2024年9月30日月曜日

4/8

 


「郁子は水潟の奇病が夫を殺し、悪魔を消してくれたというが、言いがかりも甚だしい。瀬良君、この殺人は、やっぱり郁子の不可解な肉の中にひそんだものが動機の幾分かを背負っていると思う。」(水上勉著『海の牙』)


4/8、お釈迦様の誕生日を選んで、私は自殺した、できなかったけど。熊本の中高一貫の私立高校から、父の転勤で千葉の高校へと転入した2年生の就学式だったその日は、だから私の記憶に残る日付となった。理由はそう、わからないんでしょうね、裏口入学じゃないかと同級生たちは噂しているんじゃないかとわたしは思ってしまっていたけど、そんなことじゃない、首席で入った中学の時も、成績が落ちる一方だったから、母親と一緒に担任に呼ばれて、なんでこんなにも成績は落ちたのか、と問い詰められ、勉強しないから、と答えたら、だからなんで勉強しないんだよ、と担任からいっそう問い詰められて、わたしは黙ってしまったけど、それだって、わからない。わからないから、千葉の高校にいってすぐに図書館から、岩波新書の『感情の世界』や星新一の『ボッコちゃん』、そしてスタインベックの『怒りの葡萄』を借りて読んだ。そしてもう一度、秋になって、自殺するために夜をさまよって、家に帰らなかった。母が学校に連絡してたから、その時も学校に二人で呼ばれた。その時は、ひとつ年下の妹に、わたし自殺するの、と相談してみたけれど、どうぞ、と言われて、その一週間後くらいに、ほんとうにそうしようとおもったけど、できなかった。でもわたしのそんなことよりも、家出中に、わたしが煙草を吸っていることが母にみつかって、そのことで、母様を泣かせてしまったことが、わたしはつらい。中学は浄土宗のまるで修道院生活のような規則でがんじがらめのとこだったけど、県立の千葉の高校はのんきだったから、そんな落差にとまどったこともあったかもしれないけど、わからない。担任は、わたしがやっていたハンドボール部の体育の顧問で、美術担当の教師から「軍国主義者」と揶揄されていた、わたしは右派は好きではないけれど、のどかな美術部よりも理があるのではないかとおもえて、それは家出で親と学校に呼ばれたあと、美術や音楽部の生徒はわたしを不良の女と冷ややかな目で見るようになったことからもわかるんじゃないかしら? わたしは千葉の学校では自分を抑えていた、熊本では浮いていたかもしれなから。そしたら担任は、わたしのことを協調的、調和的、と内申書に記入していた、と受けもしなかった大学の受験のためにもらった封書を破って気になってみてみたら、そう書いてあってびっくり。

わたしは何に悩んでいたのだろう? わたしは自分を甘やかさないために、日記を高二の正月から書き始めたけれど、憧れの男性の名前を白紙のノート一面に書き連ねることからはじめていた。野球部のピッチャーで、正樹くん、背が高くて格好いい、なんかの授業で隣どうしの席になったとき、わたしはハイとだけ答えてとメモをわたした、わたしのこと好き? 彼は黙っている、だから、あなたは阿久津さんが好き? と書いた。なんで知ってる? 彼はささやいてきた。わかってるわ、わたしは、自分の性格を変えたい、異性への憧れや興味も、そういうことなのかしら? 中学のとき、友達はわたしが彼氏のこと好きならゆずってあげてもいいよ、と言われた。わたしも、優しくなりたかった。

大学がみな落ちたから、予備校に通いながら、あまり勉強もしないで、高校の同級生もほぼみな浪人生活していたから、けっこう一緒に時間をつぶした。正樹くんの友人たちとも、ゲームセンターにいったりして、そこのジュークボックスで正樹くんがかけたイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」は、わたしがのちに続けることになったダンスのBGMとして何度も繰り返されて使われることになった。阿久津さんともよく手紙のやりとりしてたから、わたしが二人の仲をとりもってもいいのよとよく言ってたけど、だいぶ何年もたったあとで、二人がすでに付き合っている仲だったのだと阿久津さんから教えられた。奇妙な三角関係というか、わたしは何も気づかない、知らない、奥手の女だった。中高一貫の高校はわたしが入学する二年前までは男子校だったから、わたしたちがはじめての女子だから、わたしたちも先輩たちもどうしていいのかわかってないってことだったのかしら? 文芸部の先輩などは、転向してからもよく手紙をくれたけれど。

そう、わたしはわからなかったの。わたしは、同級生と一緒に浪人時間をつぶしているとき、東京の方でアパート暮らしだった同級生の部屋をよくたずねてた。彼は大人しい性格で、いつも何か憂鬱そうな表情をしていたから、励ますつもりで声をかけにいっていたのだ。ある日、ひとりでいったとき、彼はいきなり私に抱きついてきた。何が起きたの? な、なんで、どうして? その日、わたしはその一行しか書けなかった。わたしは沈む彼をひとり残して逃げてきた、だけど、それじゃいけなかったのかしら? わたしは、抱かれたほうがよかったのかしら? 二十歳になって、やはりわたしは大学をみな落ちたけど、もしわたしが大学にいったら、自堕落になるような気がして、はやく社会人になって自分に厳しくしたかった、遊びのセックスに溺れていくような怖さもあった。だからアルバイトで働きながら、中央大学の法学部の通信制に通うことにしたんだ、親から離れて、八王子の寮にも入れるし。そして、誰でもよかったんだ、とあとから気づいた。わたしは100%相手のことが好きになって、わたしの自我をなくして、わたしを変えたかった、最初のデートで、彼はピアスを買ってくれた。高校生の頃みたロダンの彫刻「接吻」を、また幾人かの経験のあと見る機会があった。もう昔とは違う視点でみているわたしに気づく。男が女を下に抱いて上から見下ろすようにキスをしている、もうなんの感慨も、憧れもなくなっている。Set up 4。通信制のわたしが編集したサークル新聞には、のせなかったわたしの詩がある。「手 ずるくきたなく醜くなったのかもしれない じっと手をみるなどと笑いながら」。ああ、神様、わたしを殺さないでください、わたしは、恋を恋してただけ。だけど、大人なんですもの。大人になったのですもの。大人になるとは、抱かれること。

妹が、推薦で早稲田大学への進学を決めた。わたしは、驚いた。わたしも、大学にいきたい、大学にいきたかった、大学にいきたかった…

付き合い始めた年上の男はわたしに説教してくる、あなたにとってわたしは何なんですか? あなたは、人からどう言われているか知っていますか? 尻軽女。仕事をしなさい。真面目に生きなさい。あはっ? わたしがいくつ面接落ちたのか、あなたは知ってますよね。それでもあなたは、そんな説教をわたしにしてくるの? もう電話なんかかけてくるな。あなたと付き合うことで、わたしは自分の時間をつぶされる。生理的興奮だけあったって、何も生産的なものはない。時間の無駄だ。洗濯して布団干して、家の掃除をしてる方がずっと生産的だ。自分で自分を支えること、要はそこに返ってくることにわたしは気づいた、決意した。男と付き合うにはセックスがないと駄目なの? わたしは、男になりたい、男に生まれたかった。不満と不安でいっぱいのなか、たまたま、同じクラスで顔を合わせた男に相談してみた。その人は、二十歳のわたしにいきなり交際を申し込んで手紙をくれてきた人だった。わたしが相手にしなくてもそうするから、実家にまで電話してきてたから、家族みんなに謝罪する年賀状まで送ってよこしていた。あんなことされても困るのよ、とわたしは言って、その年上男とデートした。その男はもう通信教育の卒業が決まっていて、もっと早く出会っていたら、僕たちはどうなっていたでしょうね、と口にした。その年のわたしにとっての最高の言葉。彼は苗字を変えて、婿に入っていった。

だけど、やはりひとりでいることは淋しい。恋しくなる。フリーセックスの心棒者じゃわたしはないけれど、数打ちゃ当たる、白馬の王子に出会えないじゃない、とわたしは女友達への手紙に書く。もう二十も半ばを過ぎていて、同級生たちにも結婚する者たちが現れた。はじめての相手は結婚してわたしから離れ熊本に帰っていったはずなのに、またやっと忘れられるころに電話をかけてくる。腹立たしい。淡い期待など抱かせるな、ふざけるな、二度と電話をよこすな。わたしはあなたと付き合ったことを後悔はしない、それはそれで事実として受け止めて前にいきます。でも、ひとりがつづけば、わたしは淋しかった。戦争や70年安保を戦った男たちの対象にもなっていくわたしを知った。毎日電話をかけてくる男がいた。やさしかった。好きだよ、とそのたびに言われる。デートをかさねる。そしてこの日、わたしは抱かれるんだ、と思った。そうわかったら、わたしの体はこわばって、しゃべれなくなった、わたしは男を置いて逃げた。その日から、どもり癖がつくようになった。わたしは男に手紙を書いた。あなたはやさしい。だけど、わたしとあなたが結婚している生活を思い描くことはできない、あなたはやさしい、わたしはふさわしくない。そして、男にださなかった手紙を日記に書いた。あなたとつきあっていても、意味がありません。あなたは、わたしを変えられない。そしてわたしは、結婚の条件を書きつけた。結婚式をあげない、家族に祝福されるなんてまっぴら。子供を産まない。家事労働におわれるなんて想像したくない。それに、その子がわたしに似ていたら、不幸せだ、耐えられない。父が、階段からわたしを突き落とした。父を、殺す夢をみた。

妹が、結婚した。中学、高校の同級生たちがいっせいなように結婚しはじめた。こんどはあなたの番ね。どの年賀状でも、そう書いてくる。わたしは血迷った。わたしに気のある同級生に言い寄って寝てみた。男たちは感動して、朝、置手紙を書いて仕事にいった。おまえは昨夜のレストランではよく食ったなあ、部屋にあるものはなんでも食べていいよ、わたしのいとしいひと! わたしは一夜で絶縁状を書きおいて男の家を出てくる。これじゃだめ。わたしは海外旅行で見知った年上の男をターゲットにすえた。手作りのバレンタインデー・チョコレートも作った。男の実家にも行った。母親は、わたしを嫌った。年上の男も、電話をかけてくるな、と言ってきた。わたしは、拒食症になった。このまま、食えずに死んでゆくのでしょう。わたしは突如トルコへの旅行を思い立った。帰ってきた夏には、ニューヨークにも行った。傷心旅行、と友達に報告した。三十を過ぎていた。ニューヨークでは、二十歳の頃にやりはじめた、モダン・バレーの先生に会ってきた。踊ること、これだけは、なんでだがわたしは続けられた。体を動かしていれば、忘れられる。弁護士事務所の秘書をやっていた縁から、労働組合にも入っていて、そこの登山のイベントなどにもよく参加していたけれど、登山もわたしには現実逃避が動機。派遣労働に登録してからは、なんとか仕事が断続的にはいってくる。わたしは小説を書くの、と両親を説得して東京に近い千葉の市街へアパートを借りて引っ越した。中心街からは遠いオンボロのアパートだったけど、晴れての独立。通信制で知り合った和歌山で暮らす年下の女性を受け入れて一緒に生活をする予定だったけれど、わたしの部屋の整理が間に合わない。わたしは旅行で知り合った年上の男性を招待した。彼は、このアパートは変えた方がよい、危険だ、と忠告の手紙をよこした。お世話になった弁護士は、仕事は次の仕事が見つかってからやめるように、世の中は厳しい、就職の世話はするからいつでも声をかけなさい、と手紙をよこしてきた。わたしはお嬢様のするモダン・バレーをやめて、個人で創作していくようなモダン・ダンスの先生のところに通い始めていた。通信制で顔見知りになっただけで別れて結婚していった男性にも、奥さんと一緒に見に来てください、とわたしのダンス公演の時などには手紙を書いた。自分のそんな創作過程で、現代思想に近い文芸批評家の本なども読むようになった、そうした人たちがダンスについても論評していて面白かった。和歌山の女性が、そこの生まれで亡くなった作家の追悼になる講義が作家の生地で開かれて、その作家のナコードもしたあなたの憧れの批評家が登壇するから一緒にいかないかと言ってきた。わたしは浮き浮きしてその申し出にのってはしゃいだ。旅行にもなるし、頭の中だけで憧れていた実物に会うってどんな感じなのかしら、って。幾人もの文芸批評家がそろって討議されたあとの質疑応答で、わたしは憧れの批評家に質問してみた。作家には歴史ある和歌山があったけど、わたしの千葉には何もない、どうしたらいいのか……たぶん、そんな質問だった。あがってしまって、またあのどもり癖がでて、しどろもどろになって、わたしは何を言ったのか覚えていない。ただそれに、憧れの人が「そんなことは関係ない」と冷たく言い放った。わたしの頭は混乱した。頭の中だけが実在になるって、こういうこと? 混乱したまま、アパートへ帰ってきた。混乱したまま、結婚後もわたしへの連絡をかかさない、通信制で会っただけで別れた男に電話をかけた。妻帯者の彼は、さっそくわたしのアパートに外車にのってやってきた。薔薇の花束と、ダイアモンドのピアスを持ってきた。朝、男は帰り際、床で寝入っていたわたしの写真を撮っていった。ぐったりと横になり、窓の方を向いて、タオルケットがめくりあがって、わたしの裸の尻が丸見えになっている。あなたの可愛いお耳に、とプレゼントしたピアスだから、可愛い、とでも思って撮っておいたのだろう。花束をもらって作り笑いするわたしの姿とともにその裸の写真がまざってあった。それは、まるでレイプあとの現場だった。男は、週に何度もやってきて、わたしを抱いた。わたしはダンスのレッスン場所まで男に送迎させたので、アッシーと手帳にその男のことを書きつけた。だけどわたしは溺れていった。男は銀座の高級寿司屋に連れてゆき、ジャズを聞かせる店にわたしを連れていった。二回目の和歌山での作家の討論会では、友達と会うその一週間も前に和歌山へ行って二人で過ごした。大分の別府温泉にも行った。ニキ・ド・サンファルの美術館のある那須にも行った。けれど、付き合えば付き合うほど、わたしは荒れてゆく。わたしのダンスも、攻撃的になった。まるでニキみたいに。男は、わたしの舞台に誘っても見に来なかった。わたしは創作ができなくなっていった。結婚を迫られても、何故かできないの、喧嘩になってしまうの、とわたしは和歌山の友達に手紙を書いた。男はもう四十半ばになっていた。わたしだって、三十も半ばを超えていた。わたしは男と香港へ、ピナ・ヴァウシュの公演を見に行った。ピナの舞台は、わたしを打ちのめした。わたしは、何をしているの? こんなことをしている場合? 男は、結婚を迫った。子供がいる、三人で暮らそう。わたしは激怒した。子供がいるなんて話はきいてない、いや十年以上結婚生活をしている男に子供がいないとわたしにいいきかせることで逃げていたのかもしれない、だとしても、わたしのダンスを、わたしのやっていることを見もしないでわたしに迫るの? わたしを理解しようとしているの? ふざけるな! 私はダイヤの婚約指輪を道に投げ捨てた。しかしそれでも、男は迫ってきた。わたしのアパートに居候のように居座って、わたしのご飯を作り始める。合鍵を作って渡してしまっていたわたしは、アパートの鍵を変えようとした。不動産屋からは、わきが甘いんだよ、と嫌味を言われる。おそらく、近所迷惑になる大喧嘩をしていることが苦情で耳に入っていたのだろう。男は、離婚した、と言ってきた。男は、子供が家出した、と言ってきた。その子が補導され、施設に庇護された、と言ってきた。出てけ、わたしは追い出した。70万円を男に貸した。引っ越し代もだし、引っ越しの手伝いもしてやった。男は三菱財閥の庭園が真下にみえる見晴らしのよいアパートへと移った。駐車場の件もあるんだ、と話してきた。わたしの預金は減っていき、とうとう900円ぽっちになった。また派遣で働きはじめた。銀座の田中貴金属は短かい期間だったけど、給与はよくて、少しづつ、貯金ができはじめた。創作ダンスも年に一度は発表でき、評判になっていった。わたしは、わたしに冷たく言い放った批評家の運動も、作家の討議会で知り合った男たちと一緒にやりはじめた。そのうちの元革マル派の男がよくわたしをランチに誘い出した。ポルノ映画も見させられて、男は結婚をほのめかした。運動は正式な組織でたちあがった。そこの第三世界系列の組織で知り合った、南米のテロ組織や抵抗運動について研究する大学講師の男も、わたしを夕食に誘っては口説いてきた。知り合った年下のダンサーは、アパートを教えるとやってきて、わたしを抱いていった。

だけどわたしは、その運動の学習会でチューター役として呼ばれて、東京のできたばかりの事務所で何やら発表したひとまわりも年下の男が気になっていた。初めて見たその日、手帳にもその男の名前を書きつけていた。会う機会はほとんどなかったけれど、会ったさいに、わたしのダンス公演に誘ってみたらやってきた。ダンスの先生の「ピカソ考」という公演。それから、わたしが主演するダンス公演にも誘ってみた。「この女を黙らせろ!」と、本番前のゲネで演出家に吠えられるわたしの姿を、池袋駅東口のおおきな会場の席に座って黙ってみていた。公演後、「ポエティック」と言った。わたしはうれしかった。男に電話番号を教えていたけれど、かけてくることはなかった。わたしは男との共演を企画した。男は自作などを朗読し、わたしは踊った。それ以後でも、男から電話や手紙が来ることはなかった。わたしは、千葉の蛍狩りに誘ってみた。男はやってきた。タクシーでの帰り、わたしは男をわたしのアパートに誘ってみた。男はいいよと言って泊まっていった。万年床のような蒲団の中で、男は真面目な顔つきで何か言おうとしたのを、わたしはしっと人差し指を口先にもっていって黙らせた。たぶん、はじめてなんだ、と言おうとしたのだろう。しかしそれ以後も、男から連絡が来ることはなかった。わたしは、わたしも一度出演したこともある山梨の白州でのダンスフェスティバルに男を誘った。男はいいよとやってきた。自動車を持っていた男と、一泊の旅行だった。お祭りをみてから宿へと向かう山の中ではどしゃぶりの雨だった。女湯ではなく、男と一緒に男湯に入ろうとすると、人が来るよ、と男は追い出す。お尻を後ろ手に衣服で隠して、わたしは廊下を走っていった。

社会運動の一時期の高揚のなかで、わたしは仕事をやめていた。がその組織は、2年で解散になっていた。わたしはもう保険のおばさんをやってみるほかないので、男の東京の都心に近い駅近くのアパートまでいって、自動車の保険に入れるかときいてみた。男のはネット保険という安上がりなものなので、動きようがなかった。わたしはすごすごと自分のアパートへもどった。そのうち、生理がとまっているのに気付いた。もしかして、とわたしは思うと同時に混乱し、どうしていいかわからずに男のところへ電話をかけた。ほんとうにそうなのかは医者にいっているわけではないからわからないが、子を孕んでいるかもしれないという恐怖から、男をなじった、罵倒した、ただ妊娠なんてわたしの妄想かもしれないから口にはだせないけど、ただ混乱と不安のまま、わけのわからないことをわめきつづけた。わたしがしゃべり疲れたその合間に、「結婚すればいいんじゃないの?」という男の声が受話器から聞こえた。わたしは、一瞬言葉を失った。それからいっそう頭が混乱し、さらにわめきつづけて、ガチャンと電話を切った。数日後、わたしは男のアパートへと行った。ねえ、わたしと一緒にいたい? ときくと、男は、うん、と答える。半月後、男が借りてきたトラックにわたしのアパートの荷物を積んで、大家さんの庭の敷地にある男のアパートへと引っ越しをした。わたしは男の部屋で、仰向けになった男のシャツをたくりあげて顔を隠した。ズボンと下着をいっしょにずりおろして、男根を露わにした。いい形ね、とわたしは言った、これはもう、わたしのもの。わたしは上から男にのしかかられて突かれる正常とされる形しか知らなかったが、わたしはいま上から男を見下ろしていた。わたしは指でつかんだ男根を左右にゆすってみた。くすぐったい、と男は言う。さらにぎゅっと握ろうとすると、男はきゃあと言って体を起こすと、豚のように床を這って逃げはじめた。おいこらっ、な、なんで逃げるんだ、待て! とわたしも男の後ろを追いかけた。股の下から、男のものがぶらぶらしているのを尻の下から鷲づかみにした。きゃあ、と男は尻を突き上げた。あはは、と私は笑った。男は四つん這いで逃げようとする。待てこら、とわたしはまた追いかけて、垂れて揺れる男のものを握った。きゃん! と男はわめいて尻をつきあげる。あはは、わたしは笑った。

ねえ、どの日がいい? と私は役所に届けでる日にちのことを尋ねた。一つは、4/1のエイプリルフール、一つは4/7の鉄腕アトムの誕生日、もう一つは、4/8のお釈迦様の誕生日、どれがいい? 男は、お釈迦様の誕生日を選んだ。

そう、4/8、このわたしの自殺によって記憶された日は、わたしたちの結婚記念日となった。わたしは、ピッチャーではないけれど、高校まで野球をやっていた、ひとまわり年下の正樹くんと、結婚した。四十五歳になっていたその年の十月、わたしは男の子を生んだ。その二十年後の息子の二十歳の誕生日を祝った五日後、わたしは脳出血で死んだ。


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