2018年5月7日月曜日

「動いている庭」と風景

「十一面観音立像 元禄五年(一六八二)七月に性海が建立。舟型光背に半肉彫り。右手に錫杖、左手に華瓶を持つ。銘文に「浅間本地 出生大坂性海建之」とあり、この像が富士浅間信仰の本地仏として富士信仰により造られたことがわかる。昭和二年頃まで現在の山手通りと早稲田通りの交差点付近にあった浅間塚(富士塚)に関わるものと推定される。高さ一七二センチ。」(『ガイドブック 新宿区の文化財 石造編』新宿歴史博物館)



私の他に、むつかしいことを言う植木屋さんを発見した。庭師を自称しているようだが、研究者に近いだろう。
このブログで書いた映画時評『大和(カルフォルニア)』の宮崎監督の特集が、池袋のシネマ・ロサで催されると言うのでその映画館のWEBを閲覧していると、もうじき『動いている庭』というフランスの庭師のドキュメンタリー映画をそこでやるという。その映画の紹介者、京都の方で大学講師をしているという山内朋樹氏の論文「宇宙の持続と身体の論理――「共感の美学」としてのベルクソニスム」が面白い。

一般論的には、フランスを中心としたヨーロッパの庭は幾何学的な整形庭園といわれているが、それが実はヨーロッパでも貴族階級中心の特別な庭園であって、そうではない庶民的な庭が別にあるのだ、という知識というか教養・情報については、20年前に書いたエセーでも私は言及していた。なので、具体的にはそのヨーロッパ庶民の庭がどんなものか知らなくとも、「動いている庭」で紹介されるような庭師がでてくるだろうような文脈には、驚かない。というか、日本の植木屋からしてみたら、庭が動いている、とは、ある意味前提的な自明条件だろう。植木職人の手入れ自体が、自然生成の生け捕りのやり口、偶然の馴化である。このフランスの庭師が、日本の庭から「自然に直面した人間としての私」を見出すのも、比較文化的には、了解しやすいことだ。

が、木が成長し、ハチが飛び、自然が動く――この当たり前な現象がどんな事態であるかを了解してみようとすることは、難しいことなのだ。山内氏は、この洋の東西を超えて現象しているであろう当たり前なことを、ベルクソンを通して解きほどこうとしているのだ。氏が注目している庭とが、「閉じられた」、「囲われた庭」ではなく「動いている庭」であるとは、それが庭というよりは「風景」に近いもの、より自然に近いランドスケープに近接していると言えるだろう。が、「風景」とはなんであろうか? つまりは、それこそ、この自明的な「風景」、「開かれた」<地平>こそが問題なのである。

清水真木氏が、『新・風景論』(筑摩選書)で、ベルクソンにも言及しながらむしろフッサールの「生活世界」を下敷きに素描しようとしたのもその問題だ。私たちは、日常的には、風景など見ていない、というか意識していない、が、その見ていない無数のものたちにおいてこそ、立ち現れて来る「風景」がある。文学史的に著名な例では、ラスコーリニコフのネヴァのパノラマのような光景だろう。いわば実存的な風景のみが、「風景」になりうるのだ。逆に、柄谷行人氏が近代文学に指摘する「風景の発見」とは、その陰画だ。国木田独歩が記憶として思い出したのがその当時意識していた知人ではなくその背景にあった宿屋の主人だった、というイロニカルな転倒。私は夢について指摘したブログで、政治・思想的な意味を排すれば、そんなことは人間にとっては日常的なよくある当たり前なことだ、と夢分析した。実存的な「風景」が生成するには、意識せず見えていない無数の諸風景が前提とされるのである。

しかし私の理解では、清水氏の「風景」理解は、早すぎる理解である。見えないものたちから「ぬっ」と風景が現れるとは、どういうことなのか? その「ぬっ」を、もう少し詳細に把握しようとベルクソンを使ったのが、山内氏である。ピクチャレスクなイギリス風景式庭園のような囲われた庭ではなく、このまさにの自然の風景に立ち現れてくる私に固有な風景の出来を芸術体験というなら、その芸術体験とは実際にはどんな出来事なのか?山内氏が示すベルグソンの「共感の美学」を、私はとりあえずより自然科学的に、諸風景のリズム(持続)の「同期」として理解した。山内氏がジル・クレマンというフランスの庭師の庭に見たものとは、そこにある風景を成立させている様々な木々、草、昆虫たちの、あまたのリズムであり、それらと共感(同期)してみせることで自然を野放図にはでなくクレマン固有な風景=庭として創作されている現場なのだろう。

しかし、山内氏も、清水氏も、その試みは、あくまで諸構造への理解である。むろん私の夢分析も、早すぎる理解をまずもっては除けて、もっとよく見てみようとする構造の、一般的な把握の努めである。がそれでも、柄谷氏が、諸構造(無意識)をこそみようとする立場をイロニーとして指弾してみせるとき、つまりはあくまで、意識的な、意志的な態度にこそ重きを置くとき、握持しているのはイデーの、理念の領域だろう。美学ではなく、倫理的な位相である。清水氏は、なんでその風景が「私自身」に風景として在るのか「理由がよくわからぬまま」であるという。が、わからぬとも、それが私自身を取らえているという感覚、諸持続と共感(同期)しているという根拠なき確信、つまりは感動の強度が、言いかえれば、それに対する信仰の問題を、忘れてはならない、と私は私自身を戒める。

が、それは、早く理解してはいけないのだ。

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