観賞後、女房が、「もうやんカレー」を食べようというので、googleマップで探して、映画館のあったゴジラヘッド・ビルのすぐ隣下にあったその店へと、迷ったすえにたどり着いた。たしか、何かのテレビ番組で紹介してたな、とおもう。で、その漢方調味料入りだとかいうカレーを食いながら、女房がきいてくる。「なんで、父親は精神病院にはいったの? そこがいまいちわからないのよ。」私は、一瞬、なんの話をしているのかわからなかった。「えっ、病院に入ったのは、母親だよ。」「違うでしょ。ジョーカーの本当のお父さんが入ってたんでしょ。」「違うよ。ジョーカーの父親は、市長だよ。そう母親がその市長に書き送ったを手紙を盗み見てジョーカーが気づいて、あのでっかい父親の屋敷に確認しにいったんだろ。で、市長のほうは、母親が子供を虐待していたからその子、つまりジョーカーを幼いころ養子として受け入れた時期があって、その間だか、母親を入院させていた、という話をしたんだ。もちろん、それは女中に手をだした金持ちの言い逃れかもしれず、本当は、どっちなのかはわからない。母親の妄想なのかもしれない。が、この映画ストーリーは、それでも市長が父だ、ジョーカーは隠し子だというバイアスのもとで作られている。主人公は、そういうおもいにかられ、殺人を企てていこうとするんだから。」「そんなこと、言ってないじゃやない。」「そこまで説明したら、面白くなくなるから、文学でもなんでも、はしょって、観衆に推論させる、つなげられるところで作っていくんだよ。」私は、唖然とするより、イライラしてきた。ハリウッド映画のストーリも追えないものが、偉そうに子供の勉強を教えているのか? おそらく女房は、この映画に、母殺しのテーマをみてはいないだろう。おそらく、父殺しも。いちいち、文字で、字幕やセリフで説明していないから。文字通りな論理で展開されていかないと、論理がつなげられない、なんという優等生か! 私は、共通一次試験に変わるという、新テストの国語問題を思い出した。新聞で掲載されていたそれを解いて、要は、官僚を育てたいのだな、とおもったものだ。マニュアル書や図との関連など、書かれたことを読み取るテクニックに秀でた者たち。女房も、高校までは勉強ができたと豪語する。が、言外に構成される本当の論理、真意まで想像が、推論がいかない。これでは、あの教育改革では、忖度もできない官僚ができあがるだろう。忖度とは、思いやりの一種である。それに従うかどうかは別にしても、その下地がないならば、索漠とした人間関係、いや文字通り言わないと理解しあえない、堅牢な人間関係があるだけになるだろう。つまり、救いがなくなるのだ。

冒頭で引用した対談で、佐藤優氏と池上彰氏は、この新テストを評価している。私のやってみた感触では、以上のように、否定的だ(アクティブ・ラーニングという概念提起は、このブログでも子供のサッカー指導をめぐって、肯定的に言及してきたが)。それは、「論理国語」という用語分類で収れんされていく発想につらなっていく。なんと狭い、狭義な「論理」という言葉であることか。小室直樹氏は、「論理」を日本語で訳せば、「有言実行」になるのだと言っていた(『数学嫌いな人のための数学』東洋経済)。それは、言葉が通じない相手、他者へ向けての説得のための態度が前提なのだ。佐藤氏は、「共感」という人間能力を教育の基礎として提示しているが、「論理国語」の前提とは、島国的な、言わなくてもわかりあえる内輪世界での論理、言語ゲームである。が、人が外へ向けて言葉とともに実践する態度には、「忖度」が前提としているような、家族的な、核家族(双系)的な非権威的な密着度、とくには母子関係が大切なのだと私は洞察・理解している。周縁的な位置にいた核家族的小集団が、文明化された父権的な帝国に対し、皆殺しを免れるための行動を伴った論証である。まずは相手をみて、殺られる、と忖度できなくてはならない。ジョーカーは、秋葉原事件を起こした若者は、中上の秋幸らは、その基盤を破壊していく切実さを露わにさせた。理論的には、もはやファシズム(全体官僚主義)もが成立しえない地点に、私たちは立たされようとしているのではないか? 「地の果て至上の時」という時代に。……女房への心配が杞憂だったように、そんな言葉が実現されないよう、有言実行されないよう、私は希望している。

2019年12月2日月曜日

”フェイク”と”フォニイ”

「最後にもう一度、“フォニイ”という言葉の意味を確認しておきたい。私はどの場合にも、ヴァン・ルーの文例の、
≪内に燃えさかる真の火を持たぬまま文を書き詩を作る人間は、……つねにフォニイであろう≫
という意味において、“フォニイ”といったのである。」(江藤淳著『リアリズムの源流』河出書房新社)

今年の流行語大賞の候補にはなってはいないようだが、トランプが大統領になって、ポスト・トゥールース時代とか呼ばれはじめ、“フェイク”、という言葉が接頭語のように使用されるようになった。その言葉で問題とされているのは、その反対語の“ファクト”、ということなのだろうが、宮台真司氏によると、それはあまりに個人化された時代になって、事実の共有という前提自体が崩れてしまったから、という事になる。ということは、事実(ファクト)といえど、それは共同的な幻想、集団的な解釈だ、というニーチェを系譜に持つような教養が前提とされている、ということだ。私もその教養を共有している。だから、たとえば殺人(戦争)と歯磨き(日常)という事態があっても、前者は「事実」として記憶化されていくが、後者は取るに足りないものとして、記憶から、歴史から問題とされない。が、何を事実とするかもが個人化されていくとは、歯磨きもがその人にとっては「事実」として、歴史として認定されていくということであって、つまりは、殺人と歯磨きが同等な出来事になる、ということだ。この事態は、歯磨きという日常的になったものの歴史性を問うというような、ニーチェの系譜学を受けたフーコーのような分析在り方の普及版、ともいえる。そんな時代の中では、自分の隣にミサイルが落ちても、他人事のようにスマホをとりだして、なま映像としてYouTubeなどに流していられるような分裂した態度をうむ。分裂、というのは、より広い状態の中では身体実際としてそんなことはあり得ず(本物のスキゾは別になるか…)、ゆえにそのあり得ないことを当人もが意識せざるを得ず、ゆえにまた、炎が身近にせまってきたら撮影など不可能になって逃げるだろうし、あるいはそのまま、本当に焼け死んでしまった人もでてくる、ということだ。実際、3.11の津波現場で、そうやって逃げ遅れてしまった人を想定してもおかしくないだろう。撮影という個人的な日常行為と、戦争という集団的な行動との価値ヒエラルキーが同列に意識されるようになっているので、どちらをとるか、どんな何を他人と共有したい「事実」と認定したいのか、その価値判断が人それぞれに任せられているような事態=時代になっている、ということだ。

しかし、平成元年に出版された江藤淳の『リアリズムの源流』(河出書房新社)を読むと、少なくとも当時は、なおそんな意識はなかった、あるいは希薄だった、というように見える。江藤の時代にあって、流行語としてあったのは、“フェイク”、ではなく、“フォニイ”だったらしいからだ。

<形容詞“フォニイ”の語釈を見ると、“marked by empty pretention: FALSE, SPURIOUS”とある。すなわち、”空っぽでみせかけだけの。インチキの、もっともらしい“である。
 つづいて名詞“フォニイ”の項を見ると、“one that is fraudulent or spurious: FAKE, SHAM”と記されている。”いかさまでもっともらしい人あるいはもの。ごまかし、にせもの“という意味としてよかろう。因みにこの項には、次のような文例があげられている。
〈he who writes or composes without the true inner fire……will always be a phony.――H・W. Van Loon…(略)…
形容詞、名詞、動詞を通じて、“phony”の同義語は、ウェブスターでは“counterfeit”とされている。反義語は、少なくとも形容詞“フォニイ”についていえば、“リアル”である。この文例はウェブスターには出ていないが、本年一月二十一日号の「タイム」に、
〈ENERGY CRUNCH: REAL OR PHONY ?(エネルギー騒ぎ、リアルかフォニイか?)〉
という表紙刷込みの特集見出しが出ていたのが、恰好のものといえよう。>(「“フォニイ”考」)

トランプは、人為的な地球環境破壊の話は“フェイク”だとしているのだろうが、平成元年当時では、“フォニイ”という言葉が使用されていた。
しかし江藤は、この言葉を、当時の文学界に向けて、まずは言葉を扱う作家や研究者に対して言ったのである。

<…断っておくが、『リアリズムの源流』という論文で私が跡づけようとしたのは、日本の近代リアリズム小説の過程で果した写生文の役割についてである。「子規と虚子の方法と主張」とは、当然リアリズムの「方法と主張」である。…(略)…子規のいわゆる「新機軸」「新趣向」は、いうまでもなくリアリズムの機軸、趣向である。それはものに直接推参しようとしたことにおいて新鮮だったのであり、単に新しさのための新しさを求めたために新鮮に感じられたのではない。この「新機軸」「新趣向」から生れた写生文のリアリズムが、幾多の「新奇」のみを追い求めた言文一致運動のなかで生きのこり、定着し得たのは、とりもなおさずこのものへの推参の意欲のためである。いいかえれば、“フォニイ”でなかったからこそ、虚子・碧梧の「新機軸」は「無学」な批判に抗して発展し得たのである。…(略)…私の“フォニイ”批判は、“フォニイ”に対する「感覚的・自覚的(無自覚ではなく)な嫌悪の表現である。「感覚的・自覚的」に嫌悪を表現するとき、批評家は論理を用いる。こんなことは批評のイロハであって、このことに対する「非難は寧ろ自己の無学より起る」のである。文学研究家や外国文学者が、論理と感覚を分離して論じようとするのは、彼らの感受性の欠陥を露呈している。そして、批評家が「感覚的・自覚的」に嫌悪を表現しようとするとき、彼は「安定」を志向するどころか、つねにもっとも“critical”な位置に身を投じている。逆にいえば、そういう人間だけが批評を書くに値し、そういう人間の批評にだけ「真の火」があるのである。>

上のような物言いは、私にはラカンを思わせる。

<この「fictious」という用語は錯覚的(illusoire)という意味ではありませんし、またそれ自体では騙すという意味もありません。この用語を、フランス語の「虚構のfictif」という用語に置き換えることはけっしてできません。…(略)…それは、以前申し上げたように、あらゆる真理はフィクションの構造を持っている、という意味においてです。…(略)…そして、まさしくフィクションと現実とのこの対置のなかに、フロイトの経験のシーソー運動が置かれることになります。>(ジャック・ラカン著『精神分析の倫理 上』小出浩ほか訳 岩波書店)

江藤が目指しているのは、「事実」ではなく、「真実」だといえる。個人や人を本当に動かしている内的な構造であり、それに従わざるを得ないながらもその核となるその人固有の秘められた出来事、その衝迫性である。
河中郁男氏はその中上論で、そんな「真実」にはとどまらない作家の「事実」への居直りを、評価したのだった。「真実」を問わず「事実」のみを受け入れるとは、「事実」を相手にしない、ということだが、つまり、殺人も日常的な大した事ではないと過ごしていく、過ごしていくようになる資本主義の現実を肯定するところからやり直しはじめた、それが中上だ、ということだ。
私には、この評価はまだ出来ていない。先週あがったVideonewscomでの宮台氏の時代評と映画評を鑑みれば、中上の秋幸が「ジョーカー」のような存在になった、ということになろうか。
私は、「真実」の側、江藤が見据えた現実、リアルを手放したくないと考えている。が、それもがもはや、共有的な教養でも事実でもなく、私たちは、本当に、個人個人のバラバラな集合、何かの折には何らかの他の集合と重なって、共有項が発生する場合もあります、というような時代に、埋没させられていくだけなのだろうか? 

今日は雨で仕事中止になったので、これから、女房と映画「ジョーカー」を見に行く予定。

2019年12月1日日曜日

ダンス&パンセについて



「ダンス&パンセ」などとこのブログ名につけておきながら、少しもダンスの話がない。ダンサーであるはずの女房が、結婚後、いや息子が小学生にあがった頃からか、全然踊らないからである。もともとは、ヤフー・ジオシティーズに作ったHPに、私の創作や女房のダンスなどを載せていたわけだが、パンセ的なものはブログの方がやりやすく、ジオシティーズ自体が今年、時代の変遷を受け入れて閉鎖されたので、このブログ一本となったのだ。しかし、ダンス的なもの、動画はユーチューブがあるだろうと、試みに、一つかつてのをアップしてみた。

ユーチューブ;チムチムニー

女房は、子供の教育に忙しい。格闘している。高校受験にあたっては、教科書ぶっちぎりまくりだ。児童相談所に訴えようかとおもうところまでいった。「オノ・ヨーコが九九できない息子を蹴とばすか? ジョン・レノンがそれに加勢するのか? そんなことやったとたんアーティストとしての活動が偽物だとふっとぶじゃないか!」と、私が怒鳴っても、「理解できない」と答えが返ってくるのだった。どうも、芸術活動と私生活は、まったくの別物だという頭らしい。

息子が高校にはいって、だいぶ以前よりかは落ち着いてきた。自制ができるようなってきたようだ。しかしそれも、ある意味テクノロジー、ユーチューブのおかげ、というところもある。私の話や、あるいは文章メディアではだめなので、状況に応じたしかるべく人の意見動画を女房のライン上のトークに転送してやるのだ。それが、効いてきている、ような気がする。

2019年11月17日日曜日

ドキュメンタリー映画『ドリーミング 村上春樹』を観てから

このドキュメンタリー映画は、村上春樹氏の作中にある次のような認識を、真に受けることから開始されている。

<完璧な文章などというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。>

上をこう言い換えてみたらどうだろう?

<完璧な文章は存在する。完璧な絶望が存在するようにね。>

私には、どちらも、何も言い得ていないので、その文学的、詩的効果、言葉のコノテーションは同様に発揮されるように感じられる。意味があるようでないようで、ゆえに、どこか“深い”感じがでてくるような。
原作のデビュー作『風の歌を聴け』では、この認識に、さらに言い訳みたいな弁明がつづくので、さらに意味不明なような意味深長な効果がでている。映画中のデンマークの翻訳者は、この言葉の真意を理解しようとするというより、どう訳すかに悩んでいるのではあるが、私としては、他の人が、いったいこの箴言をどう理解しているのかと気になり、ネットで少し参照してみた。論理的に理解しようと努めている人もおられたが、「完璧な文章」の定義が結論になってしまう循環論理になっていたりする。そこを、「名文」という、慣習的には共同了解があると前提してもいい文章に置き換えて定義していけば論理が成立するかもしれないが、村上氏自身の文章からそこを忖度するには無理があるだろう。ゆえにというか、当然なように、それを、真に受けようとする真面目な人、真剣な人はとまどうことになる。
ある医者は、次のようなツイッターがあったという反応を紹介している。

<インフルエンザを心配する患者を前にして、実のところあなたは、インフルエンザかもしれないが、そうではないかもしれない、としか言えない、とかなんとか言った医者。あなたは村上春樹?>(「診察室の像」

この曖昧な村上態度に啓発されてつづられるこのweb文章にはユーモアがある。常識的には、そういう認識しか持ちえないならば、ユーモアで対処していくのは健全なことだ。が、村上自身の文章を読むと、すごく真面目腐っている。これはおかしい。ゆえに、私には、ひとをたぶらかせているとしか思えないのである。

さらにでは、上の認識を、割腹自殺した三島由紀夫にぶつけてみよう。「完璧な文章なんて存在しないさ。完璧な絶望が存在しないようにね。」、と。……たしかに、自殺者の絶望は、「完璧」ではないのかもしれない。さらに言って、「死にいたる病」(キルケゴール)とは、神への信仰が「完璧」ではないことからくる不可避な事態なのかもしれない。が、それを自死していく者の前でいうことは、ユーモアどころか、単なる侮辱にしかならないだろう。

私は別段、村上氏のような作品が文学として存在していることを非難しているのではない。どんな作品でも、あって然りではあるだろう。そうではなく、それが真面目な作品として受容されているらしいことを訝っており、真実をみようとする人の能力が劣ってきているのか、真実などもうみたくなくなってきているのか、には、何か時代的な作用があるのだろうかと、考えてみたくなるのである。私にとって、村上氏の作品は、メルヘン、大人の童話みたいなもので、とてもカフカのアレゴリーと同列にあつかえる次元にはいない作家なのだ。実際、このドキュメンタリー映画は、人物大のカエルがCGで現実の中に合成されるよう制作されている。ドキュメントというよりは、幻想的な風合いであり、それが、私にも受け取れられる村上文学的な「ありよう」である。

<月並みな意見かもしれないが、僕らの暮らしている世界のありようは往々にして、見方ひとつでがらりと転換してしまう。光線の受け方ひとつで陰が陽になり、陽が陰となる。正が負となり、負が正となる。そういう作用が世界の成り立ちのひとつの本質なのか、あるいはただの視覚的錯覚なのか、その判断は僕の手に余る。しかしいずれにせよ、そういう意味合いにおいては、F*はまさに光線のトリックスターだったと言えよう。>(村上春樹著「謝肉祭(Carnaval)」『文学界』2019.12月号)

最近の作品でも、上のような文章は、以上で指摘したものの延長にあるようなものだろう。認識があるというより、語りがあり、なんらかの効果がある。よく読めば、深く考えることは避けるよう弁解されている。が、その語り口と認識めいたものに「深刻」めいたコノテーションが付着するので、読者はまともに受ければ、論理態度としてはダブルバインドになるはずだが、ストーリーテリングの技術として、そこにとどまることは求められていない。が、私は読んでいるうちに胃がむずかゆくなり、とてもついていけない。人からすすめられて長編小説を読んではみるが、いつも上巻でダウンしてしまう。

私が感得する、この村上氏の日本語文章の身体性は、もしかして、翻訳では失われるのかもしれない、とこの映画を見て思い当たり、ならば英文で読んでみようかと思い立ち、どうせ英語で読むのなら、もっと思考を抽象モデル的にしぼって考察をしやすくしてくれそうな、多和田葉子氏の作品がいいだろうと、本屋に立ち寄った。全米図書賞の翻訳部門を受賞したという『献灯使』の英訳本はあっても、文庫で出ているはずの日本語がどこでも在庫切れでない。そういえば、と、多和田氏がノーベル賞候補にあがっている、というようなニュースをどこかでみたような気がして、ために売り切れになっているのだと気づく。しょうがないので、加藤典洋氏の『村上春樹の短編を英語で読む』という文庫本が目についたのでそれを買ってしまった。家で目を通してみると、英文が全然ない、逐語的に、一文一文を対照させて読解してくれるのかとおもったが、いわば社会学的時評みたいな感じだ。しかも、上と下の二巻本だったそうで、その下の方だけを買ってきてしまったのだった。次の週、中野区の方の本屋にいったら、多和田氏の『献灯使』は山積みされていた。増刷されたのか? 多和田氏の作品をまともに読んでみること自体が、多和田氏の『群像』新人賞の作品「かかとを失くして」を文芸誌上で読んで以来になる。まさに、上で述べてきた文脈上で、考えさせられた。最近再読しはじめた、江藤淳氏の論考を切り口に、この日本語(文体)を検討してみる価値はありそうだ。少しづつ、やっていこう、と思う。

2019年11月4日月曜日

論点整理――評伝『江藤淳は甦える』を読む

「私の知り得た限りでは、正田美智子さんの人気はハイ・ティーンの間では下落の一途をたどっているようにみえる。それは十一月二十七日において最高だったが、その日の午後の記者会見で微妙に震動し、今日では清宮〔昭和天皇の末子。現、島津貴子〕の人気にくらべてかなり劣っているだろう。(略)比較的好意的なのは下層中流程度のもの、中学卒業程度で〔中村〕錦之助や〔見空〕ひばりなどの日本映画のファンたちである。反感を示しているのは中流以上、上層中流にいたる比較的教育程度の高いもの、あるいは外国映画のファンたちである。(略)なぜ反感を持たれるか。それは十一月二十七日にはともかく一個の「平民」だった「ミッツィー」が、次第に見えない糸に引かれるように規範化され、自分でも規範的人間になろうとしているからだろう。(略)すでに記者会見の直後に、かならずしもハイ・ティーンとはかぎらぬ数人の人々から、まるでもう皇后さまになったようだ、という声を聞いたことがあった」
 十一月二十七日の記者会見とは、正田美智子嬢が皇太子の人柄について、「御誠実で、御清潔で……」と答えた、その日の「典型的な優等生」ぶりのことである。ここでは調査対象外の大人の「声」まで勝手に援用していて、ルポでもリサーチでもなくなり、評論家が顔を出している。この原稿を書いている時には、まさか自分の従妹の長女が次代の皇太子妃に選ばれるとは想像だにしていなかっただろう。小和田雅子も徳仁親王もまだ生まれてないから当たり前だ。(平山周吉著『江藤淳は甦える』 新潮社)

確か半年前ほどの毎日新聞の書評欄で、三浦雅士氏が冒頭引用の著作を紹介するに、もし今も江藤淳が生きていたら引用に使うテキストはエマニュエル・トッドになっていただろう、とあったので、もう一度江藤淳の仕事を振り返るに、この評伝はとっかかりやすくしてくれるかも、と読んでみた。私は、三浦氏が言うように、心理学的、社会学的なエリクソンから、統計学なトッドへと江藤の下地になる思考素材が移行するようにはおもえなかった。が、他にもいくつか探っておきたい視点があったので、それを記しながら、少し自身の思考過程を整理しておこうとおもった。

・ひと月まえぐらいの副島隆彦氏のwebサイトで、副島氏が、妻のあとを追うように自殺したとされる江藤淳氏の最期の現場を知っている出版関係者の間では、ベッドの上での暗殺かもしれないとささやかれている、と暗示させるような一文を記していた。アメリカでの公開文献を掘り出して日本への検閲問題を探っていたのだろうから、そんなことがありうるのか、とおもったが、この評伝では、江藤夫婦が実際に用心・警戒していたことが記されている。風呂に水を張って手首を切る、というくらいの現場記述しかないが、お湯ではなく水なのは、夏の夕刻ならありうるのか? と少なからず疑問はでる。突発的だったのなら、わざわざ風呂をたくのか、裸だったのかどうか、は知らない。

・個人的なことで、私の母方の親戚には、日露戦争に参加し、海軍中将にまで出世した斎藤七五郎という人がいる。江藤淳氏の祖父も海軍中将だったというから、重なり合うところもあったのだろうかとの興味だ。この評伝からは不明だが、スマホでついでに調べると、1902年明治35年5月10日に、一緒に明治三十三年従軍記章というのを天皇からもらっている。江藤の方が5歳年上で、海軍大学校甲種の一期首席卒業、斎藤の方は、同じく甲種の四期首席卒業だそうだ。しかし私がついでに調べてびっくりしたのは、この海軍の斎藤氏、海軍から派遣されたロンドンで、南方熊楠に大英博物館を案内してもらって知人となり、のちに、わざわざ和歌山の田辺まで訪ねている、ということだ。また、この評伝ではそこまで言及されていなかったが、江藤淳の父の弟が、水俣病を起こしたチッソの社長や会長をやった経歴があるということを知った。評伝では、興銀に勤務というようなことしか書かれていなかった。私は女房に知ってたか、と聞くと、なんとなくきいていた、という。小和田雅子嬢が皇太子妃の候補とされていたとき、親戚にチッソの社長がいるということで騒がれたのだそうである。つまり、私の方でも、女房の方でも、江藤家の部下の親戚がいた、ということになる。

・私が、学生の頃いらい読んではいない江藤淳の作品群に、再度興味を持ちはじめたのは、トッドと柄谷の交差点、民主主義(ローカル)と普遍(帝国)の原理の現在と将来的状況を見極めたいから、という視点からだ。より文学に引き寄せていえば、それは江藤淳が、大江健三郎に対し、日本ではなくノーベル賞を向いた文章を書きはじめたことへの批判の再考、ということになる。この江藤の批判は、村上春樹までは、妥当な有効射程に入りそうだが、では、今回のノーベル賞候補になっているのではないかと言われた多和田葉子には当てはまるのか、と問えば、もう無理な批判ではないか、と私は感想する。しかしなぜ、無理、無効になるのか? この問いは、蓮見・渡辺的な、文学オタク的な読解視点からは解明されない、というより、捨象されてしまうだろう。それは、オタクが、現実的な葛藤をカッコに入れることで成立する、純粋世俗だからだ(渡辺直己は、それを「不純な力」と呼ぶ――「話芸と書法」から)。が、文学を生きる、のではなく、文学が生きる、とするのが私の立場であろうとき、世俗(話芸)と文学(書法)は峻別できない。かつて、私小説作家は、それを書く知人の嘘(文体)に敏感だった。江藤淳も、この敏感さの系譜にあると言っていい。が、その文学外の感受性は、文学の、文字の世界に触れることで磨かれる。その批評的視点は、どこで確保され、理論化され、立場を明確(担保)化してきたのだろう? テクスト論以前の主題論的読解は、その担保を問わない独我論(小林秀雄的)だった。が、作品に埋没していくオタク読解は、そういう風に文学が好きなのではない者にとって、空々しい。江藤淳は、自分の感性を、上野千鶴子に評価される心理・社会学的視点だけでなく、いちおう、言文一致につらなるエクリチュールのレベルでも考察しようとした。もう一度そこらへんを突き詰めて意識化してみることで、ローカル(俗語)と普遍(文学)とのあり様と、そこに関わる私(たち)の態度如何が、より見えてくるのではないか?
先々週、村上春樹を翻訳しているデンマークの女性を撮ったドキュメンタリー映画をみた。なぜ世界の広範囲で村上が受け入れられているのか私には謎なので、少しは解明のヒントがあるか、と見に行ったのだ。で、見る以前の推定通りなことが提示されているので唖然としたが、要は、世界の帝国化の背後で、世界のオタク化もが同時進行なのだろう。なぜ私が村上を受け入れられないのか、も映画を見てはっきりしたので、次のブログで書き留めておこう。

・江藤淳が、ミッチーブームを、冒頭引用のようにとらえている、そういう受け止め方がかつてあり、今のマスコミからは完全に消え失せているのを知るのは驚きだ。今は、退位した平成天皇とともに、美智子氏は尊敬すべき人物として崇拝一辺倒な印象なのだから。しかし図式的な延長で考えていけば、もう上流などなく、中流もなくなりはじめて、そのミッチーブームを支えた中流の下しかいないような民衆状況になったのだから、当たり前か。そうした中流から脱落し始めた人々が、五か国語をあやつる現天皇夫妻を羨望をもって見守っているのかもしれない。逆に、語学も優等生的でなく、軽薄な男につかまる娘がおり、息子も情緒不安定と報道される庶民に近い弟家庭は、見たくないのか評判が悪くなっている。けれでも、次は、男系にこだわるなら、より庶民像に近い彼らが、天皇になっていく、のだろう? そのうち、ツイッターやインスタグラムをする王子やお姫様もあらわれるかもしれない。へそ出しダンスより過激な写真が流布されて。私は、そうなるべきだとおもい、そう皇室を擁護・保持したほうがいいとおもっているが(「人間宣言」の徹底――私の見立てでは、弟が悪役をかって、家族の思いを忖度して言動している…)、本当は、そうなるまえに、憲法から天皇をはずしておいたほうがいいのに、と考えている。そうなってしまったとき、それが国民の象徴です、なんてあったら、私たちが恥さらしみたいではないか? が、落ちぶれていく一億総中流は、自身を慰めてくれるブランドが必要なのだろう。その価値が列記として下がってからでないと、気づけないのだろう。そしてその「気づけ」には、二通りある。そこには世界の価値(ブランド)などなかった、ということと、しかしそれでも、大切なものだった、ということだ。しかしそのとき、消費者でしかなくなった国民は、もう要らない、と捨ててしまう可能性もあるのだろうか?

2019年10月22日火曜日

付記として(2)

前回ブログで引用した、マーク・フィッシャー著『わが人生の幽霊たち』で言及されているミュージシャンの音楽を、ユーチューブ上でほぼ一曲づつピックアップし、ライブラリを作ってみた。
以下を参照としてリンクしてみる。

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