「それと、これはバクスターが話していたことですが、現代の日本人にそのまま当てはまるかどうかは別として、『日本人には腹切りの文化がある』と言うんです。ミスをしたときに腹を切ってお詫びする。そういう個人で背負ってしまう精神が日本人には根付いていると。だから、個人の責任、という重荷から解放されるために、みんなで寄ってたかって集団的に連動して守れるという感覚が前提にあれば、個々がリラックスしてプレーできるはずで、守備時においてもクリエイティブな発想も出てくる、それがまさにゾーンディフェンスの考え方の根底にあるものだと言うんです。」
寄ってたかって集団的に連動して守る。一つのボールに対して密集して群がってボールを絡めとってしまう。それがマツダが描くゾーンディフェンスのイメージである。
「水族館でイワシの群がワッといっせいに動くでしょう? あの動きが理想なんですよ。その中心にあるのがボールです。」(『サッカー守備戦術の教科書 超ゾーンディフェンス論』 松田浩/鈴木廣浩著 KANZEN)
日本人が文化本性的に、集団性が強いかどうかには疑問がある。むしろ、個人的な勝手ばらばら観が強いために、集団的なイデオロギーが強くなって、その近代化過程での政策制度の習性的な残滓として、なおそれが機能しているところがある、とみておいた方がよいのではないかという気もする。内山節氏も指摘していたことだが、「徒然草」に顕れるような遁世にも連なる個人性が強くあって、ゆえにそれは死生観や虚無感に連なって目だつ意識ではなくなりがち、と。いまやっているオリンピック競技の、これまでの大会のメダル獲得種目を調べれば明瞭なのだが、それは個人競技で多く、集団競技ではほとんどメダルをとれていない。サッカーでも、イワシの群れのように動けるのは、ブラジルの方である。相手がミスを犯したとみるやの瞬間の攻守の切り替えの全体での速さなど、テレパシーのごとくである。だいぶ前のブログでも指摘したことだが、その言語以前のコミュニケーションが頑としてあるのは、なおブラジルに古典的な共同体が生きているからで、それは日本でも、年配の長屋住まい経験の職人世界では見受けられる素早さ、ためらいのない動きとして身体化されている、と。
対柏レイソル・ジュニアユース戦、キーパーを任されていた一希から、こんな叫び声があがる。「いまのは気にするな! みんな俺のせいにして切り替えろ!」、また点をとられて仲間同士でこそこそ嫌味をいいあっていると、「そんな言葉はいらねんだよ! バカなんて言ってるな! いる言葉を話せ!」……お盆休みにあった大会には、中学部活動チームで出場していたのは、一希の通う中学だけだったかもしれない。かといって、その中学が部活に熱心、というわけでもない。2週間以上の夏休みの間に、その大会だけに突如参加するので、まずすぐに疲れて走れない。U-14での出場だが、部員数少ないので、半分は13才の1年生。1試合目は20点近くとられたか? しかし2試合目の柏戦は、先生にはっぱをかけられたからというよりも、その試合で先発キーパーになった一希の体を張ったファインセーブが開始早々から発揮される場面が出てきたからだろう、それが感染し、みなが必死に走るようになって、競り合う場面がでてくるようになった。敵陣へもそれなりの頻度で攻め込んだ。最後、オフサイドになって立ち消えた幻のゴールも。1試合目のケガで出場できなくなったフォワードがいたら、その1点をもぎ取る場面もみられたかもしれない。もし、まさに冒頭の書籍にあるような、こちら4-4-2の守備法則のイロハをチームが知っていたら、1対4ぐらいまでつめられるな、と私は感じた。結局は、その形にある弱点をつかれる現象が発生してくるのだけど、それを防ぐためのケア、動きの鉄則に関して無知であることが、失点に直結しているのである。
が、ここで取り上げたいのは、一希の感動的な言葉だ。そのイントネーションは、その内容が思想的な価値として肉付けされていることを示していた。自己犠牲による集団性の喚起、その掛け声は、そういうことだろう。「え、そんな……」と、一希が「みなおれのせいにしろ」と叫んだとき、父兄の一人が声をふるわせた。私もその真剣さにびっくりしたが、私が、親が、そんなことを教えたろうか? 私たち夫婦の関係が、そんな価値観を伝染させているのだろうか? むしろ、二人で怒鳴り合って喧嘩してたのが多かったろうから、喚起されてくるのは個人の勝手、ということではないだろうか? 反動形成だろうか? それとも、学校の教育現場の影響だろうか? 集団スポーツをやってきたからだろうか? いやそういうことではなく、その価値は、一希が戦争や殺人事件の発生のことを理解できない、理解したがらない子どものままの感性と結びついているような気がする。私が、戦争の裏にある人間の現実、その事件の裏にある世俗的な思惑のようなものを指摘するとき、一希は、人間にはそんなことがあってはならないような表情をする。私の洞察では、すでに息子自身がそんな裏を作っていけるぐらい充分大人の智慧を働かせているのだから、自分を内省せずに気づけないだけなように認識できるのだけど、本当にそういう不純なものを嫌悪しているのがわかるので、深入りして教えるのは控えることになる。人間として自分でもやってしまうことを、あってはならないものとして否認してみせる……「やってしまうこと」をリアル・ポリティクスとして居直るとき、右思想となり、それを否認してみせるとき、左思想となり、「やってしまうこと」を否認せず直視し、なんとかしようとすることが、知的実践となる、ということだろうか?
とにかくも、一希の価値の出どころは判然としない。
以下は、そうしたことの一助となるかもしれない、引用文章。
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「しかしこのことは、学級が分業制から逸脱したことを意味する。パッケージとしての「学級」が担う機能は、分業制の下では制限され、教師の活動にもまた制約が課されるはずである。しかし、このような自覚がないままに、多様な活動が「学級」内に導入された。それはいうまでもなく、当時の人々が機能限定的な集団の意味を理解しえなかったことを物語っている。
換言すればこのことは、「学級」が、あらゆる生活機能を包含した村落共同体の論理によって解釈されたことを示している。村落共同体が、生産機能、生活機能、政治機能、祭祀機能をすべて包含す…(略)…機能集団としての「学級」とは、子どもの生活の一部にすぎない。しかし、「学級」が生活共同体化すると、それが子どもの生活のすべてとなる。放課後も、帰宅しても、そしてまた夏休み中も、電話やメールで同級生とのつながりがそのまま継続するという現代の風景の出発点が、このようにして作られた。」(『<学級>の歴史』 柳治男著 講談社選書)
「一七世紀後半の綱吉政権の頃までは、城下町に徘徊する野犬などを捕えて食べる風習があったし、地方各地での鉄砲所持数も増加し続けていたが、このことは、農作物を荒らす鳥獣を捕え、その一部を食べていたことを示している。この頃に、犬などの愛護を内容とした「生類憐みの令」が出されたが、これは、中央政権(幕府)が人間の中での弱者(浮浪者、捨子)の保護や酒類の統制から、馬・犬・鳥獣対策までをも、多少の政策のゆれを伴いつつも、統一して規制してゆこうとする意図の象徴である。一七世紀後半の農民は、従来の大家族的な地方有力者の支配から小家族を単位に自立しようとしつつあった(「小農自立」)。このことは、こういう農民層の動向の前に動揺していた社会情勢への、中央政権の新たな対応・再建策であった。各藩も大体この時代に前後して、同様の政策をとりはじめていた。…(略)…文明開化期の肉食嫌悪の感情はよく知られているが、これら動物愛護の感情は、江戸初期からというよりは、綱吉政権の頃に一画期があり、幕末までにしだいに強化されてきた感情なのである。…(略)…
なお、こういう共感の感情がもっとも生じやすいのは、人間そのものに対してであることは言うまでもない。したがって、これから考察するような、この時代の人々の有する使用人や子どもを殴りつけることを忌む感情は、「生類憐み」の感情ときわめて近接しているのである。」(『体罰の社会史』 江森一郎著 新曜社)
「『地教行法』のメリットの一つは、教育委員会の主張が弱くなって教育システムが効率化され、全国に同水準の教育を普及させやすくなったことだろう。昭和三○年頃の状況では、意味のあることであった。…(略)…『地教行法』は、「決められた教科書で、集団授業をやっていればいい」という安定世界を作った。ある枠の中でなら、学校は教員天国だったのである。積極的な教員たちは授業研究へと向かい、授業に磨きをかけた。
『地教行法』は、学校に五○年間の無風状態を作ったと思う。江戸時代に似ている。江戸幕府は権力ピラミッドを作り、対立をすべて押さえ込んだのである。たぶん、江戸時代が、現在となってみればそれなりの評価を受けるように、後世となると、『地教行法』も、独特の日本教育ができる下地となったと評価されるのではないかと思う。その日本独特の教育はまだ生まれていないものであるが。」(『変えよう! 日本の学校システム 教育に競争はいらない』 古山明男著 平凡社)
「まとめると、組織的には「学級」を単位にし、カリキュラム的には「全国一律」に学習指導要領をベースとする、日本型の平等主義的な教育制度がつくられていく、その起点となったのが一九五八年であった。
次項で詳述するように、教育における五八年体制は長年にわたって日本の教育の基本であり続けたが、バブル崩壊が起きた一九九○年ごろに見直しが図られる。その基軸は「学力観の見直し」であり、これを政策ベースに落とし込んだのが「ゆとり教育」であった。しかし「ゆとり教育」の実現はうまくゆかず、教育における「失われた一○年」ともいうべき混迷状態に陥って現在に至っている。…(略)…
そのエッセンスは、労働市場がフレキシブルになっていくことに対応した、「自己責任」・「自己選択」・「多様化」・「個性化」ということだ。総じていって、みんなで一つの方向を向いて競争することはあまりしないようにしよう、という流れである。…(略)…しかしながら、政治における五五年体制の崩壊がそうであったのと同様、教育における五八年体制の崩壊も、それに替わる新たなシステムの構築には至っていない。九○年代が、「失われた一○年」と言われるゆえんである。」(『学力幻想』 小玉重夫著 ちくま新書)
「1980年代以降、「マジ」や「ガチ」は長く冷笑されてきた。しかし、ポストモダニズムの懐疑論を引用して、「消費社会の時代」に影響力を強め、「引きこもりの時代」を通じていたるところに瀰漫した冷笑主義は過去のものといわざるをえない。「マジ」や「ガチ」を冷笑する態度こそ「ダサイ」というのは、最近の若者がしばしば口にするところだ。…(略)…過去20年代にわたる「デフレ不況の時代」の社会的・文化表象として注目されてきた引きこもりだが、いまや存在それ自体が危機に瀕している。引きこもるための個室が与えられているから、人は引きこもることができた。その個室とは引きこもり第一世代の場合、団塊世代の親が建てたマイホームの子供部屋だった。…(略)…
SEALDsがリア充だとしても、「デフレ不況の時代」にオタクに対置されたリア充、しばしばヤンキーや意識高い系の属性として語られたそれとは次元が異なる。電気代が支払えなければ電気は停まる。電気が停まればパソコンは動かないし、二次元の世界に耽溺することもできない。たとえていえば、これがポスト「引きこもりの時代」のリア充だ。」(『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs』 笠井潔/野間易通著 集英社新書)
「かく言う私も、自分の子供が、ものを頬張っている姿を直視することができなかった。この世に残していく我が子への情がまとわりついて、一瞬でも自分の覚悟を邪魔するのではないかという恐怖感があったからだ。
しかし、その時がきたときに情が覚悟を邪魔することは一切なかった。
だから、情が大きくなることを恐れる必要はない。…(略)…だから、平素から押し殺したり、ねじ伏せたり、目を背けなければならないというものなどはない。自分の心の奥深くにある本能を信じ、淡々と技を磨き、身体を錬え、心を整え、その時に備えておくだけでいい。
私は、現在の日本に不満があるし、不甲斐なさも感じている。
しかし、「あなたは日本に危機が訪れたらこの国を守りますか?」と聞かれれば、「守ります」と即答するし、なぜ守りたいのかと聞かれれば、「生まれた国だからです」「群れを守りたくなる本能が植えつけられているようなのです」と答えるだろう。
ただし、だ。
せっかく、一度しかない人生を捨ててまで守るのなら、守る対象にその価値があってほしいし、自分の納得のいく理念を追求する国家であってほしい。
それは、満腹でもなお貪欲に食らい続けるような国家ではなく、肌の色や宗教と言わず、人と言わず、命あるものと言わず、森羅万象すべてのものと共存を目指し、自然の摂理を重んじる国家であってほしい。
たった今も、生きていたいという本能と、この世に残していく者への情に悩み、技を磨き、身体を鍛錬し、心を整えている者がいる。
本能がそうさせることではあるが、彼らが、自分の命を捧げるに値する、崇高な理想を目指す国家であってほしい。
それは、この特異な本能を持って生まれてきてしまった者たちの、深く強い願いであり、尽きることのない祈りである。」(『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』 伊藤祐靖著 文春新書)
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