2023年1月7日土曜日

柄谷行人著『力と交換様式』(岩波書店)を読む


「人間という種がもつ驚異と独自性は、弱者の生き残りに由来する。病人を看護するという習慣がなければ、人類一般における不具者と弱者が文化と文明の高みに達することはできなかったであろう。部族の男たちが戦場におもむくとき、背後にとどまらざるをえなかった傷病者が、おそらく最初の語り部、教師、(武器や玩具を作る)職人になったのであろう。宗教、詩、英知の草創期の発展は、不適応者の生き残りに多くを負っている。狂気に陥った呪医、癲癇症の予言者、盲目の吟遊詩人、才知に長けたせむしや小人が、そうした人びとである。最後に、病人は医術と料理の発展に貢献したに違いない。」(『魂の錬金術』エリック・ホッファー著・中本義彦訳 作品社)


柄谷行人著の『力と交換様式』(岩波書店)は、後回しで読もうと思っていた。これまでの読書で大まかはわかっているのだからと。が、YouTubeにアップされた鈴木宗男氏の大地塾の講義で、おもにはウクライナ情勢について検討する議場で、佐藤優氏がエマニュエル・トッドとともにこの著をあげて推奨し、さらに、週刊文春で池上彰氏が、柄谷行人氏が哲学のノーベル賞とも呼べるものを授与されたのを受けて対談していたのを目にした。そこに、私はもしかして、ジャーナリズム言論の世界で、イデオロギー上のヘゲモニー争いみたいのが発生しているのかな、と感じた。柄谷の若き頃のエッセーにも、年上の批評家から君はどちらの派からも好かれるよ、と言われたというのがあったとおもうが、柄谷の言説内容が隙間にあるがゆえに、左右どちらの陣営からも、自分の言動を正当化するための根拠として、引っ張り合いでも生じているのかな、と。確か『世界史の構造』をめぐっては、理論左派から、これは中国の帝国(主義)を擁護するような言説になるのではないか、みたいな批判があったと思う。がこの度一読吟味してみて、もうそれはありえないだろうと思われた。しかしそれゆえに、どちらでも読める。池上との会談で、ウクライナ戦争についてどう思うかと聞かれ、戦争状況一般の話にかえて立場を曖昧にしていることからも、その自覚は伺える。少なくとも左派は、ウクライナ戦争支持としての反戦、右派(佐藤・池上)はそうした世論迎合に距離を置いている、ように見えるから。岩波と文春、その隙間に柄谷がいる、ということだろう。



が作品を読めば、そうした下世話のことはやはり興味がなくなる。文体的に、三部までは随想温和的、四部はまた切断文体が復活して、社会学者が切られていた。がそういうことも超えて、はっとさせられる人間洞察が星屑のように散りばめられている。トッドの洞察が、核家族は近代ではなく猿から人への時点にさかのぼる、という一点にあるとしたら、柄谷の洞察は、交換というビッグな着眼点だけではなく、細部においても様々な転倒として指摘されている。推理小説を読んでいるようだ。



が、私自身は意見・主張を異にする。現状(戦争)においては、交換A(氏族魂)の高次元回復であるという交換Dなるものでいいとしよう。がそこに、未来があるとは思わない。私はこのブログでもトッドの抜粋引用で物語的に提示したように、フェミニンな立場(「かかあ天下」)に立つ。



*****



「力(パワー)」は、「交換」から発生するのか? それとも、「交換」が「力(霊)」から発生するのか?



(1)「つまり、カリスマとは、まさに交換から生じる霊的な力に他ならない。」(p129)


(2)「クラ交易は、共同体と共同体の間の交換を可能にするものが、贈与交換において働く“霊”と同じであることを示している。」(p134)



上の例文では、(1)は「交換」から「力=霊」が、(2)は「霊=力」から「交換」が発生していると言っているに等しい。こうした曖昧さは、読んでいてどこか不透明感を漂わせてくるのだが、相対的には、「交換」から「霊=力」が発生するとする記述が多い。しかしこれは、論理的には循環論法だが、そもそもが、フロイトの無意識と重ね合わされているわけだから、その無意識が医者と患者との対話においてしかない、ように、霊や力も、その交換でこそ発生して消える、みたいな同時的な在り方と理解はできよう。だから、鶏が先か卵が先か、という反論は意味をなさない。がその連鎖は、商品に一般等価形態が、つまり「貨幣」が定着するように、その一回性の「反復」は「想起」される(柄谷引用のキルケゴールに沿って言えば)。その定着=想起があるからこそ、「交換」は「様式」的になり、AからCまでの型が言語化される。



そして交換Dとは、交換Aの高次元の反復である。それはまだ、歴史的に、定着=想起として、様式としては成立してはいない。資本主義の危機において、これから大々的に到来するであろうと予想されるものである。しかし、資本主義の萌芽が近代以前においても、たとえば「貝殻」が「貨幣」であった当初から、交換ABCDはともに潜在的な現実性としてあった。ゆえにこそ、現今の資本主義絶対のような定着構造見方が相対化されて、その構造が変革しうる、AからDまでの力の割合が組み替えられることによって、交換Dの優位が確立されうるところに、希望がある、とされるわけである。



しかし、「高次元」とは何か? どんな実践なのか?



<だが、“高次元”とは何を意味するのか。通常、これは「生産様式」(生産力と生産関係)の観点から見られる。つまり、生産力が高度になった段階において、太古にあった共産主義を取りもどすことだと見られる。しかし、交換様式の観点から見ると、そうではない。共産主義とは、「古代社会」にあった交換様式Aの高次元の回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。>(P368)



上の記述は、トートロジーであって、「高次元」を説明していない。共産主義ではなく古代社会をとりもどすことだ、とされながらも、それは、「高次元の回復」でなければならない、と言うのである。だから、高次元って、何? と普通の読者なら、突っ込みをいれたくなるだろう。



しかし、読者は勘繰ることができる。第一部第一章「交換様式Aと力」で、フロイトの「死の欲動」を導入する箇所を参照することによって。



<誘導的な狩猟採集民たちは、社会的な葛藤や縛りをもたなかった。したがって、特に利己的なわけでも利他的なわけでもなかった。しかし、定住した後、彼らは未曾有の危機に出会った。一口でいえば、定住が「有機的」な状態をもたらしたのである。無機質の状態に戻ろうとする死の欲動があらわれたのは、そのときである。それは先ず、他に向けられる攻撃欲動として奔出したが、さらに、それを抑えて他者への譲渡=贈与を迫る「反復強迫」があらわれた。それは「霊」の命令として出現した。それが、後期フロイトが「超自我」と呼んだものである。>(p94)



ここの記述では、「霊」の方が先なるものとして前提とされているわけだが、それはともかく、「高次元」とは、攻撃欲動が外にではなく、内に向けられること、と推定しうる。「古代社会」の戦闘的な氏族つまり武士の欲動が、敵にではなく、自身という内に向けられるとはどういうことか? もちろん、切腹、である。民俗学者の千葉徳爾は、このサムライの切腹という儀式は、狩猟民が己の潔白を示すために、獣の内蔵を白日の下にさらす儀式から来ている、と説いていた。そして私は、その系譜において、現日本国憲法9条とは切腹なんだと提示した。それは、氏族魂の、「高次元の回復」である。



「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマは、それ以降、サッカーが戦争の代用になったこと、そしてそこには、ナショナリズムを超えた、男の自立(自由)と威信(死)が賭けられているのだと洞察した。そして本当の戦争が起こった。柄谷理論とも踏まえれば、それは交換B・Cが優勢な現状における、交換Aの「低次元の回復」ということになろう。が「高次元」であれ、「低次元」であれ、そんなものの回復が今のあり様なのだ。



フロイトは、「死の欲動」とは、「無機物」への回帰の衝動だと言った。有機物が多細胞生物となったとき、おそらく「筋肉系統」が刺激されたのだと。だから、男たちの出番となる。が無機物であれ、有機物であれ、それはあくまで「物質」への回帰である。が、原爆に連なる量子物理の世界が露呈させてきたのは、さらにミクロな次元における、「無(波)」の力(フォース)である。柄谷が力点をおくのは、「パワー」である。それは、「観念的」な力とされる。自然との「交通」ではなく、人間の間での「交換」における「霊=力」を見ることが大切なのだと。



<あらためていうと、交換様式Aは人類が定住した時点で生じた。>(P389)



言い換えれば、「観念」は、定住とともに発生した、ということだろう。なぜか? 「定住革命」の西田正規がどこかで、おそらく定住によって言語活動もが定着していったのではないか、と推論していた。人の脳みそはでかいので、それを活性化していないと、脳内のエントロピーが増加してしまって、不快感に耐えられなくなるのではないか、というように。身近な例として、散歩という遊動を思い起こしてみよう。ハイキングなど、自然の中での散歩はあきないが、住宅街の中での散歩は、たしかに筋肉系統の維持には役立つけれども、あきてきて、気が滅入ってきやすい。なぜか? 自然の方が現象として多様なので、視覚的にも刺激が連続するからだけではない、身体を介した、ミクロな物質との「交通」が盛んになってくるからでもあろう。が、定住と都会化は、いつも見慣れた風景の中で暮らすようになるので、脳内のエントロピーが増大し、その不快感が惹起してくるのだ。だから、遊動にかわる「観念的」な活動が必要になる。その「様式」が定着するとは、いわば頭でっかちになる、ということだが、肝心なのは、その「観念」への発生は、遊動や戦争をして気晴らしができる男たちによってではなく、それができない者たちからこそ発生したのではないか、ということである。



冒頭引用のホッファーの洞察をあげたのは、それが言いたいがためである。



そもそも、男たちのように遊動できない者たちがいたのだ。ホッファーは女性をあげてはいないけれども、そこに、女性や子どもたちが入るのは自明であろう。彼らは、空腹と脳内の不快に対処するために、観念に通じる活動を行っていた。こんなことを想像してみよう。獲りたての生肉のおいしいところを食べた男たちの残り物の骨付き肉を、なんとか食おうと茹でたり砕いたりしているうちに、料理ができ、骨の破片のかけらで武器もでき、それを石で叩いて憂さを晴らしていたら音楽もできたぞ、と。そして、その技芸を、男たちが強奪することで、観念的な活動が反復されていくのだ。



氏族や部族社会では食べ物を平等に分け与えていたのだ、と奇特な男たちを想定したとしても、この想像の現実性は残るだろう。ここにあるのは、交換の残余である。あるいは、交換のネガである。それは、パワーからくるというよりは、男たちのフォース、自然の暴力、それとの「交通」から発生するのである。



そそそも、柄谷の理論自身が、ダンバー数(150)なる自然の神秘さに依拠している(p66)。氏族から部族へ等の拡大は、その基礎数による、というのである。さらにそもそも、世界を4で区切る、という思考そのものが、そうした自然の神秘に依拠している。これはどこかで、柄谷自身が、構造というのは4でないとだめになっているので、というような発言をしていたろう。トッドによれば、これはデカルト主義であり、大陸の合理論であり、ピタゴラスの神秘主義である。そしてこの自然の神秘を、排除することはできない。物性物理でも、花びらの数とかなぜか五角形になるような現象がミクロな世界での結晶作用として現れてくるし、有能なアーティストなどの作品も、黄金分割として分析できてくる。竜安寺の石庭の配置も、黄金分割だとされている。



柄谷は、現今残ったスピリチュアリズムは、交換様式Cによって生まれた宗教である、と言う(p373)。が、それがどういうことなのかの説明はない。私からすれば、それは交換の残余であり、ネガであり、それは自然との交通、フォースからくるのである。



岡崎乾二郎氏の『抽象の力』(亜紀書房)などの理論は、この「フォース」に関わるものだろう。量子論を踏まえて哲学考察をした人物との討論などもあったようだが、私はまだ読んでいない。今日の私、明日の私、昨日の私…、と絵本にあったが、それは芸術としてあるだけではなく、量子論を背景にした物理的な力をふまえての表現なのだ。そしてこの力点に立つからこそ、ABCDのパワー・バランスの枠ではなく、それらを根底的に一掃する自然が射程に入ってくるのだ。岡崎氏が原発に反対するのは、そうした自然、フロイトの「エス」という観点からで、観念的な「超自我」ではないのである。



そしてそれは、女性的なるもの、「無(波)」との関係ととりあえずは言い得る表現をもつ。トッドも、そこにこそ未来の希望があると、家族人類学から示唆するのだ。



<男性よりも高く位置づけられる女性のステータスをベースとして原初の核家族を超えようとする試みは、西洋が家族システムに関して挑むまさに初めてのラディカルな創出であって、方向性こそ逆だが、紀元前三〇〇〇年初頭のメソポタミアで、あるいは紀元前二〇〇〇年中頃の中国で始まった父権システムの創出に比較され得るほどの転回なのである。>(上57)



つまり、交換Aとは違った交換がありうることを示唆している。がそれは、Dではない。ヘーゲルの「絶対精神」に行き着くのかもしれないE…Xとかではありえない。強いていうならば、交換D′、ダッシュ付き、である。なぜなら、それは交換の残余であり、ネガであり、物理的にいうならば、ダークマターであるから。物質への回帰ではなく、反物質への回帰を示唆するから。

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