2021年5月27日木曜日

コロナと労働

 


ゴールデンウィークあけから、練馬区のほうの街路樹刈込の作業にはいっている。エンジン・バリカンで、オオムラサキやサツキの生垣を刈っていくのだが、歩く距離のながいこと。70過ぎの職人さんと二人で、刈っては竹ぼうきで掃除、を繰り返していく。もう何キロ、歩いていることか。まだ、まだ、ある。夏には、10メートルほどの高さのユリノキの街路剪定もやってくれ、という。2年ぶりだかに落札できた役所仕事を、練馬区にある会社の若社長が、とりあえず義理で私のほうにまわしただけだろう、とおもっていたが、そうでもないらしい。「爺さん二人でじゃ、無理だよ。」と言うのだが、なんとか手伝いをみつけてやってくれ、という。自分のいる会社の若社長のほうの、新宿区のプラタナスも連続してやるはめになったら、つづけざまに200本以上、ひとりで毎日、のぼらなくてはならなくなる。「みな仕事がないなかで、うれしい悲鳴ですよね。」とも言われるのだが、体がもつのか。

 

今の街路樹作業には、まだ二十代も後半であろう若いガードマンがついている。本来は、倉庫でフォークリフトなども操作する運転手なのだそうだが、コロナで休みになり、知り合いの紹介で、この業務についているという。いまは、下水からもコロナが検出されているから、水道とかの工事現場もなくなって、ガードマンの仕事も減っているのだそうだ。

 

一服時のジュース代をだしてやって、道路に座りこみ、話している。勝手に車はよけていくから、パッカー車の後ろに立っての規制などいいから、休め、と言ってやる。ひとり業務なのに、一服時間があったり、そのジュース代をだしてもらえることじたい、めずらしいのだろう。15年前くらいまでは、現場の責任者の親方が、他の職人たちのぶんまでジュース代をだして、若いものに、ひとりひとり注文をとらせて、買いにいかせていた。10人以上いたら、その注文を覚えるのが大変だが、現場に参加できてくると、その一人一人と一対一の関係で注文の品を結びつけるようになるので、暗記はいらなくなる。現場の環境が、態度をかえさせ、それ自体が、訓練なのだった。がじきに、各業者ごとに自らの一服代を負担するように申し合わせができる。私も親方から、うちの職人以外の一服代の請求をだすな、と言われもした。若社長ともなると、10時と3時の一服時間さえもあやしくなる。まして、よそから派遣されてくるガードマンのことなど、かまわない。現場からは、一体感がなくなり、ガードマンも、いわれたことしかしなくなる。みな、バラバラだ。職人的な徒弟制というよりは、仕事によってかかわるだけの経営者と従業員としての、ヒエラルキーだけが浮かび上がる。それが、自明化される。だから、この若いガードマンは、びっくりしたのだ。そういう世の中もあるのか、現場の責任者とジュースを飲める時間があるということがありうるのかと。私はあえて、というか、世の変化への抵抗をこめて、自腹を切って一息コーヒーを買ってやっている。いやこの歳になると、若いものに、違う世の中がありうるのだと知らせる、教育的実践をしている、感じだ。ガードマンは、気づいたことを、自らやるようになる。

 

が、販売機もコンビニも近くにない道路では、勝手に休んで、と100円硬貨だけわたすことになる。若いガードマンは、コーヒーなどは買わず、そのまま着服しているようだ。コロナ状況がつづいて、生活費を稼ぐのも、大変になっているのだろう。

 

私の身の回りでも、陽性反応がでたりで、コロナが近づいてきていると認められる。埼玉の春日部の叔母家族が、みな陽性者になったときいた。しかし、統合失調の診断を受けて引きこもっている40歳にはなるだろう、私の従弟から発熱症状がでたというのだから、奇妙な話である。そして、一緒に仕事をしている職人さんの娘が一昨日だか、陽性と結果のでた友人の濃厚接触者ということで、自宅待機になったそうだ。娘さんに症状がでたり陽性反応がでたら、私もコロナにかかった、と認識すべきだろう。職人さんと同じハンドルを握って運転してもいるのだから。

 


日本では、陽性者を増やすと面倒になるので、検査をしない。関わりたくないという事なかれ主義だ。が、スウェーデンなどでは、一緒にすごしていたらかかっているのが当たり前だと認識すべきなので、わざわざ検査などしない、という。しなくても、その保証の対象者になる。身近なまわりものたちも、誰もがかかりうる風邪みたいなものと接してくるそうだ。がこちらでは、かかわりたくないと、排除の気配だ。

 


私は、お店にはいるときや、電車やバスにのるとき以外は、ほぼマスクをつけない。暑くて、やっていられない。人通り多い、でかい団地街のど真ん中で刈込仕事をしているが、まだ誰も文句はいってこない。職人さんは、仕事中、運転中でもマスクをしている。娘さんがうるさくて、こわいんだよ、と言っていたが、そのコロナを警戒していたはずの娘さんが、濃厚接触者となった。奥さんは、糖尿病で、インシュリンを打つ生活だ。職人さんも、心臓の薬を毎日のんでいる。2LDK暮らしだ。

 

個人の気のゆるみがあるから緊急事態になったのだのと、政府や都知事や、街中をぶらついている者の街角インタビューでも答えている。なんとも、ふざけた話だ。自然を、なめている。毛虫の猛威がわからなくても、どこにでも生えてくる雑草の勢いをみればわかるだろう。個人になど、人間の力など、どうにもならない。遺伝的相性(環境)がよかったら、ウィルスは増殖をはじめ、悪かったら、場所をかえていくだろう。そもそも、中国の奥地でまどろんでいたコロナにとっては、いい迷惑な話だ。いきなり都会にひきずりだされて、パニックになっている。ワクチンは、パニックをあおっているだけかもしれない。場所(人)を替えるだけでなく、自らを変えていく。

2021年5月5日水曜日

コロナ下の哲学


 まだこのブログ上で言及はしていなかったが、私が、コロナをめぐる論考で一番いいとおもったのは、國分功一郎氏と大澤真幸氏との討議『コロナ時代の哲学』(左右社)。

とくに、國分氏が、かつて、大澤氏が別問題でとりあげていたチンパンジーの科学実験を呼びおこして、コロナ禍でのソーシャルディスタンスがかかえこむかもしれない類的現実への考察は、鋭い。

その國分氏が、東大にはいるかもしれない高校生なりへの一般講義が、youtube上で公開されたようだ。

上記作と重なるところもあるが、やはり、ここでメモしておこう。


<國分功一郎「新型コロナウイルス感染症対策から考える行政権力の問題」ー高校生と大学生のための金曜特別講座>

2021年4月25日日曜日

花粉、ウィルス、量子(4)


前回ブログで、日本のコロナ状況では、ロックダウン的な処置など必要なく、臨時法的な医療体制の拡充をするほうが先決だ、という趣旨の発言をした。
 
これと似たような提言を、慈恵会大学病院の大木隆生氏が、自らyoutube番組をたちあげて広報しているのを知った。安倍や菅の助言者でもあるらしく、そういう話を総理官邸にしても、結局は受け入れられなかったと。

大木提言3(https://youtu.be/yl_zmErgY2U)、他

大木氏のたとえでいえば、水道の蛇口をしめるだけで、水を受ける入れ物がおちょこのまま、バケツとかにしようとしない、それは、ゼロコロナをめざすという方針のもと、あってはならないことと、否認されてしまうのだろうと。氏は、総理はその体制作りの意をくみとっても、まわりの厚生省や医師会などがもしものときの責任をとりたくなく、政権批判が役目とされるマスコミが圧力をかけつづけるために、患者増大を前提としたような処置はすることができなくなるのだろうと、推察している。

私は、大木氏のコロナ認識に、根底的なところで仮説的な疑義をもっており、それがこうしたブログでの意見整理になっているわけだが、いわゆる世界で説かれる陰暴論以外で、なぜやりたくもなかったらしくある政権側が、結局は過剰な防疫体制を強いられているかを説明しているのにであったのは、これがはじめてなんではないか、とおもう。説得的な話だ。が、あてはまるのは、日本だけなのではないか、とおもう。さらに、もし安倍や菅が、本当に大木氏の意見を肯うならば、覚悟をもってやればいいだけだ。が、そうしないのは、なにももっと上位の、世界陰謀論者からの指令などではなく、たんに、意志がなく、また、それが科学的にも根拠がありうる認識だとの当否を判断できる、教養訓練がまったくないからであろう。実際には、中学生レベルでもマスメディアで説かれることがおかしいとは、公表折れ線グラフをみれば見てとれることだし、非常事態宣言でもまだ生ぬるく遅い、といってきた学者たちの、手遅れになれば何十万が死ぬぞ、との認識というより脅しが、いったい何回はずれたか、ということも経験済みなはずだ。

田中宇氏が、またコロナPCR検査でのインチキを説明しているが、たとえ世界的な陰謀を企んでいる勢力があったとしても、日本になど、指示などする必要もないだろう。していたら、バレバレになって、陰謀どころでもなくなる。とはいえ、DNAのらせん構造を発見したワトソンの本では、CT値、増幅回数は25回でもすごい、みたいに記述してあったから、40回だの50回だのは、キチガイ沙汰なんではないだろうか?

しかし今回私が書き留めておきたいのは、以上のようなジャーナルな話ではない。

ウィルスとは、粒子のことなどではなくて、細胞の状態のことである、という生物学上の新しい仮説のことである。(『生物はウイルスが進化させた』武村政春著 講談社BLUE BACKS)

これは、新型コロナのウィルスが原因なのではなく、それをそうさせる身体や環境のほうに原因があるのではないか、と仮説しているこのブログの趣旨にかなう。原因ではなく、状態のほうが問題なのだと。量子が、粒ではなく、状態であるように。(ここから、量子論を、情報論へとゆきつかせる最近の思想状況もでてくるようなのであるが…)

<これはすなわち、「ウィルス粒子」と「ウィルス」は分けるべき概念なのだということである。別の言い方をすれば、「ウィルスの本体はウィルス粒子ではない」ということである。
 それでは、いったい何が「ウィルスの本体」なのか? 「ウィルス粒子を作るもの」こそが、ウィルスの本体なのだ――ヴァイロセル仮説は、そう主張しているのである。
 ウィルス粒子を作るもの。それこそが「ウィルス粒子に感染した細胞」である。>

ヒトも含めたDNAを格納している細胞核は、ウィルス感染した細胞内のウィルス工場が進化したものなのではないか、ともいわれるが、まだこのレベルの世界は、「ブラックボックスのままなのである」そうである。この素人への解説本を読んでいるだけでも、そんな世界に人工RNAなどを投下していいのかい、と疑わしくおもえてくるのだが…。

2021年4月10日土曜日

花粉、ウィルス、量子(3)


いまもって、PCR検査での陽性者数の増減で、右往左往し、一喜一憂している。

もう一年以上たっている。

非常事態宣言を二度もだしていても、本当に重症者が激増して通常の医療体制ではやりくりできなくなるかもしれないことに備えて、プレハブでもいいからコロナ専門病棟の土地借用や輸送手配、程度段階に応じた医療従事者の名簿作りや交代勤務段取り、医学生からの支援体制制度化など、臨時法的な備えなど、してはいないのだろう。たしか二度目の宣言前だったかの記者会見で、ビデオ・ドットコムの神保氏が、なんで時間があったのに、緊急な医療体制をつくろうとしなかったのか、世界有数な医療体制だと日本は言われながら、欧米の100分の1くらいの病状でパニックになっている、これでいいのか、と問いただしたことがあった。が、その提言は、その当時の状況下での医者を脅かすのに利用されただけだった。「藪蛇」みたいになってしまったと、神保氏はもらしていたとおもう。

私自身は、PCR検査では感染の実体を把握できず、ロックダウン的な処置は、少なくとも日本では必要はないだろうと思っている。だから、陽性者の人数の増減にかかわりなく、変な後遺症があるということは変なウィルスが出回っていることは確かであり、国民も不安なのだから、医療体制のバックアップは構築しておくべき、という考えだ。現場の熟練で、死亡までにはいたらせない手順ができあがってきている。節度をもって、普段の生活を営むことに安心していい、と。

グーグルなどでの、世界各国の感染者数のグラフ等をみると、日本でも第四波とかいわれているのと同様な、上昇傾向がみられる。英と中国とか、いくつかの国をのぞいて、ほぼ同じような、三つの山をもった折れ線グラフを描いている。それが、四つ目になろうとしているような現段階だ。が、お隣の韓国もそうであり、南米もそうである、とは、どういうことだろうか? ドライブスルーなどを導入して、検査数も国民規模であったとされる韓国では、検査数は今は日本と同じ規模になっていて、やはり、アプリ使用などを徹底化させてのぞんで抑え込んだとおもわれたものが増加しはじめている。ただまあ、地理的に近いのだから、日本と同期していても了解できる。が、南米は? 飛行機便も少なくなって、交通はほぼとだえており、季節も南北で正反対な遠距離地域においても、同期している。

ほんとうに、人から人へと感染しているのか? 地球を全体で囲っている大気環境とか、宇宙とのつながりとか、そういう範囲で考えないと、理解できるような事態ではないのではないのか? ウィルス感染症状は二次現象であって、本当の原因作用が、グローバルにある、ということをグラフは示唆しているのではないか? 地中で眠っていた雑草の種が、よしいまがチャンスと芽生えてくるような、日和見感染みたくなっているのではないだろうか? 風邪にもウィルスはあっても、夏の寝冷えや、冬場の湯冷め、の方が原因だろう。もうウィルスは世界中に蔓延していて、誰もが体の中に抱えこんでいる、その発症のスイッチは、ウィルスそれ自体にあるのか? 花粉症も、それ以前から花粉はあったのだから、花粉が原因とは言えないだろう。

私が最近、このコロナ現象に関し、リアルと感じられたニュースは以下のもの。

「あまりに孤独に慣れすぎた日本人」の超危険 どんな時も「1人で過ごす人」が多いことに驚く>(東洋経済4/4  ニューズウィーク日本版ウェヴ編集部)

この異文化コミュニケーションアドバイザ―の肩書きを持つテヘラン生まれの石野シャハラン氏の記事は、私に、ヤクザとマフィアの在り方の違い、という、柄谷行人が指摘していた日本人理解をおもいださせる。マフィアは裏に隠れてみえないが、ヤクザは表にでて肩で風を切って歩いていられる。外国でなら、つかまるだけだ、と。そういう文化現象と同じように、ロックダウン、非常時代宣言下で、外国では、人は表にでたら罰金なり逮捕されてしまうし、だからといって孤独というのは人間として受け入れられることではないと了解しているので、実はロックダウンなどなんのその、と、自宅に友人などを招いてパーティーをして食っちゃべっている。が、日本人は真に受けて自粛しはするのだけれども、平然と表通りを歩いて買い物していられる、と。言葉の建前だけは良いこと、優等生的なことを、街のインタビューでも、出歩いている人々が答えている。が、世界標準では、悪いことなのだから表にはでず、みつからない裏で騒ぐ。どちらがいいか、という話ではない。これは、近代化の植民地主義を真に受けて、その優等生通りな言動をしていた日本が、裏ではもう植民地主義のルールは変わって、人間的な現実を受け入れたほうへ変更されはじめているのに、その現実に気づかず、あいかわらず人真似を続行して、おまえらと同じことして何がわるい、と居直り、いまもって居直りづつけたい勢力が政権を握っている、それでいいの、ということが、また問われてくる可能性がでてきている、ということだ。

果たして、日本は、日本人は、世界のありえるルール変更に、気づけるだろうか? 変化に、適応できるだろうか?

2021年4月4日日曜日

電子出版とゲンロンの場


電子出版なるものをやってみようかと考える。
植木仕事も減ってきたので、生活の足しになる手段をさぐらなくてはならない。

また、日記がわりにつけているこのブログとはべつに、まとまった論考を保存しておく場所も必要だ。以前は、ヤフーのジオシティーズがあったが、スマホでのブログやツイッターなるサービスがでてきて、もう個人のホームページの時代ではなくなったのだろう。一昨年だったか、ジオシティーズのサービスは終わった。

そこで、電子出版といえば、アマゾンのKindleということで、ちょっと検索的に調べてみた。私でも、登録アップはできそうだ。代行業者にたのむと、数万円かかるらしい。が、アメリカのアマゾンに対し、源泉徴収は免除処置ができても、こちらの税金を閲覧できる許可みたいなのをあたえなくてはならないらしい。気味がわるい。さらに、ほとんどの検索記事や広告では言及してなかったのだが、月一度業務されるアマゾンから日本の銀行への為替手数料や振り込み手数料みたいので、それぞれ2千円ずつくらい、つまりは月に4千円以上の、年にしたら、5万円近くの経費が発生するらしい。新生銀行経由なら、振り込みの方の手数料はかからなくなる、とも言われている。が、ほんとに資本の世界に牛耳られていく感じで、気味がわるい。売れるわけでもないデータの、オープンな保存場所としては、ハードルがある。赤字になっていくというより、こつこつとぶんどられていくことに飼いならされていく、その躾を受け入れますか、と問われてくるような感じだ。ツイッターやインスタグラムといった、手短・直観的な習慣には飽き足らない階層の人たちに、どこか現実的とおもわせる障壁ハードルを設けてやって、それを超えて何かやった感を味合わせて手なずけていくやり口、といおうか。

他にも、電子出版のプラットフォームはあるみたいなので、さぐってみよう。

ところで、そんな試行の一環で、はじめてキンドル・アプリをスマホに導入し、無料サンプル文章を閲覧し、そして、東浩紀氏の『ゲンロン戦記』電子版を購入してみた。

気軽に読めるものならば、慣れれば、気にならなくなるらしい。とにかく、電気文字みたいのは、目と首がすぐに疲れてくるので、私は敬遠していた。すぐにページを指でめくらなくてはならないところが、漫画本読んでるみたいで、面倒くさいが。

で、その東氏が、情報発信を無料ではやらないことの意味を、思想・哲学的に説いている。会社を経営しているのだから、お金をとるのは必要な当たり前で、そこに、意味づけする余分な必要があるのか、と私などはおもう。他で金を稼げて、生活に困っていないのならば、無料提供でもいいが、そうもいかなくなることが予想されるので、なんとか百姓(何でも屋)的にあがかなくては、というのが私の有料への動機だ。東氏の会社のHPでの無料文章をみると、その意味付けに、柄谷行人が引用されているらしい。無料だと、そこまでの情報しかわからないわけだが、おそらく、柄谷氏の、フロイトが精神分析で金をとった、というところからの考察などが参照されているのだろう。無料だと患者に負い目をあたえて、医者本人への転移的な現象を発生させてしまうので、距離を保った関係を維持するために、金をとるのだと。たしかに、無料でワイワイ騒いでいる人たちは、対象に転移的な感情を抱いているだろう。が、東氏は、「交換」という、最近の柄谷氏の「世界史の構造」からの用語をもちだしているようだから、ちょっと違う観点が、意味付けに導入されているかもしれない。「商品(有料)」ではなく「贈与(無料)」のほうが「交換」としては可能性がある、と転回したといえるかもしれない最近の柄谷立場を、東氏がどう自身の経営(有料)的な活動に挿入したのか、いまのところ、私には不分明である。

その東氏の、「ゲンロン」を読むような知識大衆層の人数は、多くて2万人、ぐらいなようだ。普段は、1万冊売れればいい方、ぐらいか。たしかホリエモンとのユーチューブでの対談で、ホリエモンの方が、無料動画の閲覧数はどんどんあがっていっても、有料のメルマガまでとってくれる観衆というのは、2千人の壁があって、それを超えない、と発言していた。だいぶまえの数値だが、芥川賞をとった人の作品も、普通的に売れて2千部とかだった。大江健三郎クラスの作品が、たしか2万部販売がベスト、みたいな話もきいたことがある。

要するに、日本の人口規模で、知的大衆とは、2千人くらいで、何かでちょっと上増しになっても、2万を超えるぐらいまでしか増加しない、ということだろう。私は以前から、それが、人類における自然生態系的な確率分布なのだろうな、と思っている。相当少ないが、知的好奇心、言いかえれば直観的でなく、言語媒介して持続的な、手短でない時間のかかる論理を営む人の割合は、歴史的にも地理的にも、そんな程度なのだろうと。人は、肥大した脳みそを使っていないと不快感がでてきてしまうので、芸術や文化活動、あるいは科学的な探究をしつづけなくてはならないのだとおもうが、それでも、言語活動の領域に携わざるをえなくなる人の割合は、多くはならない。そしてその割合には階層があって、光の波長スペクトルみたいに、グラデーションがあるだろう。しかしたとえば、そんなある階層のゲンロン人たちが死んでしまっていなくなれば、やはり同じ割合まで、残った人口の中から、そこの知的階層に携わざるをえなくなってくる人々が現れてくるのだ(と、私はおもっている)。だから、インテリであることは、偉いことでもなんでもない。自然が、なんでかしらぬが、そういう生態系を産出してくる。バランスをとろうとする。にもかかわらず、高給取りがいて、格差がとんでもない資本社会になっているわけだから、自然に反することはなはだしい、と私は考えている。だからもちろん、この状況に、自然はバランスをとろうと動くだろう。

とにかく、だいぶな人たちが、プロではなく、お百姓さんにならないと、やっていけない世界がやってきている。

2021年3月10日水曜日

コロナ・ワクチン禍の映画


 ワクチン接種がはじまって、なおさら、ある日本映画が気になっていた。


が、タイトルが思いだせなかった。4、5年前なような気もするが、それもはっきりしない。低予算B級映画、みたいな。


だけどそこに出ていた若い俳優たちのなかには、その後売れ筋になった者もいる。が、その名前もわからないので、検索もできなかった。


が、昨日、女房の手術入院まえにデートでもしなくてはいかん、と、吉祥寺のアップリンクに、映画をみにいった。中国の「春江水暖」。で、待ち合いのスペースに飾ってあった現在上映中のポスターに、あの探していた映画の主演女優をみつけたのだ。ので、やっと検索でき、たどりつけた。


太陽』、とあった。

2016年公開だ。劇団でやってたものを、映画化したとある。コメント欄でも、コロナ状況との類似を指摘していたものがあった。


主人公の若い女性は、ワクチン接種を拒否して、〈原始人〉社会のように取り残されたムラを捨て、門番が取り締まる境界を越え、文明化したトシへと移るべく、決意する。


ワクチンを打つと、人格もなんだか変わってしまって、そして、太陽のでている日中には活動のできない闇の人となる。


たしか、日が沈むとき、いや登るときだったか、世界にサイレンが響きわたるのだった。


2019年のカンヌに出品された『春江水暖』は、中上健次の「地の果て 至上の時」の、現代中国地方都市版、を穏やかに描いたものだ。第一巻、としてエンドしたから、おそらく次あるとしたら、4人兄弟の、ビル解体現場で働いていた独身の末っ子が、博打で捕まった次男の後釜として、共同体崩壊あとの世界の闇を、ヤクザ者として、縦横無尽に躍動する予定なのだろう。


が、コロナである。

路地消滅後の、中上の作品のようにはいかない。陽を浴びたチンピラの世界は無理である。闇は深くなる。不可視になる。しかしそこに巣食うのは、映画『太陽』のごとく、エリート階級なのだ。

2021年3月2日火曜日

憲法論議(1)――高橋源一郎著『たのしい知識』から


なんでこうもみな、天皇主義者になっていくのだろう?

とくには、現上皇の退位へむけての「おことば」、当時の安倍政権との対比的な言行、とうを受けて、いわゆる天皇の戦争責任を追及すべく左翼といわれる言論陣営者のなかからも、だいぶ擁護者というより讃美者的な発言が見受けられた。

高橋源一郎氏も、そんな一人であったような気がしたので、「ぼくらの天皇(憲法)」と文句を副題にもつ本書を読むことで、そういう人たちの転向思考の軌跡が把握できたら、という問題意識で、新書『たのしい知識』(朝日新書)を購入した。

が、源一郎氏は、改憲を提起しているのだった! その経緯がよくわからないので、図書館から、『憲法が変わるかもしれない社会』(2018年発行/文藝春秋)を借りてきた。もちろんこのタイトルは、当時の安倍自民党が、憲法改正へと迫る勢いをみせていたので、その時代への危機感から護憲的に言われたものである。が、この明治学院大で設けられた講演セミナー以後、そこでの討議を受け再勉強しながら、源一郎氏は、よく考えたのだろう。その結論が、現憲法の前文や8条までの天皇に関する条項を削除した、新憲法を作る、という改憲あるいは改正案なのだった。天皇という制度ではなく、その人格をもった個人への尊敬と敬愛さはかわらないが、むしろそれゆえに、変革すべきだ、という思いなのだろう。

私自身も、そんな感じでの改憲派だ。

昭和天皇は、もういない。王の首切り、のような深追い的な責任追及は、それこそ人権侵害だろう。この源一郎氏の著作での引用を受けて、加藤典洋氏の『9条入門』も読んでみたが、私たちが考慮すべきなのは、昭和天皇から平成へ、令和の天皇へと変遷していった、いっている、天皇個々人の考えにも変遷がある、ということだ。加藤氏は、昭和天皇は、理想主義的な平和など信じていないリアリストであり、9条の実現などまったく信じていないニヒリストなんだ、と言う。そういう面が強いのだろう、そういう時代を生きてきたのだから。が、平成、令和の天皇はどうだろうか? 親から子へ、その信条が、そのまま継承されるわけではないだろう。平成天皇の「おことば」に、ニヒルさは感じられない。安倍が伊勢神宮にいくならば自分は田中正造のところへ、小池が関東大震災で亡くなった朝鮮人への慰霊祭を切るなら自分は高麗神社へ、と政治的にもリアルな反応をみせる。そこには、父から受け継いだものを意識的によく考え、新しく進化させたような思想もあるだろう。

そうした進化は、庶民の私たちにだってあるはずである。なおあまり意識化していないとしても。天皇のような地位にいるわけでもないから、大概は、この件に関し、のほほんとしてきているだろう。が、そののほほんのうちにも、よく考えれば進化になるような思想があるだろう。だから、9条を、発生当時のゼロ地点にかえって、揚げ足をとることに精を出すような態度はニヒルというか、皮肉屋である。 庶民(「非専門家」)の意見だと問題提起していながら、庶民への愛がないようだ。ひねくれたインテリの自意識を感じる。源一郎氏は、誠実だ。

が、9条問題、というか、9条にかかわる問題群、といおうか、は、天皇制を超えた人類的な普遍認識にたち、理想以前の現実認識に依拠している、と私は考えており、このブログでも言及してきた。私は、源一郎氏の9条認識とも少し違う。ので、改めて、<憲法論議>というブログ・タイトルでも、考察を進めていこうかな、と考える。