2015年8月23日日曜日

日本サッカーの語り

「清水がサッカーの街として本物であれば、サッカーで人が育たないといけない。かつて堀田先生に育てられた次代の清水を担う方々がこれからどういう選択をして、どこまで力を発揮できるか。サッカーの街の力が試されるときに差し掛かっている。日本サッカーの低迷期に清水が果たした役割は凄く大きかったと思う。だけど、今後さらなる飛躍が望まれるいまの時代に、その役割を清水に求める人はいない。少年の数が減り、大都市圏のクラブチームとは圧倒的にパイが違う中でそれでも僕らはこれぞサッカーの街清水という何かをしめさなきゃいけない。…」(梅田明宏著『礎・清水FCと堀田哲爾が刻んだ日本サッカー50年史』 現代書館)

東京オリンピックに向け、国立競技場をどう再開発するかの議論をめぐり、大澤真幸氏はその案のひとつ、建築家の磯崎新氏のものを論じるにあたり、まずは民俗学者折口信夫氏の敗戦時の思考を引用することからはじめている(「皇居前広場のテオーロス 祝祭都市構想 プラットフォーム2020に寄せて」『atプラス』25号)。要は、日本が戦争に負けたのは、「日本人の掲げる神道が普遍宗教ではない」からで、逆にアメリカの青年たちは中世の「十字軍における彼らの祖先の情熱をもって、この戦争に努力してゐる」からではなかったか、と。

私は、このブログ上で、日本のサッカーが強くなりにくいのは、ヨーロッパ起源のサッカーにとってゴールとはゴッドであり、それを目指す唯一の真実の道を解明する科学として、神に近づく進歩の信仰として実践されてしまうので、真剣さの位相がちがうからだ、と発言してきた。そして日本の少年サッカーの育成上の現場でも、勝つためのサッカーと、子供優先のプレイヤーズ・ファーストという議論が理論体系的にまとめられないまま分裂していて、集団に一つの真剣さを導入しきれていない、その基本方針的な曖昧さが、父権的な父親存在の希薄さという現在の家族関係的な環境と重なって、目先の結果利益をあげることで自己安心を確保しようとする母親的な在り方の優勢に後押しされて、問題把握されることもなく現状肯定されている、と指摘してきた。静岡の清水FCという地域代表選抜チームが解散に追い込まれていく要因の大きな一つも、顔の見える関係=中間団体的な人間関係(父権的な顔役が睨みをきかせられる――)が、より一般的な価値の平準・均質化にともない(地域性、顔役になりうるような個性、差異の排除――)、素人の親でもが指導に口をだせる、愚痴を言えるようになって、「親で潰された団の指導者が何人も」でてきたことによる。またそうした社会の資本化、一般的な価値形態の普及は、逆に経済的な格差をうむ。「遠征費や金銭的な部分での負担」をおえなくなったり、核家族化、共働きが増えたことで、「やるなら地元の少年団まで、できれば清水FCに入ってほしくないという保護者の声が増えて」くる。もちろんその傾向と、逆に子供に特技を特価させて将来の利益を見込んで先行投資し、スクール系列のクラブの方へ入部させる潮流とは同じ構造の表裏である。

日本の社会的地盤が、もともと父権的には弱く、母系制も強く残存並列したものであるかどうかといった議論はここではどこけておこう。とにかくも、原発事故後に顕著になったように、母親的なヒステリックな声のほうが今の世の潮流で、それを抑え込もうと父権的に振る舞おうとする権力側の議論は浮ついている、という現状認識からはじめる。もちろん、戦後父権的な影響が一定期間続いたのは、長く見ても明治以降、とくには戦時中のスパルタ教育の残存であり、清水FCのような中間団体が成立しえたのも、日本の地盤にあっては、特異な一時期のためであって、そこを象徴的にとりだしても長い目でみれば意味がない、という意見は成立するだろう。が、たとえば、大澤氏が折口氏の引用からはじめたその論評で、基調に置くのは中上健次氏の小説群、とくには、その『地の果て 至上の時』の読解指摘である。

<この小説で、龍造は、秋幸の敵どころか、逆に、秋幸に対して友好的であり、秋幸に敬意を示しさえする。最後に父殺しがなされるべきなのに、あろうことか、龍造は自殺してしまうのだ。このとき、秋幸は「違う」と叫ぶのだが、この言葉の解釈は小説読解の鍵となる。さまざまな解釈があるが、浅田彰・柄谷行人が言うことが、正鵠を射ているように思われる。すなわち、自分がそれに抵抗することによって存在理由を得ていた父的な権威(第三者の審級)が自滅してしまったことの当惑や怒りの表現が、「違う」という叫びである、と。
 父的なものと母的なものの葛藤を、精神分析学はオイディプス・コンプレックスと呼んだ。このことからもわかるように、この葛藤は、近代的な「内面」の条件である。と同時に、これは、近代小説の条件でもある。近代小説は、この葛藤を動力源として、「内面」のドラマを紡ぎだすのだ。
『地の果て 至上の時』は、この葛藤がもはや成り立ち得ないことを最後に示したと解釈することができる。つまり、それは、近代的な個人の「内面」と近代小説の超越論的な条件が崩壊する瞬間を、秋幸とその父龍造とのすれ違った対決を通じて描いているのだ。…(略)…もう一度、浅田彰の見事な要約を引こう。「一方において、父を殺し自らがそれを乗り越えて行くという近代の物語が不可能になったということ、他方において、それに先立つ一見神話的な定型的物語が何度も反復されるしかないということ、この二つは、いわば同じ事態の別の表れである」。>

しかし、こうした指摘は、単に文学作品読解として提示されたのではない。ソ連の崩壊に象徴されるような、歴史的な転換的、特異点として導入されたものである。資本主義の拡大・その一般価値の普及とともに、二項対立な思考枠組みを支えていたともいえる米ソの対立構造がなし崩しになってしまった、ソ連と言う父が自己崩壊(自殺)してしまった、ゆえに、父権的な大きな物語が成立しなくなってしまった、と分析されたのである。ならば、日本の現状の出自を押さえることよりも、世界自体がそうなってしまったのだという大枠の現状から考えることが、より重要になるだろう。そこには、日本が勝てないだけではない、そもそも、勝つこと自体がどういうことなのか、その是非根本が問われてきている歴史があるということなのだ。その地点において、私達がどう振る舞うのか、と問う時、日本の文脈がどうのという話は後退するだろう。が、また、私(たち)は、そこから考えなくてはならず、そこにおいてだけ間近で、より正確に考えられるだろう。
そして私は、子供の付き添いでいった旧清水市で見てきた。生き残った少年団チームのコーチの「語り」を。”指導”ではない、私はまさしく、あれを「語り」として見たのである。先日のブログでも、そう用語した。それはなお感じたことを書いただけであったが、知り合いの健太郎氏がさっそくそこに反応してくれた。――<物語は母が子に語るものとされるけれど、父もしくは男の語る物語、中上的なサーガ(叙事詩)の繰り返しというものは、男が(も)語るものではという気がします。男もすなる物語。琵琶法師の語る平家物語。
浅田氏が指摘する中上氏の反復する物語を語るのは、「オリュウノオバ」としての、母性としてのものである。が、「男もすなる物語」とは、中上氏の『奇蹟』に登場する「トモノオジ」のものだ。私が清水市のコーチから感得したのも、そこにある、どこか哀愁や悔恨を秘めたトーンである。これはコーチングじゃない、もっと深い人間の営みとして、彼らはフィールドに、校庭に立っているのではないか、と。
大澤氏が抽出してくるのも、男の語り、トモノオジの語りの在り方であり、そこに見出される未来へ向けての振る舞いの可能性だ。

<この小説を特徴づけているのは、強烈な悔恨、悔恨の時間だ。「あのときああしていればこうはならなかったのに(タイチは死ななかったのに、イクオは自殺しなかったのに)」という悔恨だ。『千年の愉楽』でも、オリュノオバは、早死にしていく若者たちについて哀惜の感情をもっているが、しかし、それはギリシア悲劇の場合と同じで、最終的には、その帰結を必然化した運命――この場合には高貴にして穢れている「中本の血」――を肯定する感覚に裏打ちされていた。しかし、『奇蹟』の悔恨は、違う。「運命」としての受容が完全に拒否されているのだ。だから、過去を見る目は、決して癒されない悔恨の感情を伴うことになる。
 悔恨するということは、現在のわれわれが、過去に、現実の経路とは別の可能性を、<他なる可能性>を見出している、ということである(「ああしていれば……」)。その<他なる可能性>は、過去においては見えていなかった。少なくとも、現実味のある選択肢としては自覚されていなかった。しかし、現在のわれわれは、それが十分にありえた可能性であることを知っている。ここで、「現在のわれわれ」は、過去から見ると、<未来の他者>であることに留意すべきだ。>

大澤氏は、こうした視点から、磯崎氏の「祝祭都市構想」に期待を寄せる。というか、「現在のわれわれが過去を悔恨するときと同じように、その<未来の他者>(の視点をもったテオーロス)は、彼らにとっての過去にあたる現在のわれわれに、<他なる可能性>があることを発見させる>ことを目的とすべき構想に、つまりはギリシャ時代のオリンピック本来の目的を反復すべくよう努めるべきと提言しているわけだ。私は、磯崎氏の国立競技場再開発からはじまった設計案が、そのような実践と重なり結びつくのかは知らない。しかし私は、清水市での草サッカー大会という一地域の祝祭
を観戦し、そこに残存した悔恨の語りに、なにか未来への可能性を感得してきたのである。

ちなみに、これも同じ知人の指摘で初めて知ったことなのだが、日本サッカー界の「キング」こと三浦和良の家族関係をなぞると、まるでカズ氏が中上氏の主人公・アキユキにみえてくる。私には、磯崎氏の大きな設計物語よりも、カズ=アキユキの匿名的な振舞い=語りのほうが、次なるオリンピックやワールドカップへむけて、脱構築された現状をさらに脱構築的に建設していく可能性があるように感得する。

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