2015年12月6日日曜日

世界での戦い方

「このイメージなるものは、恐らく、シュルレアリスムから継承した遺産なものと見なしておりますが、それにはただちに若干の修正を施さねばならず、私はその修正に必要不可欠なものと見なしておりました。つまり、私は唯一の正しい想像作用から生まれた、正しいイメージこそが問題なのだということをはっきりと主張したのでした。…(略)…私はある時点まで、この観念を強固にするためにのみひたすら努力を重ねてまいりました。そしてその時点とはすなわち、メンデレーエフの驚くべき才能の賜物である元素の周期表が、それまで私に欠けていたひとつの鍵をもたらしてくれた時のことであり、ついに、この周期表が、詩にはその本来の性質として、可能性や客観性のみならず、また必然性もあるのだという主張の根拠を私に与えてくれたのでした。私の確信――単純にして逆説的な――は、次のような事実に基づいたものでした。すなわち、世界を公正している様々な要素は、ひとつひとつ数えあげることが可能であり、それらの構造は緊密で、不連続ではあるが回帰性をもち、構造の型(パターン)は少ない。従って、現に存在しているか、あるいは可能と考えられるそれらの組み合わせは、たとえそれが既知のものであろうと、想像によるものであろうと、あるいは演繹に基づくものであろうと、必然的に繰り返し現われるはずである。つまり結果的にみれば、様々な事物や観念やイメージの世界がもつ、原則として際限のない多様性にもかかわらず、もろもろの反映や幻影、反響や反射、贅言などがつくる必然の網の目が歴史や風土、生活様式や文化とともに変化しながらも、詩の素材、生地そのものを構成するに違いない、ということなのでした。」(『斜線』ロジェ・カイヨワ著 中原好文訳 講談社学術文庫)

イスラム国への対処をめぐるプーチン・ロシアとトルコとの駆け引き。事件化された時点では、ただ領空に侵入していただけのロシア機をトルコ側が撃ち落としたのだから、最初にしかけたのはトルコの方、な感じになっているが、そのロシア戦闘機の攻撃対象たるシリア領土内のイスラム国側には、トルコが同胞として支援しているトルクメン人が共闘していたわけだから、すでにしかけていたのはトルコ側だったともいえる。パラシュートで脱出降下している最中のロシア兵を地上から銃撃するという国際規約を無視し、救助にむかったヘリを撃墜したのも、トルクメン人だったという。そしてそのヘリ爆撃に使われた重火器は、イスラム国を暗黙に支援していたアメリカのアメリカ製のものだったという。(田中宇の国際ニュース解説
プーチンは、日本の柔道の「引き分け」という考え方のユニークさを喚起するような発言をどこかでおこなっていたが、こうした小競り合いをみていると、それはあくまでオリンピック競技での柔道、お互いがしかけあわないと警告を受けるという規則が付加された――で、むしろ戦わないで「引き分け」ることを理想としたような、日本本来の柔道の精神=原理とは、別物であるように感じる。そしてむろん別物なのだろうが、それはヨーロッパの原理からもずれた位置にあるだろうロシアが、そのヨーロッパの精神を嫌でも自覚的に取り入れながら、なんとか「引き分け」にもっていこうと必死になって防戦している姿にもみえる。

NHK特集の「奇蹟のレッスン 最強コーチが教える、飛躍の言葉」をテレビでみていて、こんな疑問を感じた。「なんで、近代において<子供の発見>をしなくてはならなかったヨーロッパにおいて、こんな子供への洞察と愛情に満ちた指導法が実践しえるのだろうか?>……その第一回目は、フットサルの日本代表監督をも勤めるスペイン人、ミゲル・ロドリゲス氏が、東京のとある少年サッカーチームを指導しにいくといったもの。第二回目は、テニス界でトップ選手をたくさん輩出しているスペインのテニス協会から、その育成の総責任者が、横浜のテニス・スクールに教えにくるというもの。サッカーでは、書店にいけばはっきりするが、もうだいぶヨーロッパからの育成ノウハウが過剰なくらい入り込み、でまわっている。ヨーロッパ・クラブの下部組織へ単身乗り込んでその指導法を体験し、日本に伝道していこうとする若い人たちも多くなってきている。テニスでは、まだそこまでいっていないのだろう。子供たちを教えるそのやり方に、日本のスクール・コーチは驚いていた。まずは、子供たちを楽しくさせながら技術を身に付けさせていくその練習メニュー。「私の練習は、反復動作ばかりで、子供たちはつまらなかったでしょうね。」と、そのつまらなさに耐えていくのを基本とするような、いわゆる日本的作法の延長での実践だったのだろう。テニスのことを知らない私がみても、こんな練習がありうるのか、ほんとに大人がおもいついたのか、子供たちを勝手にテニスボールとラケットで遊ばせていて、そこにあったアイデアを大人が盗んで方法化したのではないか、というような感想をもった。サッカーでは、すでにそうした楽しくさせながら覚えさせる方法は、マニュアル化されている。そして、スペイン育成責任者の、子供と向かい合う真摯な毅然とした態度。投げやりになるような子供には、日本だと、「やる気のない奴はでていけ!」という方向にいきがちだが、なぜその子がそんな態度をとるのか、それをまず探るように、子供の目をみつめ問いかけて行く、あわてない、落ち着いた探究心と対話。そのやりとりから、子供に練習や試合へ集中していかせる言葉を導き出し後押ししていくやさしさ。私にも、とても真似できそうもない指導実践だった。だからなおさら、なんでヨーロッパの歴史から、このような実践が生まれているのか、不思議だったのである。日本の場合は、わかりやすい。子供優先といって園庭状態になるか、逆に理不尽な暴力主義になるか、その両極端をぶれ動く。ヨーロッパ宣教師が驚いたぐらいの子供優先の江戸時代と、明治以降の即席的なエリート養成教育とその延長での戦後の軍人官僚系譜のスパルタ教育の普及、その二系列の原理=精神の混在。それが一人の指導者の中でも混然となっている。
サッカーの育成上の理論レベルでは、以上の混在が、つぎのような論理過程を踏んでいるだろう。――<子供に甘い>(江戸倫理)⇒<子供優先>⇒<プレイヤーズ・ファースト>(欧米原理)。つまり、日本の精神原理が、翻訳的な介在を通ることによって不分明、混然的となり、ゆえにそれが、先進的なヨーロッパの原理なのだと勘違いされて普及促進の指針となっている。いわば、実は間違った、誤認した自己満足、自己確認でしかないのだが、戦時・戦後とスパルタ的な教育がひどかったので、元の地がヨーロッパの衣装に変えて回帰しているような状態。が、おそらく、ヨーロッパの育成原理は、日本の現状とは似て非なるものであろう。また、それを目指すというとき、本当は、何を意味してしまうのか、捉えておく必要もある。

<レディー・ファースト>、と置き換えて考えてみればいい。これは本当に、女性尊重なのか? ヨーロッパの生活慣習を身近な経験として知っているわけでもない私には、なんとも判断できない。たしかに、女性の人権を認めようという民主主義的な動きは向こうからでてきた。日本はまだそのレベルにも、認識にも達していない、という意見が正当性をもつ一面もあるだろう。ヨーロッパのサッカー協約では、12歳以下の子供の地域外・他国からのクラブ移籍が認められていないそうだ。しかし、これは本当に、子供のことを思ってなのか? ペットの犬でも、生まれて3か月は母犬と一緒にすごさせないと、躾けの聞くペットに育たない、ということから、それ以前に売りにだしてはいけない、とされているようだ。そしてこれも、犬やペット、動物のことをおもってなのか?

おそらくプーチンは、こうした善悪判断もつきかねるヨーロッパの原理を受け入れながら、それを逆手にとって防戦することで、その原理へ違和を表明している。レディー・ファーストなり、プレイヤーズ・ファーストなり、その民主主義的な原理が手ごわいのは、それがより根源的な人間の事実性、科学的な法則性に依拠しているからだろう。明白な原理的対立を謳うイスラム国でも、その法則性を無視して世界に君臨することは難しいだろう。

さてでは、われわれは? 日本人は? たしかワールドカップ・ブラジル大会での結果を受けてこのブログでも発言したとおもうが、ゴール(ゴッド)を、勝ちを目指さないのが日本の文化的なメンタリティーである。サムライ・ブルーというなら、その侍の理想は、刀を抜かないこと、相手がしかけてきたときだけ、後出しになりながらも相手より素早く刀を抜き去って一撃でしとめる、その居合い抜きの技術が美の極地でなかったか? お互いが強者というか賢者なら、お互いが隙をみせず、睨み合いのまま時がすぎ、そのまま引き分け、というのが究極の闘い、ということではなかったか? 私は、サッカー日本代表選手は、その侍の原理化した本来理想なメンタリティーの在り方を学ぶために、柔道を体験させたほうがいのではないかとおもう。もちろん、オリンピック競技としての柔道ではなく、日本の柔道である。そんな戦いは、つまらないかもしれない。居合い抜きより、カンフーだろう、世界は。しかし、そのつまらなさに居直れない限り、日本がこの善悪判断つきかねる世界で、生き延びていくのは、サッカーの試合、そのランク付け世界だけでなく、困難になってくるように思われる。

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