2013年8月16日金曜日

夏休みの宿題にみる戦争(サッカー)の論理

「……幸いにも、アルゼンチン人の女性記者が私の腕を抑えた。「大事なのはフォーメーションだけよ。そのほかのことは書く価値がないわ」と彼女は言った。/ その瞬間だった。イングランドのフットボールの致命的な欠陥が白日の下にさらされた。フットボールを決めるのは選手ではない。いや、少なくとも選手だけではない。フットボールは「形(シェイプ)」、そして「空間(スペース)」、「選手」をどう賢く起用するか、そしてその使い方の中でどう選手が動くかにかかっているのだ。(略)アルゼンチンの女性記者は、効果を狙って少し大げさな表現をしたのだろう。選手の心、魂、やる気、力、パワー、スピード、情熱、そして技――すべてがプレイに影響をおよぼすのは確かだ。しかし、これらの要素とはまた別に存在するのが論理的次元なのである。」(『サッカー戦術の歴史』 ジョナサン・ウィルソン著 野間けい子訳 筑摩書房)

子供の夏休みの宿題をみる。休みまえから小学4年生の一希が、何に混乱しているのかは教科書を調べてわかっていたが、女房との勉強バトルがうかがえなくなるまで、その落ち着いた環境がみえてくるまで、と、時期をまっていた。佐渡へと家族旅行を終えたあとは女房も満足したのか静かなので、その隙にと私が算数の問題をやらせる。一希の頭の混乱は、この4年生の算数上にあらわれてきた、いわば抽象世界と具体世界のかい離に起因し、その整理が頭の中でできないことにあると知れていたからだ。おそらく、教師側でも、そこが難しい説明困難な個所だと気付いているのだろう。だから、夏休みのドリルからは省かれている。ドリルは、計算問題ばかりだ。しかし問題なのは、この具体世界を理解(整理)して心を落ち着かせるには、この世界から離れた抽象的なモデル世界をイメージして論理化してみせる必要が人間にはあるのだ、と気づかせることなのだ。世界は複雑でわからないものなのだ。そこで頭の混乱を収めるために、どんな術をヒトがあみだしているのか? それが、倍数の応用問題として4年算数ででてくる。

問1) カブトムシは20センチでダンゴムシは2センチです。カブトムシはダンゴムシの何倍ですか?

答えは簡単だろう。ならば、逆はどうか。「ダンゴムシはカブトムシの何倍ですか?」と。0.1倍だの10分の1倍だの、現実世界にありうることだろうか?

問2) 3こで1パックになっているヨーグルトのねだんは200円です。ヨーグルト12この代金はいくらですか?

これも、パックをはがして1個の値段をだして、と現実をこえて考えなくてはならない。お店でそんなことをしていたらおこられるだろう。しかも、1個の値段が整数として割り切れなかったら、という場合も教えるという必要がでてくる。この場合の違いとはどういうことなのか、どうして発生するのだ? 
この倍数問題を通過したあとで、図形問題や平行という概念、そして小数点などの導入がでてくるから、教師体制側もそこにつまづきのアポリアがあるとしっているのだろう。が、説明が難しいので、納得させることができないまま、計算問題として処理してすましてしまうだろう。結果、算数(数学)は現実とは関係ないもの、やらなくていいものと子供はその困難を合理化して逃げてしまう、ということになる。もちろん、私もうまくこの難点を説明できない。子どもには、答え(計算)はまちがってもよいから、式(考え方)を理解していこうと、ゆっくり時間をかけた。翌日おなじ教科書の例題問題をやらせてみると、先日はぐずって放棄しようとしていたその問題というか、考え方を披歴できるようになっている。それは、考え方を暗記した、ということなのかもしれないが、私は、それは九九を暗記したのとは違う態度を子どもに植え付けていることなのだと推論している。数学は同じ例題を繰り返しやること、外国語は同じ例題構文を繰り返し前から読んで理解できるようになること。暗記というよりも、その論理にそくした頭の使い方を覚えることが抽象力を鍛えることになるのだとおもう。なんでそんなことが必要なのかは……私はその説明は、政治的な話になるだろうと考える。

<一方、日本をはじめとするサッカー後進国は、”サッカーの本質(カオスとフラクタル)”をストリートサッカー経由で時間をかけて築く前に、先を急ぐあまり、サッカー先進国の型(=練習メニュー)を通じてサッカーを学んでしまったのではないでしょうか。(略)その結果、サッカー後進国は”サッカーの本質”を理解しないまま、サッカーの全体像を理解する前にサッカーの各部分(技術・戦術・体力・精神力・攻撃・守備・パス・トラップ・ドリブル・シュートなど)にばかり目が行ってしまい、サッカーを細分化(要素還元化)して理解することが”習慣化”し、そして細分化(割り算)と統合(足し算)を繰り返す要素還元主義的なトレーニングが”習慣化”されてしまったのではないでしょうか。「”サッカーの本質”を理解しているかいないか」、という最も大切なスタート地点が違うわけですから、同じ練習メニューを行ってもその効果に大きな差が出てきてしまうのも無理はありません。(略)…
 サッカー先進国と後進国の差の原因を、このような”ボタンの掛け違え”と僕が思うようになった理由のひとつは、「問題は、その問題を引き起こした考え方と同じ考え方をしているうちは解けない」というアインシュタインの言葉に出会ったからです。戦術的ピリオダイゼーション理論をより深く理解するために、カオス理論をはじめとする非線形系科学に関する本を読み漁っているときに出会ったのが、このアインシュタインの言葉でした。>(『テクニックはあるが「サッカー」が下手な日本人 日本はどうして世界で勝てないのか?』 村松尚登著 河出書房新社)

しかし、ではなぜアインシュタインは世界を知る基準単位を<光>に求めたのか? それは聖書に、「はじめに光があった」と書かれているからである。その唯一神への信仰が、科学を進化、キリスト教圏の考え方では「進歩(神に近づくこと)」させてきたのである。ゴールとは、神なのだ。その神(目的)が世界を、フィールドを作ったのなら、そこはでたらめに創られているわけがない、真理の法則があるはずだ、それを探せ、となる。冒頭引用した『サッカー戦術の歴史』には、サッカーらしきボールを使う遊びは他の文化圏でも、日本でもあったのに(平安時代の蹴鞠)、なんでヨーロッパでは進化しかのか、という問いがはらまれている。たしかに、日本では蹴鞠のままである。しかしそれは、そこに唯一の真理を見出そうとする信仰がなく、ゆえに科学とその進化も発生しない。またサッカーの戦術歴史を書いた作者は、サッカーが発生したイングランドでその進化が止まって他のキリスト教文化圏で進展していったのは、その「島国根性」にあると見立ててもいる。ならば、後進国で島国日本のわれわれが、そのキリスト教的な論理を受け入れがたくあるのはいたしかたない。サッカー評論家の杉山茂樹氏のような指摘が、日本人一般には受け入れられていないようなのもそのためだ。しかし、杉山氏のコンフェデ3連敗の日本代表への苦言は、たとえばこのブログでも国際ユース大会での北澤元選手の比較や、あるいは「ナオトはテクニックやスピードはあるけど、速くプレーしようとしすぎで空回りしている。焦らずに落ち着け。サッカーはもっと賢くプレーするものだ」とバルセロナで言われた前掲書の村松氏の分析と、根本的には同じものだと私は理解している。

で、理解する必要があるのだろうか? 私は、ある、と返答する。なぜなら、なお世界は西欧が、欧米が、キリスト教文化圏が作っているからである。ビジネスにしろなんにしろ、われわれはその世界で生きていかねばならない。ならば、敵をまず知るべきである。つまり、あの論理を。ロゴスを。ロジスティックを。少なくともこれまで、平和など人類史に存在などしていない。戦後日本の周辺でも、朝鮮やベトナム、インドシナで戦争が頻発しているのだから、日本は平和だったなどと世界理解するのはそれこそ島国根性である。しかしもうそんな根性ではいられないだろう。私が一希に算数を理解させたいのは、戦争に準備する必要としてなのだ。

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