吉祥寺のアップリンクへ、宮崎大祐監督の『Tourism』を見に行った。前作『大和(カリフォルニア)』の感想ブログを、その映画Facebook上で紹介してもらったこともあって、今作をまた私が何か<読み>得ることがでてくるのだろうかと、不安というより期待をもって、夜の上映に足を運んだ。厚木基地周辺・郊外の若者の生態を切り取ったような前作からのスピン・オフな感じで制作されたということだが、むしろ私には、前作に潜在していたテーマ(現実感)が焦点化されて浮き彫りされてきている、と感じられた。それは、前作が、アメリカとの政治的関係を象徴的に描いているとしたら、今作は、経済的な関係が、とくには、政治的な次元としては表象(象徴)されることもない、むしろシステムの表からは排除されているだろう潜在的な現実が前景化されている、と。
そのことはまず冒頭、シェアハウスしている若者、男一人に女二人という家の中で、幽霊がでるという会話から示唆される。経済力がましなもののアパートへの居候(いそうろう)というかつての形ではなく、家賃を分担した公平な形、しかもどうも、朝食も誰かメインな者が作ったものを皆で一緒に、ということではなく、テーブルは同じでも、それぞれが自分の朝食を用意して食べているらしい。彼・彼女たちが、正規の社員ではなく、アルバイトをして金銭を得ているということが、その後のドキュメンタリー的なインタビュー映像とうによって明らかにされる。男のレンタル本の仕分け作業でのスキルのこと、その熟練と習熟によってそこに居座るのではなくむしろ他への転職を考えるきっかけになっていくらしいこと、とくには、主人公のニーナの、雑巾を作っているような工場での単純労働の情景は生々しい。そのニーナには、幽霊がみえないのだった。相棒の彼女スミレには、貸家の廊下の奥だかに座っている男の姿が見え、気味悪がっている。同居の男は、なんとその幽霊と会話が成立し、名前まで知っているというのである。この冒頭のシチュエーションは、見ていて笑えるのだが、映画進展とともに、彼・彼女たちの社会的位置と対応した、深長な意味をもっていることが知れてき、同時に、この映画が、なんで言葉を覚えはじめたばかりなような子供の語りによってはじめられ、終わるのか、という映画全体の枠組みの必然性もが知れてくるのだ。
上映後、映画評論家の人と、今作では配給方面の仕事にまわったという男性との話があった。映画完成度、という理念的な前提をとれば、この対談での意見は正当であったろうとおもう。なんで子供の語りが必要なのか?旅をして成長するビルディングス・ロマンと不思議な国アリスの形式を使うのはいいが異文化との出会いが予定調和的一致になっていないか?スマホの紛失から一転して、郊外での生活感の描写から異世界巡りになるアイデアは面白いが、その置き忘れたスマホをズームしてとるのではなくもっとさらっとやったほうがよかったのでは?……しかし、短期間に即興的に撮影されたこの映画の不完全さ、亀裂の方から映像をみていくと、むしろそうした評価とは正反対の事態が見えてくる。
たとえば、子供の語りについて、配給役にまわったという男性は、「言葉を覚えたばかりくらいの年齢」みたいな印象、ということを述べていた。つまり、単なる子供の声ではなく、まだ赤ん坊の喃語発音が残響しているような、くぐもった声なのだ。ということは、まだ小学校にあがるまえの、5・6歳の男の子が想定されるだろう。その声が、映画の閉めで、5年後にニューヨークでニーナに会うことになる、と言う。ということは、この映画の時点では、0・1歳ということなのか? それとも、この映画はだいぶ昔の話で、子供が歳をとってから、すべてを回想して語るという未来設定の語りなのだろうか? ならば、普通なら、老人の語り声が選ばれるはずだ。しかしそうではない、常識的な現実(設定)を相手にしているのではない、というのは、この映画が、幽霊の、不可視な世界を顕在化させようとしている意図が感じられることから想定しうる。つまりこの子供は、フェアリー、妖精なのだ。しかし、この映画は、おとぎ話(フェアリー・テイル)ではない。現実を、リアルなものを手繰り寄せようとしているのである。
シンガポールのホテルで、スミレは、幽霊をみる。「ウィリアム」と、名前まで知らされている。観光地では、日本植民地化に抵抗した諸民族の死を悼む記念碑を見る場面がある。映像はモノクロになり、銃の音が響く。死者が、彼女たちを取り巻いているのだ。観光客としての彼女たちを。象徴的な世界では、観光客とは、第二の兵士と言われる。リュックを背負い、カメラを手にしている姿が、背嚢に銃という、兵士のイメージと重なり、事実、かつての戦場が、観光地になるからである。兵士は、国のために戦い、そのシンボル体系下において、父や母、家族のために戦う。その今は亡き父・母の、祖先の跡を追悼するかのように、かの地を訪れる。が、彼・彼女たちにとって、家族とは何か?
シェアハウスとが、居候とは違う、新しい形であるのは、そこに、もはや父・母がいないからなのである。自分の規範となるような父も、飯を作ってくれる母もいない。高度成長期の居候には、力関係や依存関係が、父―子、母―子の延長としての形が反映・反復されていただろう。が、もはや、そんなものはない。『大和(カルフォルニア)』では、戦後日本の規範たる、アメリカという不在なる父の痕跡があった。しかしこの映画では、白人の「ウィリアム」は死んでいるのだ。モデルとなる規範や理念が喪失されている世界で、彼女たちは、どうやって「成長」するというのか? 異文化に接して、大人になって帰っていく? そんなことは、もはや不可能なのだ。まして、彼女たちが持っているのは、カメラではない。リアルな映像自体がよそとつながったスマートフォンである。彼女たちは、自立して稼いだ金で観光地にやって来たのではなく、ネット上でのクジにあたってやってきたのである。「生活感」から遠く離れた地点に、彼・彼女たちの現実があるのだ。
この彼・彼女たちが表している現実条件とは何か? 資本主義、ということだ。もう、それしかない世界のなかで、私たちは生きている、生かされている。父の私が、高1になる息子に、何を言っても規範たりえない、なぜなら、資本が父だからである。その父は言いつづけるのだ。「汝、享楽せよ!」と。これは、ラカン派の精神分析上の言葉だ。私は最近、息子のスマホの安全フィルターを解除した。子供を管理しようとすることが意味(有効)のないばかりか、むしろ生きる力を奪ってしまう。ラカンがいうように、もはや父は、子供をなだめるだけだ。「飛び込んでいけ。あとは、偶然しかない。運よく、切り抜けてくれ。」そう、祈ることぐらいしかできないのだ。宝くじで得た金と、汗水流して稼いだ金と、私たちはいま、区別しうる内面(規範)の強さをもっているか? どっちも対等な価値をもっていると、平然としていられるだろう。いや、クジで当たって得た金のほうが、リアルに感じるだろう。私自身、バブル期に大卒したあとの建築現場掃除や配送の夜勤荷分けのバイトをしたあと、雑誌で仕事を探すことにあき、住んでいるアパートの裏にあった植木職人の家庭で30年近く働くようになり、こうして家族をもって過ごしていられるのも、運がよかっただけである。平準では、私の職種で子供をもった家庭を維持するのは難しいが、たまたまそこが昔気質の方針で、育てた師弟は大事にするポリシーを意識的に守っていこうとしていたところなので、そこまで給与があがりボーナスもでるからなのだ。しかし、だからといって、スキルを人一倍身につけた私が職人という意識になれるわけではなく、気分はあくまでフリーターなのである。いまある生は、まさに運の賜物、とは明白なくらいだ。が、逆にいえば、その運から漏れ落ちる人々が、必ずいる、ということが構造化されている、ということになるのだ。「資本論」を書いたマルクスにとって、「労働力」とは、必ず「余り(余剰人員)」が潜在しているという抽象的な現実である。余りだからこそ、フリーター(自由)なのであり、しかしゆえに、それは「絶対的貧困」に、死に隣接している地位なのだ。努力が、むくわれるわけでもなく、むしろ運によることが普通な世界……ニーナと同居している男は、それを倫理として受け止めようとしている。自分たちが、世のシステムから排除され、抑圧され、不可視化されてしまうことに、ゆえに代表制という政治のシンボリックな世界にも参加する機能から外れていることにも、抗うわけでもない。その政治的な不可能性を受け入れることから、シェアハウスのような倫理を模索しているようにみえる。宮崎監督は、シンガポールでも、バスを待つ外国からの出稼ぎ労働者の群れを映していた。あるいは、スマホをなくすことで神隠しにあったニーナを救ったイスラム教の家族の長男は、夜の屋上で地下活動的な演奏に彼女を連れていく。資本構造的には、それは戦争(国家)ではなく、テロに近い場所になる。抑圧されたものの噴出は、亡霊的だというのが資本主義を精神分析したラカン派の洞察である。その亡霊は、潜在した「現実界」の姿なのだ。スマホとは、その根拠を欠いた幻影のような世界に参加するために、究極的なモノとして開発された魔法の杖であろう。リアリズムな表現であるなら、食堂の椅子に置かれ、これから置き忘れようとしているスマホを、思わせぶりなように撮りはしない。が、ズームに露出されつづけることによって、それが日常的な道具というよりは、何か不気味なものに感じられてくる。それは、資本という見えない魔力こそを写し取ろうとしているのだ。
文学畑の私は、宮崎監督の前作『大和(カルフォルニア)』を、基地の作家村上龍を参照することで読解した。今回は、路地(被差別部落)の作家中上健次になった。というか、最近読んでびっくりした評論、河中郁男氏の『中上健次論』(鳥影社)の影響を受けてこの映画感想を書いている。(河中氏の中上論については、ブログで書評するつもりだ。)宮崎氏の前作は、基地という特殊が郊外という一般と対になって把握されていたとおもうが、今作では、むしろ排除された地として、特殊/一般の回路では把握されえない場所、よって幻影として、亡霊としてしか現れえない位相に移動しているのではないか、と思えてきた。たとえば、パンフレットでは、ロケの代役をすることになった中山雄太氏が、こう書きつけている。
<そうした映像がSpecters and Tourism(亡霊と観光客たち)というタイトルのインスタレーションとしてマリーナベイサンズに展示されているのを見るのは不思議な気持ちだった。文字通り観客(Spektator)だった自分らが、再開発の波でビルごと消えた風景のなかで亡霊(Specter)となって、いつものようにニヤニヤとアヴァンギャルドな演奏を見ている。故郷をはなれて行き場を失ったTouristsとなった僕らに出来ることは見れるうちに見ておくこと、主にサイト・シーイング。>
宮崎監督がこの映画で撮ったシンガポールの場所のいくつかは、もう再開発で存在しない、というのである。中上健次は、資本開発されて亡くなっていった路地を小説としてだけでなく、8ミリでも映す活動をしていた。その路地の消滅について、河中氏はこう言う。
<つまり、「資本」という眼に見えないものが「土地」=「自然」を破壊しているのであり、「土地」を削っているのは、「資本」だと言えるのである。
「土地」=「自然」が崩壊することによって、生まれるのは「理性」の崩壊でもある。例えば、次のような現象はそういった「理性」の基盤であるものが壊れることによって、「理性」が抑圧してきたものが立ち現れるということである。…(略)…
この「理性」/「自然」が抑圧してきたものが「地霊」(丹鶴姫と呼ばれた女人の亡霊―引用者註)によって象徴されているものである。「現実界」から出現するのは、こうした「地霊」である。>
おそらく、宮崎氏が透視しようとしているのも、中上の路地(部落)のような現実であり、可視的な基地なのではなく、それが抑圧してきた不可視な基地、いわば潜在的な現実なのだ。だから、この作品は、亡霊の映画となろうとしたのであり、表象しえない、言い換えれば体系化しえない現実を仮にも統合的にするために、世俗の時間軸を超えた、妖精という語り手が必要となってきたのだ。この語り手は、歳をとらない世界、いわば構造的な世界としての一角、「現実界」からの使者なのだ。映画後の対談で指摘された、語りによる「メタレベル」、という階層はもう成立しない。子にとっての父、人にとっての神のような超越的な視点はもはやありえない。監督である宮崎氏自身が、これまで規範=理念としてきたアメリカ映画の形式を捨て、「スキゾ」的に撮れたら、と望んだという。理念=規範として抱いたアメリカはすでに資本の亡霊であり、この統合失調症的な映画をまとめているかのような妖精の語りは、自らもが見えない主人公として、この映像群の亀裂から顔をのぞかせていたのだ。つまり語り手は、映画の主人公=観光客(Spectator)=死者、でもあるのだ。
映画後の対談者の話によると、監督の次回作は、文字通り、「ゾンビ」なのだそうである。それは、いわゆる「想像界」のものではなく、「現実界」から立ち現れた亡霊であるだろう。
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