2016年8月11日木曜日

トータルフットボール、教育制度と戦術(2)――都知事選結果・相模原事件を受けて

「オランダの小学校の光景です。

小学校の教室では、子どもたちはたいてい五~六人ずつのグループを作って勉強しています。もちろん授業中に先生が子どもたち全員に説明をする時間がありますが、授業時間全体の中に占める割合はそれほど多くありません。一人ひとりの子どもがそれぞれ違う課題をこなしている光景がよく見られます。いつもグループの席に座っているばかりではなく、教室の隅のコンピューターに向かっている子どももいれば、廊下に設けられた机で勉強している子どもももいます。先生は、黒板の前の教壇に立っているというよりも、グループごとの席に座って勉強している子どもたちの間を静かにゆっくりと回りながら、必要に応じて小声でアドバイスをしています。時々、子どもたちが自由に席を立って先生のところにやってきて質問をしたり、やり終えた課題を見せに来たりします。先生は、子どもの質問に答えたり、子どもが持ってきた課題の答えを点検しながら、よくわかっていない子どもには、教室の壁に備えられた棚に並ぶ様々な教材の中から、その子どもの学習情況に合ったものを取り出して、子どもたちが自分の力で理解するように助力しています。
 オランダの学校では子どもたちを椅子に縛りつけることがあまりありません。ほかの子どもの邪魔にならない限り、また、取り組んでいる学習のためである限り、子どもたちは自由に席を立ち、教室の各隅に用意された読書コーナー、コンピューターコーナー、ゲームコーナー、資料棚、などに行って課題をこなしています。
 課題を終えた子どもは、たとえば、教室の外の廊下やホールの明るい窓のそばなどで、その間の教科以外の追加学習に取り組んだリ、パズルやゲーム感覚でできるもっと挑戦的な課題に取り組んだリします。そのための、色彩豊かで、見ていて楽しくなるような教材が学校の備品としてふんだんに用意されています。
 子どもたちの身体の動きには、不必要な制限がありません。普通は、先生が説明をしている時以外はトイレに立っていくことも制限されていません。かといって何もせずにボーッとしていたり、おしゃべりに夢中になっている子どもがいるのではなく、どの子も授業の時間中一生懸命勉強しています。」(『オランダの個別教育はなぜ成功したのか』リヒテルズ直子著 平凡社)

サッカー番組フットブレインによると、本田選手は直々に安倍総理との会談を申し込んで、サッカーの育成の在り方だけでなく、日本の教育自体を変革する必要を訴えたそうだ。小手先ではなく、もっと根底から変えていかないと、日本のサッカーは世界で勝てない、通用しない、ということを、オランダの教育事情を見て認識したらしいのである。どんな内容を話したのかは明らかではないが、まずオランダのリーグからヨーロッパ遍歴をはじめた本田選手が、いくらメンタル的な強さを全面に出す発言が多いからといって、全体主義的な体制強化を直訴したわけではあるまいと、私は予測する。おそらく、とても無邪気に、安倍のナショナリズム思想を逆なでするような、自由思想の拷問的な実行を説いたのではないか? 私も、小学生の子どもたちの育成現場に関わり、トータルフットボールと表現されるようになったサッカー=ヨーロッパの現実への抵抗は、とてもサッカーの指導現場だけで対処できうるものではないと感じ始めていた。生まれたてでは同じはずなのに、なんでこうも違うサッカーが発生し、その差を埋めるのが困難なのか? 子どもたちが多くの時間をすごす、小学校の在り方がちがうのではないか? と、息子が中学にあがり、そこの運動会でいまだに集団行動なる競技が選択されている様を知って、向こうヨーロッパの教育事情を調べ始めてみたのである。そういうこの頃、本田選手が上のような動きをしたことを知って、論理的に物事を追いつめていけばたどり着く一端が一流選手にも共有されているということなので、独断ではないのだな、と心強くおもった。本田選手は、廃校化した学校法人を買い取って、本田学園でも作ろうというのだろう。が、やはり、強者のイメージ強い本田選手が、では弱者に対し、どうスタンスをとるのか、やはり心配になってくる。本人は、自身が弱いまま成りあがっていったことは自覚しているけれど、世のイメージからは憂慮もでる。安倍と話せる、と判断したのにも、安倍自身に、権力を動かせる強者を認識したからだろう。

そして、その安倍の流布させているイメージ、言説=思想のイメージを文字通り実践してしまうと、相模原の知的障碍者施設での19人以上の殺傷事件に行き着いてしまう、ということだ。『脱原発の哲学』を著した友人のブログにも、<国家の本音を忖度し、日本社会の差別的な心性を圧縮した「代行」としての犯罪であった>との認識があるが、私も同感である。が、その認識までで、だから対象を批判しうる「論理」を得たと、取って返すいわゆる左翼的な知的転回には反対である。差別される側、出自の者たちはそれで充分かもしれない。が、あくまで体制側の人間として育成されてきた私には、そんな程度の認識では不十分である。もっと突っ込んで認識したくなる。そうでなければ、私自身が見えない。
小池の当選は、その出馬表明をしたその在り方からも確実であった。私は友人へのメールでも、投票率が60%超えたら独走になるでしょうね、と書いていた。一緒に仕事をしてる団塊世代職人、消防団の団長さんなどは、舛添が辞任した時点で、小池さんが出たら圧勝だね、ともらしていた。この防衛大臣もした女性の当選を受けて、いわゆる左翼的な考えを自称する人たちは「絶望」したのだそうだが、こんな簡単自明なことに「絶望」してしまう人は、本当に「絶望」することはないのだろうと思わざるを得ない。私は選挙にいかなかった。鳥越氏など、まったく当てにならない、というのがその顔を見ての私の判断だった。心情的には、小池支持だった。しかしそれは、いわゆる左翼的批判でこの「心情」を射抜くことなど到底できないほど、歴史的に根深いものだと私にはわかっていた折込済みのものにすぎない。都知事など、舛添のままでよかったのだ。が、その弱者の追放に加担した者たちが、「弱者」として戦いを挑む小池の姿勢に共感し、そういう情勢・あり方を作ってしまった石原都議連に対し嫌悪を表明した。この選挙民の一見相反する立場の動きは、同じ心理のものであろう。経済学者の浜矩子氏は、「判官びいき」ということであって、庶民が何を基準に判断したのかは明確になった、そのことの結果はともかく、引き受けて考えていかなくてはならないことだ、とたまたま見たTVの討論番組で述べていた。私の立場もそういうことで、まさに、「判官びいき」という用語が念頭に浮かんだのも同じである。

「判官びいき」とは、不遇な人や弱者に対しひいきすることだが、そのとき、たとえ弱者側に非があったと論理・事実が明白であっても、まあまあそれはそうですけど…とその理屈是非を問わず容認してやることを孕んでいる。今風に言えば、反知性主義、とかになるだろう。

相模原の施設は、交通機関とも疎遠な、人里離れたところにある。私の弟も、以前、群馬の山奥にある知的障碍者施設に勤めていた。「あれは、子どもの捨て場だよ」というのが、弟が言っていたことである。まったく面会にこない親も多いという。拘束を嫌う者は夜半に脱走し、職員みなでの山狩りも珍しくない。もちろん、そんな施設に子どもをあずけられるのは、お金持ちだけだろう。普通の人は、自分がいつ殺人者になってもおかしくない緊張した生活の中を生きていかねばらないだろう。高齢となった自身との親との間でもそうなる。そして寝たきりの老人相手よりも、コミュニケーションが成立する障害者のほうがまだいい、というのが弟の経験らしい。
弱者を切り捨てておいて、それに同情すること。「判官びいき」とは、それゆえ自作自演ということになるが、問題がやっかいなのは、そうしたバランスとり、心理的な安定への必要が、自身が殺してしまうかもしれない、という庶民的実情、切迫さから由来している、ということだ。だから心理的な事実としては、自分では切り捨てられない弱者を切り捨てる決断を下すことのできた為政者に対する、アンビヴァレントな動き、ということだ。老人や子ども、障害者を施設に預けられる層は、単になお自民党なり、組織票として動けただろう。が、その数は、もはや多くなく、浮動層の増加とは、心理的バランスを人為的にとらないとやっていけない不安定層の増加、ということでもあるだろう。

物語論的には、「判官びいき」とは、貴種流離譚というストーリー元型の一つと結びついている。王ではなく、その王子、追い出された弱者のイメージをもつ皇太子への同情である。現天皇は、勇ましい歴史記憶をもつ昭和天皇の王子というイメージ、そして現皇太子などは、女房がマスコミに叩かれているイメージが強いので、なおさら世間から離されているというイメージが付きまとっているようにおもう。ならば、浮動層の心理的不安定は、天皇を主人公にすえたストーリーによって、より祭りごと=政治として自作自演=バランスを要求する可能性もある。それは、結果としては、どう転ぶかもわからない。私たちは、その歴史的な内実を把握する理論を、持てていない。相模原事件から現勢力の「代行」をみた田口氏は、アーレントの「全体主義の起源」を引用してくるけれど、それは外からの知的批判が精一杯で、庶民の心情を動かせる実践知に連なっていく態度とは思われない。むろん、心情とは遊離した知識は、それを共有する外との連帯にはなるだろう。が、沖縄の人たちが、こちらを支援するなら、本土人がまず真の独立を勝ち取るれるよう自身でやってみよ、それがそのままでこちらの気概と連帯した動きになるだろう、と冒頭引用著作者の一人は言われた、と言及していたが、そういうものだろうと私もおもう。

秋葉原事件、川崎事件、老人放り投げ事件、そして今回の相模原事件と(今度のは唖然としたけれど…)、私には他人事的に批判などできない。それは被害者の側ではなく、加害者の側として、ということだ。そしてこの加害者の動き=論理=アンビヴァレントが理解できなくて、どんな実践も空回りするか、独善的・強権的にやっていくほかないだろう。

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