「超自我はたんに「父」の内面化としてあるのではない。たとえば、親は子供に攻撃性を抑制するようにきびしくしつけることができるだろう。が、それはしばしば暴力的な人間を育てることになる。逆に、フロイトが指摘したように、非常に寛大な親に育てられた子供が強い倫理観(超自我)をもつことがある。この場合、親は子供に強制しなかったとしても、身を以って子供に示したのである。したがって、フロイトは、超自我は親そのものではなく、親の超自我を規範として形成されると考えた。親が攻撃性を自制するような超自我をもつとき、それは子供に伝わる。また、超自我が個人だけでなく、集団にもありうるのは、そのためである。それが文化=文明だといってよい。」(柄谷行人著「Dの研究[第3回] 宗教と社会主義(承前)」『atプラス』25号)
引き続き「at」を読んでいて、上のような柄谷氏の言葉にであった。親(大人)たちの言う内容ではなく、その身振りや仕草が、つまりは「身を以って」示してしまうことが、子供に継承されていく、と。前々回のブログ「価値について」で、似たようなことを私は言ったが、それは、近代的な現状から、ネガティブな傾きでの言及だった。また、思想の型として、言論内容よりも身振りにこそ歴史を動かしている文化的継承があるとは、考古学でも、民俗学でもとられてきた一つの発想であるとは、教養的なことでもあるだろう。柄谷氏は、その親の身振り=文化を、戦争に反対する、つまりは暴力に訴える行いを「嫌悪」および「恥」と感じるフロイトの文化理解と結合させるのだが、その接合の仕方自体が新しいのかもしれない。私も、「戦争」を、「罪深さを訴えたり、法的・政治的に禁じることによってではない」発想へのとっかかりとして、フロイトのその引用箇所に言及したWEB絵本を息子の一希と一緒に書いたけれど、ここでは、もっと具体的に、ならば親として私は息子にどう振る舞えばいいのか、と思い悩んだ。
厳しくしつけると子供は暴力的になる場合があるのなら、暴力的な親を見て育つと子供はどうなるのだろう? 私は、なお自制的な家庭環境を作れているとは、とても言えないだろう。減っているとはいえ、夫婦喧嘩は絶えない。新宿の代表チームの母親は、グランドわきで叫び散らす女房を大人しくさせようとなだめたりで、ずっと自制的なようにみえる。彼女自身たちも大学でなのか、頭もかしこそう。子供も大人しい。恥ずかしがりやだ。一希といえば、恥も外聞もないように、お笑い芸にいそがしい。他の親たちは、一希が感情表現豊かなのも、まさに親子そろって川の字で寝ているような下層の家庭環境あってこそ、とおもっているかもしれない。一希は、自制的な自分をもてるようになるだろうか? しかし、私よりかもっと暴力的な職人階級の息子たちは、気性の激しさはそのままでも、年相応に大人しくなっていくようにおもわれる。むろんそうなっていくのは、階層の一般的状況ではなくて、各家庭での親の愛情の真実性如何に、その成長の度合いや質が関わっているだろう。最近のドメスティック・バイオレンスとは、共同体的な関係が崩れてきたところによる、社会から孤立した家族関係が誘発しているだろうから、同じ暴力でも似て非なる在り方かもしれない。逆に、一見自制的な良家の子弟は、見かけは節度あっても、それが他者への関与を忌避する偽善の装いになったりもする傾向があるかもしれない。そう想像しえてみて想起するのは、ヨーロッパのサッカー・クラブチームが、ペットの犬でも、かわいいからと生まれてすぐに売りにだすと大人になってからもキャンキャン吠えて躾けられなくなるので、3か月は母犬と一緒にさせておくように、U-12歳のジュニア世代は、地元の子供たちだけを育成し、才能があるからといって外からの子供を受け入れるのは成分的に規制している、資本の技術とは一線を画そうとする科学忠実的な文化であろうとすることである。となると、大切なのは、まさに言語習得以前の、ヒトが生まれてから3年ぐらいまでの子育てだ、その期間愛情をしっかりそそいでやれば、のちの人生の逆境でも乗り切れる人間に勝手に育っていくものなのだ、という通論、科学的というよりは、大衆の自然性を経験的に肯定する吉本隆明氏に近くなる。
が、たとえそうだとしても、それはなお形だけの話であって、その中身が重要なのだ、というのが柄谷氏の言わんとしていることであろう。なぜなら、そうやって育った子供は、互酬的な交換Aの心性を反復するだけであって(それ自体、個人の心身としては健全なものであろう――)、それを”高次元”で、交換Dとして反復するわけではない、とされるからである。われわれの文化=文明自体が、そこまでに一般化されて、つまりは意識的に進歩しているわけではないのだから、自然的には、戦争を封じるような多勢的な子供たちが育ってくるわけではないのである。カント的にいえば、なおわれわれは幼児であって、成熟した大人からはほど遠いのが現状だということだ。
しかし、「高次元」とはなんであろう? 私はその物言いについひっかかるのだが、フロイトの反戦論と結びつけられたそれは、戦争を避けていかせるヒトの関係性として理解できるから、なるほどそれは高尚な交換形態、ということになるのかもしれない。物言いはかわれども、その趣旨は、私が「身を以って」示す価値こそが子供に伝わってしまうと指摘した前々回のブログ「価値について」の以下の言葉と同じなのかもしれない。――<そこでは、子供のころは文字通り長屋住まいで過ごした職人たちがいた。彼らは、隣の家の醤油は我が家のもの、みたいな共同所有を前提にしてきた人たちであり、ゆえに、あとから世の当然となった私的所有が前提の社会から、自分たちが取り残されていることに半ば自覚的である。私は、自他の区別がつかない赤ん坊のようなところのあるそんな意識世界に批判的でもあるけれど、偽物な個人主義としか思えない今の世の風潮よりかは、マシな方向へ向けての前提としてなさねばならない価値の一面だろうと思っている。>
つまり、互酬的な交換形態Aは、前提としなくてならないが、それはもっとマシな方へ向けて、ということだ。それが、「高尚」な交換形態Dと同等なのか、正確には私にはわからないが、物言い違えど発想の在り方は同等なようだ。
で、マシな方向へむけて、私自身は、具体的にどうしようというのか? ひとえに、夫婦喧嘩をしないこと(とくに子供のまえでは)。その影響で、力をつけて反抗期にはいった子供が女房をぶっ殺したり、逆に女房が子供を殺したり、といった事態を避けなくてはならない。しかし、こうした具体的な発想のなかに、後退戦がそのままで文化的な頽落というワナにはまってしまう可能性も大だ、ということは自覚しておくべきなのだろう。福島亮大氏の『復興文化論 日本的創造の系譜』(青土社)によれば、結局日本人の文学は、ホモソーシャルな「男どうしの絆」としての「われわれ」をみせただけで、私の特異性にこだわることに傾き、ゆえに「連帯よりも他者化」に精を出すことになると指摘している。ポストモダン風にいえば、文化的な地がスキゾ的、ということであろう。――「昨今では「声に出して読みたい日本語」式のマッチョな声が国民的同質性をでっちあげようとする。こうしたマッチョな声が出てくるのは、それだけ日本近代文学の社会的な「声」――<わたし>の固有性と<われわれ>の連帯性を結び直す声――が幽(かそけ)きものであったことを暗示している。」家族的な互酬関係でさえ、バラバラな方向へのバイアスが強い、集団文化的な他者化、孤立化に負けている、ということだ。私や女房は親である以前に子供だが、高齢な両親との関係というよりは生活を、具体的にどうするのか、ということも問い詰められている。そこでも自然にほったらかしていれば、スキゾ的な無関心な関係に逃走する、しやすい、ということになるだろう。しかし、だからこそ、この一番身近な集団性、連帯性から、つまりは家族からやり直してみよう、というのが、私のNAMプロジェクトだったはずだ。一から「身を以って」やり直してみること、それは後退戦だが、そこまで頽落する必要があったのだ。
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