2021年4月25日日曜日

花粉、ウィルス、量子(4)


前回ブログで、日本のコロナ状況では、ロックダウン的な処置など必要なく、臨時法的な医療体制の拡充をするほうが先決だ、という趣旨の発言をした。
 
これと似たような提言を、慈恵会大学病院の大木隆生氏が、自らyoutube番組をたちあげて広報しているのを知った。安倍や菅の助言者でもあるらしく、そういう話を総理官邸にしても、結局は受け入れられなかったと。

大木提言3(https://youtu.be/yl_zmErgY2U)、他

大木氏のたとえでいえば、水道の蛇口をしめるだけで、水を受ける入れ物がおちょこのまま、バケツとかにしようとしない、それは、ゼロコロナをめざすという方針のもと、あってはならないことと、否認されてしまうのだろうと。氏は、総理はその体制作りの意をくみとっても、まわりの厚生省や医師会などがもしものときの責任をとりたくなく、政権批判が役目とされるマスコミが圧力をかけつづけるために、患者増大を前提としたような処置はすることができなくなるのだろうと、推察している。

私は、大木氏のコロナ認識に、根底的なところで仮説的な疑義をもっており、それがこうしたブログでの意見整理になっているわけだが、いわゆる世界で説かれる陰暴論以外で、なぜやりたくもなかったらしくある政権側が、結局は過剰な防疫体制を強いられているかを説明しているのにであったのは、これがはじめてなんではないか、とおもう。説得的な話だ。が、あてはまるのは、日本だけなのではないか、とおもう。さらに、もし安倍や菅が、本当に大木氏の意見を肯うならば、覚悟をもってやればいいだけだ。が、そうしないのは、なにももっと上位の、世界陰謀論者からの指令などではなく、たんに、意志がなく、また、それが科学的にも根拠がありうる認識だとの当否を判断できる、教養訓練がまったくないからであろう。実際には、中学生レベルでもマスメディアで説かれることがおかしいとは、公表折れ線グラフをみれば見てとれることだし、非常事態宣言でもまだ生ぬるく遅い、といってきた学者たちの、手遅れになれば何十万が死ぬぞ、との認識というより脅しが、いったい何回はずれたか、ということも経験済みなはずだ。

田中宇氏が、またコロナPCR検査でのインチキを説明しているが、たとえ世界的な陰謀を企んでいる勢力があったとしても、日本になど、指示などする必要もないだろう。していたら、バレバレになって、陰謀どころでもなくなる。とはいえ、DNAのらせん構造を発見したワトソンの本では、CT値、増幅回数は25回でもすごい、みたいに記述してあったから、40回だの50回だのは、キチガイ沙汰なんではないだろうか?

しかし今回私が書き留めておきたいのは、以上のようなジャーナルな話ではない。

ウィルスとは、粒子のことなどではなくて、細胞の状態のことである、という生物学上の新しい仮説のことである。(『生物はウイルスが進化させた』武村政春著 講談社BLUE BACKS)

これは、新型コロナのウィルスが原因なのではなく、それをそうさせる身体や環境のほうに原因があるのではないか、と仮説しているこのブログの趣旨にかなう。原因ではなく、状態のほうが問題なのだと。量子が、粒ではなく、状態であるように。(ここから、量子論を、情報論へとゆきつかせる最近の思想状況もでてくるようなのであるが…)

<これはすなわち、「ウィルス粒子」と「ウィルス」は分けるべき概念なのだということである。別の言い方をすれば、「ウィルスの本体はウィルス粒子ではない」ということである。
 それでは、いったい何が「ウィルスの本体」なのか? 「ウィルス粒子を作るもの」こそが、ウィルスの本体なのだ――ヴァイロセル仮説は、そう主張しているのである。
 ウィルス粒子を作るもの。それこそが「ウィルス粒子に感染した細胞」である。>

ヒトも含めたDNAを格納している細胞核は、ウィルス感染した細胞内のウィルス工場が進化したものなのではないか、ともいわれるが、まだこのレベルの世界は、「ブラックボックスのままなのである」そうである。この素人への解説本を読んでいるだけでも、そんな世界に人工RNAなどを投下していいのかい、と疑わしくおもえてくるのだが…。

2021年4月10日土曜日

花粉、ウィルス、量子(3)


いまもって、PCR検査での陽性者数の増減で、右往左往し、一喜一憂している。

もう一年以上たっている。

非常事態宣言を二度もだしていても、本当に重症者が激増して通常の医療体制ではやりくりできなくなるかもしれないことに備えて、プレハブでもいいからコロナ専門病棟の土地借用や輸送手配、程度段階に応じた医療従事者の名簿作りや交代勤務段取り、医学生からの支援体制制度化など、臨時法的な備えなど、してはいないのだろう。たしか二度目の宣言前だったかの記者会見で、ビデオ・ドットコムの神保氏が、なんで時間があったのに、緊急な医療体制をつくろうとしなかったのか、世界有数な医療体制だと日本は言われながら、欧米の100分の1くらいの病状でパニックになっている、これでいいのか、と問いただしたことがあった。が、その提言は、その当時の状況下での医者を脅かすのに利用されただけだった。「藪蛇」みたいになってしまったと、神保氏はもらしていたとおもう。

私自身は、PCR検査では感染の実体を把握できず、ロックダウン的な処置は、少なくとも日本では必要はないだろうと思っている。だから、陽性者の人数の増減にかかわりなく、変な後遺症があるということは変なウィルスが出回っていることは確かであり、国民も不安なのだから、医療体制のバックアップは構築しておくべき、という考えだ。現場の熟練で、死亡までにはいたらせない手順ができあがってきている。節度をもって、普段の生活を営むことに安心していい、と。

グーグルなどでの、世界各国の感染者数のグラフ等をみると、日本でも第四波とかいわれているのと同様な、上昇傾向がみられる。英と中国とか、いくつかの国をのぞいて、ほぼ同じような、三つの山をもった折れ線グラフを描いている。それが、四つ目になろうとしているような現段階だ。が、お隣の韓国もそうであり、南米もそうである、とは、どういうことだろうか? ドライブスルーなどを導入して、検査数も国民規模であったとされる韓国では、検査数は今は日本と同じ規模になっていて、やはり、アプリ使用などを徹底化させてのぞんで抑え込んだとおもわれたものが増加しはじめている。ただまあ、地理的に近いのだから、日本と同期していても了解できる。が、南米は? 飛行機便も少なくなって、交通はほぼとだえており、季節も南北で正反対な遠距離地域においても、同期している。

ほんとうに、人から人へと感染しているのか? 地球を全体で囲っている大気環境とか、宇宙とのつながりとか、そういう範囲で考えないと、理解できるような事態ではないのではないのか? ウィルス感染症状は二次現象であって、本当の原因作用が、グローバルにある、ということをグラフは示唆しているのではないか? 地中で眠っていた雑草の種が、よしいまがチャンスと芽生えてくるような、日和見感染みたくなっているのではないだろうか? 風邪にもウィルスはあっても、夏の寝冷えや、冬場の湯冷め、の方が原因だろう。もうウィルスは世界中に蔓延していて、誰もが体の中に抱えこんでいる、その発症のスイッチは、ウィルスそれ自体にあるのか? 花粉症も、それ以前から花粉はあったのだから、花粉が原因とは言えないだろう。

私が最近、このコロナ現象に関し、リアルと感じられたニュースは以下のもの。

「あまりに孤独に慣れすぎた日本人」の超危険 どんな時も「1人で過ごす人」が多いことに驚く>(東洋経済4/4  ニューズウィーク日本版ウェヴ編集部)

この異文化コミュニケーションアドバイザ―の肩書きを持つテヘラン生まれの石野シャハラン氏の記事は、私に、ヤクザとマフィアの在り方の違い、という、柄谷行人が指摘していた日本人理解をおもいださせる。マフィアは裏に隠れてみえないが、ヤクザは表にでて肩で風を切って歩いていられる。外国でなら、つかまるだけだ、と。そういう文化現象と同じように、ロックダウン、非常時代宣言下で、外国では、人は表にでたら罰金なり逮捕されてしまうし、だからといって孤独というのは人間として受け入れられることではないと了解しているので、実はロックダウンなどなんのその、と、自宅に友人などを招いてパーティーをして食っちゃべっている。が、日本人は真に受けて自粛しはするのだけれども、平然と表通りを歩いて買い物していられる、と。言葉の建前だけは良いこと、優等生的なことを、街のインタビューでも、出歩いている人々が答えている。が、世界標準では、悪いことなのだから表にはでず、みつからない裏で騒ぐ。どちらがいいか、という話ではない。これは、近代化の植民地主義を真に受けて、その優等生通りな言動をしていた日本が、裏ではもう植民地主義のルールは変わって、人間的な現実を受け入れたほうへ変更されはじめているのに、その現実に気づかず、あいかわらず人真似を続行して、おまえらと同じことして何がわるい、と居直り、いまもって居直りづつけたい勢力が政権を握っている、それでいいの、ということが、また問われてくる可能性がでてきている、ということだ。

果たして、日本は、日本人は、世界のありえるルール変更に、気づけるだろうか? 変化に、適応できるだろうか?

2021年4月4日日曜日

電子出版とゲンロンの場


電子出版なるものをやってみようかと考える。
植木仕事も減ってきたので、生活の足しになる手段をさぐらなくてはならない。

また、日記がわりにつけているこのブログとはべつに、まとまった論考を保存しておく場所も必要だ。以前は、ヤフーのジオシティーズがあったが、スマホでのブログやツイッターなるサービスがでてきて、もう個人のホームページの時代ではなくなったのだろう。一昨年だったか、ジオシティーズのサービスは終わった。

そこで、電子出版といえば、アマゾンのKindleということで、ちょっと検索的に調べてみた。私でも、登録アップはできそうだ。代行業者にたのむと、数万円かかるらしい。が、アメリカのアマゾンに対し、源泉徴収は免除処置ができても、こちらの税金を閲覧できる許可みたいなのをあたえなくてはならないらしい。気味がわるい。さらに、ほとんどの検索記事や広告では言及してなかったのだが、月一度業務されるアマゾンから日本の銀行への為替手数料や振り込み手数料みたいので、それぞれ2千円ずつくらい、つまりは月に4千円以上の、年にしたら、5万円近くの経費が発生するらしい。新生銀行経由なら、振り込みの方の手数料はかからなくなる、とも言われている。が、ほんとに資本の世界に牛耳られていく感じで、気味がわるい。売れるわけでもないデータの、オープンな保存場所としては、ハードルがある。赤字になっていくというより、こつこつとぶんどられていくことに飼いならされていく、その躾を受け入れますか、と問われてくるような感じだ。ツイッターやインスタグラムといった、手短・直観的な習慣には飽き足らない階層の人たちに、どこか現実的とおもわせる障壁ハードルを設けてやって、それを超えて何かやった感を味合わせて手なずけていくやり口、といおうか。

他にも、電子出版のプラットフォームはあるみたいなので、さぐってみよう。

ところで、そんな試行の一環で、はじめてキンドル・アプリをスマホに導入し、無料サンプル文章を閲覧し、そして、東浩紀氏の『ゲンロン戦記』電子版を購入してみた。

気軽に読めるものならば、慣れれば、気にならなくなるらしい。とにかく、電気文字みたいのは、目と首がすぐに疲れてくるので、私は敬遠していた。すぐにページを指でめくらなくてはならないところが、漫画本読んでるみたいで、面倒くさいが。

で、その東氏が、情報発信を無料ではやらないことの意味を、思想・哲学的に説いている。会社を経営しているのだから、お金をとるのは必要な当たり前で、そこに、意味づけする余分な必要があるのか、と私などはおもう。他で金を稼げて、生活に困っていないのならば、無料提供でもいいが、そうもいかなくなることが予想されるので、なんとか百姓(何でも屋)的にあがかなくては、というのが私の有料への動機だ。東氏の会社のHPでの無料文章をみると、その意味付けに、柄谷行人が引用されているらしい。無料だと、そこまでの情報しかわからないわけだが、おそらく、柄谷氏の、フロイトが精神分析で金をとった、というところからの考察などが参照されているのだろう。無料だと患者に負い目をあたえて、医者本人への転移的な現象を発生させてしまうので、距離を保った関係を維持するために、金をとるのだと。たしかに、無料でワイワイ騒いでいる人たちは、対象に転移的な感情を抱いているだろう。が、東氏は、「交換」という、最近の柄谷氏の「世界史の構造」からの用語をもちだしているようだから、ちょっと違う観点が、意味付けに導入されているかもしれない。「商品(有料)」ではなく「贈与(無料)」のほうが「交換」としては可能性がある、と転回したといえるかもしれない最近の柄谷立場を、東氏がどう自身の経営(有料)的な活動に挿入したのか、いまのところ、私には不分明である。

その東氏の、「ゲンロン」を読むような知識大衆層の人数は、多くて2万人、ぐらいなようだ。普段は、1万冊売れればいい方、ぐらいか。たしかホリエモンとのユーチューブでの対談で、ホリエモンの方が、無料動画の閲覧数はどんどんあがっていっても、有料のメルマガまでとってくれる観衆というのは、2千人の壁があって、それを超えない、と発言していた。だいぶまえの数値だが、芥川賞をとった人の作品も、普通的に売れて2千部とかだった。大江健三郎クラスの作品が、たしか2万部販売がベスト、みたいな話もきいたことがある。

要するに、日本の人口規模で、知的大衆とは、2千人くらいで、何かでちょっと上増しになっても、2万を超えるぐらいまでしか増加しない、ということだろう。私は以前から、それが、人類における自然生態系的な確率分布なのだろうな、と思っている。相当少ないが、知的好奇心、言いかえれば直観的でなく、言語媒介して持続的な、手短でない時間のかかる論理を営む人の割合は、歴史的にも地理的にも、そんな程度なのだろうと。人は、肥大した脳みそを使っていないと不快感がでてきてしまうので、芸術や文化活動、あるいは科学的な探究をしつづけなくてはならないのだとおもうが、それでも、言語活動の領域に携わざるをえなくなる人の割合は、多くはならない。そしてその割合には階層があって、光の波長スペクトルみたいに、グラデーションがあるだろう。しかしたとえば、そんなある階層のゲンロン人たちが死んでしまっていなくなれば、やはり同じ割合まで、残った人口の中から、そこの知的階層に携わざるをえなくなってくる人々が現れてくるのだ(と、私はおもっている)。だから、インテリであることは、偉いことでもなんでもない。自然が、なんでかしらぬが、そういう生態系を産出してくる。バランスをとろうとする。にもかかわらず、高給取りがいて、格差がとんでもない資本社会になっているわけだから、自然に反することはなはだしい、と私は考えている。だからもちろん、この状況に、自然はバランスをとろうと動くだろう。

とにかく、だいぶな人たちが、プロではなく、お百姓さんにならないと、やっていけない世界がやってきている。

2021年3月10日水曜日

コロナ・ワクチン禍の映画


 ワクチン接種がはじまって、なおさら、ある日本映画が気になっていた。


が、タイトルが思いだせなかった。4、5年前なような気もするが、それもはっきりしない。低予算B級映画、みたいな。


だけどそこに出ていた若い俳優たちのなかには、その後売れ筋になった者もいる。が、その名前もわからないので、検索もできなかった。


が、昨日、女房の手術入院まえにデートでもしなくてはいかん、と、吉祥寺のアップリンクに、映画をみにいった。中国の「春江水暖」。で、待ち合いのスペースに飾ってあった現在上映中のポスターに、あの探していた映画の主演女優をみつけたのだ。ので、やっと検索でき、たどりつけた。


太陽』、とあった。

2016年公開だ。劇団でやってたものを、映画化したとある。コメント欄でも、コロナ状況との類似を指摘していたものがあった。


主人公の若い女性は、ワクチン接種を拒否して、〈原始人〉社会のように取り残されたムラを捨て、門番が取り締まる境界を越え、文明化したトシへと移るべく、決意する。


ワクチンを打つと、人格もなんだか変わってしまって、そして、太陽のでている日中には活動のできない闇の人となる。


たしか、日が沈むとき、いや登るときだったか、世界にサイレンが響きわたるのだった。


2019年のカンヌに出品された『春江水暖』は、中上健次の「地の果て 至上の時」の、現代中国地方都市版、を穏やかに描いたものだ。第一巻、としてエンドしたから、おそらく次あるとしたら、4人兄弟の、ビル解体現場で働いていた独身の末っ子が、博打で捕まった次男の後釜として、共同体崩壊あとの世界の闇を、ヤクザ者として、縦横無尽に躍動する予定なのだろう。


が、コロナである。

路地消滅後の、中上の作品のようにはいかない。陽を浴びたチンピラの世界は無理である。闇は深くなる。不可視になる。しかしそこに巣食うのは、映画『太陽』のごとく、エリート階級なのだ。

2021年3月2日火曜日

憲法論議(1)――高橋源一郎著『たのしい知識』から


なんでこうもみな、天皇主義者になっていくのだろう?

とくには、現上皇の退位へむけての「おことば」、当時の安倍政権との対比的な言行、とうを受けて、いわゆる天皇の戦争責任を追及すべく左翼といわれる言論陣営者のなかからも、だいぶ擁護者というより讃美者的な発言が見受けられた。

高橋源一郎氏も、そんな一人であったような気がしたので、「ぼくらの天皇(憲法)」と文句を副題にもつ本書を読むことで、そういう人たちの転向思考の軌跡が把握できたら、という問題意識で、新書『たのしい知識』(朝日新書)を購入した。

が、源一郎氏は、改憲を提起しているのだった! その経緯がよくわからないので、図書館から、『憲法が変わるかもしれない社会』(2018年発行/文藝春秋)を借りてきた。もちろんこのタイトルは、当時の安倍自民党が、憲法改正へと迫る勢いをみせていたので、その時代への危機感から護憲的に言われたものである。が、この明治学院大で設けられた講演セミナー以後、そこでの討議を受け再勉強しながら、源一郎氏は、よく考えたのだろう。その結論が、現憲法の前文や8条までの天皇に関する条項を削除した、新憲法を作る、という改憲あるいは改正案なのだった。天皇という制度ではなく、その人格をもった個人への尊敬と敬愛さはかわらないが、むしろそれゆえに、変革すべきだ、という思いなのだろう。

私自身も、そんな感じでの改憲派だ。

昭和天皇は、もういない。王の首切り、のような深追い的な責任追及は、それこそ人権侵害だろう。この源一郎氏の著作での引用を受けて、加藤典洋氏の『9条入門』も読んでみたが、私たちが考慮すべきなのは、昭和天皇から平成へ、令和の天皇へと変遷していった、いっている、天皇個々人の考えにも変遷がある、ということだ。加藤氏は、昭和天皇は、理想主義的な平和など信じていないリアリストであり、9条の実現などまったく信じていないニヒリストなんだ、と言う。そういう面が強いのだろう、そういう時代を生きてきたのだから。が、平成、令和の天皇はどうだろうか? 親から子へ、その信条が、そのまま継承されるわけではないだろう。平成天皇の「おことば」に、ニヒルさは感じられない。安倍が伊勢神宮にいくならば自分は田中正造のところへ、小池が関東大震災で亡くなった朝鮮人への慰霊祭を切るなら自分は高麗神社へ、と政治的にもリアルな反応をみせる。そこには、父から受け継いだものを意識的によく考え、新しく進化させたような思想もあるだろう。

そうした進化は、庶民の私たちにだってあるはずである。なおあまり意識化していないとしても。天皇のような地位にいるわけでもないから、大概は、この件に関し、のほほんとしてきているだろう。が、そののほほんのうちにも、よく考えれば進化になるような思想があるだろう。だから、9条を、発生当時のゼロ地点にかえって、揚げ足をとることに精を出すような態度はニヒルというか、皮肉屋である。 庶民(「非専門家」)の意見だと問題提起していながら、庶民への愛がないようだ。ひねくれたインテリの自意識を感じる。源一郎氏は、誠実だ。

が、9条問題、というか、9条にかかわる問題群、といおうか、は、天皇制を超えた人類的な普遍認識にたち、理想以前の現実認識に依拠している、と私は考えており、このブログでも言及してきた。私は、源一郎氏の9条認識とも少し違う。ので、改めて、<憲法論議>というブログ・タイトルでも、考察を進めていこうかな、と考える。

2021年2月21日日曜日

原子力、量子コンピューター、RNAワクチン(2)ーー哲学から


このタイトルで考察をはじめてみようとおもったのは、すぐ先の将来へと開発されている科学技術、原子力(爆弾、発電所)技術の延長としての「量子コンピューター」、遺伝子設計操作としての「RNAワクチン」開発などに現れるアポリアが、人体に悪い、とかいう話ではなくて、量子研究において直面した<観測問題>にあるのではないか、と気づいたことによる。その難問を回避した科学技術実用化への人類の進歩は、原子力が制御しうるものではないという災害を予兆として幾度も体験しながら、その危機が人体や生態系といったマクロな広がりのなかで理解されているため、その被害影響を直接的に受けてはいない、被災を実感できる領域の外にいる大半の人々に支持されているかのようだ。

よって、私がいま素人の手探りで進めているのは、具体的な現場としてのこの三つに象徴される技術が、本当に、量子的現実として通底しているものなのか、のまずは確認作業になる。原子力と、量子コンピューターならば、まだ関連はみやすい。が、新型コロナと称されるものを抑えるために実施されはじめたmRNAワクチン等の、分子生物学的な成果の延長となると、関連は不透明である。DNAからRNAからタンパク質へ、というセントラルドクマの逆を行かせて人為物を細胞内に進出させる技術のどこで、どのように量子的現実がかかわってくるかは、量子生物学という分野はあるけれども、なお不明なままである。わかっていることは、細胞内の出来事、相互作用は、わからない、アメリカでのワクチン開発に携わった日本人医学者の言葉では、「ブラックボックス」になっているということである。だから、抗体反応が発症したかいなかの治験者の統計結果をもとに、その有効性を判断するということになる。が、たとえば、植木職人の私が、雑草を枯らすのに、ラウンドアップ、今ではグリホサートとか呼ばれる除草剤を使ったとしよう。この会社の企画は、自社製品の除草剤では枯れない農産物の種を遺伝工学的に開発し、しかも、その農産物からは種が収穫できないよう自殺遺伝子が組み込まれているため、途上国の農家が、毎年、除草剤と種をセットで購入しなくてはならないようにすることであった。もちろん、除草剤自体、環境にも人体にも毒である。しかし、それを撒いて草が枯れるならば、その企図どおりなのだから、その限りでは、問題はないだろう。では、効かなかったら? 草が、枯れなかったら? 問題は、そこにある。ということは、たとえ効いた、有効だったとしても、それを超えて、問題があるということだ。抗体反応という、限定された観測装置の結果をこえて、観測される以外の影響があるはずであり、それは、見ようとしていなかったり気づかれなかったら、いわば、わからない、ということになる。細胞内は、様々な物質が過密状態になっている。そこに進入した(できた)RNAによる、設計図を実現するための材料調達は、偶然任せであろうといわれている。たまたま近くに接していたものはすぐに、動き回ってもなかなか必要物質に出会えない場合は、設計構築は遅くなる。早ければ数秒で実現されるが、おそいと、数分の場合もあるそうだ。しかし、そのうじゃうじゃ状態が、どのような物質連関によって存在しているのかは、「ブラックボックス」だというのである。これはなお比喩的にしかならないとはいえ、A地点からB地点へと行く(現れる)電子の軌道過程はわからない、つまりこの物質で満たされているはずの空間で何がおこっているのかは「ブラックボックス」のままだ、という量子的現実と似ている。

※※※ 

昨日の毎日新聞の朝刊で、歴史学者の加藤陽子氏が、東京オリンピック開催是非の件に関して、次のように書いている。

<…日本の政策決定でよく目にする「言霊対応」は、もはや許されない状況となった。日本と世界の感染状況に対応し、科学的知見に裏付けられた、科学的検証に堪えうる施策が実施できるかどうか。ここに、開催可否の基準が置かれるべきだろう。この場合の科学的知見は、公開性かつ共有性が担保されていなければならない。科学に基づいて判断がなされた、と内外から信頼される政治決定が求められる。>(2021/2/20)

世界大戦で敗戦していった日本の時事過程を鑑みて、上のように反省的・自戒的な発言を繰り返していくのは当然だ。しかし、より広く、科学を成立させてきた認識基盤に問題があるとしたらどうだろう? 原爆開発までいった量子的現実が突き付けたのは、そういうことではないのか? この大枠的問題への意識は、このブログでも紹介した物理学者の佐藤文隆氏の指摘があった。しかしいくらなんでも、他にもあるだろうとさぐってみると、廣松渉氏の仕事が、そここそを哲学的に考察しているのだと気づかされた。廣松氏の、『世界の共同主観的存在構造』は、量子論的現実にふれた科学認識の当否を主題化しているともいえるのだそうだ。私はこれをまだ読んではいないが、その知的大衆向けの解説本、『科学の危機と認識論』(紀伊国屋書房/1977年発行)からの抜粋を、以下に引用しておこうとおもう。が、氏の認識射程は、もちろん、量子コンピューターなりのいまの技術成り行きまでには届いていない。アインシュタインらが突き付けた認識のアポリア、EPRパラドックスと言われたものが矛盾ではなく現実だと観測実証されたのが1980年以降、それがEPR相関、と実用的に認識しなおされて言いかえられ、量子コンピューター開発につながっているわけだが、そうした現在までの過程で、廣松氏の暗示した三つの方向性のうちの悪いものが、ひとり突っ走っている、という見立てになるのではないかとおもわれる。私は、氏が指示する理論的方向は、思弁なんではないかといまは退けるが、もう一つの方向、「日常的な世界概念の場面でのゲシュタルト・チェンジ」をさぐる日常的な実践に興味がある。理論的思弁が、そこに、関われるとはおもわないのだ。

<――ところが、その後、素粒子論が盛行する時代になると、これは日常的な世界概念との接点が弱いので、一般人にとっては別世界のことのようにしか思われない。そのうえ、場の量子論そのものの論理構成が多分に古典的なそれに近い。だから、近代的自然観の危機というよりも、逆に、近代科学的自然観の勝利のようにうけとめられがちだった。そのうえ、原子力の開発の成功といったことが重なったので、いよいよ科学万能みたいに世間では考えがちであった。
――しかし、実は、素粒子論の行き詰まりがその帰結なんだけれども、素粒子論の基礎方程式であるところの場の量子論の論理構制、それを支える発想そのものが、近代的自然観の悖理を糊塗するものになっているわけだ。つまり、場の量子化によって、物質の波動性と粒子性という深刻な矛盾を表面から除去し、もっぱら量子の質点力学みたいなかたちで処理してしまう。ここでは、観測者の問題が絡むあの相対性理論はさしあたり棚上げされたかたちになっているし、場の相互作用的関係の第一次性はハミルトニアンの機械論的な加算の論理にすりかえられているし、また場の状態の確立波的な遷移も、それにともなって決定論的な一義的必然性で扱われる仕掛けになっている。
――素波理論ないし素場理論のかたちにおいてではなく、素粒子論というかたちで展開されたことそのものに問題があったといえるかもしれないな。
――さっきも言った通り、素粒子論は場の量子化に立脚しているわけだから、そういう言い方は見当はずれになると思う。
――無茶な言い方になるかもしれないけど、ニュートン物理学で一応はうまくいったために、それが立脚している発想の基本的な枠組みの矛盾や不当な前提がなかなか自覚されず、アインシュタインやハイゼンベルグの登場を俟たねばならなかったのと類比的に、場の量子論・素粒子論が一応はうまくいったために、或る意味では相対性理論や量子力学から逆行しているような発想の枠組に立脚しておりながら、その自己矛盾や不当前提が自覚的に克服されにくい結果になった。このため、実体複合型の存在了解や悟性的抽象の機械論的な発想が却って定着したきらいがある。こういう事情を指摘できそうだね。
――確かにそう言える面があることは認めるけれども、物理学者たちのなかにはかなり以前からそういう自覚をもってやってきた人たちがあるわけで、だから単なる方法論的自覚の問題ではない。事柄そのものがそれだけ困難だと考えるべきだろう。場の量子論では駄目だということ、素粒子論は原理的に行き詰まっているということ、この自覚が生まれてからもう相当に時間が経っているのだし……
――で、君としては、現場での問題もさることながら、日常的な世界概念の場面でのゲシュタルト・チェンジが総体的に進展していかなければ、一点突破・全面展開という具合にはいかないと考えるわけだね。
――まあそういうわけで、そこで認識論的・存在論的な省察ということ、それもいわゆる専門の哲学屋たちのスコラ談義としてではなく、現場の科学者たちとの対話可能性をもったというか、現場の科学者たちにとっても一つの手掛りになりうるような、そういう認識論の確立が待望されるわけだ。>(一般者向けにわかりやすく、ということでか、対話式になっている。)

※以前のブログで、副島氏が量子コンピューター開発をめぐって指摘した「三体問題」なるものに私はなお量子論関連の読書上出会っていない、と記述したが、素粒子論の現場で問題化されているのだということを、廣松氏の上の著作から知った。以下そこも、引用しておく。

<――それというのも、元来、ハミルトン函数というのは、三体問題の解法から由来している。つまり、太陽と地球と火星というような三つの天体が相互的に作用しあいながら運動するとき、どういうぐあいになるか、というかたちの問題だ。二体間の関係ならニュートンの運動方程式からすぐ解けるが、はじめから三体を扱うと解けなくなってしまう。そこで、二体間をまず考えて解いておき、第三の影響は補正ということでつけ加えるわけだが、第三の影響がきわめて小さい場合にはそれで何とか摂動を処理できるのだけれども、強い相互作用がある場合にはもともと無理なんだ。
――最初のうちは素粒子が独立みたいに考えられていたときにはよかったが、新しく発見された素粒子の強い相互作用が問題になってくると、ハミルトニアンでは駄目だということだな。
――そう言っていい。摂動論の古典力学的な論理ではとうてい処理しきれない。こういう実体主義的な発想ではなく、初めから相互作用や相互転化を考える論理、項に先立つ関係の第一次性に即する論理、これが必要になってくる。>

量子コンピューターは、この「相互作用」をあつかう。DNAやRNAは水素結合であって、水素原子とは、陽子という素粒子が一つ、ということだ。量子生物学では、この陽子のトンネル効果などがウィルスの細胞内での相互作用に利用されているのではないか、と推察しているわけだ。しかしそのミクロなレベルの力関係は、観測できるようなものではなく、観測することそれ自体が対象に変異をおこさせてしまうという、認識上のアポリアなのである。

2021年2月15日月曜日

原子力、量子コンピューター、RNAワクチン(1)――文学から


量子論関連から、分子生物学的関連へと、少しずつ読書が移行しはじめた。

たしか、量子論をめぐる本を読みはじめたのは、河中郁男氏の『中上健次論』をこのブログで書評するにあたり、そこでの「観点」という批評用語を、これは量子力学から援用してきた概念ではないかと連想し、そう自身でも比喩的に言及してしまったから、比喩ですますわけにもいかず、少しは知っておかなくてはと思い直したからだった。

いわば、文学から、量子論へと入ったわけである。が、この推移は、恣意的ではない、ということも、のちにわかってきた。量子力学の創始にかかわり、コペンハーゲン解釈派の棟梁のようなニールス・ボーアが、当時の「心理学」で考察されてきていることが量子力学のアポリア、ボーアが「相補性」といって解決していく事態と同型的だと発言してもいるからである。その「心理学」とは、文学的には、「意識の流れ」と呼ばれていくような文学技法、内面の同一性というより、その偏移の描写をしはじめた動向と言い得るだろう。ジョイスやプルースト、フォークナーに受け継がれていくような問題意識である。だからそういう意味では、すでに河中氏が意図したかもしれない量子力学的「観点」は、すでに小説技法として実装されていたわけだ。が、20世紀初頭からのそれら文学が、シュレディンガー的な波動方程式、つまり、量子を波としてみてみる「観点」からだったとしたら、河中氏が中上の小説にみる「観点」とは、ハイゼンベルクの、それをむしろ粒としてみる見方、行列力学的な、不確定性原理的なものと言えるのかもしれない。秋幸は、エネルギー準位が変わって突然「量子飛躍」をおこして次なる軌道へと出現する電子のように、変貌していくのだ。もちろんどちらも、波であり粒子であるという、量子の同じ性質を違った方式において導いたものである。

ところで、20世紀初頭に出来てきた量子力学と、戦後のDNA発見によって隆盛してくる分子生物学の分野は、理論的にも、人脈的にも、つながっていたようだ。DNAらせん構造発見チームの責任者であったような元物理学者の人物は、アメリカの原子爆弾の開発にもたずさわっている。理論的にも、DNA中の原子や分子の配置を推察していくに、X線撮影や量子力学的な数式計算が必要になってくるらしい。私はまだブルーバックから読み始めている段階だし、大学のその分野の入門過程ぐらいの水準しか理解できないだろうが、それでも、いま遂行されようとしているRNAワクチンに対する、素人的疑問が次から次へとわいてくる。しかも現場職人をやっているから、たとえば、マイナス70度でキープしなくてはならない液体を、室温の注射会場での手渡し作業でとどこおりなく設計どおり実現できるものなのか、作業員レベルで疑わしくなる。温度があがったら、その液体の性質は、どうなるのだ? 何度の上昇までならOKなんだ? 空気に触れるリミットタイムは?…そういうレベルでも、新ワクチンの疑問に答えている記事を知らない。昨夜、党名を「つばさの党」に変更した党首が、ユーチューブでの動画でそれに近い疑問を投げかけていたのをみかけただけである。即時的な副作用ではなく、中・長期的な、世代間にわたる副作用が問題焦点となってくるのも、この遺伝子編集ワクチンの原理上、要請されてくる解明点だろう。が、それは、わからない、と学者は口をそろえる。わからないのに、やるのか? すぐ身近でもばたばた人が死んだり重症化でもしていたら、イチかバチかでやってみる必要はあるし、人々も納得するはずだ。が、実際には、非常事態宣言をだしても、二度目は通じず、街の混雑は平常通りだ。実感とかけはなれた政策が遂行されている、ということだ。だから、感染者の統計をみても、このワクチンを義務化できるかどうか微妙なので、自由意志で、とか言っている。が、忖度社会において、つまり天皇制下において、自らの選択など実現できるのか? 知り合いの、老人を自宅訪問してやっている女性介護士は、注射受けなかったら、仕事をさせてもらえないだろう、と言っている。たぶん、積極的に打ちたい人は大勢ではなく、打つ人の大半は半強制、で多くは、日本人の人為性を嫌う伝統的なメンタリティーからして、打たないのではないか、だから、50%&50%くらいの割合になるのでは、と私は推察している。だから、集団免疫、と以前はだいぶたたかれていた考えを実現しようとするには、判断微妙な割合になるかな、と。しかも、現時点で、感染者が減ってます、となっている。このままいくと、一般者の接種は6月か、といわれているが、打つ必然性が実感にはさらになくなり、頭で理解できた人だけの自主性で。だけどオリンピックだ、と自主接種要請のメディア世論は激しくなり……ユーチューバーじゅんちゃんがいうように、科学的に判断しようにも信用データがない、オリンピックを前にGo toキャンペーンも復活し、というわけのわからない日本的状況がさらに加速しそうな。

打つことを奨励している人たちは、全体の感染リスク軽減という統計的理解を前提としている。子宮頸がんワクチンで子供を産めなくなった女子高生の話を思い起こすと、統計ではなく、やはり実存、がんにかかってから対処するという覚悟のほうがいんではないのか? と私はおもってしまう。それなら、観念できるが、健康だった人が注射でいきなり不全に、というのは、不条理すぎて納得・観念などできないだろう。が、他の世界の国々の人びとは、そう遂行しているのだという。この納得の仕方は、私には、というより、日本人一般は理解できないだろう。だから、中止のままで現在にいたっているのだろう。コロナ新ワクチン推奨派は、その子宮頸がんワクチンをこえて、現状の科学実践を受け入れるよう日本人の態度を変えるよう啓蒙すべきだ、と言ってもいる。が、先端科学技術の原爆を落とされた民衆にあっては、そんな直に肯うことなどできない、というのは、世界の民も、論理も理解できるはずだ。だから、その平和のためには原子力はいい、ワクチンはいい、など半端なことなどせず、研究はすすめても実践は慎重にゆく、と明確にすればいい。そうすれば、世界の趨勢の反対にポジション取りする先進国としての、つまり違った「観点」からのデータを、信用に値するものとして提供できる。

私は打つ気はないが、アトピーの子供はどうしたらいい? 自主判断はいいとしても、高校生に、どうアドバイスするんだ?(アレルギー体質者は副作用が高い、と指摘されてもいる。)―こういう話を女房にすると、あなたはぎゃあぎゃあさわぐ、と毛嫌いされる。いやおまえの安倍だの森だのといった世俗の話より学問の話のほうがマシで持続的だろう、と私はおもうのだが。もしかして、今度の虫垂炎手術で、ワクチンを打つよう医大から説かれていたりして、神経質になっているのだろうか? 60歳以上のババアに打って、死んでくやつが死んでいけばいいんだよ、実際これから年寄りから先に打ってくっていってるじゃない、というのが、女房の意見なのだが、なんでそんな意見が世間で通るとおもっているのか、普通の意見だとおもいこんでいるのか、私には不可解で、驚くばかりなのだった。