2016年9月7日水曜日

中学生の自殺

「若いSEALDsがそれまでの左派リベラルの因習を知っていたとは思えず、したがって彼らは「国民」という言葉をそのままなんの抵抗もなく使っただけなのではないかと思う。しかしそれはSEALDsが、これまで堂々と「国民」を名乗ることのできなかった中途半端な「市民」、つまり「国民」であることを拒否した人々ではなく、サッカーの国際試合で熱狂して日の丸を振る多くの普通の国民に近い存在であることを示している。すでにSEALDsはあざらしと違って「何者でもない人々」ですらないのであった。」(野間易通「国民なめんな」/『3.11後の叛乱』 笠井潔・野間易通著 集英社新書)

夏休みももうじき終わるという頃になって、中学生の自殺の報道がつづいた。2学期目の開始をひかえたこの時期に多くなるのは、一般的だそうだ。
息子の一希と女房の、勉強をめぐるバトルも過激さを増してくる。塾に行って専門家に見てもらうようになれば女房も引くのかと期待したが、塾の批判をしはじめるようになって、検閲・監視はやまない。一希が消しゴムか何かを投げ、女房がひっぱたき返し、ベランダに逃げるイツキを追いかけ、2LDKの狭い中をぐるぐると回りはじめ、とイツキが裸足で外の廊下にでていく。「ふざけたことやってると、そのままベランダから飛び降りるよ。ここは、6階だからな」と、畳部屋で寝ころんで本を読んでいた私は、二人に何度となく跨がれ越されていたが、女房が一人取り残されたところで低くつぶやく。私には、まだ真剣さと遊びの区別が曖昧な息子の死骸が目に見えてくるようだった。「殺すぞ!」とドスをきかした女房の声が聞こえてくることもある。3.11以降、いまだこんなことで子供に挑んでいく親がいることが信じられない。しかも、その時代的な出来事を受けての、市民活動に参加していることがひとつの矜持にもなっているらしいのに。いったい、どう後悔するというのか? ばかばかしくも本当のことが起きてしまったら……。(サッカー部の他の家庭でも、宿題を終わらせていない子供と母親との間で、似たようなドタバタはあったようだ。)

夏休みの生活の感想書と印鑑証明の仕事が、そんなてんやわんやで、私の所へまわってきた。畳に寝ころびながら、さて何を先生に向けて書こうかなと考える。…

<・サッカー部活動の合宿には、父母共に、応援へ行ってきました。ゴール・キーパーからの掛け声のなかに、どう生きていくかの思想的な価値が出ているのには驚きました。
 ・勉強や宿題は、いつも母親と口論しながらやっています。その流れで、この感想も私―父親の所へまわってきたようです。そんな身近な難題を、平和的に解決していけるよう、勉強してもらえればと思います。そのためにも、もう少し文字に慣れて、読書してもらえたらなとおもいます。自身で選んで借りてきた、中学生の”家出戦争”の話は、面白かったようです。>

まだ幼児の頃は、異界がすぐ隣に存在してつきまとってくるような、強烈なおぞましさが死の意識としてあった。が、小学生も高学年になり、中学生にもなると、その死とともにある感覚が変わってくる。遠くなるのだが、逆に異界というより、リアルな感じになってくる。幼児は、存在自体が異界=死のようだが、少年となると、親とは別の人格として疎ましくなりながら、死を現実問題として突きつけてくる、といおうか。だから、具体的に、自らの意志で、どう死ぬかまでがイメージされてくるのだ。幼児なら事故死や誘拐への怯えだが、もう少年自らの主体で訴えこちらを身構えさせる怖さ。もし自ら死を選んだとしても、それはなお子供で死への恐怖が薄いとか、命の大切さに気付いていず軽んじているからだ、ということではない。ないのではないのか、と息子を見ていておもうのだ。むしろそうしてしまったら、”切腹”に近い。過ちを殿様にお詫びする、という儀礼のものではなく、自分の潔白を証明するために、自分を陥れた犯人の前で自らの内臓を広げてみせる、そんな本能的な論理としての行動である。命を軽んじているどころか、命をかけて、母親から逃げ回り、家出していくような。論理とは、有言実行のことだと数学者でもある小室直樹氏はいったが、まだ言葉では論理化できないので、不言実行してしまう果敢さ、無邪気さ……。

青森県で、いじめを苦にか自殺していった女の子の遺書は、どこか明るい。相手をうらんではいない、ただ自分の命をかけた行動によって、考え直してもらいたいと静かに訴えている。この子だけではなく、この年頃の子供たちには、そんな人間への純粋な願いを行動で示す筋道があるようである。

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