2023年9月1日金曜日

盛可似『子宮』(河村昌子訳 河出書房新社)を読む


千葉市の中央図書館で、頼んだ本を探してもらっている間に、新着コーナーで目にして、借りてきた一冊。

 

中国の女性作家の作品。作者のことはまったく知らなかったが、本を開いてすぐ、四世代にわたる家族の系図みたいのがでてき、「纏足」という文字もみえたので、興味をもった。一世代きりや一人の行動で世の本質的変化など望むべくもないし望んでもいかんなあ、というのがこれまでの人生から思われて来ることなので、やはり近代小説的な枠組みより、何世代もかけて意志をもつとはどういうことなのか、とよくは知らない中国の文学作品を読むことで、考えるきっかけを得られるか、というような期待が脳裏に過ぎった。

 

一読して、びっくりした。

 

タイトルは、もともと作者が『子宮』としていたのを、中国での出版では編集者の意向にそって『息壌』とされたが、台湾での出版にあたり当初の『子宮』に。訳者によれば、「息壌とは、中国の神話に出てくる魔法の土で、自ら増殖する力を持ち」、「洪水を治めるのに用いられた」という説話に由来し、どちらのタイトルも、「本作の含意に合致している」と解説されている。

 

確かに、「含意」には入っているだろう。がこの小説は、神話的ではなく、清朝末期の纏足の祖母から現代の曾孫までの四世代を描いた問題提起な作品である。女性の豊穣さを確認する作品でもなければ、纏足って女性差別でいけないよね、などと主張する作品でもない。おそらく、このタイトルに孕まれた含蓄を、日本あるいは欧米の人々が理解することは、おそらくできないのだろうと思われる。私も、なんていっていいか、わからない。あくまで、女性に対する纏足的な現状は相も変わらずだとの認識前提はあるだろう。がだからそんな社会や歴史にネガティブだというのではない。それを変革していくポジティブな意志を持てているわけではない。しかし、諦めているわけではない。むしろ、告発している。が、たぶん、その変化への意志を、自分だけでは抱え込まない、人の悠久な営み、波長を信頼してそこに自己を埋没させながらも、水の中の一滴の波紋の力に希望をもつことができる、ということを、静かに前提して押し出している。文章の比喩など、現代的なIT用語や性的な用語が、その世間的な含意が剥奪されて、ぶっきらぼうなリアリズムで並置されて記述されていく。その平等な表現は辛辣だが、その世界を突き放していく態度のうちに、冷静な愛がある、といおうか。

 

おそらく、私たちがこの作品の含意が理解しにくいのは、父権的な社会に征服されきった歴史をもつ社会での生き方を、なおそれとの対峙を葛藤できる社会で生きている私たちには、受容できる経験がないからだ。それは、コロナ禍で、強制的に隔離されたり、PCR検査を受けるのに長い行列を徹夜でならばされたり、等のニュースをみて、いったいどんな気持ちになって日々の生活を人々はおくることができるのだろう、と考えてしまうのに似ている。もちろん、そんな強権的な社会の中にも、自由というか、喜怒哀楽というか、そういうものはあるだろう。と、ここで「そういうもの」と曖昧な表現になってしまう。欧米の言語ゲームの中に、そして家族形態的にもなお、核家族と父権共同体家族の中間領域にいる私たちには、中国社会での概念をうまく言い当てる言葉につまってしまうのだ。

 

いや全体主義国家を体験している日本人だって、抑圧統制されて生きることがどういうことか想像できるだろう、との批判は正当ではない。おごれるものはひさしからず、と季節のようにすぐ次の転回になるだろうと高をくくっているのが私たちの習性ではないのか? 昨日の敵は今日の友、とか、のど元過ぎれば暑さを忘れる、とか。

 

いったい、中国の方々は、どうやって生きているのだ? こうやってだ、と、盛可似は提示している。傾向としては、女7人の姉妹のうち、都会で暮らすインテリ階級のものには批判的だ。がそれでも、その離婚することになったその妹夫婦の関係にしても、どこか奇妙であり、作者はこの欧米的観点からすればの奇妙さに、中国の歴史的な厚みが反映されての成熟さがあるのではないかと、冷徹な認識を暗示しているようにも読める。作者自身が、湖南省の農村生まれで、その故郷を舞台にそこでの逸話から想像・構成した作品である。基本的には庶民の、あるいは抑圧されている女性たちの立ち居振る舞いの底力に共感しているだろう。作者の思いに一番近いとおもわれる医師の男と結婚したインテリの六女の初玉は、十六歳にして父がいないことになるだろう子供を身籠った孫世代のヤンキー的な初秀とのやりとりで、「よく考えろ」と諭していた自分が負かされたと認め、若い世代の意識に共鳴する。まわりの農村在住の姉たちは、二人のやりとりは理解できないが、結果として、学のない少女が学識ある妹を負かしてしまって二人の仲が回復したらしいのを見てとり、大喜びし、おろすのではなく産むという選択に傾いたことを歓迎する。

 ※ おそらく、「反」ではないが、「非」me tooなる立場になるのではないか? アメリカ発の中絶首肯の運動とは、出所の違う立場から、違う方向(意味」)を探ってゆく営みになるのではないか?

この作品を読みながら、2015年にノーベル文学賞をとった作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』を想起した。このロシア語で書くベラルーシの女性作家は、私の知る限り、リベラル視点からプーチンのウクライナ侵攻を批判している。が、彼女が集めたロシアの二次大戦下の女たちの生きざまを読み知ったら、ロシアの女性たちが、プーチンを超えて、その戦争を支持するようになるのではないか、と私は思わざるを得なかった。軍隊でもトップクラスの男が少女の面接にたちあい、「おじさん私も戦いたい」と訴えてくる少女を、「お嬢さん、ばかなこと言ってないで帰りなよ」みたいなやりとりが成立している官僚社会。このあり様も私たちには理解しにくいことだし、中国の官僚社会には、そんな人間味みたいなものは、ないだろうと予想する。が、その差異をこえた視点で、作家の態度として、スヴェトラーナの(私の知見の範囲では)、この戦争に対する態度は、単純であまりにインテリすぎ、欧米インテリの視点だろう、と思われてきたのだった。そんな態度で、ロシアの女たちを理解できるのだろうか? そこに生きる庶民への正当なる批判的観点を持ち得るのだろうか、と私は思っていた。対等に、お互いが励まし合って変わっていくような言葉をみつけられるのだろうか?

 

盛可似は、そうしたインテリの態度とは違う視点を持っている。肉体として持っている。その肉体が、作家としての自己をも突き放して、庶民の荒波の中に飛び込ませる。そのうえで、知的な冷徹な肉眼が、ヒエラルキーを転倒してゆくようなエクリチュールの運動を波立たせているのではないかと、翻訳でも、思わされて来るのだった。

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