2023年12月28日木曜日

性差と地霊


「日本は有史以来、いまだに国家全体の滅亡を経験したことがない。その代わりに、首都の興亡には文学の言葉を惜しげもなく投資し、ハイテック(=文明的)な首都からデッドテック(=廃墟的)な古都への推移を重大な文学的事件として位置づけてきた。近江荒都の歌を詠んだ壬申の乱の戦後作家・人麻呂は、まさにこうした「古都の文学」の先駆となったのである。」「むろん、序章で述べた通り、ある時期が復興期かどうかは後から振り返って分かることにすぎない。だとしても、これからもっとひどいことが十分に起こり得るからこそ、<戦後>や遷都後の万葉歌人は、精魂込めた文明の所産を「歌」という形式で保存したのであり(略)、私はそこに凛とした文化意志を見出す。もとより、保存とは決して消極的な行為ではなく、むしろそれ自体がれっきとした創造に他ならない。現に、『万葉集』が保存した精霊と古都は、律令国家の正統的な文書では決して描けない「歴史」を創出したのだから。現実的打撃の後=跡を文学として保存し、そこにさまざまな感情の形態をストックしておくことの意味を、古代の日本人は深く認識していた。」(福嶋亮大著『復興文化論』 青土社 傍点略)

 

千葉の中央区にある都町といっても、過疎化は激しく、ほぼお年寄りしかいなくなりはじめている。空き家や庭の荒廃が目立ちはじめ,町会の会議でも、議題にあがりはじめている。

体の筋肉痛をほぐすためにも、朝のラジオ体操に参加して、お年寄りたちと挨拶をかわすことから、一日がはじまる。そこでのささいな言葉のやりとりでも、男性と女性の違いに包まれる。妻が亡くなってみると、その存在(差異)感が、逆に存在しはじめる。

 

私は独りでいることになれているが、もはや、独りでいることができなくなってしまったのだ。妻がいないということにではなく、そこにいてしまう存在があるゆえに、現に独りでいることが、納得できず、頭を混乱させる。たえずその存在する欠落感に、さいなまされる。家の中の空間が、もはや物理的なそれではなく、精神的に一体となったものに変貌してしまったのだ。

 

私は、地霊、ということを考えた。万葉からはじまった歌とは、この地霊に対する呼応だった。俗には、戦場が観光地となっていったことにも、つながっているのであろう。

 

女房が子供への教育に熱心なあまり暴力的な暴走におちいるとき、女は自分の腹を割って子供を産むので、おそらくわが子が分身と感じられるからなのだろうと、想像されてきた。自分の右手と左手が別々の動きをはじめて統制できなくなるのは、我慢しがたいことなのであろうと。

 

イスラエルでは、ハマスに子供や夫を人質にとられた母親(妻)を中心とした民衆が、軍事作戦をやめて人質解放の交渉をしろ、「人質を返せ」とデモをおこしている。ならば、ウクライナイやロシアの母親たちが、戦場から兵士を返せ、と連帯声明できる存在条件があるはずである。とくに、母なる大地と象徴化されるロシアでは、論理という暴走する男性性を制御できる腹を痛めた女たちの戦いの余地が、なおだいぶん残っていると感じられる。アル中で死んでいくよりも、意義ある死に方の方がマシではないかとプーチンに説得されて、もう一人いるわが子も戦場に送るといった子を失った母の葛藤を、もう一度そんな論理という男のほうにではなく、腹=大地の方へと返してやらなくてはならない。

 

佐藤優は、ウクライナ戦は即時停戦、ガザ侵攻はイスラエルが民族浄化思想を実践しているハマスを除いたあとでの停戦、それがリアルポリティクスの感覚であり論理だというような発言をしている。が、プーチンを除いてもまた新たなプーチン以上の者が現れるかもしれず、軍事的な制圧過程あとでのパレスチナにだって、ハマス以上の組織が発生してしまうかもしれない。高次元であれ、低次元であれ、もうそうした論理にではなく、趣味的な生理として反戦思想があるのだと認識提出したのが、アインシュタインへのフロイトの手紙だった。

 

最近作を出版した歌人の俵万智が、朝日新聞のインタビューで、若いころの男女関係にはいろいろ思惑的な雑念があったが、年を取ってからの男女関係は純粋になる、というような返答をしていた。ラジオ体操などで声をかけられるおばあさんを、性的に見るということはありえないのに、女を感じるのは、性差というものが、社会的な見てくれに媒介される以上に、存在それ自体にあるからであろう。遺伝子やホルモンや環境(文化)による性のグラデーション(レインボー)も、プラスとマイナスをもった磁石にも強弱があるような、濃艶なのであって、両極をもった磁力であり、磁場の一種なのであろう。地霊は、そこから来る。

量子力学的な比喩でいえば、肉体をもった妻の物質がこの空間内の波としての物質ともつれあっていて、片割れが不在になったために、もつれていた量子が復元(復興)の動きとしてスピンに強度をもたせているのかもしれない。

 

歌は、そんな地から、場所から湧き出てくる言葉である。

 

が、言葉には、もうひと種類ある。天から降ってくる言葉。

 

妻が亡くなったのは、古井由吉の自撰作品集をはじめから読みはじめたときだった。古井は、男女関係のことを描いたが、それは性差ではなく、存在感であっただろう。だから、地霊に感応した古典をとりこんだが、その手続きは、文学の場を借りた実験であって、他の言葉、いわば天からの言葉を招来させていくための試みであったろう。空襲で爆撃された子供たちの生き残りが、ここ戦後の日本を作った。子供たちのトラウマと精神分析には言われるものが、実はなんであるのか、現今の戦争で泣き叫ぶ子供たちの声が、どこから来るのか? それは、大地からではないのである。

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