2018年5月23日水曜日

日大アメフト部事件から

「会長が桑田で、テレビのドキュメント番組で紹介されていたこともあり、セレクションには大勢の小学生と保護者が集まった。25人の枠に対して、300人もの応募があったという。それほどたくさんの親子連れを前に、桑田はこんな挨拶を行った。
「これから3年間、ウチで学ぶことは、高校へ行くまでの準備だと思ってください。野球の練習やトレーニングはもちろん、基礎知識を身につけ、集団生活を送るための礼儀作法などもきちんと覚えてもらいます。バットやグラブを大事にしたり、親や周囲の人に感謝したり、そういうことも学んでほしい。」
 さらに、こう付け加えた。
「だから、ウチのチームは弱いです。練習は合理的にやるので、4時間程度です。根性や精神論でお子さんたちを鍛えるということはやりません。ですから、勝ちたい人、勝てるチームに入りたい人は、どうぞほかのところへ行ってください。」(『野球エリート』赤坂英一著 講談社α新書)

日大のアメフト部問題。うんざりしてくる。なんでああも正義面というか、被害者擁護にかこつけて逆イジメたたきみたいなことを繰り返しマスメディアはできるのか? 森友問題も同じだが。貴乃花親方をめぐる報道の傾向がぶりかえされてもいるわけだが、そこに偏執する言表行為に、何か時代の症候が顕著に発症されているのかもしれない。

加害学生は、コーチの言葉を通して、監督の意図を「忖度」してやった。

「忖度」とは、官僚制の問題というより、日本では天皇制の問題としてより文脈・系譜化される。

暴力行為の実際まで行くのは例外的、少数的であるとしても、そう行き着かせる考え方として、それが日本の世俗的な本流であるとは、運動部・体育会系出身者なら、そう自覚するのではないだろうか? 森友学園みたいな実践にはならなくとも、君が代を要請させる政府の方針・考え方に、すでにそれに連なっていかせる考え方が潜んでいることに、教育の現場にいる者は自覚的ではないのだろうか?

女房は、たとえ社会が変わらなくともウミをだすために今のように日大の監督・コーチをマスコミが叩き上げる、つるし上げることが必要なのだと豪語する。で、おまえは子供を蹴とばしながら受験・学校勉強をさせているわけだが、日大の監督は生徒を蹴とばしていないよ? どちらが本当の暴力なの? 自分の足元を見れないものたちが、被害者面してスケープゴートに加担する。

私の、40年まえ近くの、高校の野球部の頃、3年生が抜けた夏場の練習では、強豪校のチーム、一人、二人と、熱中症や硬式ボールが当たって死人がでる、という話を毎年ほの聞いていたとおもう。私も、野球をやるとは、それが当たり前、そうなるよな、と自然なこととして受け入れていた。試合に勝つ、戦いに勝つことを目指すとは、比喩を超えて、文字通り殺し合いのような気迫で勝負に挑むことを意味していた。そうした考え方は、中学生の時には、もう無意識に刷り込まれるぐらい育まれていた。もちろん、本当に、実際にそう実践してしまえる者などほとんどいないだろう。今回、日大の生徒が「やってしまった」のは、ある意味、どこかナイーブな、真面目な性格だったのだろうな、と推測する。大概は、そこまで一生懸命できないし、適当にごまかしてやるはずだ。コーチとの関係でも、そこまでいかないところで、折り合いをつけてしまう官僚的なずる賢さを、大学生ともなれば、身につけているはずだ。

もちろん、それが暗黙の、無意識な主流であるのは、制度として、教育として、コーチングとして、未熟だからにすぎない。おそらくヨーロッパのサッカー育成組織などでは、育成途中でふるい分けられて、そんなナイーブな人は競争から落ちている。が、日本では、みんなを掬い上げようとする、だから、良くも悪くも、複雑になる。小・中学生を教えるとなれば、なおさらだ。「あいつをけずれ」とは、新宿区の3年生大会で、私たちのチームに当時いて、のちに日本一にもなる埼玉のレジスタに移っていった中心選手に、プロあがりのコーチが自分の率いる選手にいった声かけである。サッカーで「けずる」とは、選手のボールプレーが終わったあとで、後ろからスライディング・タックルをしかけて、アキレス腱を負傷させて退場させることをめざすことを言うそうだ。私たちのチームは弱い。上手な子、モチベーションの高い子は、どんどん目指すところへ出て行ってかまわない。が、私は、それでも、「みんな」で戦って、そうやってサッカーエリートが集まってくるチームに勝ってやることをあきらめない。冒頭の桑田元選手のようにはなかなかなれない。来月のワールドカップで、日本負けてもいいじゃん、とはとても本気でおもいたくない。では、どんな実践があるというのか? これまでの、追いつけ追い越せ、ではなく。

監督やコーチ、先輩が怖く、上司・上官が怖く、「黙って処理する」ようになる国民の「忖度」の原型が、<母ー子>関係にあることは、日本の文学的な教養の一つだろう。単に上からの暴力ではないところに、ねじれた闘いが発生するというのも、教養の一つであったはずだ。「死のれ、死のれ、マザー! マザー!」と中上健次は小説を書き、その<母―子>関係から秋葉原事件のような若者が発生し、それが井上日召のような日本のテロルの在り方とも関連している、とする中島岳志氏の最近の論考もあったとおもう。
*関連ブログ ①http://danpance.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html
       ②http://danpance.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html

果たして、誰が、誰をいじめているのだろうか? 目に見える加害者が、目に見える被害者をいじめてたのか? どうもそうではないな、というのは、きちんと顔をだして記者クラブの質問に答えた学生を見ればわかる。じゃあ、監督やコーチということなのか?

Yahoo!ニュースをみていたら、「学校へ行けない人はなぜ増えた? 歴史20年を振り返る」という論考にであった。これと、朝日新聞での柄谷行人氏の書評を並列させて読むと、何かぞっとするものに突き当たる。それは、6月に岩波ホールで上映されるという「ゲッペルスと私」という予告での秘書である「私」のセリフ、「今の人はよく言うの、私なら、あの体制から逃げられた」「無理よ」、と。

私たちは、部外者として、観客席からの野次馬のごとき罵声をあびせていれば、いいのか? 私はしないから、と。逃げられるから、と。

私には、とてもそんな風にはみえない。だから、あくまで、フィールドで、現場で、具体的に闘う。そうすると、女房は言うのだ、「あなたはいつも自分のことの話になる。最後は自慢話になる、きいてらんねえ!」

「ぞっとするもの」とは、「20年」前以上に文学で学んだ潜在(構造)的な「いじめ(天皇制)」問題が、ここでもあすこでも、稚拙に見えてきてしまっている、この親しみ深いわかりやすさの直面から、逃げられないのではないか、ということだ。

山崎行太郎氏がブログでしめす状況認識、大勢把握と私の上意見も同じになるだろう。ちなみに、私の弟は、日大・文理学部の運動部特待生で、同級生に、ゴルフの丸山茂樹やシンクロの小谷美香子とかがいたそうだ。中学部活の軟式テニスでそのまま授業料免除という制度で入学していったのだが、それと同額を結局は部活費に貢がせられている。その分野では、日本一が当たり前だったようだが、弟のとき、日本2位になってしまった、するとOBが部室に乗り込んできて、集団リンチ、弟も内臓破裂で入院している。今でもその原因不明な後遺症は残っているようだ。

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