「一つ目の特徴として、通常の学問では、論理、整合性が高い方、理屈が通っている方が論争に勝つんですが、神学論争では常に論理的に弱い方、無茶なことを言う方が勝ちます。その勝ち方というのは狡猾で、軍隊が介入して弾圧を加えるとか、政治的圧力を加えるという形で問題を解決するんです。つまり、神学は非常に強く政治と結びついています。/ 二つ目の特徴は、神学的思考は積み重ね方式ではないということです。実は、神学的な論争というのは全く進歩がない。そもそも論理的に正しい方が負ける傾向が強いという、でたらめな傾向があるわけですから。しかし、それでちょうどいいわけです。勝った方は、ちょっと後ろめたいことをして勝ったと思っていて、負けた方は、政治的に負けただけで、われわれの方が正しい、筋は通っていると思っていますから、両方合わせると大体バランスがとれる。」(佐藤優著『サバイバル宗教』 文春新書)
上引用の佐藤氏の発言は、私の教養を塗り替えるものである。私は、坂口安吾の、日本の禅坊主が宣教師との論争に負けてキリスト教徒に改宗していくものも多かった、つまり非論理な禅問答と論理を通してくる宣教師との有態の話を聞いて、そういうものか、納得できるな、と思っていたのである。もちろん、論理の訓練を受けている者が、それに従って行動してくるとは限らない。また、佐藤氏の発言の範疇は、「神学論争」において、ということだから、より広範な文化・社会的問題にはあてはまらないところもあるのかもしれない。が、その論争が政治的に、あるいは戦争で解決されてくる、というのだから、神学問題を超えてくる行動規範になるだろう。それがどんな範囲程度になるのか、私には推定できないが。
が、博学的に教養豊な小室直樹氏によれば、欧米人にとっての論理とは、有言実行のことだから、言ったことは必ずやる、という態度と一緒ということである。となればつまり、論争で負けたと認めたのならその通り実行する、というのが欧米人の道理、ということになるのだが、むろん、佐藤氏のこの発言では、神学論争に負けた方が、負けを認めたと言ったのか、負けを暗黙に認めざるを得ないので認めず、負けてないと戦い始めるのか、は不明である。佐藤氏と小室氏の論理をつじつまあわせれば、論理的には(頭の中では)負けを認めても、負けと言わず(論理明言せず)、戦争をはじめる、ということになる。
となれば、政治的・武力的にも劣勢な者(国)は、論理的に勝っても戦争になってやばいが、論争に負けても屈従的になるからまずい、という二律背反的な事態になる。どっちをとるか? となったら、個人では前者ですむかもしれないが、庶民を巻き込む国の問題となったら、屈従的でも生き延びるほうを選ばざるをえまい。――が、そんな背反態度に追い込まれるのは、その二項対立的な論理にはまってしまうからだろう。
『これからどうする』(岩波書店)での柄谷行人氏の発言、態度表明は、そうした論理のワナからメタレベル的に立とうとするものだろう。地政学的にみて、日本はアメリカの論理(言い分)をたててそっちにつくと中国との関係がまずくなり、中国の言い分をたてればアメリカとの関係が悪くなるのはわかりきっている、だから、日本国憲法9条の理念を高々と掲げて実行していこう、どちらにもつかない論理を公にだしていこう、というのがそのメタ論理である。(ロシア・カードという3項目が使えなくなれば、なおさら2項対立のバイアスは強くなるだろう。)それが空想的でないのは、みんなの前で武力放棄と戦争する国家主権を放棄してみせれば、そんな丸腰の国を襲うのは卑怯になるので、手出しはできない、ということを想像してみればいい、という。たしかに、密室の中で、凶器をもった相手に「殺すなら殺してみろ!」と脅しても本当に殺されるかもしれないが、公衆の前にでてそう叫んだなら、無暗に手は出せなくなるだろう。が、戦後自衛隊をもち、高度成長をなしとげた日本が今更になってそんなことをしても、本気でそれを周りに信じさせるのは容易ではないのではないか? いやもっと一般的にいって、個人間の丸腰ならともかく、国との関係となったら、たとえば、弱い丸腰のような国が一方的に強国に攻撃されても見捨ててきたのが世界、現代史なのではないか? 私には、柄谷氏の態度というかアイデアが、単に理念的な話だったら有効であるとはおもえない。ただ私は、プラグマティックな意味で、それは有効にもなりうるかもしれないとはおもう。つまり、小室氏が、リンカーンの奴隷解放宣言とが決して理念的に掲げられたのではなく、もう南部に負ける、という土壇場を形勢逆転し、イギリスに参戦させないために打ってでた大博打なのだ、と言ってみせるような。それなら、日本が9条を主体的に持ちなおしてみせることに、実践的な有効性が折り返されてくるかもしれない、とおもう。どのようなタイミングかはわからないが。しかし、公に宣言したならば、有言実行しなくてはならないのが、今の論理世界である、というのが小室氏のさらなる教示であった。日本人はその論理(言ったこと)の厳しさがわかっていないと。
9条をノーベル賞に、という運動があるようだ。私は、類として、その運動というか、運動を発案した主婦の反応を面白いとおもうが、すでにノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領のその後や、オリンピックが東京に選ばれたこと自体が東アジアで戦争をおこすなという世界政治的なメッセージだったのにそれを知らずに、東京誘致決まった直後に靖国参拝してみせる阿部総理の行動をみていると、既成の左翼運動に絡みこまれたようなその一主婦のはじめた運動は、頓挫させられてしまうのが実際なのではないか、とおもう。ゆえになおさら、それがその現実を超えていく類としての伝染性、思想的な共有制ではなく、類としての共感性に期待したくなる。フロイトが、戦争は生理的にいやなのだ、それでいいのだ、と期待したように。
それにしても、柄谷氏は、かつて石原慎太郎氏との対談で、自衛権は自然権だから憲法を超えているのだと発言し、それ(武力)を肯定する石原氏の態度と意気投合していたときがあった。どう理論的に連なって、9条宣言になったのだろうか? 前掲書の佐藤氏は、「評論家の柄谷行人さんも、「日本人が物事を真面目に考えれば必ず京都学派になってしまう」ということを、ぼそぼそと、あまり理論的に精緻にはしない形で言っています。」と述べたりしているが、状況に対する直観的な実践としてそう発言したのだろうか?
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