2022年10月7日金曜日

陰謀論者はお客様

 


本年度のノーベル物理学賞は、量子力学における基礎的な謎に迫った三人に決まった。ということを受けて、量子力学の実用化をめぐる問題を焦点化させた小論考を書いていたのを思い出した。もともと元NAM会員の三人で『全員死んでください』とかになるだろうタイトルの電子出版企画に寄せて書かれたものだが、頓挫してしまったといっていいだろう。その企画過程で、コロナ禍が激しくなり、戦争が起きるやらで、まさに「全員が死んで」いくのではないかというような事態になってしまったから、もうそのタイトルは気が引けてくるし、ジャーナリズム的にも時期外れになってしまっただろう。

 しかし量子力学へのノーベル賞授与を再度のきっかけとして、私の小論を記録に落としておこうとおもった。いま読み返すと、論理的に一貫した言い方になっているのか自分ではわからなくなってしまうのだが(もともと直観的につかんだものを論理として落としていくのが苦手だし)、量子現実自体が、言葉で、また論理的に説明するのが難しいということでもあるから、よしとしてすっとぼけよう。教養のある人は、自身の頭で修正してもらうことにして。

 また、戦争が始まってしまってからの、私の量子論への力点は変わってしまって、それは電子出版として出してみた「進撃の巨人論」に反映されているのだが、昨日、ビデオドットコムで宮台真司氏が推奨していた映画『秘密の森の、その向こう』を千葉劇場でみて、これは存在論的な観点からみた量子力学に見えてきたので、次のブログで、その感想をつづるかもしれない。さらに、以下で添付する論考の視点に返って、いま推奨されているmRNAワクチンのどこにアインシュタインなら問題化するような観点がすっとばされて実用化への道が急がれているのかも、指摘できたらとおもう(まあこれは、素人が専門的なところに首をつっこむので、間違っているのかもしれないが…ただ単純だ)。

 原稿用紙枚数にして60枚くらいで長いが、読む人もいないだろうから、堂々と、貼り付けよう。

 

*****

 

(1)   陰謀論者はお客さま――科学理性と自然過程

 

ビル・ゲイツからはじめよう。

 

ゲイツ氏は、コロナ災害における自身の慈善活動的な行動が、世界的な陰暴論の企てとして受けとられたことに驚き、こう発言している。

 

「このことについて今後1年かけて情報を得て、人々の行動をどのように変化させたのか理解に努めるつもりだ。」(ロイター 2021/1/01/28

 

さすが、Windowsを世界中に普及させた人物である。心内の動揺をコントロールし、顧客からの苦情こそがプログラム改良のアイデアにつながり、市場拡大のチャンスになるかのごとき、非常に理性的な対応をみせている。たしかに、一部の世間に根強いこここそを開拓できれば、ゲイツ氏の理想はまた一歩、実現に近づくだろう。

 

陰謀論者は、お客さまなのだ。

 

しかし、待ってくれ!

わたしたちは、彼のお客さまになりたいのか? させられたいのか? いつのまにか、揺らめく窓のソフトな架空世界に挿入されてしまっているように。

 

ここでの論考は、ゲイツ氏のマイルドな態度に示される理性と、その展開によって合理的に開発されていっているかのような現代の科学技術の在り方の是非と、そこに組み込まれていくことが自明な、いわば自然過程ともなっているわたしたちとの在り方を問題化することにあてられる。

 

日本での思想史的文脈では、廣松渉氏の近代科学批判の仕事を参考にしながら、問題自体を提起していくことを趣旨としたものである。

 

 

地球には、爆発的に増えていく人口を全て養うキャパシティーはない、だから、世界人口が削減されていくのは必至だ――別にこのような意見は、陰謀論者ではなくとも、飲み屋の談義でもでてきそうな話だ。誰もが、暗黙には認めていそうな前提だろう。ゲイツ氏がそこに、科学テクノロジーを実装したスマート・シティー的な理想を上書きするのは、氏の技術者としての経歴からして、おまけみたいな話だ。新型コロナ・ウィルスの拡散や、それを抑える新技術なワクチン接種の普及促進策が、実は、人類削減計画の企ての一環なのだ、とする陰暴論の文脈がなくても、巷談義の延長として理解できる。

 

が、たとえば、ゲイツ氏の促進しようとしているワクチンそのもの、その技術開発が前提としている理性=reasonに問題があったとしたらどうだろう? 開発をすすめていく推論=reasonの在り方自体に問題があるとしたら?

 

結果から考えてみよう。

ワクチンは安全だ、治験なり実際の接種後の、統計調査によって推定できる。が、なんで統計なんだ? 効いてるか効いてないのか、見て、わからないの? 人に近寄って診るのではなく、なんでそんな遠巻きな仕方でしか、結果を知ろうとしないのだ?

 

この素人の疑問には、現在遂行されようとしている科学技術と、それ以前の技術との差異が、浮き彫りにされている。それは、おそらくゲイツ氏が、陰暴論を受け入れる人物その人と対面して意見をきくのではなく、その全体的なものを、遠隔的に分析し、統計的に処理していこうとしていることと同型なのだ。お客の家を訪問して、セールスする営業は時代遅れ、いまや、匿名的なビッグ・データを解析して、ピンポイントでお客さまの端末にアクセスする。

 

なんでそう変わり、どうしてそうなったのだろう?

 

科学の歴史を振り返れば、この統計処理に頼らざるをえなくなる起源が、原子以下のミクロな世界での不可思議さへの直面からきていることが知れてくる。

 

その原子以下の粒子の発見以前、つまりは分子以上のマクロな水準での動きを処理するのにも、統計処理はおこなわれてきた。

複雑なブラウン運動をする分子の集団を、統計的に扱う数式理論が開発された。が、そこでの処理は、あくまで、物質がどう振る舞うかは決定論的にわかってはいるが、数がたくさんになると面倒くさくなるので、まとめて処理してしまえ、という発想だった。

 

が、原子以下、いわば、量子として発見された物質世界はちがう。振る舞い自体が、わけがわからないのだ。今でもそうである。とある条件下での状態や運動量は観測できる。A地点でのその粒子のエネルギー量か位置を、計算で求めることはできる。が、それがB地点に現れるとき、その軌跡はわからない。それどころか、同じ物質としてAからBへと移動したのかさえ、不明なままなのだ。だから、Aに現れて在るのも、Bに現れて在るのも、確実に在るとは言えなくなる。波のように、見えないまま偏在しているようなのが、位置か運動量といったどちらか一方にしぼった観測手段によったときだけ、粒として存在してくる、と解釈される。ただ、実験データの集積から、とりあえず、確率的に、予測的に、つまり数理データ上、そこに在るもの、あそこに出現するものとして扱える概算がたつ。根本はわからないが、統計的な確率分布は確実に存在しているものとして扱える。予測を裏切る確率があるとしても、ミクロな次元での振動、在るとされるものの振る舞いがマクロ的には観測不能であるくらいならば、非在=誤差も気にならない。観測し得たものの見かけ上の連続として、実用的になる。

 

だから、量子論の創始に一躍かったアインシュタインは、こう疑義をしめしたのだ。

 

月は、見ていないときは、存在しないとでもいうのか?

 

 観測するまえは波として非在で、観測してはじめて粒として現れる。

 この不可思議さを、<観測問題>と言っている。そして、波から粒への観測実現を、実用化へと向かわせた科学者集団の用語で、<収縮>、wave function collapse という。しかし謎が解けたわけではないので、理論上、量子論の解釈問題とも言う。

 

この理論のそもそもの根本にこだわったアインシュタインは胡散臭がれ、科学は、ひたすら根本問題を棚上げして、実用的な方向へと走った。

 

 その量子力学と呼ばれることになった科学理論の実用化の、一番の大きな成果が原子爆弾である。

 

 ならば、原子力エネルギーの根本の問題は、原子核が崩壊したときに発生する電磁波、放射能の人体への影響の如何、ということではなく、それ以前の、<観測問題>にこそあるというべきだろう。

 

ここにおいて、本当に、人類は原子力を制御できているのか、管理できるのか、ということが問われてくる。実用と制御実装は別問題、ということは、チェルノブイリやフクシマの原発事故の発生とそれでもの続行というあり様をふりかえれば、状況証拠的には、見えてくる事態だろう。

 

 さらに、状況証拠的には、遺伝子操作ワクチン開発の前提となる、DNAのらせん構造の発見も、アメリカの原子爆弾開発に携わった者の関係、X線写真の利用とう、つまりは量子力学世界の人脈と、その理論と技術の参照ははっきりしている。発見当初は、分子模型の操作という古典的な方法がメインだったとしても、その技術延長の現在では、量子化学の応用なくして分子構造の配列計算は難しい。

 

 アインシュタインにならって、こうも問うてみよう。

 

 DNAは、本当に、らせん構造なの? 観測するから、そうなるという話ではないの?

 

アインシュタインの素人的な疑問に、現代の知見には、いくつか答えが用意されている。

マクロ系では、分子同士が観測しあって収縮するというデコヒーレンス解釈や、ブリコジンの揺らぎによる構造形成や自己形成の指摘である。

 

しかし根源にあるミクロな次元に立ち返れば、波と粒子の二重性をめぐる謎が解明されたわけではない。それどころか、量子コンピューターは、その二重性こそを利用しようとする。アインシュタインが指摘したパラドックスは、相関として理解しなおされた。観測以前状態である波の重なりを粒子的に振り分けて、その遠隔化されたまだ波的であり粒ではない状態の相互作用を利用するのだ。観測できない、を逆利用して、敢えてしないままにしておいて、複数化された非在(波)の世界に、並列的に計算させようとするのである。いわゆるマルチバース、多世界の実際を利用するのだ。そして解を得るとき、その世界(波)を観測して崩壊、wave function collapse させる。

 

本当に、こんなことが、できるんだろうか?

 

実験的には、できている。いや、量子暗号などは、すでに人工衛星間で、実用化されていると指摘されている。

 

しかし、改めて言えば、できること、実用になることと、それを制御し得ていることとは違う。原子力発電について、存在論の哲学者ハイデガーは、管理しつづけなくてはならないことは管理できていないことだ、と言った。

 

ワクチンの打たれた細胞を、間近に見て観察しているわけではなく、机上に転送された匿名集団のデータを解析することによって観測し、あなたもたぶん大丈夫、と診察する、していることになるというのだ。とりあえず、それしかできないからである。

本来なら、みて確認したい事象が、MRI(磁気共鳴画像)などの量子現象を利用した技術レベルではとらえられるような代物ではなくなって、もっと間近で観測しなくてはならない水準にいたっている。

 

コンピューターの開発と同じだ。もっと先へ、とこれ以上回線をミクロにすると、量子のトンネル効果で電子が回線外に染み出して、誤伝達につながってしまう。

 

根本が、原理的に見えない世界にかかわっているからだ。

 

細胞のなかは、さまざまな物質が密になってうじゃうじゃ状態だとされる。細胞内に潜り込んだRNAが動き回り、設計図実現に必要な材料を調達するのは、偶然的な出会いによると言われている。その過密な中での相互作用は、免疫系だけでおこなわれるわけではない。他の、さまざまな系とのぶつかりあいが不可知だとしても想定される。抗体ができたか否かで、そこだけを観測して、ワクチンが効いたかどうかの判定をするというのは、片手落ちになる。だからこそ、このミクロな世界はブラックボックスだといわれ、リアルワールドでの統計的な結果を待ってしか推論も成立しないのだ。

 

生物学的世界のどこに、量子的現実、観測問題といわれるものが出来してくるのかは明らかではない。が、陽子一粒な水素結合で分子化された遺伝子構造のかかわる細胞内の現象は、波の重なり、多様な見えない系の不可視な物質の世界として、量子世界のそれと類同的である。

 

なのに、なんで、そう突っ走るんだ?

 

わからないままのほうが、おもしろいからか?

 

「黙って、計算しろ!」というのが、量子力学の勉強をする学生への叱咤だそうだ。たしかに、わけもわからぬまま丸暗記してテストの成果がでたら、それはそれでもおもしろくなってやめられなくなる、ってのもあるからな。そういうこと?

 

日本への原爆投下も、科学者が試してみたくなったから、ということも、たぶんにあったのではないだろうか?

 

ドイツの学者が開発を断念し、さらに、ドイツの敗戦が決定した時点で、ヒトラーより早く作らなければ大変なことになる、という大義名分はなくなった。ゆえに、犠牲者数を減らし、日本の降伏を早めるために、との理由がもちあがる。その正当性を、認めてもいいだろう。しかし、そんな政治的な判断、マクロ世界のおおざっぱな話ではなく、科学者ひとりひとりの内心、欲望の次元にまで覗き込んでみる必要があるとしたら? そこを問題として、観測対象として把握する必要がでてきているのが現在の世界だとしたら?

 

ドイツや亡命先のアメリカで、原爆開発に携わることになった科学者集団の考え方を、コペンハーゲン学派とも呼ぶのだが、その主導者のニールス・ボーアは、波と粒子の二重性を「相補性」として概念化した。そしてこの概念には、当時の心理学が直面しているものとの形式的な類似性があることを示唆した。心の内も、ミクロな水準へと突き詰められると、<思惟と感情>、<理性と本能>といった古典的な分離が不可能になってしまった。そのさまが、原子物理学が陥った状況と似ているというのである。

 

この心理学的な事態は、文学の世界にも出現し、相互影響が起きた。「意識の流れ」と呼ばれた文学技法の潮流にもなった。「内的独白」とも言う。いわば、超然と明確であった語り手が不明になって、語る主体と語られる対象が曖昧な波のように融解しだしたのである。

 

しかしそれでも、20世紀初頭のその学的世界は、欲望を心の内にあるものへと想定できた。それが、古典物理学的に、つまりは因果的な決定論として、自己の原因だと特定できなくなりはしたが、他者との関係においてはそこにある、とされたのだ。子供がそのおもちゃを欲しがるのは、隣の子供がそのおもちゃを持っているからだと。欲望は、他者との関係にはいるまえは、波として非在であるが、そこに置かれると、粒としてはっきり現れてくる、ということだ。

 

これを、文学作品を分析する概念用語で、「欲望の三角関係」といった。

自己と欲望対象だけでなく、第三者の他者との関係があかるみにだされたのだ。

この第三者は、べつだん、人でなくともよくなった。たとえば、広告とか。消費社会の到来である。

 

しかしこの程度では、まだ物質や心の在り方を明るみにだしたぞ、くらいだ。欲望が原因としてどけられはしたけれども、まだ自己と他者との近接した関係にある。文学分析上の概念で、「近接の原理」という。作品にでてきた登場人物は、遠からず出会い、結ばれるというテクスト論的な現実だ、ともされる。

 

となれば、わたしたちがいま生きている環境とは、だいぶかけ離れた、古くさい、というより、そういうのがあるのはわかるけど、やってられなくなった世界、といおうか。

ガラケーとスマホの違い、みたいな感じだ。

 

わたしたちの欲望はいま、他人と接していようがいまいが、関係ない。コロナ禍においては、外にでるな、テレワークだとかいっている。それでも、こちらからのぞきこむ近くの他者はみあたらなくとも、気にならない。が、逆に、こちら側が、四六時中、のぞかれていることを知っている。心の内どころか、一挙手一投足、後追いされ閲覧されている。そして、しゃにむに、欲望が向こうからやってくる。自己参照された他人のもののような欲望が。広告など見向きもしてなくても、クリックするたびに、次から次へとやってくる。あまりに早いので、さっきのと、こんどのと、同じ欲望なのか、わからない。しかしそんなことを頓着させてくれる暇もないので、とびとびの不連続な欲望の誤差も、気にならない。一貫した自分のものだとしても、いっこうに、さしつかえない。じゅうぶん、実用的だ。これにでもしようと、その情報画面を指で押せば、次の日には、モノとしてやってくる。

 

 これはまさに、量子の世界事態ではないだろうか?

 原因としてあった欲望や動機が、見えない他人相互参照の世界に拡散され、いくつもの波としておそってくる。なんとなくは、その波にせかされているということ、押し流されていることを、感じてはいる。

 

 原子爆弾の開発も、たんに科学者の欲望や好奇心によるだけでなく、戦争という他者との競合的な参照世界に巻き込まれていなかったら、その達成はできなかったのではなかろうか? 技術的に困難なだけでなく、大規模な材料調達と予算規模は、戦争状態でなければ断念されて、可能ではなかったろう。

 

 現今の量子コンピューターやワクチン開発も、そのようないくつもの波=系(システム)の戦争状態下にあり、せかされているとしたら?

 

 ボーアが物理と心理にみた事態が、文学を超えて、マクロ世界をもおおっている。

 

 観測しえないようなミクロな世界と、わたしたちの暮らすマクロな世界とはつながっているのか? そうなってしまったというのだろうか?

 

というより、感染するのだそうだ。

 

<いま考察する系S(システム)の情報を得るための問いの発し方を整理してみると、Sを測定器Oが観測することは、SがA状態か、B状態か、C状態か……という問いへの「イエス・ノー情報の集積」と見なすことができる。問いのタイプはOの構造に由来するから、問いを発する側Oと対象Sの関係は非対称である。しかし、一歩引いて合成系S+Oを別の測定器O‘が測定している状況で見ると、「Oに対してSは……」「Sに対しOは……」のように対等な対称関係に戻せる。すなわち、Sの絶対状態を語るのではなく、あくまで他の系との絡みを語る理論構成になる。ここでSはミクロ系、Oはマクロ系とすれば、ミクロ系の不思議が容易にマクロの不思議に感染することがわかる。>(『量子の新時代』 佐藤文隆/他著 朝日新書)

 

 よくわからないが、情報技術のなかでは、そうなってしまうらしい。

 逆にいえば、消費社会から、この情報化社会で生きることになったわたしたちは、その不思議さから逃れられない。

 

 ならば、こういうことになる。

 わたしたちは、情報を得るために、仕事を、労働をしていることになる。

 

 お金も、情報になっている。

貝殻や金といった希少で貴重な物質から、どこにでもある紙幣の複数系へ、そしてデジタル情報と化したグローバルな世界へ。電子情報が、地球規模になった。

 

わたしたちは、そう加速させているメカニズムのことを、資本主義と呼んでいる。

DNAがらせん構造をもつと観測されたように、世界は、商品という一般形態によって構造化されたと観測される。そう、収縮=wave function collapse している。

 

もう一度、波にもどしてみよう。

 

マルクスは、資本主義下でのヒトの作用を「労働力」といった。これは、「労働」×「時間」で示されうる資本世界への貢献要素、みたいなものだ。古典物理において、「質量」×「速度」で計算される「運動量」が、現実世界での大きな力になっていると考えるような見方だろう。

 

では、「労働」そのものとは何か? マルクスは、そこに、「使用価値」というものを認め、それと「時間」をかけあわせることによって、「交換価値」という剰余が発生しえ、それが資本を増殖させ進展させていかせる原動力ととらえた。が、資本下以前の、「労働」そのものをミクロに観察すれば、さまざまな波が潜在していることが知れてくる。たとえば、災害時のボランティア労働とか、親にたのまれる子供のおつかい、とか。あるいは、生産工場での単純作業コンベア・ラインで、となりの落ち込んでいた同僚を励まして仕事をできるような状態にさせたら? しかしそれら潜在的な状態の群れは、「労働力」という計測のなかでひとからげにされる。観測装置にひっかからぬものとして、排除されているともいえるだろう。

 

「労働」そのものは量子の波のようにあるが、「労働力」という観測が、それを収縮=崩壊させているのである。

 

それだけではない。

マルクスの『資本論』の分析によれば、「労働力」が「剰余」を産み出すメカニズムとは、剰余になっていく「労働力」もがまた産み出されてくる世界である。仕事からあぶれる人々のでることが、構造的に折り込みずみなのである。というか、このミクロな「労働」排除の感染が、マクロ構造として前提とされているのだ。

 

「労働力」とは、計測可能な情報である。それによって、資本世界は、仕事の賃金を計算する。仕事がない、賃金ゼロ、というのも算出結果になる。収入はゼロ、という税申告をし、ゼロを支払わなくてはならない。

 

労働現場自体に、アインシュタインがパラドックスとみた量子的な現実性と、それを糊塗する力学計算が現実化されている。

 

この資本主義下の労働現場の二重性、波(潜在)と粒子(事実)の感染性を活写した文学作品があるという。

1983年に出版された、中上健次の著作『地の果て 至上の時』である。その読解は、河中郁男氏のものを参考にしている。

 

<「秋幸」は、この小説の中で、様々な考えにすぐ染まってしまうという特徴を持っている。それは、彼が「大文字の特殊」=「労働力」であるからであり、「労働力」であるということは、マルクスが言ったように、すべての価値の源泉であるが、それ自体としては「無」である「自由」を持っているということである。現象するものに対して、「秋幸」の根拠は、「無」、つまり、「潜在性」であるがゆえに、「秋幸」は、「不安」であるのであり、そうであるがゆえに、様々な考え方に自分を接続させてしまうのだ。>(『中上健次論 <第2巻>』 河中郁男著 鳥影社)

 

父の経営する材木屋の社員であることをやめて、自らフリーターとなって働くことを選んだ主人公秋幸とは、位置か運動量かといった、どれか一方の「観点」をとらずには計測されなくなった量子としての、電子のようなものだ。秋幸は、局所実在性としての、近接原理が支配する近代文学の法則性から逃れ、非局所性としてのパラドックスを生きるようになる。彼が消えたあとに燃えさかった故郷の炎とは、電子がエネルギー準位を変えて突如ちがう起動場所へと現れるときに放たれる光でもあるだろう。

 

しかし、量子の現実性とは、波であり、つまり「無」であり「潜在性」である。がゆえに、「不安」を抱え込むほかない。

 

ビル・ゲイツを陰謀論者とみたいとおもうものたちは、この秋幸のような、「不安」のなかにいるものたちであろう。

いわば、自分たちが、潜在的な失業者であることを、自覚せざるをえないようなものたちだ。

 

ゲイツは、科学は、理性は、そのものたちを制御しようとする。

しかし、量子的な次元で、それは可能なのか? 技術的にではなく、原理的に不可能であることを暗示させているのが、科学の<観測問題>なのではないのか? そこを無視して進むとは、陰謀というよりは、無謀なのではなかろうか?

 

 それでも、科学理性は突き進む。

 

よかろう。やってみろ!

 

 

(2) 引用参照物語

 

 なぜ量子世界から入らなくてはならないのか?

 

 その疑問への引用からはじめていこう。

 

<では、いまなぜ量子の時代なのか。そしてそれは、どんな広がりをもっているのか。

 量子力学は一九二○年代半ばに築きあげられた。二○世紀後半を彩るエレクトロニクスもIT(情報科学)革命も、みんな量子力学の上に成り立っている。それを支える集積回路は、量子力学によって理論づけられた半導体物理が生みだしたものにほかならない。パソコンも、インターネットも、電子メールも、科学者が量子力学を身につけることなしには登場しなかった、といえよう。

 ただ、いまのエレクトロニクスに使われている量子力学は、その核心をベールの下に隠している、といってもよい。量子力学の中心には、電子は粒子であり波でもある、光は波でもあり粒子でもある、という私たちにとっては不可解至極な部分があるのだが、そのことに見て見ぬふりをすることができた。裏を返せば、二○世紀の科学技術は量子力学の核心部がはらむ知的難題に目をふさいで実用に突っ走った、といってもよいだろう。

 ところが皮肉なことに、その実用の子であるエレクトロニクスがいま、私たちを知的難題に引き戻そうとしているのである。たとえば、電子を一つずつ操ることは、ごまかしが効かないかたちで「電子は粒子であり波である」という現象を私たちに突きつけ、量子力学をきちんと解釈するように迫る。量子が再び、知的探求の最前線に立つ時代に入ったのである。>(『量子の新時代』 佐藤文隆/井元信之/尾関章著 朝日新聞社 2009年発行) 

 

 そうして現在ある産業社会上の科学の在り方に、改めて問題提起をする学者はいる。

 上著作のひとりである、物理学者の佐藤氏である。

 

<このように、及ぶ影響が複雑で大きい「実在」という言葉を、物理学の論文で問うのは熟慮に欠けていたようにも思える。この原稿自体はアインシュタインが書いたものではなく、彼自身EPR論文の記述には不満もあったようである。しかしそれから七十数年経って、本書でも述べるように様々な問題が煮詰まってくると、まさに量子力学は哲学的に実在の意味を問うていると言えるのである。このことは本書の主題でありその広がりを提示するのが目的であるが、それは従来の認識論の線上だけでなく科学制度論に拡大されるべきと思っている。(略)何れにせよEPRは、二〇世紀における科学の変貌を測定する物差しになり得るのである。そして我々は、このように科学の世界に起った現実、社会の中での制度科学と従事者のメンタリティーの変貌といった事柄に着目する感覚が必要だ、と筆者は今考えている。二〇世紀物理学の開拓者であるアインシュタインの量子力学を巡るこの大いなるねじれは二〇世紀の物理学の歴史の描き方の問題とも関連するし、今後の物理学の展開の見通しにも関係してくる。それが本書の動機である。単なるアインシュタイン絡みの歴史秘話ではなく、科学の今後が絡む現実的に重大な問題であると筆者は考えている。>(『アインシュタインの反乱と量子コンピューター』 佐藤文隆著 京都大学学術出版会 2009年発行)

 

 アインシュタインが若手研究者とともに1935年提出したEPR論文とは、物質が粒子であると同時に波であるという理論解釈にともなうパラドックスを、思考実験として示してみせたものである。1980年代以降に可能になった実験によって、それがパラドックスではないことが実証され、EPR相関として理解しなおされた。ゆえにまた、実用化への「突っ走り」が、加速されて現代にいたっているわけである。

 物理学者の佐藤氏は、そこに、科学者から技術者への「メンタリティーの変貌」を問題化するわけだが、おそらくはどうも、肯定的にみるようである。意識的な自覚を、メタ科学的な理論としても推進していきたい、という立場にみえる。それは、科学者が「もの」という真実実在にこだわっているとしたら、きたるべき科学技術者とは、「こと」という情報処理装置を作ってみせる者たち、ということになろうか。この「こと」の世界観では、EPR問題がはらませるゴミ問題、波としてあったはずの可能世界の消滅(収縮)は、「もの」世界観では廃棄されたエネルギーとして残るはずだから、それはどこにいったのだ、というパラドックスも解消されるという。(『波のしくみ 「こと」を見る物理学』 佐藤文隆/松下泰雄著 講談社BLUE BACKS 2007年発行)

 

 しかし、ニールス・ボーアが量子物理世界と同型とみた人間の心理において、その潜在のままに終わった状態は、後悔、という形で残存する。ああでもあり、こうでもありえた可能性が消えてこの現実となったとき、それが不本意であれば、あのときああしていれば、と心残りが生じるであろう。その残存は、たとえばアウシュビッツでの生存者が、なんで自分が生き残ってしまったのかと自身を責め続け、老年になって突如自殺してしまう、ということにつながる。ということは、多世界を実在としてみる世界で発生する潜在エネルギーのゴミ問題を、「こと(情報)」的世界と見方を変えて消してしまう処方が、人間にとって本当に解決策になっているのか、ということになるだろう。

 

 1994年に亡くなった哲学者の廣松渉氏も、「もの」から「こと」へと、学者の認識態度を変えるべきだ、と説いた人である。

西洋近代的な「物的世界像」から、「事的世界観」への移動を哲学的に基礎づけようとしたのだと言える。

 が、廣松氏の世界への切り口は、アインシュタインらが提起したパラドックスそのものを認めない、観測問題の根本をずらすことにおいてなされる。

 どこにずらしたのか? わたしたちの、日常世界にである。それをパラドックスとして観測するのは、科学者だからではないか、と問題をとらえなおすのだ。

 

<円筒型は見え姿の無限集合であるといっても、そして、それの形成に際しては過去の体験に俟つとしても、一つの見え姿以外は「可能態」(デュナミス)ないし「潜勢態」(ポテンティア)としての見え姿にとどまる。それらはしかじかの視点から現に見られることにおいて「現実態」(エネルゲイヤ)に転化するが、円筒型が円筒型たるかぎり、それはさしあたり可能的、潜勢的な(未在的に既在的な)見え姿の無限集合ないしそのアルゴリズムである。…(略)…

 量子力学的次元での観測対象についても、これと全く同様な論理構成になっている。観測理論のプロブレマティックを劃したとも称されうるあの確率波的解釈をボルンが持出したとき、どのような論理構成になっているか? ボルンは電子という対象が、或るときには粒子的な見え姿(量子的作用)で、また或るときには波動的な見え姿(回析や干渉)で“見える”ということ、このいわゆる粒子性と波動性とを統一的に捉えるべく、波動函数を確率波的に解釈してみせたわけであって、このかぎりでは、それはあの円筒型の場合と同様、しかじかの条件のもとではしかじかの「見え姿」を呈するところの或るものetwas Identischesにほかならないわけである。>

<観測に際して直接的現相を対象化的に措定する者、量子力学的次元を意識していえば、波動函数を定式化する者は、いかに具身の個人であるとはいえ、単なる一私人ではない。“学問的知性の一代表”ともいうべき者、謂うなれば認識論的主観を具現する者として彼が認証されているかぎりで、彼の観測が「観測」として通用geltenするのだということ、このことはもはや駄目押しするまでもあるまい。――単なる一私人が、所与の「見え姿」から対象を措定したり、波動方程式を立てたりしたのであれば、それがいかに能知・所知的な被媒介的形象であるにせよ、「対象」としての認証に値しえないであろう。しかるに、観測に基いた対象措定が間主観的な認証性をもつところから、それが第二次観測に先立っては「可能態的存在」にとどまろうとも、これには対象的存在性が認められうるのである。>……引用中の傍点部分は省略(『事的世界観への前哨』 廣松渉著 筑摩書房 2007年発行)

 

 廣松氏は、普段の生活上にある認識と、量子力学における観測とを、同じ位相において捉える論理を提示する。そのことによって、量子の不可思議さを解消する。そのパラドックスとみられていたものが、生活水準での論理でみれば、「間主観的な認証性」をもっていることが知れてくるので、矛盾ではない、と。だから、むしろ「間主観的な認証性」こそを根拠に実践を導いていかなくてはならない、という展開をしたのであろう。

 

 この思考展開から、廣松氏の晩期の「日中を軸とした東亜の新体制を!」という共同主観的なイデオロギーが発生してくるのであろう。

 

 佐藤氏も、「こと」世界への前哨のように、「もの」から「ものの見方」へと認識を移動させた西田哲学(戦時中の大東亜共栄圏のバックボーンとなってしまった)への親近を表明している。(『物理学の世紀』集英社新書 1999年発行)

 

 いわば、世界を「もの」ではなく、「こと」、情報としてみることへの傾向は、人と世界とのイデオロギー的な関連を暗黙にあとおししてしまうことにならないのか。

 

 アインシュタインの量子論への疑義に沿っていえば、人は月を見なくても生きていく日常生活をもちうるが、月は、観測している科学者において、情報としては見えているのである。しかし、たとえふつうの生活者が、月を観測などせずに生活していようと、たとえば、その情報が、女性には生理として影響をあたえる。海の波はもりあがる。それさえも、情報であると世界観、達観するとは、どういうことであろうか?

 

 この短考が警告するのは、そのことである。

 

 すべてが「こと」に、モノではなく情報になった世界とは、文学の世界になったということでもあろう。

 

 世界は、コトバに、言の場、になったのだ。それは、情報化社会を超えて、「もの」が「こと」として相互参照(リンク)されたネット世界となった現在では、自明な話にもなろう。

 ならば、小説と世界を区別する、テクスト論的な前提は、世界自体に折り込まれてしまう。間テクスト的世界が、共同主観的なリアリズムになってしまうからである。

 

<そうした「読者」として、「わたしたちがすでに知っているどの世界とも単純明快なつながりなど全然もっていないものとして、その作品に対すること」。この教唆もやはり、第二の心得として本書の踏襲すべきものとなる。というのも、多分に時評的なものであると同時に、小説の形態とその技術とにかかわる原理的な視線を手離すまいとする本書にとって、ナボコフによる右の分離指令は、この視線をおおいに鼓舞してくれるのだ。実際、「その世界と他の世界」とは、原理的に分離しているからだ。小説作品という「その世界」に比較されるもっとも広範な「他の世界」として、そこに、現実の「人生」を代入してみればよい。むろん、その代入から等号を導く志向が、いわゆる「リアリズム」の基軸をなすわけだが、このとき、子供にも分かる問題として、たとえば、「ビフテキ」という言葉は食べられず、やや高度なポイントとして、「それから十年後」という言葉を読むのには、一秒も要さない。逆に、「他の世界」でなら一瞬にして把握しうる対象に費やされた、その五行なり十行なり、極端な場合には十頁二十頁なりを読むには、相応の時間がかかる。作中に「私」と名乗り出た一瞬から、その人物は二人(<語る私/語られる私>)であり、よほどの信者でないかぎり、「神の視点」を人生にまで許容する人間はおらず、人生にはそもそも「話者」は存在しない。作中人物が心ひそかに抱くその秘密は、しかし、すでに(読者という他人)に読まれてあり、作中のどこかでたまたま近づきあった赤の他人同士は、人生にくらべればおそろしく高い確率で、その後、何らかの関係をもつ。>(『小説技術論』 渡部直己著 河出書房新社 2015年発行)

 

 量子論的にみれば、「ビフテキ」という言葉は食べられる。もの(粒子)と波(=言)の二重性としてあるとされるからである。十年や一瞬といった時間差も、時計によって把握されるようなものではなくなり、主観的な圧縮や伸長に重きがおかれる。よほどの偏屈者でないかぎり、グーグルやアマゾンが「神の視点」をもっていることを受け入れざるを得ない。わたしたちは、小説など読まなくとも、生まれたときからすでに二人(語る「もの」/語られる「こと」)であるかのようだ。ひそかに抱く秘密が、この世界で、人生で、すでにのぞかれている。赤の他人同士が、フェイスブックなどをとおして、おそろしく高い確率で関係をもってしまうのが、人生だ。小説の世界と人生との区別をつけさせない主観情報論的な世界のなかを、泳がされている。しかもそれが、ミクロからくる物質的現実なのだ。

 

 スマホの電源をいれるいれない、持つ持たない、という話ではない。

 わたしたちは、その圧倒的な電子の世界に生きている。つまり、量子の世界に。ナボコフを参照したこの批評家の世界観は、ニュートンの古典力学のように懐かしく、またうらやましくも感ぜられる。その読解が、間違いというわけでもない。マクロ系では、誤差はあっても、じゅうぶんニュートンの物理で計算可能だからである。

 

 だからむしろ、世界と小説の区別をせず、小説の欲望から世界の欲望を見通そうとしたルネ・ジラールの、テクスト論以前的な古典的読解のほうが、ここでの考察では意義を発散してくれるだろう。

 

<媒体が欲望する主体に接近してゆくにつれて、本体論的病いは絶えず悪化してゆく。その自然的終局は死だ。自尊心の浪費的な力は、自尊家の分裂、次には断片化、最後には完全な崩壊へといたることなく、無限に活動するわけにはいかない。一つにまとまろうとする欲望は霧散する。われわれはいまや決定的な分散状態に到達しているのだ。内的媒介が産み出す諸矛盾は、遂には個人を破壊してしまう。マゾヒズムに引きつづいて、形而上的欲望の最後の段階、自己破壊の段階がくる。この病いに捧げられたドストエフスキーの全登場人物における肉体的自己破壊である。キリーロフの自殺、スヴィドリガイロフの、スタヴローギンの、スメルジャコフの自殺。最後には精神的自己破壊だ。呪縛のあらゆる一切の形式が、その最後の苦悶を形成したのである。本体論的病いの宿命的な結末は、直接的にであろうと間接的にであろうと、常に自殺の形態である。自由に自尊心が選びとられるからだ。

 媒体が接近すればするほど、形而上的欲望に結びついた現象は、それだけいっそう集団的性格を帯びる傾向がある。この性格は欲望の最終段階でこれまで以上にはっきりする。したがってわれわれは、個人的自殺とともにドストエフスキーの中で、集団の自殺あるいはほとんど自殺とも言える状態を見るであろう。>(『欲望の現象学』 ルネ・ジラール著/吉戸幸男訳 法政大学出版局 1971年発行)

 

 そうしてジラールは、『罪と罰』のエピローグ、疫病に侵された人類の絶滅していく悪夢に言及する。

 

<この病気は伝染性のものだが、そのくせ、それは、人間たちをばらばらに切りはなすのである。人間たちをお互いに角突きあわすのだ。各人は真理を所有しているのが自分だけだと信じ、身近な者を観察してはなげくのだ。各人、自分自身の法にしたがって断罪したり許したりする。このような症状の一つ一つはわれわれに無縁ではない。ラスコーリニコフが描いているのは、あの本体論的病いなのだ。こうした破壊のらんちきさわぎをひきおこすのは、その極限期にいたった本体論的病いなのである。細菌学と専門用語の確かな語法が、「ヨハネ黙示録」に通じているのである。>(同上)

 

 他者というもう一項を媒介とした、三角関係としてあった欲望は、その近接の原理という古典物理を内側から破壊してゆく。近くによりすぎて、ミクロな次元にまでゆくと、集団的な性格になってしまうのである。欲望は、統計的に処理するしかなくなる。他者の欲望を欲望するといった消費社会は、のぞかれた心内の欲望が無尽蔵にリンクされた情報社会へと偏向してゆくのだ。「もの」への欲望は、もはやブラックボックスと化した他者との共同参照世界によって回析され、自分のものとも他人のものともしれない「こと」と化す。私の消費という結果は、もはや欲望という原因によるのではない。波のようにあまねく広がった潜在的な欲望世界のなかで、クリックとともに粒子化する「こと」として、わたしのまえに情報化される。次にクリックしたら、ちがうものに、なっているかもしれない。さっきの欲望と、いまの欲望は、同一なのか? そのように、わたしたちが、量子のように振る舞っている。

 

 欲望が、原因が、偏在している世界。

 ラスコーリニコフの悪夢が現すのは、人から人への感染という近接の原理ではもはやない。それは、いきなり遠方でもおこりうる。原因は、波のように、常在しているからである。電子のように、A地点からB地点へと、量子飛躍的に発生していくのだ。世界自体が、ウィルスの環境要因となっている。そこいらじゅうにあった花粉の波が、突如、粒となって猛威をふるいはじめるように。

 

 そのとき、わたしたちが抑えようとすべきなのは、粒なのだろうか? 波なのだろうか?

 

<単に病原体を根絶することで、それを達成することはできない。病原体の根絶は、マグマを溜め込んだ地殻が次に起こる爆発の瞬間を待つように、将来起こるであろう大きな悲劇の序章を準備するにすぎない。根絶は根本的な解決策とはなりえない。病原体との共生が必要だ。たとえそれが、理想的な適応を意味するものではなく、私たち人類にとって決して心地よいものではないとしても――。>(『感染症と文明――共生への道』 山本太郎著 岩波新書 2011年発行)

 

 もはや、ミクロとマクロとの区別が相互作用として、感染的にしかない社会で、自己と世界との区別は意味がなくなってしまうだろう。

 

<いいかえれば意識的領域が強化されるほど抑圧される領域――無意識的領域は広がり、したがってそこで抑えられていたもの、無意識的なものが突発するときの衝撃は強くなる。…(略)…エスは無意識よりさらに根底的です。対して無意識と呼ばれていたものはインフラであり意識を反映して組織されてしまった人為的産物にすぎない。これは必ず破綻する。エスの活動の必然によって。エスの活動とはまさに物質連関そのもののようなものであって自我意識が崩壊しようと、その死が訪れようとかまわない。つまり主体が死んでも持続する。エスの活動、物質連関は主体の輪郭の外に連続しているわけです。ゆえにエスには時間は存在しない。>(「理性の有効期限 理性批判としての反原発」 岡崎乾二郎インタビュー 『述5 反原発問題』所収 論創社)

 

 いま、科学技術が分け入ろうとしている量子世界とは、この物質連関としてのエスの世界のようなものであろう。これ以上の技術の要請とは、電子(陽子)が「主体の輪郭の外」へと、統御しえるものとしての「半導体」や「細胞」の外(内)へと滲み出すぎりぎりのところを超えていこうとすることに他ならない。量子のトンネル効果を制御できるものと、コンピューター開発がなされ、モノがコトでもあり、そうなっていく世界が貫徹されようとしている。イデオロギーは、言葉だけの世界ではない。ネットの書き込みが、実際に、わたしたちを殺しもするのである。それが、自然な物理であり、そういう世界なのだとされることは、一体、どういうことなのだろうか?

 

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