家には、金魚がいる。千葉に引っ越してきてからの二年で、二匹亡くなってしまったので、一番大きかったのが、一匹のこっている。朝の餌やりに水槽に近づくだけで、いやリビングの灯を点けただけで、水面に浮上し、ガラスの側面に顔を近づけて、口をぱくぱくさせてうろうろする。人に餌付けられた池の鯉と同じだ。子どもが中学生の頃からの生きものだから、もう5年以上になるのか。それが金魚にとっては、長生きになるのかどうか、知らない。
妻の生地の熊本旅行のため、一週間くらい家をあけることになった。となると、餌やりができなくなる。子どもの頃の記憶では、そういう場合、近所どうしで頼みあったりしていた記憶があるが、もうそういう付き合いなどあるはずもなく、どうしようかと考えたが、今は自動機械での餌やりができるのだった。その電池式の装置を買ってきて設置して、一月ほど様子をみて、ちゃんと働くのを確認できてから、旅に出たのだった。
が帰宅してからも、何かと面倒なので、装置をそのままにしていた。そうしていると、なんだか、金魚が、よそよそしくなるのだった。たまに、水槽にこちらの顔を近づけて覗いてみても、反応が鈍い。手ずから餌をやらないと相手にしてくれないのか、現金だな、とか思いながら、ふとこれは、人の話にもなるのではないか、と思えてきた。
ラカンの精神分析哲学にみられる人の精神階層は、人が人から育てられる、ということの不可避性からもたらされる現実性だ、という指摘がある。そこに生じざるをえない、いないいないばー、の赤ちゃんが受苦する反復現象事態、おおくは母が現れたり消えたりすることになるかもしれないが、経験を超えた事態としては「主人」として定義しえるそれが、抑圧と享楽を本源的に規定しているのだ、と。だからこの「主人」とは男性的であり、この原抑圧的な始原が、男女という性差を事後的に派生させることで二極構造として安定化させ、本当の抑圧を見えにくくさせを完成させるのである。
主人が餌やりに顔をださなくなると人間的でなくなる、金魚は関心を抱いてくれない、「現金」だな、と私は思った、というこの連想には、さらに歴史的な根拠がある。この人の精神構造は、貨幣を媒介にした資本構造のからくりとも結びつくからである。
たとえば、売春の労働条件が改善されても、売春婦への差別(「軽蔑」――中上健次)は残る。なぜ? 根底にある階級闘争、矛盾、敵対が、そこ(改善)にはないからである。これだけ3Kとも呼ばれていた肉体労働で人が足りないのに、そこには労働者とされるものは流れない。差別されているからである。マルクスのいう階級闘争も、それを担うとされるプロレタリアートとは、肉体労働者のことである。労働条件が改善されればもう闘争の必要がなくなる精神・頭脳労働階層とは違う位相の闘争を、肉体労働者、売春婦は強いられるのだ。それは、原抑圧される始原において、排除されてしまう多型倒錯的なと精神分析では解釈される欲動の群れと構造的に重なるのだ。
しかしそうした現実は、やはり歴史的な事態ではなかろうか。売春が、貨幣と結びついて歴史的に派生してきたものであるように。だからラカンの言う精神構造も、あくまで、資本下の構造にすぎない。しかし、トランプに平身低頭して迎合するイーロン・マスクの振る舞いをみても、資本は情けない。だからといって、再台頭してきた父権まるだしのそんな男たちに牛耳られていくしかないとするのは、もっとうんざりすることだ。
それなら、人が人を育てることをやめて、AI使った哺乳装置などで大人にしてしまえば? そうなると、人が本源的にもっているかもしれない人智を超えた能力が薄れ消えてしまうのではないか、と想像力を発揮した漫画として、竹宮恵子の『テラへ…』などを連想する。
熊本から帰って、熊本出身の、高群逸枝を読み始めている。母権性があったなどとは史実に反するの一言で片づけられてしまったように見える彼女の本は、そんな事実指摘をこえて、詩人の洞察力に満ちている。
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