2024年1月31日水曜日

山田いく子リバイバル(9)

 


1993.9.21 <「クリステヴァ サムライたち」に目を通しながら、フランス思想界の特徴的な雰囲気が鼻につき(それは読みとばし)ながらも、女の人がこんな風にフィジカルに性を話してくれればって思ってた。愛や気持ちじゃなく、女の人が女の人をフィジカルに語っているのって少ないと思う。女の人ってSEXを感じてるのかな。>

 

(1)1998421日 「バレエモダンダンス スプリングコンサート」 ティアラこうとう大ホール

 ・「練習問題」に出演。群舞。

・「逃走する」に出演……おそらく、この仲間4人との演舞のタイトルと振付は、いく子が、浅田彰の『逃走論』を読んでの影響で、制作したものなのだろう。

 1998.8.4 山田いく子他「逃走する」バレエモダンダンス スプリングコンサート ティアラこうとう大ホール (youtube.com)

 ・「月下の円舞」。群舞に出演。

 

(2)1998124日 江原朋子「ガリヴァ旅行記」に出演。

 1998.12.4江原朋子「ガリヴァー旅行記」より抜粋 (youtube.com)

      この公演の、江原先生単独での演舞を抜粋する。にこやかな少女の仮面の裏に、どんな本心、苦渋で女性たちが生きているのか、あからさまに告発してくるような構成である。

 

(3)19994月 江原朋子「WELCOME TO TRICKSTER」に出演。前回ブログで言及した四人の舞台。

 1999.4江原朋子他「WELCOME TO TRICKSTER」 (youtube.com)

 追記;この作品は、いく子の制作であるとわかった。いくつもの演舞を紹介する公演のなかでのものなので、ある意味安定したものになったのだろう。この頃から、江原先生から、「単独リサイタル」を試みるべきだと言われたり、先生の音楽担当の方が、いく子のための音源の相談に自らのりはじめている。


江原先生にとっては、珍しいと思われる、抽象性を志向した作品である。が、椅子4つを、平行に並べる、という冒頭や、ダンサーの配置などにも、壊していくことを配慮する、安定的な秩序が志向されている。おそらくこの場所は、長谷川六さんが主宰していたダンスパス会場なのだが、それでも、無意識なものとして抑制がきく。観客を呼ばなくてならない、会場を埋めなくてはならない、自分を見に来てくれる常連の客の期待を裏切るわけにはいかない、といった、大会場の規範からは解放される条件だとしても、歴史の切れ目や断層に逃走線を引くという思想は、あらわれないのだ。それは、いい悪いの問題ではない。ひとつの時代と、もうひとつの時代がぶつかりだした。先生は、いく子や、ほかの若い世代の生徒との間で、感づいていたこととおもう。

 が、新しい時代と意識に引き裂かれ始めた自分たちが生き延びていくための逃走(闘争)線の引き方は、いく子のような、内省的な批評意識から認識されてくる、外へと出ていこうとする態度や思想ばかりではない、ということを、この江原先生の「WELCOME TO TRICKSTER」が、示唆というか、露呈してしまった。もしかして、このタイトル自体が、先生が、自分とは違う可能性で動き出した、若いダンサーたちへむけて、「WELCOME」、と言ったのかもしれない。

いく子も出演してるようだが、私が「ようだ」とためらわずにはいられないくらい、与えられた振付や枠の中では、彼女の存在感は消される。

が、そんな枠の中でも、それを突き破っていけるということを突き付けたダンサーがいたのだ。いく子の、性格が正反対なのに、大の友人であるのだろう、「ひはる」さんである。マチネ(昼)の部では、まだお客の入りがないからか、集中力は発揮されなかったのだろう。が、夜の、ソワレというのか、の舞台では、江原先生をこえて、舞台を占拠してしまった。おそらく、カメラマンも、その演舞の迫力に引き込まれて、主役が先生ではなく、この生徒であることと思い直してしまったのかのように、その姿を追い始めた。

 いく子が、飛び出していく思想だとしたら、ひはるさんは、飛び抜けていく思想、になるのであろう。いわば、群れから飛び抜けた技術と才能をもっているのだが、それは、振付の熟練の披露というのにはとどまらない射程で突き抜けるのだ。

 私は、いく子のダンスは、自分の教養枠で把握することができる。が、ひはるさんのは、なお把握していくための言語を知らない。比喩的にいえば、巫女的、ということになるが、その言葉の含意が、集団憑依や、無意識的な世界の露呈ということであるならば、彼女の技術は正反対のものであるだろう。相当、理性的に統制されている。イチローの、バットさばきのようなものに近い。ボールのちょっとした変化に瞬時にこちらの引き出しの中からそれに対応できるものを引き出し改変し、応答する。イチローはそうやって、そのままならセンターライナーになるからと、ポテンヒットへと、ボールを芯ではなくグリップに近いほうに打点をずらして対処していく。ひはるさんのも、そういうことを、まわりのダンサーや場の雰囲気、力のみなぎりの流れ、エネルギーの気流を計算的に読み込みながら、その場に連動し、さらに、より気力がみなぎりその効果が発揮されるよう、場を組織し作り直していく。無意識的な憑依にはみえない。場に呼応できるダンサーはいるだろう。がそこを、理性的なように更新していくのは、並大抵ではないのではないか? 彼女は、孤立していない。性格的にも、人の意見を、いつも静かに聞いている。おそらく、口うるさいいく子も、彼女には頭があがらなかったろう。

 身体は、近代にあたって、ナショナリティックに編成されていった。もちろん、体が、そんな百年や二百年の人為的な試みで、矯正しきれるものではないだろう。もうそんな矯正に従って生きることはできない、がならば、もう一度なように、その矯正の立て直しを破り、超え、新しく自分たちの身体を、自分たちの方向=意味へと、この体の中にある地層群を統制していくためには、どうしたらいいのか? イチローは、打つという目的、塁に出るという目的、試合の流れを読んで、ゲームに勝つという目的の下で、自己の技術を統制できた。が、われわれは、ダンサーは? 目的ってなんだ? ただ情念を、地層の亀裂からの噴出を発散させるヒステリー的な自由だけで、いいわけがない。ならば、拘束の向こうに、私たちは、何を夢見るべきなのか?

 

(4) 舞踏作家協会 ティアラこうとう 江原朋子「和」、に出演している。

 

1999.5.1江原朋子他「和」ティアラこうとう (youtube.com)

 

     この作品のタイトルは、イロニーであろう。日本の伝統やイデオロギーを喚起させる「和」。が、そこに、女性はいるのだろうか、入っているのだろうか? 女性も、子供も、入っていける、新しい和を作ろうよ、と、笑える演出で、会場ロビーで、ゲリラ的におこなったのだろう。

山田いく子リバイバル(8)ー2

 


いく子の「エンジェル アット マイ テーブル」は、賛否がわかれたようである。

昼の部では酷評され、夜の部では、賞賛されたと、友達に報告している。

昼の部では、美術を担当している人は、日中は用があったのだろう、参加していない。その代わりなように、朗読をしていた男性が、壁にポスター大の紙を壁に貼り付けてゆくようなことをやったのだろう。そしてビラを客席に配るのだから、どこか、まだ立て看板がキャンパスにあったときのような、学生運動の雰囲気がでていたのだ。だからなのか、この作品は、「60年代、70年代を思わせる」と批評され、「過剰である」という言葉で評価を受けたということである。

しかし、どこかアングラ芸術をたしかに思い起こさせながらも、それとは質も思想も違うだろう。いく子は、「権力への抗議」をすることによる「連帯」など思いもしない、と言っている。ただ、「アンチ主流派のダンス」として「押し切った」だけだと。そしてその年代と「共通項」があるしたら、「言葉を武器にしたってこと」だと言う。

 

男性の朗読はいらなかったのではないか、と共演した他の二人、詩穂さんとさくらさんは言ったそうである。いく子はこの意見に組しない。私の印象でも、朗読がなかったら、ちょっと拍子抜けした部分が目立つことになったとおもう。が、それ以上に重要なのは、やはり、夜の部、ソワレでは出演できた平野美智子さんの、美術制作の現場の背景があることだ。鮮やかに赤く伸びる布、山のように積まれる黄色いリボン、こうしたきらびやかな趣味に、いく子のミーハー的な、芸術鑑賞好きな志向がでている。それこそが、たとえば民俗学者の大塚英志が『彼女たちの連合赤軍』で抽出してみせた、そこに参加した女性たちに芽生えていた女性意識であり、彼女らを惨殺してしまった永田洋子自身にも萌芽し、自己抑制したものであったろう。いく子はその無意識な時代の重なりと感触を、小倉千加子の本から感じとっていただろう(若い頃の日記では、この「ミーハー」という言葉をめぐり、妹と言い合っうときもあったようだ)。そしていく子の時代では、もうそんな女性意識は、抑制すべきものではなかった。むしろそれこそを、「権力」ではなく、より内在し無意識に制度化・身体化された「システム」(いく子はこの言葉を使う。たぶん、村上龍系譜だとおもわれる。)への抵抗の基点としたのである。

 

<私は女子供の世界というところに足がかりをとっている。男性を起用したって愛だの恋だのなんてやる気はない。死んだってやらない。(もっとも振り付けられたら喜んでやっちゃうけど。)女子供の世界に押し込められている女性の現状っていうことをこの人どう思っているのだろう。年齢を重ねることの良さって、この人はダンサーの若さ美しさと活筋性をみてるってことの裏返しで、これはそのまま女性のステレオタイプな見方にすぎない。>――いく子のの舞台を評した批評家に対していった言葉である。

 

この舞台には、深谷先生や江原先生も来ていた。いく子は、そんな批評家たちの言葉ではなく、江原先生や(長谷川)六さんが自分を認めてくれた、その一事で頑張れてるのだと、友達に訴えている。

 

おそらく、江原先生は、このいく子の葛藤を理解していたと思う。江原先生は、まるでこの直情的ないく子の思想に、翌年、応答するような、ベタな振付、舞台で、女性の現状を告発しているからだ。

2024年1月30日火曜日

山田いく子リバイバル(8)

 


(1)1998年2月1日 舞踏家協会 ティアラこうとう連続公演

 そのうちの、江原朋子先生の舞台「キャンプ 青白い月の光がてらしてる」、に主演している。

 

(2)1998年2月6日 「エンジェル アット マイ テーブル」と題して、仲間とともに振り付けし、自らのダンスを披露している。

 

1998.2.6 山田いく子他「エンジェル アット マイ テーブル」 (youtube.com)


※ これも、音楽が著作権にひっかかってしまったので、冒頭抜粋をアップした。

 

いく子は、自分の本領を発揮しはじめた。がそのことが、「モダンダンス」を呼称する、江原先生との差異を、意識させられはじめることになった。そのことが、ほんの五日の間しかおかれていない二つの公演の比較において、歴然としてくる。そして翌年の公演において、おそらく決定的になったとおもわれる。

 

世代の差なのかもしれないが、江原先生には、核となる幻想、幼少期に夢見られるようなファンタジーが生きられ、反復される。98’21日「キャンプ」の舞台想定は、ヘンゼルとグレーテルや、赤ずきんちゃんをおもわせる、ドイツの森の中、夜、であろう。いわば、閉じた空間である。最後の場面、赤い炎とも血ともおもえる光の中で、ダンサーたちは、痙攣のような動きをつづけ、細い長い綱に赤い三角の旗のようなものを、江原先生が袖から、いかにも重そうに引いてあらわれて、終幕へとむかう。これは、江原先生の幻想が、揺らいでいる、それは自己の核としての夢であり、創造力の源泉なのだが、自分を重くし、ひきつけをもおこさせるものであることを、先生は感じ取っている。が、そこから、出る、という発想はない。あくまで、そこを表現する、という枠の中にとどまっており、それ以外の発想を、知らないようでもある。

 

が、より若い世代のいく子は違ったのだ。彼女の幻想の核は、引き裂かれており、社会の外へとひきずりだされているのだ、そのことを、意識として、突きつけられていることを、感じざるを得なくなっているのだ。

タイトルは、ニュージーランドの女性監督が作った映画からとられている。その映画の内容自体が、精神病院におくられる女性作家の話である。いく子は、もはや社会意識と作品と、自らの生き方を、要領よく振り分けて処世していくことはできない。彼女は、この自己分裂を、もう二人の個人として生きる女性ダンサーと組み、自分たちの個をぶつけあわせることで、その分裂した個々の衝突が垣間見せる、「リアル」な手ごたえ、生きた実感をつかもうとあがいているのだ。この「リアル」とは、いく子の言葉である。いく子は、すでに深谷正子先生の舞台に、こう疑問を呈してしる。<リアリティーって具象のことかな。抽象的なリアルって矛盾してるかな。>

 

いく子は、自分が何をはじめているのか、何をやっているのか、わからなかった。ただ、先生たちのいう「モダンダンス」とはずれていた。もはや、そこにはいっていくことも、とどまることもできなくなりつつあった。浅田彰や柄谷行人を読みはじめ、「ポスト・モダンって言いきれる人はうらやましい」とももらす。いく子には、そう言い切ることもできない幻想があり、自己が引き裂かれていた。いく子を評価した長谷川六氏には、それが見えていた。が、いまもなお、この亀裂からくるリアルをつかもうとするあがきを、ダンスの文脈においてうまく把握できている言説はないのではないかとおもう。長谷川氏は、柄谷行人や浅田彰がはじめた『批評空間』の前身である『季刊思潮』の創刊号に、ダンス批評を掲載した。が、彼女の言説では、この日本の思想ジャーナリズム界でも新しく台頭しはじめた言論空間に参入していくには、文脈の洗練さや、概念をつきつめるダンス界の批評の練度がたりなかった。だから、いく子は、もっと、自分を意識化してくれる、よその批評の言葉を欲したのである。それが、彼女がNAMにいく伏線だった。そして、江原先生や、その舞台にも参加してくれた、年上のおそらくはやさしい男性との別れの伏線でもあった。その二つの別れは、彼女にとって、思想的には同じことであった。父性的な抱擁さのなかにとどまり、自分をおしとやかにならしていくことは、ひとつの規範、モダンなるものを受け入れ、あきらめることにしか、彼女にはならなかった。もう、退行ができないところまで、彼女は歩みをはじめだしたのだ。

しかし、なおこの年、翌年は、葛藤の中であったろう。おそらく、彼女の方から、よりをもどそうと、花束をもって男のもとへ訪れたかもしれない。江原組の演舞にさそって、一緒に公演したかもしれない。二人で、舞台を作ったかもしれない。が、いく子は、あともどりできなかった、しないことを選んだ、ということになるのだろう。

彼女は自分のことを、「自己不確定性精神病者」と呼んでいる。

 

この舞台は、相当な強度と抽象度をもった、奇跡的な傑作である。江原先生の舞台を超えてしまっている。江原先生が、この一年程のち、まるでこの舞台の影響を受けたかのように、四人のダンサーを使う(いく子もふくまれる)抽象的な作品を作っている。がやはりそれは、具象的なストーリー性に回収されてしまう、安定的な調和、各人の対称性を保持している。(が、その枠を踏襲しながら内側から破っていく回路もがあることを、そこに参加する一人のダンサー、ひはるさんの演技が示唆するのだが、それは次のブログでの解説になるだろう。)

 

みんなすごいな、と思ってみていたら、あれ、このパントマイム、さくらさんじゃないか、あれ、この黒いダンサー、詩穂さんじゃないか、と気づいた。どちらも、付き合いが長くつづいて、私が知っている人たちだった。さくらさんは、今でも現役。詩穂さんは、交通事故にあってダンスはできなくなったが、岡山県で和紙職人のところへおもむき修行、3年目で独自の創作和紙を生みだし、現在も工房で活躍中だ。それと、朗読をしている男性。すでに当時アニメの「ドクタースランプ」の声優として採用されていて、のちに、「ドラゴンボール」などでも役をもらったらしい。いまは、ブックオフのベテラン店長であることが、スマホ検索から知れる。配布されたチラシには、ローリー・アンダーソンの「ストレンジ エンジェル」が翻訳されているが、その翻訳者を含めて、みないく子の友人・知人たちである。

 

「エンジェル アット マイ テーブル

  振付・出演 星野詩穂 山本さくら 山田いくこ

  朗読    吉本収一郎

  美術    平野美智子

 

ストレンジ エンジェル

  歌詞  ローリー アンダーソン

  訳   久喜はるみ

 

天国はTVみたいだという

小さな、完全な、世界

そこではあなたはそんなに必要とされていない

そこにあるものはすべて光でできている

日時は過ぎ去りつづける

ほら天使たちがやってきた 天使たちがやってきた

ほら天使たちがやってきた

 

運が悪いのを拡大したみたいな日

友達が夕食にやってきて

その夜は冷蔵庫を空っぽにし

またたくまにすべて食べつくした

そして居間でずっとおきていて

夜じゅう叫んでいた。

 

ストレンジ  エンジェル ― 私だけのために歌っている

昔の話 ― 頭から離れない

これは全然

私の願っているものではない

 

私は4つのドアの、外に、中に、いた

羽毛の上着を着て

見上げると、そこに天使たちがいた

何百万もの小さな涙

ほんのちょっと、そこでためらって

私は笑っていいのか泣けばいいのかわからない

それで自分にこう言った

次の大きな空は?

 

ストレンジ エンジェル ― 私だけのために歌っている

天使たちが動くとその一片一片が

私の上着にふりそそぐ

雨のようにふりそそぐ

ストレンジ エンジェル ― 私だけのために歌っている

昔の話 ― 頭から離れない

何かが大きく変わろうとしている

ほら天使たちがやってきた

ほら天使たちがやってきた       」

 

2024年1月29日月曜日

旅行

 


 ゆっくりと、母は入ってきた。

 手にした杖が、自動ドアのレールにかかった加減なのか、よろめきそうなのを見て、持っていたバックをいったん絨毯の上に置いて、母のもとへともどった。少し元気がでて、ひとりで歩けることに支障がなくなってきたとはいえ、もう、以前の、父が亡くなるまえの状態にはならないのかもしれない。あれから、半年余りがたった。その間、もはや自力での生活は、外見でも無理そうにみえるから、介護認定の検査をしてもらった。もしかして、長男の慎吾が家にいるから、それも難しくなるのか、とも危惧したが、要介護1の認定がでた。兄自身が、障害者の二級の身だから、だいじょうぶだったのだろう。

週に二日ほど、母は、デイサービスに通うことになった。認定検査を受けること自体をいやがっていたほどだから、ほんとうに通ってくれるのか、心配だったのだが、行ってみれば、けっこう楽しんでいるようだった。だいぶ以前から、風呂にはいる数もめっきり減って、むしろめったに入れなくなっていたろうから、毎週ごとに、体をお湯で温められるだけでも、生き返ったような心地がするのだろう。けれど、その道の専門職の自分には、母の靴下を履かせてやるときに目にする足の指先や、その間に、垢や埃がこびりついていることが、すぐに目についてしまう。限られた時間のなかで職務をこなしていくのだから、それは、しょうがないことだったろう。しかしその積もっていく光景は、少しずつ、心の重しになってくる。機会があれば、母を、旅行につれて、自分が風呂に入れて、体をきれにしてあげたかった。

母が、姉に会いに行きたい、と言ったのだ。実家で姉と同居し、面倒をみてくれていた独身の弟が、癌で先になくなってしまって、独り暮らしになることは無理だろうと、もう二人いるうちの弟の一人が、遠方から宮城の多賀城まで車で通いながら、いろいろ手配をしてくれた。姉と同居していた弟は、工場勤めをしていたからか、共産党員で、自分の死後のことを、党員の友人なのか、仲間に頼んでいた。なお身内が生きているうちの処置を他人に任せるのは不安だと、手続きにあたった弟は交渉し、あちこちと奔走した。まず、祖先から引き継いだ墓じまいをしなくてはならなかった。もう誰も、そこを見にゆける者はいない。檀家から抜ける、そう申し出ても、寺の住職は了承しなかった。母の何代か前には、日露戦争で活躍して、海軍の中将にまで出世したものがいた。兄の慎吾が、自分の精神のバランスをとるためなのか、いろいろ調べ上げて、親戚訪問などもしていたようである。ああ、永子の息子か、と、なお権威ある仕事などについているのだろうか、そう代を継承している親戚筋の者は言ったそうだ。母の実家は、当初は、仙台市のほうで、自転車屋を営んでいた。世界恐慌が来るまでは、裕福だったという。当時は、珍しく高級な乗り物だったのかもしれない。それが突然、貧乏になった。戦争が起きると、多賀城市の方へ疎開した。母は、小学校がかわり、そこではじめて鼻を垂らした同級生がいるのをみて、びっくりしたそうである。

手配の労苦を引き受けてくれていた弟の妻が、突然、泣き出したのだ。お姉さんがかわいそうだ! 先祖のひとたちに申し訳ない、ああ! わんわんと泣いた。住職は折れた。墓は、その弟夫婦の近くの墓地に移動することになった。母は、ほんとに演技がじょうずだったわよね、とのちに、回想した。

実家は取り壊され、更地にされた。売却し、入ってきた幾百万円かのお金は、兄弟姉妹で分割された。一番奔走した弟は、俺はいらないんだよ、もう使えきれないほどあるんだから、と言ったそうである。子供のころの記憶では、サラ金の取り立てみたいな仕事をしていて、自分にはあわない仕事でもういやだと言っている、という話を、聞いたことがあるような気がした。

姉も、千万円単位の預金があった。なので、それをもとに、専用の施設へと入居できることができたのだった。父が亡くなる、何年まえのことであったか。母は、その姉と、もう最後になるだろうから、会いたい、と言ったのだった。

ロビーの受付で手続きをすませると、ラウンジのソファに腰掛けさせていた、母のもとへともどった。母は、海に面した、大きなガラス窓の向うを眺めていた。雲のとぎれから、青空がところどころ覗いている下で、青くなりきれていない白い海が、おだやかに広がっていて、その広がりを、緑色の島が、あちこちと、まるで停泊する船のように、足を止めていた。ホテルの庭の垣根が、こちらに広がってくる波の静かな連なりを四角く区切って、その内側に、刈り込まれたばかりの芝が、苔のように覆っているのが見下ろせた。モスグリーンのゆるやかな起伏ある丘には、幾本もの松の木が散在していて、中央に、赤い屋根をもった東屋があった。大きなほんものの海とそこに浮かぶ島と、手前の、小さな、海を模した自然な風景は、どこか不均衡な二つの重なりをせりあがらせて、ここに立つ自分の場所が、まさに人工的に堅固なものであることを思い起こさせてくるようだった。階下から伸びた園路が、子供が砂場で作る細長い水路のように、微妙なくねりをみせて、東屋へと続いていた。

「津波は、その庭のところまでですんだのですよ。」

 いつのまにか、部屋へと案内してくれるのだろう女性が、背後に立っていて、少し事務的なニュアンスを感じさせて、言ってきた。

「島がたくさんあるから、だいじょうぶだったのですかね。」 直希は、人の気配を感じるだけにまかせて、海の方を向いたまま応じた。そうかもしれませんね、と女性は答えながら背をかがめて、絨毯上のバックに手をのばした。母の実家のほうでは、まえの道路ひとつ向うまで、津波が押し寄せて、危なかったそうである。

 エレベーターで何階か上の方へ昇ってから、部屋に通された。一通りの説明をして、女性はでていった。何をするでもなかった、風呂に、母をいれてあげればよかった。もちろん、男湯と女湯とに分かれた浴場になどは、連れていかれない。このホテルの一室の、狭い浴槽が使えればよかった。母は、畳に置かれた机の前で、背もたれのある座椅子に身を預けている。広がった窓からは、やはり海が見えた。向きが違うのか、先ほどのロビーからのものよりも、うかがえる島の塊が一方に偏っている。だから、半分、海が広く続く方向がある。日の出は、どちらからなのだろう。背の低い防潮堤が、浮かぶ島の手前に、くの字を描いている。漁船が走っている。庭が見えないからなのか、そこは、人の住む場所なような気がしてくる。

 夕食の時間までにもなお間がありすぎるから、テレビのスイッチをいれて、お茶をいれた。ここまでくる間、とくべつに観光名所をめぐって、お土産屋によってなどしていないから、口にするものもなかった。袋にはいった名物の笹蒲鉾が、お茶菓子がわりなように、人の数だけ皿に置いてある。母にとっては、それが食べなれたものなのかどうかはわからないが、子供のころ、家で作った味噌汁は、赤味噌だったとは思うが、世間でいわれるような、辛口であったようには思えない。ほとんど、外食などせず、母の作ってくれた食事だけをした。コロッケやハンバーグなど、子供向けの、地方色などないような献立ばかりだったと思うが、母は、料理は上手だった。ポテトサラダなども、食べやすく、食がすすんだ。群馬の山村の地主の息子だった父とは、この母の生まれた地方で知り合ったのだ。父は、自衛隊の事務職についていた。母は、仕事ができたので、そこへ派遣されていったのだという。着物をきて、大勢の人に囲われた、神社のまえでの結婚式の集合写真が残っているが、母の話だと、その日まで、式場に払うお金はなかったのだそうだ。参加してくれる知り合いのお祝いを当てにして、集まったお金を父とその友人たちが数え、その場で決済したのだともらしていた。母は、生い立ちはそれなりの裕福さを持ったのだろうが、テレビドラマの「おしん」を自分と重ね合わせてみているところがあったかもしれない。たしかに、働きづめだった。たぶん、結婚してほぼすぐになるのだろう、父の群馬の平野部の方で、長屋のようなアパートを借りて、そこで、三人の子供たちを産んだのだった。父は、地元の高校の、簿記の教師をしはじめていた。稼いだ金の半分以上が、仲間との付き合いや酒に消えていって、わたされる生活費では、どうにもならなかったのだろう。

 最初は、プラスチックの小さな部品を、プラモデルを作るときのように枠から外したり、つけたりする、内職と呼ばれるものだったかもしれない。そのクリーム色の部品の光沢の山が、記憶の片隅に積みあげられて、意識の端へと、その微かな光を匂わせてくるような気がする。それから、父が、事務型にうつったための、その補佐の仕事なのか、活字印刷のタイプを打つようになった。機織りものとまではいかなくとも、足押しミシンよりかは大きな、いかめしい鉄の塊が机の上に載っていて、一文字ごとに刻まれた鉄の活字を組みこんで並べた鉄板が、別の棚に積み置かれている。よく使う文字の入った鉄板は、すでに機械の中に挿入されているのだろう、片手で持ったレバーを、その鉄板の上に走らせ、必要な文字の上で押して活字をすくい上げ、それを印字する紙の位置にまで走らせなおし、またレバーを叩くように押して、インクを刻み付ける。ピアノを弾くときに楽譜を読むように、目よりは少し上の位置に開かれ置かれたた原稿を見ながら、一字一字、打ってゆく。挿入された鉄板の中にはない文字に出会うと、その文字が他のどの鉄板にあるかを探し出して、機械の中のものと入れ替える。打ち間違えたら、白い修正液でなおし、打ちなおす。打ち込みが、左の行先から右端の行末まで達したなら、印字の用紙が装着された丸い筒を、また左端の先頭から打ち込めるように、移動させる。ピコタン、ピコタン、ピコタン、ジー、と、その音はつづいた。いつまで続いたのだろう。朝から、中学に入るころ、父が倒れたときも、その音は、続いていただろうか。

 しかしそんな父の仕事の手伝いをしながら、母は、ピアノの先生もしはじめたのだった。母は、高校進学までで、べつだん音楽をやっていたわけではなかった。ただ、あこがれて、できるようになりたかったのだろう。とにかく、ひとつ隣の、町のピアノ教室に通ったのだ。どのくらいの年数を経てなのかはわからない。がベートーベンやショパンが弾けるようになり、家で、子供たちを教えることにしたのだ。次男の正岐までが、稽古をしたことと思う。正岐が小学生は中学年のころだろうか、父の教えていた少年野球に集中するということで、自らの子供たちは、生徒にはいなくなった。それでも、いつも十人近くの生徒を抱えて、週に一度になるのか、教室を開いていた。その中からは、実際に音大に合格する女の子もでてきて、将来はピアノ専門ではなくなったようだが、京都の芸術を教える大学の、古代の遺骨から人相を復元する専門の先生になる女性がでて、結婚した外国の夫をつれて、家に挨拶にきたりもしたのだった。

 まだある。着物の着付け。これも一度先生について、毛筆で大書された木製の板の看板をだした。それから、父が退職し、いったん勤め先の付属の幼稚園の園長になってからは、その幼稚園の先生までした。もちろん、保育士の勉強をし、試験を受け、その資格をとったのである。付属大学の学部増設の任務を終えてから、再雇用ということで引き続き事務にあたっていた父だったが、もう時代遅れな知識になるからか、やはり精神的にまいっていたからか、顔だけの園長職務は、左遷だったのだろうという。そんな父を助けるためなのか、母も、子供たちのあいだに、交じっていったのだ。

 母は、お茶をすするでもなかった。テレビの音にさそわれるように顔をそちらにあげたが、すっと、窓の向うの、海をみた。座った低い位置からは、海というより、空しかみえないかもしれない。背も、まがっている。がまがったその背を起こして、またすっと、立ち上がろうとした。座卓に手をついたところで、バックの整理をしていたのをやめて、その台のまわりをまわって、母のところへ寄った。膝をのばすのが億劫そうだったが、自力で起き上がると、窓のまえに置かれたテーブルの方へゆっくりと歩き、椅子に腰かけた。窓の向うの、海をみた。こんどは、はっきりと、海に浮かぶ島々も目に入っただろう。がすぐに母は、視線を下に向けて、テーブルの上を見つめるようになった。

 このホテルへ乗用車で向かう途中、海岸沿いの道路を走り抜けるとき、ここまで修学旅行で歩いたんだよ、と母はこぼした。幹の太くなった何本もの赤松が、その身をくねらせて、道路に、海の方へとかぶさっていた。小さな山のような島が、その松林の間から見え隠れし、切れ切れとなった海が、穴に蓋をするように盛り上がって見えた。訪れた観光客が、いくつかの塊を作って、芋虫が体をくねらすように、もぞもぞと移動してゆく。大変だったけど、おもしろかったなあ、と、母は、何かを思い出したのかもしれない。

 母は次女だったことになるのに、姉よりも、長女のようにみえた。この松島の湾に流れるいくぶん大きな川の河口先端の、見晴らしのいいホテルに来る前に、姉の入った施設に立ち寄ったのだ。用水路のような川の縁に、何棟かの二階ほどの建物が並んでいた。下火になったとはいえ、まだコロナの対策があるので、施設の中までは入れないということだった。出入口を入った玄関口、車いすでも入れるように広くはなっているので、その受付前の広間で、顔合わせ程度の話はできる、そう訪問まえに言われていた。母は、そこで持ってこられた椅子に座ってまち、しばらくして、姉が、施設の人に連れられて、やってきた。それを見届けて、過密な人の群れになるのは避けた方がいいのだろうと、職業意識が動いて、玄関を外にでた。日差しは強かった。梅雨時なはずなのに、雨は、まったく降ってこなかった。母をみたとき、背の小さな母よりさらに小さく細くなった姉は、はちきれたような笑みを皺の表へとみせた。

 10分もたたなかったのではないだろうか。母は、自動ドアをくぐって、外にでてきた。うれしそうだったねえ、帰るのが、かわいそうになってきたよ。お尻をね、まだ自分でふけるんだって。弟がね、あっちの施設をさがしてひきとってもいいって言ってくれてるんだって、タエさんがね、わざわざここまで言いにきてくれたんだって、どうするんだろうねえ……母は、少し、ゆっくりなしゃべり口だったが、饒舌になった。がまた車の後ろ座席に乗り込むと、引きこもるように、押し黙った。

 姉より勝気そうで、はっきりとものを言いそうな妹の母だった。アルバムで、若いころの写真を目にしたとき、土手の草むらの上に、スカートの裾を茸のように広げて座った母の、目をぱっちりあけて、前方をしかと見つめた眼差しは輝いていると思った。白黒の写真でも、その瞳が生き生きしているのがわかる。ベティーちゃんってあだ名だったのよ、といつだったか、まだ中学生の時分だろうか、教えるような口調で言われたた覚えがある。明るい笑みを浮かべて、そう口にしたのではなかったろうか。しかし、東北人だからなのだろうか、対人関係では控えめだった。子供の少年野球の応援では、他の母親たちの影に隠れるように、息子たちを見守った。かかあ天下といわれる上州育ちの、他の母親たちの間では、気後れしてしまうのだろうか。父の実家を訪れ、父の母や親戚たちの話し合いを目にしたとき、まるで喧嘩をしているのかと思った、という感想も聞いたことがあるような気がする。

 手持ち無沙汰になって、母の座っていた座椅子に腰掛け、お茶を飲んだ。笹蒲鉾の包装紙を引き裂いて、口にしてみる。もう何度も、母を実家に運んだついでに、その一帯にある観光スポットのような場所には立ち寄っていた。いや立ち寄るというか、素通りしながら、目にしていた。武将の勇ましい銅像のあるお城あとの公園、流れる川。思い出はかえらない、と、母が、そんなは流行りの歌を口ずさんでいたことがあったことを思い出したりした。しかし子供のころは、母は、実家にほとんど帰省したことはなかったろう。一度だけだ、思い出に残るのは。まだその頃は、母の父も、母も、健在だった。黒い、着物のような和服を着て、母の母は、笑顔をみせて、話しかけてきた。たぶん、正座をして、こちらを見ていた。が話す言葉が、まったくわからない。母の弟の、自分からすれば叔父さんにあたる者の言葉は、イントネーションがこちらとは違っても、その意味を聞き取ることができた。しかし母の母の言葉は、とっかかりがなかった。おそらく、ぽかんとしていたことだろう。不思議な経験だった。何もわからない。がそのなかから突然、「かつどん」という言葉があらわれた。う~ん、と深くうなずいただろうか。しばらくして、出前で、かつ丼がでてきたからだ。

 母の父は、何故なのだろう、たぶん二階からおりてきて、こちらに顔をだしたのだろうが、すぐに背中を向けて、どこかへいってしまった。記憶の中では、鴨居の下の、部屋の仕切りのところで立ったままの、後ろ姿の細長い背中がみえてくるだけだ。顔を、見た覚えがない。うん、とか、何か返事での受け答えを母との間でしたような気もするが、それきり、消えてしまった。昼についたのだから、夜になって、みなで食事をしたはずなのに、その姿をさがせられない。よみがえってくるのは、家の外の小屋のなかにあるお風呂のことで、五右衛門風呂の釜の姿だった。

 夜が、まるみえだった。小屋の上からさしてくるのか、電灯のオレンジ色のもやのような光の向うに、先ほどでてきた家の引き戸がみえる。まるい鉄の湯舟の底には、簀の子がひいてあって、やけどをしないように、その板の上に両足をそろえて、かがみこむ。それも、不思議な経験だった。湯につかっているというよりかは、やはり、ゆでられているような気がしたろうか。丸く縁どられた黒い水面に、顎から先の顔だけをだして、じっと、夜の向うの家の姿をみている。今から振り返れば、まさにゆでられた蛙のようだが、そのときも実際、蛙のようなぎょろ目で、身動きもせず、湯につかったまま、その開かれた目の玉だけで浮いていたように感じていたはずだ。たぶん、小学生も、中学年のころだ。母と二人で、大宮か上野駅まで電車ででて、乗り換えてまた、鈍行電車で七時間はかけて仙台にまでいったのだ。

 その母と、自分の運転する乗用車で、おそらく最後になるのだろう里帰りをしている。米寿で亡くなった父より二つ年下の母も、再来年には、そのお祝いの節目をむかえる。健康的にはそこまでゆきそうだったが、父が亡くなり、気落ちした状態がつづけば、どう転変するかはわからない。父も、ペットで買っていた犬が死んでしまってから、みるみると老化し、痴呆になり、衰弱していった。

 父が、施設に入ってからは、むしろ元気になった。この家を守らなければならない、と思いはじめたのか、となり近所の人たちと、対立するようになった。女だからって、なめてるんだよ、お父さんが人がよかったから、なめてるんだよ、と強い口調で言うようになった。堺を接したお隣の小屋の屋根のへりが、こちらの金網をこえてかかっていて、雨が激しく降ると、小屋の雨どいから雨水があふれだして、家と一体となったようなこちらの物置の中にまで浸ってくることがあった。といが外れてるんだよ、こっちの敷地の上にといがあるなんて、おかしいじゃない。わたし言ってやったのよ、こちら側につけるのっておかしくないですかって。だけど、何もしないのよ。女だからって、なめてるんだよ。たしかに、水の流れがつかえたように、物置のまえで、水たまりができるようだった。しかしそれは、梅雨時でもないのに激しい雨がつづき、雨どいではさばききれない量の大雨が降るからかもしれなかった。しかし雨どいがはずれていることははずれているので、それは脚立をだして直したが、そのお隣の小屋の雨どいの流れをみると、地面に流し落とすその垂直部分のつなぎに、穴が開いていないのが見えた。旦那さん本人が手作りした、小屋なのだろう。母に報告すると、ねえそうでしょ、おかしいでしょ、黙ってちゃだめなのよ、役所に言って、直させなくちゃだめよ、言ってもきかないんだから。

 越境してくる蜜柑の木のことでもそうだった。これもたしかに、金網をこえて、こちらの駐車場のところにまで、枝の山がこんもりと茂っていた。そのまま実がたくさんつくので、たわんだ下枝が頭の上くらいまで垂れ下がってくる。冬には、葉がたくさん駐車場のコンクリの上に落ちた。掃除にきりがないよ、まったく。実が欲しいものだから、枝を切らないのよ、塵取りの葉っぱをばあってお隣の庭に投げてやるんだから。お隣も、母より若いといっても、老夫婦だった。母がピアノを教えてもいた長女が一緒に暮らしていて、その息子たちが二人、家からどこかの職場に通っていた。車がなければ通勤できないとはいえ、みな、老夫婦をはじめ、一台一台、乗用車を所持していた。家の裏の屑屋の跡地を買い取って更地にし、砂利をひいたあと、息子たちの車をおかしてくれないかと声をかけられ、貸してやっていた。が息子のひとりが、遅く帰ってきて、吸い殻をその砂利の上にばらまいていくという。注意するという猶予もなく、母は、もう車をおかせないと言い張った。畑にするから、もうだめですって、言いにいって。そうして、車止めとチェーンを裏の空き地につけてやったのだ。

 母は、何にたいしても、かりかりするようになった。まるでそれは、これまでドラマのおしんのように我慢していたその蓋が、はち切れて、飛んでいってしまって、抑えていた中身があふれだしてくるようだった。女だからって、なめてるんだよ、口癖のようにそう言うのは、もしかして、東北からこの関東地方へと嫁にきた母が、ずっと抱え込んでいた思いだったのかもしれない。いいかい、こっち側の家との境界はね、金網の外側がそうなの、でこちらの家との境界はね、ブロック塀の真ん中がそうなんだからね、覚えておくのよ。それは、意地になっているように思えた。

 母は、窓のほうの、斜め下あたりを、ぼんやりと見ていた。その視線の先には、窓枠のなかにおさまる風景の端が見えるだろうが、母がいま、その懐かしい海と島の姿に物思いにふけっているようにはみえなかった。力のない瞳は、閉じられているかもしれない。

 父の葬儀にあわせて染めた髪の茶色が、透けたカーテンを通して照れる日の光を受けて、白っぽく反射している。もつれて落ちた髪の先が、耳たぶの上にかかっている。頬の膨らみと、染みのまだら模様の落ち着きには、風格があった。

 直希は、腰をあげて、横顔をみせてうつむく母に声をかける。

「お母さん、お風呂にはいるよ。」

2024年1月28日日曜日

山田いく子リバイバル(1)ー2


 1992年の作品「ガーベラは・と言った」の、いく子の制作過程を振り返った文章がみつかった。

 

1992.10<ラジオから昔のヒットソングがかかり、台所に座ってる女の人が、アルコール依存症にかかってるような、こわれたものにしようと思っている。

でもこわれない。深谷先生のところのメンバーはこわれない。冷たくも無機質にもなれない。困った人だ。どう振り付けていいのかわからない。だからコミカルダンスに変えちゃった。そう思えるかどうかわからないけれど、私から言われると、明るいからコミカル。照明も明るく入れてもらったし、きれいに仕上がった。>

 

しかし、最初の意図が、実現されてしまっていると見るべきだろう。じゅうぶん、椅子に座ったままの女性がアル中になってゆくような、退廃性をたたえている。コミカルに変えたのは、マリオネットなピノキオみたいな動きが、より女性の置かれた位置・拘束を浮き彫りにさせた。

2024年1月25日木曜日

山田いく子リバイバル(7)


 ・199783日 「レストレスドリーム」 

※残念ながら、おそらく最初のスペイン語の曲が著作権にひっかかって、削除されてしまった。ので、抜粋編集したものをアップした。また、いく子のダンスタイトルは上のようだったようで、「ルーシーの食卓」とは、ダンス機構主催、松村とも子企画制作の、この公演全体の題名だったようだ。天王洲アイル
駅近くの、アウフィアメックスという会場でおこなわれている。そしていく子のノートに貼り付けられたチラシによれば、衣類を広げていく二人の共演者は、亡くなるまでつきあいの続いた、堀江さんとひはるさんだった。

 

(6)で紹介したハット帽子ダンス「I asked to Summer」より、一月まえの作品になるようだ。

 たしか、ダンス評論家でもある長谷川六さんが、衣類を広げるいく子のダンスをみて、彼女の意義を理解した、みたいなことを私に言ったことがあったが、この「ルーシーの食卓」と題されたこの公演のことなのだろう。しかも、その一月後に、あの飛躍を刻印したハット帽子の演技をおこなうのであるから、彼女は、ダンサーとしては、充実した集中力を持てた時期なのだろう。江原組に入り、気の合う仲間もでき、その組みの踊りだけでなく、自分の創作にも打ち込める。

 

この舞台で、いく子は、何を表現したかったのだろう? この演技を録画したVHSビデオは、何本かあるのだが、そのうちの一本に、同じ公演での、他の女性ダンサー二人の演技のものが収録されていた。おそらく、いく子が自分のものと、彼女たちのものをも動画におさめさせて保存したのは、自分と似たものを、彼女たちの公演に認めたからであろう。

 

似ているからだ。どちらも、日常的な世界の一部を切り取って、素材としてアレンジしている。そして、「運ぶ」という動作を他者の演技として背景に持つ、ということだ。

 

二人ダンサーでは、一方が、突っ立ちながら、菓子パンか何かを、ポリポリ食べている。その背後で、もう一人が、段ボール箱みたいなものを、室内の外へと通じるドアから、入ったり出たりしながら、舞台の真ん中へんにある机に、重ねるというか、置いていく。そういう行為を骨格にして、断片的な、ダンス演技が披露されていく。

 

いく子のはどうか?

 

スペイン語の「エスペランザ(希望)」と歌われる曲で踊りはじめる彼女の背後から、やはり、二人の作業服を着たものが、両腕に、シャツや上着などの衣類を抱えて、床に山にしていく。それを、舞台の外へと通じるドアから、行ったり来たりと、舞台のあちこちに山ができあがるまで、繰り返すのだ。

 

そして、どこか破壊的なノイジーな音楽に変わって、いく子も、飛び蹴りや、彼女は高校部活でハンドボール部だったから、そのボールを投げる動作を、繰り返す。あの、上に振り上げた両手を、床に叩き落とす表現もみえる。が、おそらく、同じ日に2回公演したものと思われるが、一回目では、手が床についておらず、どこか、ラジオ体操である(両手を使うのが大変なので、片手投げになった、ようにもみえる)。が、二回目の公演で、はっきりと、床に両手が着かれた。が、またその力は、弱い。その間、作業員の二人は、山になった衣服を、一着一着手に取って、広げ、床にならべるというか、広げはじめるのである。

 

そんな中で、また、音楽が変わる。イスラム教のような、祈りの文句をとなえた曲が流れる。いく子も、祈りのようなポーズを連想させるフォルムをつなげながら、しばらくして、衣服を広げる作業員とともに、静かに、ゆっくり暗くなっていく舞台の闇に消えていく。

 

タイトルには、「食卓」とある。食べる、着る、つまりは、日常にある現場、労働の、仕事ある生活。しかしその普通な表象の背後では、ゴミ捨て場のような山ができていく。それは、乱雑に、拡張されていく。その間を、狂ったように走り回る。――テーマは、明白になる。希望、破壊、祈り……今の世界、そのものだ。

 

1997.8.3 山田いく子ダンス「ルーシーの食卓」 (youtube.com)

山田いく子リバイバル(6)ー2

 


S.62..7 七夕<アナイス・ニンの日記 一日め。笑ちゃった。あなたがわからないのは、私がヘンリー・ミラーだから。早く読んで、そう言えばよかった。あなたは ニンに 似ている。ニンはあなたに似てる。まだ読み終わってないから、感想は、あなたの分析は……怒らないで、次回に。>

 

家父長制的な下で幼少期を送った彼女たちは、表向きは、「強い姉」、キャリアウーマン、下村満子、といった表象をもつ。が、その内面では、少女漫画(いく子の小倉千加子の受容はこの文脈でだろう)、小さな、「軟弱」な自分を育んでいくことで、精神のバランスをとるほかなかった。精神分析的な解釈など、彼女たちが気づき、わかっているのだ。だから、ニンはどうしたいの? といく子は問うている。

 

そこから、自分が知らない間に立たされた位置から、彼女たちが、どう方向=意味(sense)を見出し、あがいたのか、その思想的な葛藤を読み込んでいくことが大切だと考える。

 

たとえば、性同一性障害者は、手術して体を変えてしまえば、同一性を確保できれば、問題は解決されるのか? そうではない、と、よりグラーデーション(レインボー)な場所にいる彼女たち、いく子や冥王真佐子の生きざまが、あかしている。

 

自分のマッチョさを、唯物(交換)論的に偽装することや、耄碌的に居直ることの、どこに意義があるのだろう?(いく子は、柄谷と村上春樹を、「軟弱」だから好き、と受容している。村上春樹が男根的なのは、最近の評価では、宇野常寛や福嶋亮大によって、あからさまに指摘されている。二人が世界で受容されているのは、そんな「軟弱」な体系(男)でモテルことがありうるのか、という、日本的形式性へのエクゾチズム、オリエンタリズムであろう。)