2015年6月9日火曜日

へんな現場

副島 安倍晋三と麻生太郎はやはり難しい漢字が読めない。…(略)…
佐藤 そうすると、ある意味、大衆の代表なのですね。
副島 そうです。だからジョージ・ブッシュは、アメリカ財界人の愛すべき代表でした。財界人ボンクラ三代目たちと気持ちが通じているわけです。創業者と二代目までは知恵と才覚があって会社を大きくしたけど、ボンクラ三代目さんたちはボーッとしている。「ボクちゃんたちバカなの。でも、頑張っているから」という感じですね。
佐藤 日本でいえば、JC(日本青年会議所)の雰囲気ですね。」(副島隆彦×佐藤優『崩れゆく世界』 日本文芸社)

今期4月に入ってから、勤め先の植木屋さんが変だ。いや,なお変な症状をみせはじめた、といおうか。一つの会社のなかに、二つの会社があるようだ。三代目の息子が、まるきり別個に活動している。だから、親方・復帰した団塊世代職人・私、というグループと、息子(と、最近仕事中のケガで半年ほど労災手当を受けていた3年目になる40歳近くになる新人が復帰)グループに分かれている。役所仕事関連で、息子が何か大きなしくじりをして、それを親からとがめられてすねた、同時に、役所への書類手続等は息子が引き受けているから、敢えて手を引いてみせることで、会社(親)に圧力をかけているのかな、と推論しているのだが、本当の事情はわからない。団塊世代職人などは、そうした人聞きの悪いことは想像もしないので、ただ親方の段取り上そうなっているとしか感じず、息子とまるきりいっしょにやることがないことに、ホッとしている。とくに、息子が参入してくるまでは私が担当していた練馬の会社の仕事を、また私が担当することになり、その現場には、親方の知り合いづてからか、派遣の労働者が一名手伝いにくるのだが、その人たちも団塊世代になるだろういわゆる年増の日雇い労働者たちで、ために、年齢の近いこちらの団塊世代職人さんが教育係みたいになってくる。そのやりとりが面白く、職人さんも、「まるで漫才やってるみたいだね!」と自評するくらいで、生き生きとした感じを回復している。もしこの現場が三代目息子の取り仕切る場だったら、「この使えねえ奴!」と、地べたを這いずり回ってゴミ拾いする年増の人間を貶める中傷を平気で怒鳴り散らしているだろう。職人さんは聞くにもたえず、自分のことのように心を痛め、いたたまれなくなるだろう。
親方だったら、とりあえず、面と向かっては、渋い顔をしながらも、何も言わないだろう。怠けて平然としているような人だったならば、その人を替えてもらうか、断る手続きを会社に対してとるだろう。今回の相手会社名は「しんせん組」といい、派遣されてくる者たちは、生活保護をもらって労働している人たちのようだ。現場についた私が、「まだ相手からなんの連絡もこないんですけど」、と電話をかけると、その組の人は、「あいつらは、人種がちがうんだよ。連絡とれなくても、ずっとそこにいるだろう。夜中になっても、いつまでもな」と、口先では笑っているが暗黙にこちらを脅しているような微妙なニュアンスで伝えてくる。まるきりの差別。親方は、そういう世界があることを肌で知っていて、そこが、利益合理的な考えだけで動いているわけでもない、微妙な、グレーなゾーンであることに敏感である。そこの曖昧さが、社会の接着剤になっているようだということにも、意識的であるかもしれない。が、息子には、そうしたニュアンス、複雑さ、難しい事柄が理解できない。想像も及ばない。

先週の土曜日にも、こんなことがあった。私がトリマというエンジンの刈込機で生垣を刈りこんでいると、団塊職人さんが、やめろといいにくる。どうやら通り過がりの近所の人が、騒音の苦情を言いに来たらしい。私としては、真向いの隣人はもう起きて活動しているし、騒音もこの家だけだろうとよみ、朝も8時すぎたから、と機械を使いだしたのだった。玄関先に行ってみると、初老の、それなりに大きな会社の管理職はしていたのだろうという人が、「それはおまえたちの都合で言っているだけだろう。そんな権利は実際にはないんだよ。」と、建設会社に住民自治を盾にして、民主主義を代表するような答弁を、おまえたちバカに諭している、といった風で説いている。「うん、うん。だけど建設屋と植木屋はちがうんですよね」とか、あくまで穏やかな口調で、一歩も親方はゆずらない。このまま言い負かされると、土曜日はこのお宅で仕事ができず、午後になっても機械が使えない、という慣例になりかねない。しかしこの穏やかさ、板についた心棒強さは年の功で、若いころはまだそこまではいっていなかった。「土曜日にはこういう仕事をしないよう、やりくりを考えればいいだろう!」と、まるでこちらを子ども扱いでもするような発言を相手は繰り返す。家族でやっているような小さな会社に、そんな融通がきくような呑気さがあるわけがない。土曜日じゃなければ在宅していない、という家も多い。「すいません! 僕が時間まちがえました!」と、私が顔をだす。するとなぜか、その初老の男のトーンはだんだんと小さくなって、「いやこうして口をきつくしていったのは……」と、弁解じみたことを言い残して引き揚げていった。たぶん、眼鏡をかけたインテリ風の私のような顔がでてきたので、以外だったのだろう。バカに諭す、という感じではなくなってしまった。そしておそらく、親方は、その客の変化に、敏感だったろう。「機械を使うな、と言っただろう」と私を叱らずに、そのまま受け入れる。自分や団塊職人の顔ではだめだが、こいつの顔には自分たちにはない効果がある、社会がある、それは使える、と、再びなように確認しただろう。
息子だったら、「だから使うな、と言ったでしょ!」との非難になるだろう。普段は、機械でやる方が作業能率がいいから、と強要していることも忘れて。従業員は、自分での判断では手刈りの方がよい、とおもっているのだが、そういう強要習慣にかられて機械を選択してしまう、そういう立場があるのだ、ということを想像もできずに。

大塚家具で親子問題が起きたときにも、何か日本や世界の動きにある一つの潮流を象徴しているかもしれないな、と思ったものだ。何を価値とするのか、という問題。その価値の、利益に還元できない微妙さ、ニュアンス。それを実現、保守するための実践的方策、妥協、斬新、改革……事態は、表面的には、どちらの陣営がいいのか、一概にはいえない。内面的な論理で、本当は何を、どんな価値を志向しているかが重要で、それは目にみえない、しかも紆余曲折した複雑な動きをとるだろう。三代目たちの認識に、真面目な正当性があっとしても、その価値が理解できていないならば、とんでもない突っ走りがおきるだろう。親の世代たちが結果的には、見た目には追求していたことを、文字通り受け止めて学んで、それを成立させていた微妙なものを感じ取ることができない。言っていることはもっともでも、どこかおかしく、それを説明するのは難しい。
親方の奥さんが癌になるまえは、朝7時半の仕事開始まえに、みなで事務所でお茶を飲んだものだった。そこにあった価値を、それを感得することのない者に、どうやって説明するのだろう? そんな意味もないような慣習を改革するのはいい、しかしそのことでひきうけなくてはならない微妙なものに気づかないで、単に目に見える現場や金銭的な合理性だけで処理するのなら、その改革は、のちに人間や自然の落とし前をつけさせられることになるのだ。そういう感覚。真の価値は、逆襲してくる。その畏れ在る態度を、もっともな理屈で傲慢に振る舞う青年たちに、どう伝えられるだろうか?

2015年5月19日火曜日

イスラム国の人質(8)――平和の論理


栗田 二〇一三年夏にシリアのダマスカス郊外で化学兵器が使用された疑いが浮上し、フランスをはじめとする諸国が軍事介入を主張した際も、オバマ政権はイギリス議会での否決や国際的な反戦世論の高揚を考慮して逡巡し、最終的にロシアのプーチンの仲介に助けられるかたちで軍事介入を回避しました。日本のマスコミ等では批判的に語られましたが、中東への新たな軍事介入を思いとどまったことは評価に値するとおもいます。」(「罠はどこに仕掛けられたか」西谷修×栗田禎子『現代思想』3月臨時増刊号 青土社)

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手嶋 ところが明らかにシリアのアサド政権が「レッドライン」を越えたにもかかわらず、オバマ大統領は”伝家の宝刀”に手をかけようとしませんでした。…(略)…それどころか刀に手をかけるそぶりすら見せなかった。この「オバマの不決断」が中東に出口のない混迷をつくりだしてしまったのです。
佐藤 オバマの躊躇をじっと見据えていたのが”ロシアの半沢直樹”でした。プーチン大統領は、同盟関係のあるアサド大統領を説得して、化学兵器を国際機関に申告させることを約束させました。こうすれば、アメリカがシリアを攻撃する大義名分はなくなってしまう。外交の主導権を久々に超大国アメリカから奪って「倍返し」をしたわけです。」(手嶋龍一×佐藤優『賢者の戦略』 新潮新書)

上記二つの引用は、化学兵器を使用したというシリアの情勢に対し、相反する態度を表明している。上のほうは、単純だ。”平和”を願っている、ということだろう。もちろん、後者の識者だって、そうに決まっている。しかし、「だからこそ」、暴力(軍事介入)を導入しなくてはならない、と説く。後者によれば、イスラム国の出現に対しても、その侵攻はナチスと同じであるから、平和主義外交がそれを助長させ二次大戦の参事を招いてしまった歴史教訓を握持して、地上部隊を一気に導入して叩き潰すという戦術の法則をも無視したオバマ政権は、弱腰として批判されるべき態度となる。ナチスであれ、普通の国家であれ、自らが願う平和を獲得するために暴力を選択したのだから、その平和のための暴力という形において、二人の識者の「賢者の戦略」も変わらないだろう。そこに、実質的な、内容としての差異があったとしても、平和と暴力を結びつける論理の形、その矛盾した複雑さが、凡庸的な人にはわかりずらいということでは、同じだろうからである。それどころか、いつもそんな論理で戦争という歴史が繰り返されているようにみえるのだから、いつまでたっても理解できるようになることとは思われないのである。
 佐藤優氏の発言を掲載したネット上の「インテリジェンスの教室」でも、子供にどう説明すればいいのですか、という母親からの質問がある。それに佐藤氏は、テロに対する子供向けの他人の著作を紹介して、それを参考に、自分の頭でそういう世界の複雑さを考えられるようになるといい、という間接的な返答をしている。しかしまた一方で、実はそれは難しい話ではない、とも。

佐藤: これはわからない話ではない。わかりやすい話なんです。自分たちは絶対に正しいと信じることを世界中に強制して、言うことを聞かないヤツは殺す、あるいは奴隷にする。こういうことを考えている人たちだ。そういうような人たちというのは、どの時代にも世の中には少しはいるものなんですが、そういうような人たちに大手を振って歩かせてはいけないということなんですよ。>(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42643

そんな人たちの程度、内容的実質は問わないとして、やはり形だけみれば、まさに官僚要する国家とは、一般的にそのようなものであろう。国民とは、形式的には奴隷である。また冤罪による死刑という殺人がおこることをおもってみても、イスラム国も、普通とされる国家も、そこで変わるのか? 私たちがつまずくのは、そこに実質的な差がある、という複雑さによるのではない。単純な論理からくるのである。佐藤氏は、同じHP上で、広島市長の単純な平和希求の立場に、プーチン・ロシア側の現実的な評価を対置させる論評も行っているが、このいわゆる平和主義者と現実主義者の相違も、凡庸な私たちには理解するのが難しい。私達は、そういうどちらの立場もある、ということは知っている。無知なのではない。が、その相反する両者が、どうして「平和」という、争いのない静かな状態として一義的に明快であろう目的語に決着しるのか、その論理が腑に落ちないのである。

この論理を、解明的に納得できなければ、私たちは、この戦争に反対なのか、賛成なのか、平和を願っていいのか、駄目なのか、私たちが無力なのか、平和ぼけな能天気なのか、それすら自己確認できない。私自身、佐藤に質問した母親のように、わからない。佐藤氏が直接それに応えないのは(ネットの公開部分だけでは伺えないだけか?――)、答えられないからなのか、それとも、自分なりの答えをもっているのだが言うのがはばかられるからなのか?

おそらく私は、はばからずに、こう言いたいのだ。――「イスラム国がナチスだって? いいじゃないか、やらせれば。俺は死んでやる。」

平和とは、そういうもんなのではないか? 私はこう書いて思うのだが、凡庸な庶民は、実はみなそういう態度が心底にあるのではないだろうか? だから、いわゆる現実主義者の論理が、複雑な、不可解なものに感じられてくるのではないだろうか? 私達の平和の論理が明解なのは、私達が単純で平和ぼけなのではなくて、すでに人類が、諦めている、それくらいの争いの歴史、自然史を抱え込んでいて、それが無意識のうちに沈潜している、そこから、発せられるからではないだろうか? だから現実主義者とは、諦めの悪い奴、心の声は無意識的には聞こえているがゆえに、「だからこそ」、とひねくれた理屈を自身の心に向かって訴え自己催眠させないとやっていけない、そんなある意味、不幸な人々なのではないだろうか? 私が、諦めた非暴力を万人に強制させる、そんなイデオロギーとして言葉をだしているということではなくて、すでに、人類史が、その我々が意識できない自然史が、我々をしてすでに諦めの境地に達しさせている……そう、私には思われるのである。

もちろんそれでも、私は女房はなぐるし、子供が殺されたなら銃をかついで参戦するかもしれない。が、私はすでに、生まれるまえから、この世界の複雑な論理にもまれるまえから、平和を知っているし、おそらくはその実現の手だてにも気づいている。が、わかっちゃいるけどやめられない、その自己肯定のために、明解な論理の内側に、ひねくれた屁理屈が挿入されて、無意識と意識がこんがらがる、ゆえに理解できない、という感覚を覚えさせられる、ということではないか?

2015年5月17日日曜日

イスラム国の人質(7)

「ホッブズが自然状態について最初に指摘するのは、人間の平等である。ただし注意が必要である。これは、「人間には平等な権利がある」とか「人間は差別なく等しく扱われねばならない」といった意味で言われているのではない。そうではなくて、「人間など、どれもたいして変わらない」ということだ。
 確かに他の者よりも腕力の強い人間もいる。少し頭のいい奴もいる。しかしホッブズによれば、そうした違いも、数人が集まればなんとかなる程度の違いでしかない。どんなに腕力が強い人間であろうと、数人で立ち向かえば何とかなる。たとえば寝たきりであろうとも、誰かに依頼して、ある人物をやり込めることが可能だ。人間の能力の差異などは相対的なものに過ぎない。いわゆる「どんぐりの背比べ」ということにである。(國分功一郎著『近代政治哲学 自然・主権・行政』 ちくま新書)

<プレイヤーズ・ファースト>と、子供の自発性を重んじるサッカー・コーチのなかには、試合出場の機会も平等に振り分ける人がいる。実際にはそこまでするコーチはほとんどいないが、むしろ一人だけでもいることによって、その<大義>に誰も異議は唱えにくくなるので、その考えがイデオロギーとして現場を支配する。むろんそのコーチは、冒頭引用にあるホッブズ的認識として、人は誰も大差ないのだから、誰を出場させても同じだ、と考えてそう実践しているわけではない。人間(子供)は平等であるべきだ、という理念(やさしさ)によって、そう行おうとするのである。が、低学年ならば、子供たちの間にある差異をとりあえずカッコにいれて、機会均等、形式的平等を実践しても問題はないし、私もそうすべきとおもうが、やる気も含めた能力差が子供たちの目にも歴然としてきそれを自己意識化してくる中・高学年ともなると、ゆえに生じる偽善という観念が芽生えてくる。あいつ練習にもほとんどこないしやる気ないのに、なんで俺と交代して出るんだ? だから負けたじゃないか。なのに、なんでコーチは勝利をめざして一生懸命やれ、などというのか? 本気でそんなこと言っているのか? 嘘なんじゃないのか、と。むろん、そんなことを口にだせる子供たちはいない。だから、<プレイヤーズ・ファースト>という理念が、負け(現実破綻)の口実として、それを実践する者の責任を棚上げし、子供たちには自発性・自主性の強要として、抑圧的に、つまりはやりたいことと事実やってしまっていることとの乖離を発生させて機能するイデイロギーになるのである。

その実践的な可笑しさを、しかし日本サッカー協会側も気付いているのかもしれない。スポーツ雑誌『Number』874号「日本サッカーへの提言」では、元代表監督の岡田氏とJリーグの村井チェアマンが対談しているが、そこで岡田氏が育成レベルで主張される<ボトムアップ>理論を批判している。

岡田 ええ、自由から自由は生まれません。以前高校サッカーで優勝したチームが選手にスタメンを決めさせていると話題になりましたが、その影響で、今は小学生でも自分たちで選手を決めるチームがあると聞きました。でもそれは無理でしょう? 根底に型があるからこそ、それを破る驚くような発想が生まれてくるわけです。>

岡田氏がそのような考えを強くしたのは、今回ワールドカップの優勝国が、ブラジルではなく、ドイツだったからかもしれな。個人の自由闊達な技でフィールドを切り開いていくと言われるブラジルサッカーではなく、型(頻繁に起こる状況に対するマニュアル的対応)の育成段階からの暗記習得というエリート養成で復帰してきたドイツ。バルセロナなどのジュニアユースの育成に体験・参加しはじめている若いコーチの間でも、指摘されてくることは、日本人がまだその対応の例題を知らないということ、長友や内田選手のレベルでも、個人のアイデアで対処しようとして複雑にやりすぎ、ために連携にミスが発生しやすく逆襲されてしまう、というものだ。彼らはおそらく、育成段階で、その時どうするかの基本例題を教わってこなかったのだろう、だからヨーロッパの選手なら絶対やってはいけないプレーを平気でやっている、と。私が受講したD級コーチ・ライセンスでも、子供たちに自由に判断させて、といっても、判断材料がなくてはだめですよね、その判断材料とは、算数の公式みたいなものですよ、と講義されていた。
しかし、岡田氏がなるほど型(公式)の暗記主義、という欧米に追い付き追い越せとやってきた日本で問題となってきた現実に敏感であったとしても、その型を学び型を破る、という発想は、あくまで日本的なような気がする。たとえば、前回チャンピオンズ・リーグの勝利者ドイツのバイエルン、そこを率いたもとバルサ監督のグラウディオラは、サイドバックが縦に走るという公式を破って、斜めに走らせるという新しい公式を打ち立てている。それはすぐに他のチームに模倣されて使われるようになった戦術だから、まさに公式と言ってもいいだろう。歴史の長い囲碁や将棋では、新しい定石を開発するなど至難の業だが、サッカーはなお余地があるのかもしれない。
そしてこんなとき、かつての日本主義者なら、公式違反だ、そんなのありえないぞ、とあわてふためいた、ということなのだろう。二次大戦中、植民地主義という公式を欧米が勝手に変更してこれからは違う、と戦略を変えてきたのに、その公式を一生懸命学んでまねて、今度はそれを、侵略した領地をもとにもどせだと、都合がいい、いやだ! と。グラウディオラは、「型を破る」つもりで、新しい公式を生み出したのだろうか? おそらく、そうではないだろう。単に、ゴールを、真実を追求しただけなのだ。

これは宮台真司氏が指摘してたことだとおもうが、公式は学べても、それを作っている動機は学べない、と。ヨーロッパでだけ、球を蹴って遊ぶという遊戯が変化・進化し、いまのサッカーという球技に発展した。日本の平安時代の蹴鞠をはじめ、アラブ世界でも、世界中で、似たような遊びはあったという。なのに、なんで、ヨーロッパだけが、フィールドの大きさ、そこで戦う人数、手を使うキーパーの発生、人員の配置……いまなお変化しつづけている。私の考えでは、それはおそらく、キリスト教からくるのだろう。この世界を神(ゴッド)が創ったのなら、でたらめにではなく、一つの真実によって創ったはずだ、ならば、その法則を探せ。ゴールに近づく、ゴッドに近づく真実の法則を追求せよ。つまり、サッカーも、技術ではなく、科学だということだ。

戦術の変化・変更だけなら、なおその動機など学べそうにおもえるかもしれない。が、へとへとになる競技で、交代選手が3名しか認めらていない、というのは、ほとんど不合理なようにおもえる。おそらく、人間の限界に達し、それを超えて出てくる神秘的な姿をみたい、ということなのだろう。だとしたら、それはバレエを観賞することにも似ている。そこで、これからは交代選手を2名にする、と本場が言い始めたらどうだろう? あるいは逆に、フィールドの選手は使徒の数と同じ12名とし、交代は1名とする、とか。そうなったら、私たち日本人の反応はどうだろう? え? なんで? それじゃサッカーじゃなくなるんじゃないの? とか。しかし、サッカー自体が、真実を追い求める上でのひとつの見かけ、にすぎないとしたら? 日本人が、ゴールへの気迫が足りない、決定力が弱い、とされるのも、もともとの動機のあるなしにかかわっているのかもしれない。そのゴールを決めたときの、ヨーロッパ選手の感激表現の有様、裸になってかけまわる……もう、われわれには不可解ではないか?

しかし、このキリスト教的な一神教の発想も、その血みどろの歴史から生まれた国際ルール的な公式も、もう一つの一神教との戦いで、その底が抜けそうになっている。前回ブログで引用した池内氏は、イスラム教内部での宗教改革が必要だ、その自発的な解決が達成されないと、新しい世界秩序の安定は難しいと、その内的・思想的要因に重きをおいて主張している。

民主主義という、形式的平等の押しつけはごめんだ。能力差は、格差はあるじゃないか。だから俺を交代させるな、試合にだせ、とやる気のある能力を持った子が主張しはじめたのかもしれない。が、人間に差があったとしても、たいしたことはない……その現実に根差した、ゆえに万人が万人を妬むことができる狼になるというホッブズ的認識が、民主主義という公式を生み出す道筋を導き出したのである。「型を学んで型を破る」という発想は、あくまでその民主主義という枠の中での、バリエーション、実務的な変更程度にすぎないだろう。が、あたらしい公式自体が必要なのだ。偽善を暴く子供たちの真実の声を受け止める包容力ある根幹のルールが。それが、真実追求の科学精神にあくまでもとづいて探究されるなら、もしかして、また同じことの繰り返しなのかもしれない。ならば、なんのために、というその目的、ゴールをゴッドに重ねることなく、万人が追求しえるコンセンサスが、まずは必要、ということなのかもしれない。しかし、その必要性が文化差異を超えて万人に了解されるまでには、もっと血みどろな歴史が経験されなくてはならないのだろうか?

さて、今日はこれから子供たちのサッカーの試合だ。去年まで、どのチームとやっても10対0や20対0で負けつづけてきたチームが、リーグ戦となった今年度の全日本予選では6戦負けなしだ。リーグ優勝をかけて、残り三試合。このままいけば、息子の一希のいる新宿の代表チームとリーグ1位通過をかけた決定戦を行うことになるだろう。親子対決だ。
私が、息子や子供たちに伝えたいのはサッカーじゃない。好きでやっているサッカーをとおして見えてくる、世界のことだ。

*認識的に落とした、詰めきれなかった部分もあるので、イスラム国の人質(8)も予定。

2015年5月16日土曜日

イスラム国の人質(6)――引用文章


イスラム国にまつわるたくさんの出版物のなかから、目ぼしいとおもったものをいくつか読んでみた。池内恵氏の著作が一番説得力があるかな、と思われたので、その著作からの引用をノートし、そこに関連すると思われる、最近出版の他著作の言葉を参照列記した。
次の<イスラム国の人質(7)>>で、そうした引用から考えられることを書いていこうとおもう。

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「アジア・アフリカ会議でネルーや周恩来と並んで脚光を浴び、スエズ運河を国有化し、それに続く英・仏・イスラエルの侵攻に立ち向かったナセルには、アメリカでもソ連でもなく、資本主義でも社会主義でもない第三の道を提示してくれるのではないか、という漠然とした期待が寄せられていた。「非同盟」「第三世界との連帯」こそ日本の取るべき道だと考えた知識人も多かった。…(略)…このようなナセルに投影されていた「夢」がその後のナセルの敗北と死によって失われたことは、アラブ世界に思想的な危機状況をもたらした。思想的危機は「分極化」という形で顕著に現れた。言説空間が、一方でラディカルな現体制批判から急進的なマルクス主義へ向かう流れに、他方で宗教信仰への回帰現象や、そこから動員力を汲み取るイスラム主義へと向かう流れに、激しく分裂したのである。「アラブ統一」や「民族社会主義」のもとに一体性を感じることができた時代は終わり、混迷と対立の時代が到来した。」(池内恵著『現代アラブの社会思想――終末論とイスラーム主義』 講談社現代新書)

「人民闘争を謳うイデオロギーがアラブ世界に希望を与え得た期間は短い。それは「人民勢力」とみなされた世界のさまざまな運動と盛衰をともにした。
 まず、パレスチナでの闘争が挫折したことが大きい。一九六七年を画期として独自の活動を始めたパレスチナ解放運動は各国の政権に封じ込められ、活動の場を転々と移すことになった。アラブ諸国もイスラエルも、「人民勢力」を封じ込めるという点では一致していた。アサド政権のシリアも、影響下にある組織が国外で人民闘争を行うことが国益に適う限り支援したものの、自国内から世界革命が始まることを許すはずもない。」(池内・同上)

「現在、このような「アラブ現実主義」が現実の各国の政治を方向づけていることを、どう評価すればよいのだろうか。「アラブ現実主義」は、現政権の安定を最重要視し、国益を最大限追い求める。それが結果的には生活環境の向上や国防・治安といった面での国民の利益に寄与する、と主張する。
 しかし、「アラブ現実主義」は、思想的分極化の根源にある精神的な空白を満たすには至っていない。そして、国民を支配するという局面では現実主義が標榜されるものの、国民が主体となって現実主義の観点から国政に参与する機会はほとんど与えられていない現状は、「アラブ現実主義」を国民から遊離したものにしている。」(池内・同上)
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「近代はさまざまな価値観を相対化してきた。これまで信じられてきたこの価値もあの価値も、どれも実は根拠薄弱であっていくらでも疑い得る、と。
 その果てにどうなったか? 近代はこれまで信じられてきた価値観に代わって、「生命ほど尊いものはない」という原理しか提出できなかった。この原理は正しい。しかし、それはあまりに「正しい」が故にだれも反論できない、そのような原理にすぎない。それは人を奮い立たせない。人を突き動かさない。そのため、国家や民族といった「伝統的」な価値への回帰が魅力をもつようになってしまった。
 だが、それだけではない。人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。なのに、世間で通用している原理にはそんな力はない。だから、突き動かされている人間をうらやましく思うようになる。たとえば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。人々は彼らを、恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。…(略)…だれもそのことを認めはしない。しかし心の底でそのような気持ちに気づいている。
 筆者の知る限りでは、この衝撃的な指摘をまともに受け止めた論者はいない。ジュパンチッチの本は二〇〇〇年に出ている。出版が一年遅れていたら、このままの記述では出版が許されなかったかもしれない。そう、二〇〇一年には例の「テロ事件」があったからだ。」(國分功一郎著『暇と退屈の倫理学 増補新版』 太田出版)

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「実際、その先に自分の死が待っていることを承知の上で死を恐れずにムハンマドの風刺画を掲載し続けた「シャリル・エブド」の人々がなしたのは確かに自殺の試みではあったが、彼らのその自殺は「何もまして美しい振舞い」と呼ぶに値するものとなったか。…(略)…もしフーコーが存命だったならば、彼の関心をより強く引いたのはむしろシェリフとサイードのクアシ兄弟そしてアメディ・クリバリによる自殺の試みのほうでありその失敗だったに違いない。死を覚悟して彼らが実行した行動は風刺雑誌の人々のそれと同様、自殺の試みだったと言えるが、彼らもまた失敗したと言わざるを得ない。ただしその失敗は「シャルリ・エブド」の人々が陥ったのと同種の失敗ではまるでない。そもそもクリバリとクアシ兄弟には「軽率さ」など微塵もない。事務所の場所を厳密に特定できていなかったということを除けば彼らは綿密に計画を立て、また、女性を二名殺害してしまったということを除けば自己制御を以って逸脱なく計画を実行した。事件は彼らの構想通りに実現した。その意味では彼らは自殺に成功した。しかしその成功が失敗でもある、少なくとも失敗と表裏一体のものとしてある。けっして裕福とは言えない環境で育った三人の若者(クアシ兄弟はとりわけ悲惨な境遇で育ったがクリバリもパリ郊外貧困地区の出身である)が、成功が失敗でしかあり得ないことの初めからわかっている「自由な実践」をそれでもなお字義通り「決死の覚悟で」実現しようとしたのであり、だからこそ彼らの振舞いには誰にとっても胸を打つ何かがあるのだ。」(廣瀬純著「我々はいったいどうしたら自殺できるのか。」『現代思想』3月臨時増刊号「シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃」所収)


「しかし全体としては、イスラーム主義過激派は行き詰まりに直面しているといえよう。現世を超越した宗教的理想を現世の政治秩序において実現しようとするところに、根本的なジレンマがある。権力を掌握した組織もそうでないものも、理想社会の現実形態をまだ示し得ていない。
 ウサマ・ビン・ラーディンの一派に代表される国際的テロリズム組織の台頭は、イスラーム世界の各国内におけるイスラーム主義の行き詰まりを背景としている。エジプトのジハード団やイスラーム集団、アルジェリアのイスラーム救国戦線といった組織の一部は、それぞれの国での闘争で劣勢に立たされ、アフガニスタンやパキスタンを経由してイギリス・オランダや北米に居を移している。これをイスラーム世界の中でも特に強い宗教意識を持つサウジアラビア人の財力が側面から支援する。異教徒であるアメリカ人の支配する国際秩序を拒絶しその破壊を図ることに、イスラーム主義過激派は新たな使命と存在意義を見出そうとしている。」(池内恵著『アラブ政治の今を読む』 中央公論社)


「また、イスラーム主義過激派の信仰に基づいた行動は、極めて大きな犠牲を許容しうる。実行部隊の個々人どころか組織全体が殲滅されることすら、宗教的な観点からは失敗を意味しないからである。神がみずからに絶対の真理を告げたと信じる立場からは、必ず別の者が後に続くと信じられる。状況を変え、後続の者を触発するためであれば、組織全体の消滅すら選択肢に入ってくる。…(略)…これが例えば共産ゲリラであれば、報復によって組織が一網打尽にされてしまうことが予想されるような行動は取り得ないだろう。あくまで闘争を勝ち抜いて現体制を転覆した後にみずからの手で政権を握ってこそ、目的が達せられると考えるからだ。世間の関心を引くために時に自殺的な作戦を遂行することがあっても、組織そのものの消滅は許容し得ない。一方、民主主義であるアメリカの許容しうる犠牲はいうまでもなく少ない。
 このような極端な「非対称性」により、「戦争」は制御不能に陥りかねない。従来の最低限の「戦争のルール」が無効になるだけでなく、戦場において互いの指揮官が交わすコミュニケーションが不全になることから、予想外のエスカレーションが進み得る。」(池内『アラブ政治…』)
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「一月七日にかけてパリで起きた惨劇から「イラクとシャームのイスラーム国」による日本人人質二名の殺害にいたる事態の展開を前にして、いくつもの歴史的、地政学的コンテクストが衝突し、急速に化学変化を起こし、ドラスティックな融合の段階に入ったのではないかという思いを禁じえない。この渦中にいる誰もが自分が何をしているのか分からない、そんな状況が生まれつつあるのではないか。ちょうど一世紀前、第一次世界大戦の渦中にいた人々が、政治家、軍人、民間人の別なく、何のための戦争なのか、自分たちが何をしているのか、もはや不明の暗闇のなかで戦っていたように。」(鵜飼哲著「一月七日以前」『現代思想』3月臨時増刊「シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃」所収)
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「……本源的生産要素の商品化の限界は、単純な物理的限界ではなく、歴史性・地理性を帯びている。言い換えれば、労働の背後にある人間の定義、土地の背後にある自然の定義、貨幣の背後にある聖性の定義のいずれもが歴史的・社会的に構築されている社会――「大転換」において市場は、その網の目にともかくも接合されなければならないわけであるが――の底は抜けてしまうことがありうるということこそ、私たちは恐れるべきなのである。」「近代に入り近世帝国が解体するとともに、人間、自然、聖性の定義がゆらぎ始め、その流動化は現在、臨界点に達しつつある。それが世界の<帝国>化の条件を構成しているということだ。」(山下範久著『現代帝国論 人類史の中のグローバリゼーション』 日本放送出版会)


「アラブ諸国の問題の根源は、単なる経済発展の後れというよりは、社会システムのあり方や、その改善に欠かせない良好なガヴァナンスの不在といった問題に関わっているという指摘である。この報告書は具体的に、「人権と政治参加などの自由」が制限され、その中でも特に「女性の権利獲得と社会参加」に立ち遅れていること、そして「教育と研究活動の不活発と不全」が著しく、「知」を獲得して利用する条件の整備において不備を抱えている、といった点を、アラブ諸国が人間開発の観点から低位にランクされている原因として特定している。この報告書の作成はUNDPアラブ地域局に参集したアラブ知識人によってなされたものであり、内部からの改革に向けた貴重な試みとして注目すべきだろう。…(略)…経済的には「中進国」の位置を占めるアラブ諸国の問題は、今現在「食べられない」ということではなく、生まれ育った社会において将来に希望を描けない状況にあるのではないだろうか。逆に、現在はより低い所得水準に置かれた国であっても、将来の発展を思い描くことさえできれば、はるかに心やすらかに暮らすことができるだろう。アラブ世界の問題とは、社会システムの硬直化に悩み、将来の凋落を予期する下位の中進国が抱える問題ということになるのではないだろうか。」(池内・同上)
⇔ ⇔ ⇔
西谷  …私と二〇年来の付き合いがある知識人にフェティ・ベンスラマがいます。彼は「イスラームとは自分にとってお茶を飲むようなものだ」とかねてから言っていました。人々の生活習慣の基本的なベースとしてイスラームがあり、そのベースを捨てることはできない。それはある教義を選択し信じているというのとは違います。その彼は、今回の事件を受けて、イスラームがグローバル化する世界のなかで、人権や表現の自由といった価値観と連動するようにいかに改革しうるかを、イスラーム世界の宗教指導者に対して問うています。古いテクストに固執するのではなく、そのテクストを今の世界に適合的に解釈していく努力の必要性を語っています。イスラームの名のもとでテロが行われていることは、イスラーム社会の責任でもあるということです。これは西洋化を求めているのではなく、イスラーム内部に自己改革の可能性を見出そうという視点です。」(西谷修×栗田禎子「罠はどこに仕掛けられたか」『現代思想』前掲書)


「単純に、近年の社会意識や思想史の進展の中で、アラブ世界がテロリストを輩出してしまっていること、イスラーム教の教義の特定の解釈の進展によって、テロを助長し正当化する形の理論が形成されていること、それがアラブ世界において一定の信奉者を持ち、それを黙認する一定の人口が存在し、表立って反論できない世論が形成されているという事実を指摘しているだけである。アラブ世界に固有の理念やイデオロギーの展開がいかにしてテロを正当化するに至ったか、それを理解し克服することが、すなわちテロの「種」をなくすための作業である。…(略)…貧困がテロと関係があるとすれば、それは、できてしまった「種」を育てる「苗床」を提供したことにある。アル=カーイダに拠点を提供したアフガニスタンやソマリアは、まさに貧困が蔓延している地域である。…(略)…そしてテロが花を咲かせる「畑」とは、グローバル化した世界全域にほかならない。国際テロリズムはグローバル化に反対するどころか、グローバル化に乗じて資金を活用し、グローバル化によって提供される情報伝達や移動の手段を縦横に駆使してテロを実行する。アル=カーイダのような司令部のレベルでも、末端の実行犯のレベルでも、グローバル化に反対するなどという思想の形成やその表明はなされていない。何よりも重視されているのは、宗教的な規範理念に基づいた価値的・軍事的優位性の回復の希求であり、欧米や日本の反グローバル化論者がみずからの願望を投影して期待するような問題意識をそこに見出すことは困難である。」(池内・同上)

「戦闘員らは、金銭的な代償よりも、崇高なジハードの目的のために一身を犠牲にするつもりで、あるいはそのような高次の目的に関与することに魅力を感じて渡航している、という基本を押さえておく必要がある。少なくとも主観の上では、傭兵ではなく志願兵に近い。志願する目的の普遍的価値や手段の妥当性が、他者から見て承認し得ないものだとしても。そのような個々人の主観や個々人を包む集団の共同主観が前提にあることを認識しなければ、「イスラーム国」のような現象が生じてくる原因を探り、その解消のための適切な方策を考えることはできない。」(池内恵著『イスラーム国の衝撃』 文春新書)

2015年4月11日土曜日

少年サッカーの少子化問題

明日から、全日本少年サッカー大会の地区予選がはじまる。本年度から、サッカー協会の指導により、トーナメント方式から、リーグ戦方式にかわる。その趣旨は、できるだけ多くの子どもたちに試合経験をもたせることと、一試合ごとの内容を受けた修正意識(フィードバック)をもって、一発勝負の発想ではなく、持続的な戦いの考え方を育てていく、というもののようだ。この趣旨には私も賛成だ。日本サッカー協会の人たちは、サッカーの分野での世界標準ということだけを視野に、その理念の実現に一歩でも近づこうと制度変更を考えたのかもしれない。が、もっと大きく、文化的な視野で考えてみても、島国日本では、サッカーに伺えるその大陸的な論理、他者と陸続きに接した世界での付き合い方を、子供のときから教え意識づけてやる必要があるとおもう。

日本では、人生自体が一発勝負的、トーナメント方式だろう。受験に失敗したら、もうそれだけで人生は暗く失敗したようなプレッシャーを暗黙に、つまりは習慣的に受ける。この発想の最たるものが、特攻隊という作戦だろう。死ぬまで戦え、生きて俘虜のはずかしめを受けず、とかなんとか。いまの子供たちも、戦争になったらそれが当たり前、とおもっているかもしれない。が、ヨーロッパでの戦争倫理はそうではないそうだ。まずは死ぬことを前提とした作戦は、軍事プロのたてるものではない、と拒否される。たとえ少なくとも、確率的に生き伸びる道筋を示していなかったら、それは作戦ではないと。また一般の兵士も、まわりの仲間たちの70%が死んでしまったならば、戦いを放棄して投降していい。それが、慣習的であったと。むろん、捕虜への待遇も、国際法的に明記されている。(註*)

そこで子供たちに、「あなた(がた)は、どちらの社会に住みたいですか?」「中学の受験に失敗して、それで君たちの人生は終わりになりますか? 日本は戦争に負けることで、それで終わってしまいましたか? どちらの社会が本当のようにおもいますか?」

といっても、少年サッカーのリーグ戦への変更問題、私は当初、ただそれをJリーグにならって文字通り実行に移すのなら、逆にリーグ戦への趣旨に逆行してしまうのではないか、と危惧していた。私の所属するチームの第七ブロック(新宿・渋谷・目黒・文京・千代田地区)では、約40チームを実力差から三つにわけたのだが(J1からJ3のように)、強いチームは強い者同士で戦い続けることを強いられるので、コーチは負けられないと固定的な先発メンバーを使い続ける傾向がつよまるのでないか、と。しかし最近とどいた予定表をみると、ちょっと複雑なアイデアでその矛盾が揚棄されている。最終的には実力的にA・B・C・Dと4つに分けたリーグ戦のあとで、シード権をもつA1位とB、C・Dの各最下位チームのミニ・トーナメント方式をいれ、そこでの優勝者がまた優勝者どうしの決勝リーグ戦をおこうなうというのだ。都大会代表を決める決勝リーグは、結局はAリーグに選ばれたチーム同志がまた戦うことになるのではないか、という矛盾点も発生するが、上のアイデアだと、コーチはもっと余裕をもって選手起用、チーム作りをできるだろう。「こりゃ東大出の官僚あがりが考えた答案みたいだな。」そうおもいながらも、私は感心した。

が、今度は、そのコーチ体制が問題なのだった。ベンチには、最低3名のコーチが入らなければならず、しかも、サッカー協会が開催するコーチのライセンスを取得したものでなければならない、というのが、3年後くらいを目途にした方針だというのである。私も急きょ、先月、D級のコーチライセンスというのを、チームから2万円ばかりの受講料を払ってもらって取得した。サッカーは各学年別に大会があり、それも重なる時があるのだから、そんなコーチ数を抱えこむことができるチームには限りがある。緊急パパコーチというチームも多いだろう。私が所属するチームでも、今大会をめぐって、子供の人数が増えたので、今回は他チームとの合併でのぞむのではなく、自チームのみで参加しようと意欲していたのに、コーチが、大人の数が足りない! しかも3年後には、みながライセンスを取得していなくてはならない……。おそらく、この協会側の趣旨は、子供へのモンスターペアレント(パパ)の排除と、日本代表へとつなぐ、育成方針の統一化、ということだろう。D級講義でも、どのチームの指導もベクトルをできるだけ同じくすることで、成長の伸びしろをあげていく、と算数的な図が提示されていた。当初、大人が三名ベンチにはいるとは、負傷した子供の対応ということだったが、それがそのまま、指導員ということに拡大されている。これから、子供の数は少なくなる。一緒に参加してくるパパコーチも少なくなってくるだろう。私の所属チームも、もう数年したら、自分の息子・娘がいないパパコーチだけになってき、子供のメンバー自体が試合成立にたりなくなってくるので、合併するのか、続けるのか、考えておく段階に入っている。

自分の息子も少年チームを卒業し、各チーム自体が少子化になる。それでも、サッカー・チームを続ける意味とはなんだろうか? そのすそ野において、維持しようというモチベーションは、なんだろうか?

もちろん、第一は、サッカーが好きだ、楽しい、サッカーをやってきたもの、みてきたものの情熱だろう。それで、ここまでになってきたのだ。こんどのハリル・ジャパンが、ロシア・ワールドカップへむけて、図らずもな期待感を抱かせているが、将来的な体制は厳しいのは目に見えている。底上げ、追い上げ激しいアジアでもそうは勝てなくなり、そうなれば、サッカーに興味を抱く子供たちの数も減るだろう。ならば、好き嫌いという趣味的判断だけではなく、それが必要なのかどうか、在ることにどんな意義があるのか、サッカーをする意味は何か、と論理的に詰めて判断準備しておく必要がでてくる。それは、サッカーを知らない、無関心な他者(たち)を説得する準備であり、他者(たち)と共存することを受け入れた倫理の前提だろうし、そのことこそ、サッカーを通して子供たちに伝えたいことのひとつ、論理力、論理ということの必要性、世界標準、ということではないか?

註*  しかし捕虜への待遇は、国家間での保障に集約されていったもので、ゲリラやテロリストには考慮されない。だから昨今の国家間とはえいない戦争においては、双方とも国際法的に慣習化されたルールを守らない。またそれに従って投降し捕虜になっても、むしろ殺されてしまうほうが慣例化されているかもしれない。もし本当にそうなったら、何が世界基準なのか、ルールなのか、子供にも教えられなくなるだろう。そしてそういうことが、本当に今の世界戦争のなかで起き始めているのかもしれないのである。もう少しその辺を意識化できたら、「イスラム国の人質(6)」と題して書いてみるかもしれない。

2015年3月21日土曜日

イスラム国の人質(5)――『相棒』最終回を読む、その構造と偏差

「相棒」撮影中……私もエキス
トラになっていた、木の上で。
 とはいえ、民芸的なものによる世界の安定というモリス的なビジョンもあまり信じられません。それは「ゼロ年代批評」の言葉にも置き換えれば、アニメやマンガがあれば鬱屈も溜まらない、テロは起きないというような話に聞こえます。実際にそういうことを言っているひともいる。…(略)…自分で作品を作って自分で消費して小さく楽しむ。それはそれでいいんだけど、それだけでは満足できない人間は絶対に出てくる。
 中沢 それはこの三人ともそうですよ。浅田さんもウィリアム・モリスといっているけど、あの生活が周りを覆ったらいやになるでしょう。
 浅田 実際は確かにその通りなんだけど、とりあえず今日の話の路線にこだわっておけば、「死の欲動」や「死に至る悦」の激発を避け、欲望をいかに迂回させ多様化させ長引かせるかという倒錯的な快の技法があるわけですよ。たとえばフーコーは、ラカンの言う「サドとカント」(絶対的な悪と絶対的な善の背中合わせ)のような「死の欲動」と「崇高」に近いところから出発しながら、古代ギリシアとアメリカ西海岸のゲイ・カルチャーを経由することで、そういう別種の「快」と「美」の、また別種の社会関係の発明に向かおうとしたんだと思いますよ。
  サディズムとマゾヒズムの問題はまさに美と崇高の問題ですね。最後に別の補助線を引くとすれば、やはりフロイトの「不気味なもの」に触れるべきだと思います。「不気味なもの」は美にも崇高にも近いものでありながら、そのどちらでもない。>(『新潮』2015.4 特別鼎談「浅田彰 中沢新一 東浩紀 現代思想の使命」)

テレビ朝日の『相棒』最終回というのを、息子の録画で昨夜みた。正義感気取りの傷害事件犯人「ダーク・ナイト」が、相棒の刑事だった、というストーリー。前半はいかにもなストーリーで、これまでの作品とは違い緊張感なくつまらんな、とおもっていたが、模倣犯の男が「俺が本物だ」と主張しはじめるその仕方が繰り返されるうちに、私は面白く感じ始めた。「張り子のトラもトラ」とかいう毛沢東の言葉や、ボードリヤールのシミュラークルとかいう概念が脳裏によぎりはじめる。そして、これはイスラム国のテロリズムを意識して書き換えられて出来上がっていったものなのではないかな、という気がした。

湯川氏や後藤氏に手を下した覆面男「聖戦士ジョン」は、モハメド・エムワジというイギリス人の男であるといわれている。田中宇氏のニュース解析によれば、もともとはテロとは無縁な人だったが、そう疑われてたびたび拘束されることに心境が硬化し、イスラム国へのメンバーに本当になってしまったようだと。しかも、イギリス当局等はその渡航を承知し、わざとテロリストに仕立てあげているのだと。彼(ら)がテロに関与し、計画し、その実行を防ぐも、敢えてやらせるのも、その時の都合次第なのだと。世界の支配体制側は、そうでもやって、自らに都合のいい状況を作ろうとしているのだと。……そうだとして、そうやって体制側にテロに仕立てられた(模倣させられた)モハメド・エムワジは、本当に、オリジナルな、真実の、「聖戦士ジョン」なのだろうか? 権力側が、自らの体制側の者を、杉下右京という正義・原理主義者の「相棒」にすることによって、彼を「ダーク・ナイト」に仕立て、その犯罪が行き過ぎたときに逮捕し、そのことによって、つまり右京の管理者責任を問うことによって、もはやお役目ごめんと警視庁から追い出す、そうしたカラクリのなかで、「ダーク・ナイト」は、「聖戦士ジョン」は、自発性というオリジンを抱え込んでいるといえるのか? 本当のテロリストといえるのか? しかし、偽物ともいえるのか? これは、核爆弾をもっていなくとも「持っている」と言い続ければ、「持っている」と同じ効果があるのだと考えた毛沢東の思想戦略ではないし、ボードリヤールの記号論的解釈にも余りあるだろう。本当は持っていない(偽物な)のだが、自らは知らないあいだに何ものかに(?)「持たされて」、本当に持ってしまった、テロリストになってしまった……というのが実情だとしたら、彼らの内面は、そう強固なものではなく、虚ろであろう。もちろん、これは個人の問題というだけではなく、たとえば、「持ってない」のに「持っている」とされて攻撃された旧イラクのフセイン体制や、そうなってはいかんと、いつのまにか「持って」しまっているだろう北朝鮮のような国家にも当てはまる事情かもしれない。そしてイスラム国は、アルカイダの後釜として、なお利用価値ありとテロを許されている、ということなのかもしれないのである。もちろん最後的に、体制側の意図した通りに結末するのかは怪しいが。――ともかく、個人の話にもどれば、「何ものか」によって「持たされた」と私が言う時、その何ものか、とは、大きくは権力や体制的な世の中、であるといっても、直接的には、たとえば「ダーク・ナイト」なら友人の死ということ、「聖戦士ジョン」なら移民であることによる日常的な軋轢等が色々あったかもしれない、その動機は、複雑でその人の謎、ということになるだろう。

しかし私が、今回の『相棒』を見てこのブログを書きとめておきたくなったのは、そんなストーリ転回から読み取れることではなく、11歳の息子がそのテレビを見たあとでいったこんな言葉に衝撃にも似ている違和感を覚えたからだ。「ママは人ぶんなぐったことある?」……おそらく、「ダーク・ナイト」の殴る蹴るの暴行(それは相手が死ぬまではやらないプロ的なやり口なのだが)、被害者の血まみれの顔、崩れ倒れた身体、そうしたものを見たからだろう。私も、これまでの『相棒』にはなかった、ずいぶんどぎつい映像の反復であり、カットであるな、と差異を感じていた。この差異の感得が、なおさらイスラム国での人質事件からの影響を連想させたのだが。……、つまり、テレビのストーリの中だけでなく、この本当の世界にも、子供にも、こうやって、まさに紛れもなく今の内側の構造が外へと折り広げられて、子供は、そのとき、テレビを超えた、外を感じ取る……子供の自分にはまだよくわからないが、なにか本当のものがあるらしいな、と。現代思想的にいえば、息子は、このテレビドラマから、「リアルなもの」に触れたのだ。もちろん、もし息子が、川崎国での18歳のテロ模倣や、人を殺すまえに学校で飼育していた山羊の首をカッターで切ってみたという少年たちのように、そんな事件を仕出かしたなら、それは構造的には模倣反復したにすぎない。テレビとうメディアの悪影響という話にしかならない。イスラム国のテロ映像自体が、ハリウッドの模倣、影響であり、後藤さんの映像も、テレビや映画の撮影のように、何度も撮り直しカットし、いい画像のものだけで編集したものだとは、そこからの脱走者が発言している。が、そこには、まずこれまでとの差異があるのだ。この最終回の『相棒』は、これまでとは違うのである。イスラム国の衝撃も、どこか違うところがあるからなのだ。その影響を受けて犯した動機のうちには、感性には、構造として制度・習慣化されてはいない、彼らがリアルなものに触れたときに発生しただろう「偏差」が孕まれてしまっているのだ。つまりその偽物(模倣)の内側には、つまりは内(テレビ)から拡張された外(偽物)となって現象した内(面)には、まだ我々には理解できない本当の「外」が懐胎されているのではないか、と。子供の発言の無邪気な抑揚は、不気味ですらある。もし、すでに寝床に入っていた私がそう質問されたなら、「あるよ、ママ」と、女房しかなぐったことがないと答えただろうか? 女房は、子供の質問に答えようもなくおどおどとはぐらかしていたが。

さて、冒頭引用の鼎談は、後藤さんがなお人質中になされたものであるらしい。私は、最近の、というか、NAM以降の浅田氏の言動をほぼ知らないので、氏が何を言うのかな、と興味を持ち、図書館で借りて読んだのだった。相変わらず「イロニック」な、斜に構えたようなスタンスだな、と感じたが、それも、あの9.11のテロ以降、構造的反復性しかないような、縮小再生産的な事態が展開していたといえるのだから、当然かな、ともいえる。ニューアカやその上の年代の日本インテリたちは、ソ連の崩壊時に露呈してきて見えてしまったものは、すでに発言指摘していたのだから、それが衆目にもはっきりしてきたからといって、興ざめるだけだろう。「とりあえず今日の話の路線にこだわっておけば」、と幾度なく自身のスタンスを表明するのではなく限定してみせる浅田氏の態度は、理性的ともいえるし、ずるいともいえる。「とりあえず」オタク(ウィリアム・モリス)でいいというのなら、それは飛行機オタクの美的追求をいったんは明瞭に肯定してみせる宮崎駿氏の『風立ちぬ』の立場を「とりあえず」認める、ということになろう。むろん浅田氏は、それだけではすまない、と知っているのだが、文脈上、ではどうするのか、したいのかは言わないのである。が、そうした振り分けは、頭の中だけでできるのであって、いま私が生きている実践では、混然とする。そこに、暗中模索、真の思考があると私は思うのだが、その混然さを提供できない、ということは、本当はその人が考えていないか、表明するのが怖いのだろう。端から何言われるかもわからんし。私の思想的立場ではなく、考える立場は、東氏に近いものである。

整理すれば、3.11は、なお目覚めていなかった日本大衆には衝撃だったとしても、それは世界を変化させようとした出来事ではなかった。(と原発事故も含めたその災害当初に、私は言っていた。)9.11は、表向きの冷戦構造化で隠されていた、より下部的に動力的な構造――それ自体はソ連の崩壊によって露呈してきた――が在る、という感触を周知にさせるきっかけだった。そしてその後、それが本当だ、世界を、というよりも、資本主義世界を動かしている、表向きの政治以上の、得たいの知れない怪物的な経済的構造があって、それが世界政治や社会の細部までをも振り回してるようだ、と衆目させる構造因的事象が反復された。しかしこの誰もが認めたがらなくてもいつの間にか認めるよう仕立てられてしまう模造的反復の最中で、ささいな、本当に個人心因的かもしれない偏差が導入されてしまったのだ。しかも、あちこちの亀裂として。現在のイスラム国の精神的指導者とされる者も、アルカイダのビン・ラディンのような自発的な首謀者というよりは、イラク戦争時に無暗にひっとらえられて受けた屈辱から、本当のテロリズムに転向していった者たちだとされる。彼(ら)は、仲間(友人)を想う気持ちから、いつのまにかそうなってしまったのかもしれない。杉下右京は、そんな「相棒」に「バカ!」と怒鳴る、叱りつける。しかし構造(体制)を突き破るまでの暴力を育んでしまったのは、この正義の激情=劇場なのだ。右京が管理責任を問われたように、20世紀世界を支配したアメリカ帝国とその追随者たちは、アルカイダやイスラム国のテロリストたちを育てた管理責任を問われるだろうか?

*実際、アルカイダ(杉下右京)は、過激に走る前イスラム国(相棒)をたしなめたので、そこから内ゲバ的な分裂が発生したのだとも言われている。

杉下右京は、「とりあえず」、去った。ということは? つまり、帰ってくるとしたら、その原理主義者の原理性は、どのように帰ってくるのか? そのとき、我々の知性は、その過去の回帰を、構造的に読み解く素材と知恵を持っているだろうか? 私は先のブログで、この混沌を生む偏差を「古代史」とたとえたのかもしれない。その古代の謎を、読み解けるだろうか? 息子の無邪気な言葉を、不気味さを超えて理解する認識作法を、心得ているだろうか? それがない、まだ持てていない、認識力がない、とは、混沌の苦しみをそのままで味わい尽くさねばならない、ということである。マルクスは言っていたはずだ、知性にできることは、生みの苦しみをやわらげることだけである、と。

私は今、自分の息子が、本当にはどのように生まれてくるのか、おびえはじめている。

2015年3月10日火曜日

イスラム国の人質(4)――「川崎国」での中学生惨殺事件に寄せて

「私は、国体なるものの本質とその戦後における展開の軌道を見通し得たと信じる。問題は、それを内側からわれわれが破壊することができるのか、それとも外的な力によって強制的に壊される羽目に陥るのか、というところに窮まる。前者に失敗すれば、後者の道が強制されることになるだろう。それがいかなる不幸を具体的に意味するのか、福島原発事故を経験することによって、少なくとも部分的にはわれわれは知った。してみれば、われわれは前者の道をとるほかない。その定義上絶対的に変化を拒むものである国体に手を付けることなど、到底不可能に思われるかもしれない。しかしながら、それは真に永久不変のものなどではない。というのも、すでに見たように、「永遠に変えられないもの」の歴史的起源は明らかにされているからである。それはとどのつまり、伊藤博文らによる発明品(無論それは高度に精密な機械である)であるにすぎない。三・一一以降のわれわれが、「各人が自らの命をかけても護るべきもの」を真に見出し、それを合理的な思考によって裏づけられた確信へと高めることをやり遂げるならば、あの怪物的機械は止まる。なぜならそれは、われわれの知的および倫理的な怠惰を燃料としているのだから。」(白井聡著『永続敗戦論』 太田出版)

中学1年の少年が犠牲となった、川崎市での事件は、私には衝撃だった。その子が、息子の一希のように思えたからだ。新聞に張り付けられたその笑顔写真とともに、誰からも好かれた人気者で、その感性は島根県の小島の村落自然のなかで、村人の爺さん・婆さんたちから可愛がられて育まれたものだろうとの記事を読んで。一希はむろん住んでいるのは東京の大都会の真っただ中だか、父親は雨天中止の植木職人で、かつての長屋アパートの隣人だった爺さん・婆さんに今でも可愛がられて、週に三度はそちらのお宅で夕食を食べてくる。そうして育った天真爛漫的な子が、都会の人間関係に傷ついてくる……そして、その原因を作ったのが、脱サラした父親なのだ。その子の父親は、漁師になろうと川崎から島根県の小島へと渡ったのだった。この第一歩の問題を、問題としてとらえて記事にする論考を私は知らないが、資本社会に雁字搦めにされて擦れてくる人間関係、無駄に廃れて疲労していく自分を刷新しようと、自然により近い農業を中心とした営みに転身していく人たちは他にもたくさんいただろう、そして特には、ある知的方面によって、その思想的意義を説いて推奨していなかっただろうか?

私は、この事件の最初の記事を読んで、まずは上のように、犠牲者の父親との関係のことを思ったのだった。それから、この事件の有様を新聞とうで追ううちに、自分が当初想像した以上の深刻さを湛えているのではないかと思うようになった。ゲームセンターで知り合った不良グループが、イスラム国をまねて「川崎国」と自称していたこと、東南アジア系の移民の子が多かったので、「ハーフ軍団」と呼ばれていたこと、その殺し方も、カッターナイフで首を斬首する気配があったこと……しかし私に書く衝動を引き起こしたのは、これらなお真偽定かではない社会学的表象ではない。私はふと、首を切られた上村少年が、そうなると知っていたがゆえに、むしろ自ら殺されに出向いたのではないか、と気づいたからだ。

彼は、同じ中学へ通ういわゆる「普通」の少年たちとも仲がよかった。事件の引き金は、この普通の仲間たちが、おそらくは勇気をだして、殺人にいたってしまうことになる不良グループのリーダーの家へ、友をいじめるな、と抗議しにいったことだとされる。不良グループとはちがう他のコミュニケーションツール(ライン)に入って「ちくって」いたことを知った18歳のリーダーは、そこで制裁を考えるようになったようだ。上村少年は、「殺されるかも」ともらしていたそうである。しかしにもかかわらず、なんで、逃げなかったのだろう? 自分を応援してくれる「普通」の友人たちに付き合いを限定していく、そういう振る舞いや駆引きはできなかったのだろうか? 事態が深刻になる以前に、どうして一方と手を切り、普通にならなかったのだろうか? 私はそこで、彼の自然な感性をおもったのだ。彼が、相反する二つのグループとの交流をつづけたのは、「平和」を願ったからではないだろうか? なんで、同じ人間なのに、お互いが反目しあうのか? なんで、あっちの人が好きで、こっちが嫌いと分かれるのか? 人種や、自分のような貧乏で片親のような境遇がそれを生むのだろうか? 僕は、みんなと仲良くしたい。それは、できないのだろうか?

私のそのような想像は、当然のように、後藤さんの姿を呼び起した。少年の父は、後藤さんのように脱サラして、真の人間関係を求めた。その子も、偽りのない、区別のない平和な関係を求めて、覚悟して、自分を殺すかもしれないグループの所へと出向いたのだ。……

一希は、どうなるだろう? 区の代表サッカーチームに入った息子は、その新しい人間関係を、悩みながら構築しはじめている。その素材のなかには、自分の自然的な感性とすでに都会ずれしている者たちとの思考の違い、アパートに住んでいるか持ち家か、父親の職業や収入、どれくらいDSをもっているか、携帯電話は?……とう、いろいろ混入してくる。その混在のなかで、お笑いスタンスでごまかし、道化的な立場をとっているようだ。むろんこのポジションは、上村くんのように、トリックスターの位置、どっちつかずのイエス的両義性、ゆえにいかがわしいと生贄の子羊にされやすい構造化にある。
そして2年後、3・11の地震でヒビの入った11階だての築40年以上はなるこの団地は、団地住民の町会上は、建て替えが決まって、立ち退きをせまられることになる。実の祖父・祖母だけでなく、昵懇の爺・婆も、もう亡くなるかもしれない。サラリーマンよりずっと両親と同じ部屋にいることが多かった息子、それゆえに、人間的感情の豊かさとその起伏も人より大きく育った一希は、自分の願望を、自然的な感性を、どのように折り畳んで成長していくだろうか?

イスラム国の人質(3)で、10年前騒がれた「自己責任」風潮とはちがう、それを変えていかせようとするイデイロオギー的転換が権力側によって企まれているのではないか、と私は推論したが、それを冒頭引用した白井氏が自身のブログでより正鵠に分析記述してくれている。とはいえ、私は、氏が分析する戦後の「国体」の有様については賛同できるが、それが明治政府によって意図どおり創作されたものとすること、またその近代的起源から、個人の「命をかけても護るべきもの」への発見へと至る論理には、なお疑問である。後藤さんや上村くんは、「命をかけて」願ったのかもしれない。が、その個人の平和希求と、国体的な位相は、論理文脈としてつながらないとおもうからだ。実践的には、国家には、やはりそれに準ずる集団的なものでなければ、論理としても、対置できないとおもう。出自がちがうのだ。つまり、伊藤博文を中心とした明治インテリの創作で、国体が成ったのだとは、私は考えない。