2021年11月9日火曜日

映画『MINAMATA』を観る

 


久しぶりの祝日がきて、女房と映画『MINAMATA』をみにいく。

当初は、この映画はカメラマンのロマンス伝記みたいな気がして、今月末公開とかいう原一男の『水俣曼荼羅』はみにいくだろうからと、観賞予定はなかったのだが、天気もいいし、と。ただ、女房を誘うのはためらわれた。彼女は、水俣病をおこした会社チッソの重役の娘だったからだ。なんとなく行くかときくと、「行きたい」と強く答えてくる。そこで、吉祥寺の映画館へとでかけた。

 

最終日を一日前に控えた祭日だったからか、結構お客さんがはいっていた。やはり、年増な人たちがおおい、という印象だ。映画自体は、やはりというか、洗練されたエクゾチズム、芸者や金魚といった露骨すぎるオリエンタリズムを経験したあとでの、ある趣味階層へのマーケティング結果、という気がしてくる。いま上映中の『ONODA』にも、そうした外国人の異国趣味な視点を、薄められた普遍的問題で模糊してみせる、みたいな傾向になっているのではないか、だからそれらがなんでこの時期にそろったのかな、というほうに、私は考えさせられてしまう。映画のドラマが終わって、たしかチェルノブイリ原発災害からはじまって、世界で引き起こされた公害の告知映像が続いていったのだが、フクシマの災害まで挿入されていたのか、記憶は不確かだ。なかったような。ただその世界的企業による公害映像をみせられながら、私はどうしても、いま世界中の人が接種している新型ワクチンのことを連想しないわけにはいかなかった。いつから、人々は、とくに東電の原発災害の記憶がなおなまなましいはずの日本の民衆が、こんなにも素直に、産業科学の安全妥当性の広報を信頼してしまうようになったのだろう? 私が個人文脈で勉学した意見では、原子力から遺伝子そして量子コンピューターへと連なる現在の先端的技術は、アインシュタインのいう観測問題として露呈されてきた、生命体にはコントロール不能の境域が関わっている。DNAのらせん構造といっても、それは可視光線的な枠での人為的区切りにすぎない。陽子一粒の水素結合で構造が支えられているとは、他の不可視な系との(ワープ的な)繋がりが全的にあるのだろう。放射性物質の内部被爆のように、その水準で改変操作された人工物質が、身体内の全的な系の調和を乱し、体に変調を引き起こさないように願うばかりだ。

 

そしておそらく、そうした産業科学にたずさわっている多くの技術者は、意図的な悪意で陰謀的に仕事をしているわけではないだろう。善意で邁進したがゆえに、その結果に直面したとき、精神分析でいう「否認」の態度に陥るのだろう。

 

映画観賞後の喫茶店で、女房と会話してみる。…(東北帝大の理学系出身の)父は、(会社を創業した)野口に憧れてチッソを選んだ。野口は、水力発電などで名をはせた技術者だった。ほとんどのエリートは、東京から出たくないので、熊本になど行かないのだ。とくに、お嬢様を嫁にむかえた夫は、まずいかない。私の母もお嬢様だったが、子どもにお母さまなどと呼ばせたりする世間は嫌だったし、子どものころ満州から引き上げてきた経験をもつ父も(飢えと紙一重だったと、私は父の弟、まるで兄にたかりにゆく漱石作品の自由人として生きてきたような人からきいている)、東京が好きでなかった。中学のころから熊本市の寮にいかされていたので、事件のことは知らなかった。悪いなどとおもったことはない。東京本社は、熊本の工場などつぶれてもいいとおもっていた(というような話を、父から耳にしたのだろうか?)。たいがいは熊本に来ても、単身赴任の出向で、帰っていく。高校の途中で、会社をやめ、千葉に引っ越してきたのだ。(おそらく、一仕事終えたので、系列の会社へ移動したのだろうとおもう。生前に、少し事件をめぐって話したことがあるが、自分たちが仕出かしてしまったことに、反省というより、心底おそれおののいているような印象だった。「銀行にいって、会社つぶれるぞ、いいのか、と脅してたんだ」とも言っていた。私と女房との縁が、社会運動組織にあったと知っていたからか、「環境問題に興味があるのなら、知り合いがやっているから、紹介するぞ」とも言っていた。「あれは、ほんとうに悪いことなんだ」とつけ加えながら。)

 

数か月まえから、我が家は、「生活クラブでんき」にはいっている。女房は、山梨県まで、その太陽光発電所を見学にもいったのだそうだ。「山梨で作った電気がこの中野区まで来るっていうの?」と私がきくと、「そうよ。説明きかされたけど、ぜんぜんわからなかった」と、返事がくる。ありえない、と私は考える。原理的にいって、つまり量子論的にいって、電子の同一性というのはない(不明な)のだから、わかりえるのは、ここまでの電線経路での他の様々な発電所からくる電流の量合算から、この借家で使う分量での割合が仮説的に推測できるだけだろう。生活クラブのホームページにはそこまでの説明はないが、明細書には、生活クラブでんきとか呼ばれるものと他電気を比較的に並べた%の割合がのっているらしい。が、原発や火力発電が減少しないなら、電気の全体量が増えてそれらの割合が減るだけで、やはり、国策的なものが変更にならないかぎり、クリーンエネルギーとかいう政治パフォーマンス広報にしかならないのではないか?

 

つまり、太陽光発電といっても、東電が仕切る送電線への参加の許認可をめぐるとかいった、国策を前提とした政治的配分の問題が想定される。とおもっていたら、元公明党議員による、クリーン発電を企業している会社からの収賄だか補助金詐欺だかの事件がでてきた。衆院選の結果あとのこの事件の提示に、自民党と公明党、さらには維新との政治駆け引きがあるのではないかとも勘繰らせるが、いいことをめぐっても、色々なグレーゾーンがあるのだろう。

 

こういうことを付記したのは、女房の実家であった千葉の空き家へと引きこもろうと考えているさい、電気の自給もできないかと太陽光発電のことなど調べはじめたからなのだが、昨年の台風でその近辺、一週間の停電になったのだが、民家の屋根上のパネルも吹き飛んでいたらしい。台風が巨大化していくのも、善意な産業科学のおかげなのだろうか?

※たくさんの著名人が称えているなかで、私に近い感想のブログあったので、リンク。

https://yuuhikairou.blog.ss-blog.jp/2021-09-25

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