「バルセロナってクラブは、”学校の寄宿舎”みたいなもんだってことがわかってきた。選手たちはみんなファンタスティックだし、あいつらには何の問題もない。バルサにはアヤックスやインテルでも同僚だったマクスウェルがいや。だが、どいつもこいつも、スーパースターとしての振る舞いをまったくしていない。それも奇妙じゃないか。リオネル・メッシ、シャビ、アンドレ・イニエスタ、そして他の選手たち誰もが、まるで小学生みたいなんだぜ。世界のトップスターたちが、ここではへいこら頭を下げている。俺にはまるで理解できなかったよ。イタリアでは監督が「ジャンプしろ」と言ったら、選手は「なぜジャンプするんですか?」と質問したよ。だが、ここでは誰もがこっくりとうなずいてジャンプする。まるで調教された子犬と一緒だぜ。なんて居心地悪い場所だ。それでも俺は自分に言い聞かせたぜ。「この状況を受け入れないといけない。先入観をもつな!」と。何とか適応しようと努力し始めたんだよ。そしたら俺は飼い慣らされた子羊みたいになっちまったぜ。あり得ねえだろ。親友で代理人でもあるミーノ・ライオラは、「ズラタンに何が起こった? ズラタンじゃないみたいだな」と言ったよ。」(ズラタン・イブラヒモビッチ著『I AM ZLATAN IBRAHIMOVIC 沖山ナオミ訳 東邦出版)
夏休みの最後の日、息子の一希は自転車事故を起こして救急車で運ばれる。下り坂の途中で人をよけようとして、電柱に激突、後頭部を打つ。仕事途中にきた女房からのメールによると、図書館へむかっているときにだそうだ。脳検査では異常はないが、様子見のためそのまま入院。傷口をホッチキスでとめてあるそうだ。仕事を終えて家についてみると、子供の事故の連絡にあわてて外へでていったような空気がある。勉強机にもなる食卓の上には、夏休みの宿題の読書感想文の、女房の添削した赤鉛筆で直された原稿用紙が広げられたままだ。図書館には、この二日前に、私と一希はいっていて、そのとき息子も何冊か借りたはずだ。ということはつまり、読書感想文の添削最中に喧嘩がはじまり、「それなら違うのを借りてやりなおす!」とでも一希はいって、逃げるように出ていったのだろう……そう、私は推論した。
病院に出向くと、ベッドで寝ていた一希は顔をあげた。ショックで深刻そうな表情をしていた。ベットわきで、女房が看護婦から説明を受けている。女房は、子供の無茶な運転やノーヘルメットが事故とケガの原因である前に、自分が因果をつくっていることを、自覚しているのだろうか? 私は、そんなことを問い詰める気にはなれなかった。3.11以降、学校の勉強をしつこく迫るその態度、それでいて、原発反対だの政府がなんだのと、御託を並べる情勢にはうんざりだった。自然の大きさのまえに、そんな勉強の強要や屁理屈に固着していることが信じがたい。もっと、おおらかでいろ、そう、自然は教えてきているのではないか?
私は、自分があの頃、枝おろし最中に木から落ちて、この同じ病院に入院していたときのことを考えた。なんで神は、息子に事故をおこさせたのか? 私にか、私たちにか、何を知らせようとしているのか? これから、どうしてほしいというのか? どうすべきだというのか? それを読解する、なにか他の兆候が起きていないか? いつしか、そんなふうに、私は考えていた。
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