量子論と、<単独―普遍>をめぐる柄谷行人著の『探究』誌上での関連について、少しまえのブログで指摘した。
その『探究』は、外部(他者)へ向けての内省的な遡行を突き詰めた先での、行き詰まり破綻からの「転回」として実行された、と説明された。現象学的な追求としてではなく、論理的な前提として他者は導入されなくてはならない、となった。
が、量子論をめぐる識者の文章を読んでいくと、柄谷が直面していたアポリアが、いわゆるアインシュタインやボーアとの間で議論された、「観測問題」といわれるものと重なってくることに気づかされた。波(無)であった状態が、観ることによって物質(有)となるという原子以下で気づかされた現象の謎。そこを突き詰めるに貢献したアインシュタインは、その不可思議さにとどまり、「ならば月は、見ていないときは存在していないというのか?」と、謎をそのままにして実用化されていった産業科学的なあり方に抵抗した。のちに、月は見ていない時には存在しない、のミクロ現象は、問題なのではなく現実、科学的事実なのだとアスペの実験などによって実証されてしまった。その実証に後押しされるように、謎は棚上げされたまま、いまは量子コンピューターの開発が競われているようなものだろう。
そうした現代において加速していくような科学の在り方、とくに、量子論の水準において異議を提出した者に、廣松渉氏がいたわけだ。廣松氏のその異議の視点は、日常的に物をみる有り様にだって、同様な謎が思考しえる、というものだった。
量子力学的次元での観測対象についても、これと全く同様な論理構成になっている。観測理論のプロブレマティックを劃したとも称されうるあの確率波的解釈をボルンが持出したとき、どのような論理構成になっているか? ボルンは電子という対象が、或るときには粒子的な見え姿(量子的作用)で、また或るときには波動的な見え姿(回析や干渉)で“見える”ということ、このいわゆる粒子性と波動性とを統一的に捉えるべく、波動函数を確率波的に解釈してみせたわけであって、このかぎりでは、それはあの円筒型の場合と同様、しかじかの条件のもとではしかじかの「見え姿」を呈するところの或るものetwas Identischesにほかならないわけである。>
<観測に際して直接的現相を対象化的に措定する者、量子力学的次元を意識していえば、波動函数を定式化する者は、いかに具身の個人であるとはいえ、単なる一私人ではない。“学問的知性の一代表”ともいうべき者、謂うなれば認識論的主観を具現する者として彼が認証されているかぎりで、彼の観測が「観測」として通用geltenするのだということ、このことはもはや駄目押しするまでもあるまい。――単なる一私人が、所与の「見え姿」から対象を措定したり、波動方程式を立てたりしたのであれば、それがいかに能知・所知的な被媒介的形象であるにせよ、「対象」としての認証に値しえないであろう。しかるに、観測に基いた対象措定が間主観的な認証性をもつところから、それが第二次観測に先立っては「可能態的存在」にとどまろうとも、これには対象的存在性が認められうるのである。>……引用中の傍点部分は省略(『事的世界観への前哨』 廣松渉著 筑摩書房 2007年発行)
現在では、田口茂氏の『現象学という思考 <自明なもの>の知へ』(筑摩選書2014年発行)が、この日常的な自明的な有り様にこそ、量子論的現実が潜んでいることを、フッサールの読解において提示している(他にも、郡司ペギオ幸夫著『時間の正体』講談社、もそうかもしれない)。ここからみると、柄谷氏の「転回」が、早まった錯誤のようにみえてくる。田口氏の読解上では、柄谷はフッサールの「超越論的主観性」めぐる微妙な物言いをとらえきれなかった、ということになるのだろう。いわば、柄谷の『内省と遡行』のなかに、『探究』が挿入できるのだ。
さらに「現在」は、空想変様によって空想的可能性とも並列可能になる。これはきわめて身近な変様であって、われわれの日常的経験においてもつねに起こっている。そのなかでわれわれは、他の可能性とまったく並べられていない比類のない純粋な現在をそれとして「つかむ」ことはほとんどできない。ここでも、「つかもう」とする眼差しを逃れる現在が、他のものと並列可能になることによって「つかみうる」ものとなる現象が見てとれる。
ここで、類型的予科が機能しない不意打ち的な場面に遭遇した自我を思い起こそう。そこで自我は、類型から引き剝がされ、「原事実」的現在に放り込まれる。それは私のコントロールが利かない状況である。だがそこで、自我は瞬時に過去・現在・未来・空想を駆けめぐるモードに入る。動かせない現在を、変様によって「つかみうる」ものに変え、私の自由によって扱いうるものに変質させるのである。おそらくこの場面が、自我の基本性格を示す原型的場面である。個であり普遍であるような自我のあり方は、ここに根差している。
それはまた、反省的思考の起源でもある。危機における自我のあり方を、「平時」において自由に発動できるようになったのが反省である。そこで自我は、遺憾なく自らの本領を発揮する。だがそこでは「変様」によって、比類のない原事実的現在は、いつもすでに手の届かないものとなっている。反省的思考のなかでは、過去・現在・未来・空想を「駆けめぐる」自我のモードが支配的になっているからである。このモードゆえに、自我は一切を自らの視点から見渡していると誤認する。原事実的現在に巻き込まれて生きる経験のモードは、そこでは忘却されている。
この状態から私を再び原事実的現在へと引き戻してくれるのが、「他者」である。現象学は、この現実的他者の呼びかけと同様に、思考を反省の手前へと呼び戻さなければならない。現象学的コミュニケーションは、そのための媒介となるのである。>(『現象学という思考 <自明なもの>の知へ』 田口茂著 筑摩選書)
柄谷のいう「他者」、用例として後付けされた坂口安吾の「突き放される」体験とが、現象学でいう「原事実」ということになろう。
が、<自明なもの>の謎の有り様が解明されたからといって、それが、実践的に「コントロール」されてくるわけではない。むしろそのアポリアの不可避性、解決困難さがクローズアップされてくるのである。柄谷に「転回」を強いた病が、快癒されたわけではないのだ。
現今の科学は、この「コントロールの利かない状況」を、アポリアを認識しているのだろうか? 原発もなお稼働しつづけたままなのは、コントロールできる、できている、と思っているからなのか? できなくても使わざるを得ない、と思っているからなのか?
棚上げされた問題が、実験室のなかではなく、この世界で、日常的に現実化されてくるのを目の当たりに観測できるまで、私たちは<進撃の科学>でやっていこうというのか?
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