2019年8月11日日曜日

鹿島田真希著『ゼロの王国』から(2)

ドストエフスキーは、なぜ『白痴』という作品において、日本人の「切腹」という文化に言及したのだろうか? つまりは、現代のイエスとして造形されたムイシュキンという主人公と「切腹」とが、どんな関連にあるというのだろうか?

その中心的主題ともいうべき点を熟考するに、私は、日本の文化を解析してみせた、ルイス・ヴェネディクトの『菊と刀』における、日本人の「恩」と「恥」という表裏一体となった感覚についての記述が、有効ではないかと指摘する。その箇所は、鹿島田氏の『ゼロの王国』を論じた前回ブログ冒頭で引用した部分である。とくには、「並々ならぬ恩恵をほどこされて恥辱を感じる、なぜなら自分はそのようなことをしてもらうに値しないから。」――このように人間関係を要約する記述は、鹿島田氏が「白痴」から抽出してきた純粋な人間関係の原理性と重なる。ムイシュキン(吉田青年)と対面しだす者たちはみな、彼と対等に関係するには値しないと感じてしまう。とくに女性は、自分は彼にはふさわしくない、と思い詰めるようになる。恋人という特定の関係の枠でお互いがフェアであろうとするには、彼との関係で自分の不甲斐なさ、不完全性さが露呈してくるようになるからである。同性愛志向をもつでもない男同士でなら、そこまで思いつめるところまではいかない。それどころか、彼は、女をめぐる闘争から、自ら降りてしまう男であるので、競争相手にならない。ムイシュキンも吉田青年も、一度は女を他の男から奪うということになりながら、可笑しな関係に逆戻りする。彼とは対等になれない女の方は、私と同じように怒ってくれ、ののしるようになってくれ、そうすればお互いが不完全な存在同士としてフェアになれるのに、両青年は天然的にそうできないのだ。鹿島田氏は、その天然を、「自尊心から無縁な人物」「喜んで相手の奴隷となる人物」と言語化する。いいかえればそれは、奴隷となっても「恥」を感じないということ、自己愛的な自分がいない、ということだ。しかしそれは、彼らが逆に他人をして「恩」を与えつづける人物であり、「恥」をかかせつづける人物だということになる。奴隷のように自らを差し出して生きる人物。

しかし、彼らをめぐる関係がこじれてくるのは、そこからなのだ。なぜなら彼らは、この目前の女や男に卑屈になり、謙遜しているわけではないからである。ムイシュキンは、うらぶれたナスターシャは本当はこんな人ではないと、むしろ「あの」人を追い求めていく。彼女は一瞬その洞察にたじろぎ理解者を得たと恋するようになるが、そのことに耐えられなくなる。自分は彼が見てくれているあの自分に成れることはもうない、反復は不可能なのだと思い知らされて。吉田青年のエリやユキを見る見方にも、この人を超えたあの人があり、彼女たちは理解と拒絶という二律背反に葛藤することになる。「あの」とは完全性であり理想像であるが、それは仮説的・演繹的・理念的に前提としてあるとされているのではない。それならば、人間はそうあるべきだ、というイデオロギーと同様なものになるだろう。そうではなく、彼らは、まさにこの経験の表象から、とくには不幸な姿から、むしろ帰納的に「あの」存在性を洞察してくるのである。ニーチェは、イエスのことを、「洞察力をもった白痴」と呼んだ。彼らの無垢も、知性の産物なのだ。この不純さの中に、あの純粋な原石が宿っていると見抜くことが生きることなのである。

ということは、彼らにあっては、経験が時間的に経験化、蓄積されていなかない、ということだ。洞察といっても、それは不純物の継起、歴史的な考察によっているというよりは、一瞬芸的に見抜く力なのである。この力の前では、過去は堆積されていくのではなく、更新されてしまう。つまりは、彼らはキルケゴール的な意味での反復を生きてしまう者なのである。いつも新しく、だから、白痴なのだ。『ゼロの王国』が、ユキと別れた吉田青年の、次なる恋愛関係の更新へといきそうな暗示で結末されていくのは、それゆえだ。が、ドストエフスキーによれば、そう更新できるのも、27歳ぐらいまで、ということになる。吉田青年は、その歳になるまでには、まだ数年ある。私は、この27歳という循環(経験知)を、カントの啓蒙思想から読んだ。自然(生理)の成長とはズレのある人間には、もう一循環の人為的な経験、職人が技術を習得するには10年かかると言われるように、文化的な社会人となるためには、もうひとサイクルな一節が必要になるのだと。この一節とは、三島由紀夫が『午後の曳航』で問題化したように、13年である。自然的には、そこで成人となり、儀礼がある。近代法でも、その自然性が反映されている。しかし形式的に大人社会に参加しえたとしても、市民として一人前になるには、もう一節が人間には必要なのだ。幼児のように記憶が更新されてしまう吉田青年が世間に適応できる限度は、精神病院に戻っていったムイシュキンが下地であるなら、それゆえ27歳になるだろう、ということだ。

そうした彼ら――イエス、ムイシュキン、吉田青年――が、「切腹」に関わるとしたら、どこにおいてであろうか? むろん、「恥(恩)」を与える、という関係においてだ。より一般的にいえば、「贈与」ということになろう。マルセル・モースは、この関係に在るものを、他の部族社会の事例からとって「マナ」や「ハウ」と呼んだわけだ。わけはよくわからないが、負い目(恩義)を発生させてしまうので、そのモノを、霊的な力、とみたわけだ。そしてもともと、切腹は、この目に見えぬ霊的な力を、真実を白日の下にさらす、さらしたい、という狩猟民的な衝動からきている、と考察されている(千葉徳爾の民俗学など)。ヴェネディクトの指摘にあるように、「恥は身を切られるような感覚をともなう」「日本」がいまだ原始的であるといえるとしても、その原始性を人類は抱え込んでいるのだ。アウシュビッツや自然災害で生き延びた者が感じてしまう「恥辱」(レヴィナスやレベッカ・ソルニット)というのも指摘・考察されている。ドストエフスキーが、恥辱を与えた者の前で腹を切って見せるという日本人の仕草を引き出したのは、実はそれが特異ではなく、普遍的であると洞察したからである。極論的にいってみれば、生きることは、他人の間にあることであり、それだけで恥ずかしいことなのであり、死にたくもなることなのだ。この根源的な困難に、私たちは、どう立ち向かおうというのか?

しかしもちろん、神は切腹しない。ムイシュキンや吉田青年が切腹から遠い、恥を感じない人物として造形されているのは、逆に人間がどういう原理的な関係性に在るかをより明快にするためである。歴史を忘れ、大国(アメリカ)に隷属しても恥を感じていない(ふりをしている、ということにしかならない)民衆の政治性をあからさまにするためではない。いや、ドストエフスキーには、ロシアの政治性を分析しようとているコードは、作品に挿入されているかもしれない。私はそれを読めていないが、ポリフォニーという世俗的な形式性が、そう推論させるだろう。逆に、鹿島田氏の語り形式は、より端的に、以上の問題を焦点的に考察するに有効となっているだろう。

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