2011年5月7日土曜日

判断と決断、黙ると騒ぐ

「選手によるクラブ自治と無監督制の広がりに対して、早大を中心とした野球界の重鎮からは強い批判の声が上がる。例えば飛田穂洲は、「近頃学生野球を代表するところの東京六大学中に無監督制の声が高まっている」が、「コーチのある事によって学生自治の野球に支障を起すように考へているものがあればむしろ滑稽」と述べた。飛田は、「選手合宿の自治、その他の野球部行政等は学生の手に委ねる事が穏当」と選手自治の必要性を認めながらも、「野球練習とその精神教育だけはコーチによってなされ」なければならないとして、練習と選手の精神教育の面から監督の必要性を主張した。…(略)…監督は日本の野球のレベルが向上し、チームプレーや作戦の重要性が高まったことで、試合に勝つために導入されたものだった。しかし、監督が普及・定着し、同時に政府がスポーツを通じた思想善導を打ち出すなかで、監督の役割として選手の精神面の教育が強調されるようになってきたのだ。学生野球の弊害を防止するためには、選手の精神面の指導は欠かせないとOBたちは考えていたし、監督の多くは教員ではない以上、学業の点での教育はできないという現実的な理由もあっただろう。こうしたことを背景として、日本の学生野球は監督主導のもとで、選手の精神を鍛えることが非常に重視されるようになっていく。」(中村哲也著『学生野球憲章とはなにか 自治から見る日本野球史』 青弓社)


子供とドラえもんを見ていたら、テレビ画面上に、菅総理浜岡原発に停止要請、とテロップで緊急情報とやらが入る。これはなんだとパソコンを開き、ネット上でYahoo!ニュースをみてみる。要は、近い将来に強い地震や余震が想定されるなか、日本国民の安全性を考慮して判断した、しかし、現法規では停止する権限はない、と。この唐突に覗える判断呈示をみて、私は次ぎのように反応した。「これでは原発対処と同じで中途半端になるな。菅氏はもうそろそろ辞める、辞めることになる、と観念したのではないかな。だから、そのまえに、俺はいっただろ、注意しただろ、という事後的な優等生弁明をやって言い逃れるために、先回り的な口実を作ったのかな?」というものである。ネット上のほんの数行の記事だけからは、それが「決断(実践)」ではなく、単なる「判断(認識)」を示しているだけにしかみえなかったからである。本当に決断したならば、今の法規ではできないので、ゆえにこれから法を変えてでも停止するよう行政していく、という強い決意表明になるはずだからだ。この私の当初の反応は、今朝の会見映像をテレビニュースでみたあとでも、かわらない、どころか、どこか弱々しいその総理の様に、その感を強くした。しかし、昨夜段階では、中部電力の社長は、だからといって停止しない、と見解していたようなのに、今朝の新聞では、とりあえずその停止要請を受け入れるが、津波を想定した防波堤工事が完了するまでだ、と留保をつけた、とある。その社長の対応と、その様の会見映像をテレビでみると、この社長が事故後に倒れた現東電社長と違って、どこか土建屋あがりのかけひきを知っている実務的な手ごわい相手、にみえた。だから今後、行政の弱腰(足もと)をみて、産業界、官僚と手を組んで逆襲してくる可能性が高いな、いったん引いただけだろう、と私はおもう。そしてそれでも、結果として、中電に浜岡原発を止めさせる、という実践を果たそうとした総理の判断は勇断だと評価する。また、東電の賠償問題にしても、自民党、民主党の主流が、東電味方な方向で行政していこうとしているかにみえるなかで、枝野長官は「賠償に上限はない」と名言し、海江田経済相や、首相の補佐役も、こわごわと東電を牽制する発言をだしている、ところからみて、政治の動きから浮きはじめた官邸の主観をむしろ擁護していく姿勢でなくてはならないのだろう、と自然への畏怖(前近代)と、責任問題の追求(近代)という、二刀流を実践していかなくてならない、というスタンスの私は考える。チェルノブイリ後の旧ソ連のように、日本が国家としての独立的機能を喪失していくかもしれないなら、ぜひ菅総理には、ゴルバチョフのようになってもらいたい。ペレストロイカに対する、エネルギー転換の道筋を誘導した者として。そしてならば、それを後押しするのは、ベルリンの壁を崩した民衆の力いかん、となるわけだが……。


ゴールデンウィークに実家の群馬県にかえっておもったのは、東京は特別だ、ということである。呑気なもので、東京と同じ250kmの距離にあるというのに、地震も原発も対岸の火事で、気の毒だね、しょうがないね、の一言で何事もないように日々が過ぎていく感じだ。地元のテレビ局では、東電が賠償金を払うのに電気料金値上げする、とのニュースに、ゲストの美保純氏や中村うさぎ氏が、じゃあ節電じゃなくていっぱい電気を使ったほうが被災者に支援金がいくのかしら、節電でテレビゲームとかやめていたけれど、もっとばんばんやりまくるってことなのね、という話しがとおっていく。無知なところでは私(誰)でも頓珍漢な言動になるだろうから、他人のことを笑ってもいられない。ただ、こんなものなのだろう、と慨嘆する。もともと地方では、政治的なことをはなせる雰囲気ではない。上の世代でなら、共産党員かとおもわれるだろう。若い世代のあいだでは、どれもが他人事のニュースですぎていき、どう関心をもつのかさえもわからないという感じだろう。地方の大きいとされる書店でも、ベストセラーの書籍と週刊誌のたぐいしか置いていないのが実状なのだ。しかしならば、東京都民が知識や情報があって敏感だからか、ということなのではない、と私は実感した。そうではなくて、単に、都民は人口密度の高いところを行き交っているからなのだ。地方では、他人の世間話など聞こえないし、自分の話しが他人に聞かれることもない。が、都会では、いやでも他人の噂話が耳にはいる、自分の話しが他人にきかれ、きかせることができる。その距離の近さ、過密さが、ハイな状態をうみやすい。しかしまたそれも、ある意味ネット上の情報に触れている人たちの世界だけ、ともいえるわけで、福島県で避難の憂き目に入っている人のなかには、東京都民があまりに自分たちのことに無関心なので(「原発を東京に」と発言した者が知事に選択されるぐらいなのだ…)、これでは被曝した牛を連れておら東京さゆくだ、デモするだ、という声もあがるようなのである。そしてさらに、海外からみれば、地震と福島原発に怯える日本人民の姿は、エクゾチズムな関心のあり様であって、対岸の火事である。被害者数では、昨年のハイチ地震23万人の死亡とかとは比べものにはならないが、先進国でのできごと、しかもというかそれゆえに、ライブ映像がたくさん撮影されていた、という先端的事情が、エクゾチックな過剰な意味を発生させたようにみえる。ビンラディンの殺害に狂喜するようなアメリカ人の映像を、9.11がアルカイダの仕業だとおもっているのはアメリカ人だけだろう、と冷ややかにみているわれわれもまた、3.11では世界の人から同様な眼差しでみられているのかもしれない。……つまりここにあるのは、知識や情報の過多、そこでの客観的、科学的判断、ができるやいなや、といった実状なのではなく、むしろ関係的な構造が問題(焦点化)されるのである。むろん、その構造とが、人口(情報)の過密さによって変性されてくるのかもしれないとしても。たとえば、恋愛関係のなかにいるものは本気に狂喜していても、それを端から見るものの眼には、アホとしかみえない。ゆえに、都民(ネット上)で一喜一憂していても、そこにいない地方の人は、たとえネット上で都民と同じ情報を共有していようと、それを実際的に、路上の立ち聞き等によって実際的な感情を具体化しえないがゆえに、ハイな状況=関係とは無関係・無関心なままにとどまる、のである。


しかし、とりあえず今の段階では、脱原発のデモをやるといっても、一部の社会運動家のグループしか集まらない程度で、放射能をあびても、国民は黙って処している。そこには、構造(関係)的な問題だけではなく、より日本特殊的、歴史的な文脈があるのかもしれない。その「黙って処す」とは、「武士は食わねど高楊枝」と似て、東人、東国の武士からうまれた価値、つまり、東北現地の人たちがいまみせている態度の中にこそあるのかもしれない。その無意識的な、身体的な価値に抗って、もうひとつの近代的な認識、黙っていたら泣き寝入りにやられるだけな社会(国家)だから声をあげて責任追及せよ、と説くのは酷なことなのかもしれない。いや当人たちは総理に文句をいい、東電社長に土下座させ、黙っているわけではない。ただ分散させられている……都民が同じ日本人として立ち上がらないのも、近代以前の態度として、すべは他人事ですまして自らの世事にだけいそしむしか関心がなく、近代国家的な国民としての同一性を身体化しているわけではないからか? つまりわれわれもまた、東武士の倫理を肉化した権力イデオロギーの末裔として? 


冒頭で引用した著作を読むと、日本の野球観衆が、いわばフーリガンのようだったことがわかる。そのグランドになだれこんで乱闘をはじめる観衆をおさえていくために、野球を全体的に統括する連盟や学生憲章ができあがっていったようなのである。引用中にある飛田穂洲氏とは、「一球入魂」の言葉をつくった人として有名であるらしい。また歴史的にみても、米騒動や大逆事件くらいまでは、民衆が黙って処していたわけではないような印象をうける。それともこの印象も、実は学問的な世界での話しにすぎないのであって、やはり大勢は、他人のことには関心しない、自己防衛的な処世しかやろうとしない、黙ってすぎていく庶民だったのか?


しかしまたそれは、実は、日本だけの話しでもない。世界市民も、実はなおそうであろう、と私は認識する。その諦念に似た黙々さと、災害ユートピア的な相互扶助(身内連帯)性は、人類の自然災害の歴史、記憶にもない記憶によっているのだろう、と私はおもう。しかし、自然への畏怖と、権力への畏怖、とが、形式的に相同しているとしても、混同してしまうのはおかしい。そう知的に認識しているものは、たとえネット上の世界だけにしかならないとしても、私はもっともっと騒がなくてはならないのだろう、と現状認識する。いや現状はネット上だけではだめで、もっと外(おもて)に出て騒ぎ、弱腰の勇断を後押ししていく一人一人の力のより多くの結集が必要なのだ、と判断する。

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