先週、千葉は市原湖畔美術館に、《試展―白州模写「アートキャンプ白州」とは何だったのか》を見にいった。去年の末にスマホでそういう展覧会をやっているのを知った。
いくつか前のこのブログで、杉田俊介著『橋川文三とその浪曼』の感想を綴ったが、その中で、文芸批評家・中島一夫氏の、<三島の死とは、いわば演劇実践によって文学の「外」に出ることだった。「死なないですむ」芸道=文学=仮構の「外」にしか、「現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との真の対決闘争もな」いのである。>という言葉に触れて、ふと何故か、まだ結婚まえだったろうか、ダンサーの女房に連れられて見た、この白州でのフェスティバルのことが連想されてきたのだった。ダンス界の田中泯氏を中心に始められたその活動なのだから、演劇ではないのだが、私にはともかく、言葉より先に体が動く人たちの性向としてジャンルの境界が捨象されてきたのだろう。そして年明け、週刊文春での池上彰氏と柄谷行人氏との対談の中で、演劇界での鈴木忠志氏の富山利賀村での活動で、その過疎化激しくなった地での農実践が始められた話、さらにはアメリカでの再洗礼派のコミューンの発展の話があった。のでなおさら、あの白州での、ニワトリやロバたちのなかで、人びとが賑やかに蠢いていたあれはなんだったのかな、と考えはじめたのだった。
しかし実際の展示を見回りながら、また考えは複雑に折り重ねられた。一室に設けられた大きなスクリーンでの1992年時の光景を移した映像のなかに、中上健次の姿を認めたからだった。六畳くらいの部屋の中でか、活動の関係者だろう若者たちの中に座って、いくぶん気後れした表情で煙草を吸う姿が一瞬映し出された。見学に訪れた時があったのかな、と思ったが、美術館で出版された書籍によれば、最初から準備委員として関わっていたことが知れる。
去年撮られた主催者との対談の中で、田中泯は、一番印象に残った関係者として、ふと中上健次の名前をあげている。私にはどこか以外であった。小説中では、こうしたアートな共同体活動を想起させるような話はなかったと思えるからだ。『地の果て至上の時』では、草原になった路地跡にキャンプし占拠する元住人たちの群れはでてくる。中上は、住民にとってはこの活動は黒船のようなものなんだ、泯は責任をとれ、と言ったことがあったそうだ。中上がこの活動に関与したのは、自らの路地なきあとである。そこで、谷川雁と物語をめぐる対談もしている。主人公秋幸のそれからには、このアートな活動の痕跡は刻み付けられるのだろうか?
私は、いまこの時に中上が生きていたらどう考えふるまうか、と想像してきているが、最近ふと、答えとして、たぶん生きていられない、と思えてきた。病死とはいえ、その作家の死は、三島と同じ悶絶のように思えてきたのである。しかし私がこうして生きているということは、そこまで思いつめているわけではないということだから、そういう者として、やはり考えなくてはならない。元総理を暗殺した男をめぐり、地元の共同体の崩壊とともに衆人環視の信仰のあり方も崩れ、強引に勧誘してゆく宗教への淘汰圧力もなくなり、バラバラになった個人が密かに浸透されやすくなった、という意見がある。そんな宗教でも、救いになりすがりつくような人びとの現状は、若い世代ほど深刻になっているのではないかと予想される。だから、どうすればいいんだ?
考えは、こんがらがるばかりである。
そういう中でも、田中泯のインタビューの返答は、ヒントとして、さらに色々考えさせられる。
以下引用;―――
<まず最初に、僕は「ひとり」という概念が非常にない人間かもしれません。僕ら一つ一つの生命(いのち)は、この地球上でどこまでも繋がっている。それを観念でなく真剣にこのカラダを通して感じて生きてきた気がします。僕にとっては非常に大きな問題なのであえて説明しています。そういう意味で、「身体気象研究所」という言葉は、グループ名とか集団名というような気持ちではなく、要するに体系を作ることにはなんの興味もなかったし、単なる呼び名程度と受け取ってもらった方がいい。僕にとって、名前や名称ってのは全てそのようなもので、人と人との繋がりは秩序よりも、より一個一個の生命の「群れ」でありたかった。>
<「舞塾」も「身体気象研究所」も一緒になって考えたり、ワークショップをするのに一番いい方法は何か、いっそのことみんなで一緒に集中できる場所に移動してはどうか。いつでも稽古に移行できる仕事といえば農業が一番いいのではないか、と考えたのです。>
<都会にも人間しかいない、スタジオにも人間しかいないし。人間ではない生き物、植物も含めて、生きている物たちというのに最初にやられました。種蒔きはまさに、あの種の中に生命があって、それがあるきっかけで休みから覚めて生きはじめる。種と人間の手との関わり、というのが…、種を持った手に種の側がその手と化学反応する、というような…、何かの物質を感じるわけです。それぞれの人間の遺伝子を種が(植物の側が)キャッチしているような感じです。彼らが信用する手かどうか。>
<美術行為が始まったことに尊敬があるのだと思います。洞窟の中の絵画から始まり、ひょっとしたらそれ以前からあるかもしれませんが、自分の身体を使って自分の外にある世界を表現していく。踊りは間違いなく消えていきますが、美術は固定することができて、いろいろな素材を考えていくこともできる――そのことへの憧れでしょう。>
<きっかけは美術だったけれど、僕自身が他のジャンルの表現への興味が強かった、ということもあります。僕はそもそも表現を日常と切り離して考えていなかったし、今でもそれは変わりません。「祭り」はまさに営みという日常の連続があるからこそ起こり得る。舞台やギャラリーのない場所で、どう自分の表現を生き返らせることができるのか、成立させることができるのかということが僕にとって大きなテーマだったと思います。>
<ダンサーというのは自分の身体に感じたことを生きる人でもあると思うので、根っからのダンサーだということかもしれないですね。そう思っていないダンサーのほうが世の中には多くて、自分の作った踊りを自分が表すということが自分の才能だと思っているけれど、僕は「ダンスそのもの」のほうが、圧倒的に才能があると思っています。わかりにくいかもしれないけれど、「僕よりはるかにすごいものがダンス」です。それに携わっているのが僕です。こんな単純な話はないのではないでしょうか。>
<ダンサーが言葉にならないと言っていることの大半は嘘です。言葉になります。そのうえで本当に言葉にならないものを探すべきだと思います。一昨年「ドン・キホーテ」の終演後、マイクを持って舞台で「踊りは言葉を待っています。切望しています」と叫んでしまいました。踊りは言葉を生んだ動機になっていたはずだと言いたかったのです。>
<時代が大きく変わってしまったような気がします。そういう意味でボランティアの存在、ボランティアの人たちのせいだけにしてしまってはいけないですが、世の中全体の他者に対する好奇心や未来の見方が凄く変わってきたんじゃないかと思ってます。それ自体、政府の責任のような気もしますが、未来の見せ方がいい加減になってきたような気もしました。それから、ITの大きな変化も影響していると思います。>
<60年代の終わりころから八ヶ岳のほうにも部落共同体ができたり、試みの集団がたくさんでてきましたよね。でも僕はなんか違うと感じていました。運命まで一緒にしてしまっていいのか。僕は運命は個々のものだと思っているので人から決められるものでは絶対にないと、思ってます。自然や地球のスケールを運命の中に仲間入りさせないと人間だけの話になってしまう。それは生物として、とってもつまらないことですよ。>
<僕らは毎年会議を開いて、今年は開催するか否かを真剣に話し合っていました。本質的な意味を失っていないか?と自分達に問いただしていました。自分達にやり続ける価値があるものかどうかを毎年毎年考え続けた。その会議を繰り返して99年の時には開催を止めた。ただ、それだけなんです。
本当にこれを読む人が誤解をしてほしくないのだけれど、そもそも継続する努力をする気はなかったと言えるんです。過剰な言い方と受け取られるかもしれないけれど、僕は、瞬間にかけていた、しかも毎年、毎日、1日1日を本当に大事にしていた。それは今も僕は変わらない大事な部分なんですね。>
<2008年くらいから、もうやめようという雰囲気がありました。2009年はやめるにあたり、「四つの節会」として、春から始めて短い期間だけれど4回やることにしました。来た人には季節の違いを体験してもらおうと。僕も4回踊りました。>
<でも重要なことは、「終わった」とか「仕舞い」と、僕が本当にそう本質的に思っているかどうかです。世の中でいう「継続」ってのは一体何のためなんでしょう…。それ自体が大事な事なんでしょうか? 本当にそうなんだろうか? そのことで消失していることはないだろうか? もっと一瞬の命を感じられる時間を僕らが動物や植物のように生きられたら、どうなんでしょう。>
<1989年に電通総研が第一回の白州フェスティバルを事例研究として取り上げたシンポジウムがありました。そのときに中上健次が「これは白州の人たちにとっては黒船だったんだよね」って言ったんです。「泯、お前責任とれよ。お前の立場はそういうものだと思うよ」と。>
<何かが始まって何かが終わること、それが悪いことのように語られること、でも本当にどうなんだろうか? 本当にそうなのかな? この身体と共にある「時間」は無くなっても終わってもいない。
これからでしょ!>(「田中泯インタビュー<白州>の20年を語る」
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