2011年4月15日金曜日

世界へ向けての連帯


「……政権にとって、市民意識の高揚や怖れを知らぬ勇気、(恐怖に動かされる闇雲な愛国心とは正反対の)世界との一体感ほど危険なものはない。」(『暗闇のなかの希望』 レベッカ・ソルニット著 井上利男訳 七つの森書館)

「この普遍性への形式的関心は、突き詰めると、ひとつの倫理的態度を要請する。それは、すべての判断の前提として、あらゆる他者――再帰的に捉えられた自己もふくめて――は、普遍性に通じているということを推定することだ。普遍主義の暴力は、他者を個別主義者のカテゴリーに追い込んでしまうところに、その源泉があるからである。メタ普遍主義は、それに抗して、他者が潜在的に普遍主義者であることを推論の起点に置く。そうすることで、私たちは、ポジティブな合意をコミュニケーションの条件とする発想を解除される。またコミュニケーションに入る資格があるのかどうかを延々と問い詰める態度からも切断される。必要なことはただ、現にみずからもそのうちにあるコミュニケーションを通じて、そこに生じていることをよく観察し、自己と他者とのあいだで共有されているであろう規範へたえず立ち返る(フィードバックする)ことに尽きる。」(『現代帝国論 人類史の中のグローバリゼーション』山下範久著 日本放送出版会)


日本サッカー協会は、招待されていた南米選手権への出場をいったんはこの災害対策のために辞退を申し出たが、南米連盟からの再考の促しに、欧州クラブで活躍している日本人選手を招集できたら、等の条件付で出場を表明しなおした。私には、この協会幹部の煮え切らない態度は、当初東電に処理判断を一任し、諸外国からの緊急な救援への申し出も遅滞させていた菅総理をはじめたとした官邸中枢と同じような体たらくにみえる。勝ち負けや、うまくいくかどうかなど、杞憂する必要はないのだ。もっと他者を信頼し、任せていけばいいのである。端的に、日本代表は参加を意志すればいい。重要なのは、世界に存在していること、自分たちもその一員であること、その連帯を受け入れ表明してみせることである。主力メンバーがそろわず、悲惨な負け方をしても、誰も、どんな他者も、それをおとしめることはしないだろう。島国的な日本人には、この感覚はわかりにくいのかもしれない。またそうした他者の間で、判断不能に陥ってしまうかもしれない。しかしならば、自身の白痴(ばか)を自覚したうえで、他者に身を任せてみること、それが他者が共存する世界に参加し連帯しうる最初の一歩(信頼)なのである。むろん、この自覚というところに、用心や観察といったことも含まれてはくる。しかし、その歩みがなかったならば、どんな世界体験も得られないのである。ワールドカップで優勝をめざすのなら、この危機にあっての出場は、そのサッカーの土俵たる世界自体を知りうるための、貴重な根底的な経験になるだろう。私が自身のHP上で連載している『境界霊』で呈示しているのもそのことだ。国際的な暴力団が跋扈する新宿の歌舞伎町世界で、フランス人の女店主とペルー人の店長と店の保証をする日本人が、どうやって、客の中東や南米からの男女たちをあいてに自分たちのレントラン&バーを経営していくのか、そのときの保証人たる日本人の態度模索のことが例示されているのだ。私には、判断不能だった。自分が何に巻き込まれているのかもわからない。しかしジタバタ疑心暗鬼に引きこもるのではなく、自分がバカな日本人だと自覚することで、ひとつひとつ学んでいこうと、彼らを信頼することにしたのである。そのことで彼らもまた信頼し、情報を共有することになる。その世界はある意味、ヤクザの「仁」の世界に通じている。フランス人も、ペルー人も、コロンビアの女たちも、イランの男たちも、そしてヤクザの下っ端の者たちも……彼ら(世界)が属していても嫌うものは、上っ面に流されていく者、そこで展開されていく社会である。金のために働きながらも、金を嫌悪しているのだ。金に流されていくもの、そうみられたものは内心の人間関係から村八分的になる。日本の田舎のじいさん、ばあさんほど国際的なのではないかと訪れていた外国人が感慨をもったのは、そういうことだ。自己卑下することなく、世界に参加し、自らが連帯を表明すればいいのである。


しかしそのことは、上っ面の、金の流れのような虚構世界を泳いでいくことを態度の是とした者たちへの疑義を持ち続けることを要請してくる。つまり世界へ参加することには、そういう意味での、抵抗が孕まれてくるのだ。


福島第一原発の現状で、水素爆発はあるのか?……NHKテレビで「最悪のシナリオ」が呈示された翌日に、その可能性の方のことがむしろアピールされてきたことに、私は疑いをもった。答えを言ってしまったら、情報操作にならないからである。むしろ、だから本当は、爆発はない、と判断しているのではないか?……塩素38が検出されたことを受けての再臨界可能性大のアメリカ人学者論文のアメリカでの新聞記事のネット上での流出→海への放射能汚染水の放出→二つの最悪のシナリオ呈示→窒素注入するとの報道→水素爆発の可能性があるからとの報道……これら大本営発表は、明確な因果関係を示して呈示されたわけではなく、単に一連のこととして出されてきたのである。それを視聴者側が勝手に、ならば爆発の危険が大きいのか、と物語を作ってしまうということなのである。だからこの責任(因果)主体を逃れた情報操作が意図してくるものとは、日本人民の恐怖をあおっている、ということである。ならばこれは、テロがある、と9.11以後のアメリカ政府中枢の態度(誘導)と似ている、ということになる。


昨日発売された週刊文春によると、次のようなやりとりが、東京の東電にある統合本部と、現地の対策本部との間であったとされる。「(現場所長)こちらにがんばれ、がんばれと言うが、そういう、長期的なことは、そっちでちゃんと考えて欲しい」「確かに、窒素注入の重要性は分かる。将来的にもすべきだと思う。しかし、それは今じゃない。」……文春記者の説明によると、やっと現場労働者の努力で原子炉をコントロールできる見通しができたのに、それをテレビ会議室の隣に陣取ったアメリカからの要員の突然の横やりによって台無しにされかねないと。「もし、格納容器に損傷があったらどうする? 窒素を高めに注入したら、蒸気が凝縮して水滴ができ、陰圧になると格納容器内に空気が入る仕組みが働き、爆発条件が満たされる――つまり、それこそ水素爆発の危険性が発生する。そんなリスクは冒せない!」「それでも窒素封入をやれと言うのなら、オレたちは、この免震棟から一歩も出ない! ここで見ている!」……東京からの幹部派遣・説得により、窒素注入が開始され、この海江田大臣を含めたテレビ会議に、アメリカ政府(要員)は参加させてくれと申し出ているという。

この福島原発事故の最中で、その原子炉が欠陥品でありゆえに停止せよとすでに1976年の時点で抗議退職した、そのアメリカ人設計者本人へのインタビューを記事にしたのは、おそらく毎日新聞の3・30(水)の夕刊が最初だろう。次の週だったか、「週刊現代」がその設計者へのインタビューを特集し、ようやくという間隔で、朝日新聞が朝刊で言及する。この事故の一番の原因がここにあり、ここから発する世界の利権構造の惰性にあるのは明白である。こういう観点から、始めから現状批判を展開していたのは副島隆彦氏である。現場に乗り込んだ氏は、みなが放射能と原発の爆発可能性に怯えているなか、避難した福島県民は子供もつれてもどってきなさい、もうだいじょうぶです、といい続けた。私は氏の態度を思想家としては理解できても、どう認識的・実践的に受けとめていいのかわからなかった。しかし同じく昨日アナウンスされた氏の解析と、文春での以上の記事との符号から、氏の意見が単に思想家的な覚悟によるものだけというのではなく、その前提となる認識も、あたっているのではないか? とおもうようになった。つまり、もう再臨界的な事故は収束している。にもかかわらず、われわれはアメリカ側から遠巻きに操作されており、恐怖をあおられ、そしてなお日本政府とその利権構造は、被植民地的な忠実さを発揮している……。


NHKをはじめとした、メジャーなメディアの信頼性が失墜し、傍系におかれていたネットを中心にした知識人たちの意見がヘゲモニーをとりつつあるかにみえるその言論状況の中で、塩素38の検出は再臨界を意味するとのアメリカの学者の意見がアメリカの新聞に報道されたことから、最近の流れがでてきている。東電も1号機での急激な温度上昇を発表し、理由はわからないが、計器が壊れている可能性もある、との報道を受けて、videoニュースで神保氏と宮台氏が対談し、小康状態ではなく、やはり再臨界へと悪化しているのではないか、という方向で言論が組織されていったわけだ。が、ということは、こうしたインテリと知的大衆の世界をはめるために、もしかしてその計器が壊れているかもしれないという数値は、公表されたものとしてははじめてのでっちあげ、なのではないか?(おそらく、第三者にそそのかされた……)


そう推論しはじめていたところで、先ほど、ジャーナリストの岩上安身氏の、昨日4/14午後6時からの保安員の会見での質疑応答のビデオをみた。その中で、岩上氏の突っ込みに、あの眼鏡の保安員は、塩素38の件はいま再調査中であり、再臨界は起きない、圧力容器に穴があいているような損傷はない、その前提で対策を練っている、と最後にもらすように自身の見解をのべた。勘ぐるに、保安員は、東電とアメリカ要員とのやりとりを傍観的にきいてしまう立場にいるので、彼らの思惑のことなど思いもつかず、図らずも大切な真実を述べてしまったのだ、と。つまり、もう爆発はない、ということだ。


しかし、大規模広範にわたる爆発は原理上おきなくなったといっても、現場でのなんらかの爆発的事故はおこりうる。それは、従業員のボイコット反乱がおきれば、ということだ。アメリカは、恐怖をあおればいいわけで(3.11以後の日本国民を操作しやすくするために)、なおさらコントロールできない現実の事態が発生することは、株価や為替の操作、もっとおおきな利権構造を動かし、自身の責任を隠蔽するためにも、のぞむところではないだろう。だから、従業員の反乱が強くなれば、懐柔策にでるはずだ。おそらく、そのために、テレビ会議に参加したいのだ。そして言うのかもしれない。労働条件の改善と、君たちの将来と、家族の保証はみる。だから俺たちのいうとおり動いてくれ、と。そんなちっぱけな金より、もっと大きな見返りをたくらんで。


歌舞伎町で店を開いたフランス人の店主も、ペルー人の店長も、暴力団からの誘い、金を受け取ることはぜったいにしなかった。そういうものたちを、軽蔑していたからである。この本当の感覚にこそ、世界への連帯があるのである。


* 追記の注)――私の物言いは誤解されるとおもうのでその点をひとこと。たとえば、塩素38の検出から再臨界可能性の論文を書いたアメリカ人学者個人が、意図的に日本人をはめる、とかいうことではない。それは、個々の日本人がアメリカに意図的にはめられるのではない、というのと同じである。しかし、そこに歴史構造的な支配ー服従関係があるのは明白的である。個々の事象がバラバラでも、意識しないがそうなってしまう複雑な関係構造の大きな流れのなかにわれわれがいる、ということだ。そしてその流れのなかで、それを利用しながら、意識的に操作しようとする権力というひとつの強力な関係項目がある、ということだ。そして先のブログの結末を敷衍していえば、たとえ9.11後のような権力操作があったとしても、3.11がその時のように短・中期的にも成功してしまう、ということは難しいだろう、つまり、なお庶民の本然、歴史の流れに抗う自然的な力が相当ふんばるだろう、と現在もおもっている。われわれはこのような自然との対峙を、何万年とつづけている、そのことから構築された我々の身体価値があるのだ、と私は思うゆえである。

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