「――トマ・ピケティやエマニュエル・トッドはどうですか?
浅田 こちらは逆に実証主義への回帰であって、そういう仕事としては一定の意味がある。…(略)…トッドの場合も、ポピュレーションの歴史社会学ということで幅広い研究を精力的に行ってきたけれど、結局は経験主義でしょう。家族制度・相続制度がそれぞれの社会でア・プリオリな価値観を決定しており、それにフィットしない政治制度はうまく機能しない。というような決めつけは、あきらかに単純すぎます。これを俗化すると、鹿児島県民には男尊女卑の伝統が強く残っているからフェミニズムが根づかないというような議論になってしまう。逆に言えば、そういうものを学問的に体系化してみせたからこそ、トッドの議論は俗耳に入りやすいんでしょう。よくいるじゃないですか、出身地を聞いて、性格や思考様式までわかったようなふりをする人が。」(東浩紀編『ゲンロン4』「マルクスから(ゴルバチョフを経て)カントへ――戦後啓蒙の果てに」)
正月休み、実家に帰って、こたつに入りながら、東氏編集の「ゲンロン4」を読んでいた。上の浅田氏との対談の註で、柄谷氏らが始めたNAMの運動の解散原因が、「事務局が機能不全に陥」いったことのように記述されていたので、その解散の一期前の事務員をしていた私にも他人事でもないのだろうと思い、思い出すことどもをメモしながら、この批評評価論議についての感想も記しておこうという気が起きた。
たしかに、「ゲンロン」註の「事務局」混乱が原因として解釈できる事実はあったのだろうな、とおもう。しかしそれは事実ではあっても、現実ではないような気がする。その真実(=現実)に近づくには、この雑誌での論議でも、「理論信仰」から「運動信仰」へと批評世界がシフトしていった傾向のことが指摘されているけれど、その枠組みを導入した方が近道という気がする。たとえば、京都にあった事務局が東京に移った際の事務局に私はいたのだが、そこは「リロン」的な人たちの活動だったかもしれない。解散間際のドタバタのとき、「スターリン主義者」という言葉で柄谷氏が罵倒したことがあったが、それはまるで「ゲンロン」でヘゲモニー闘争していたような私と、フリーターの運動などでも後に物議を醸したそうな摂津さんのことかな、という気がした。が、その時はすでに次の事務局に移行していたはずなので、もしかしたら、その時の事務局状況のことだったのかもしれない。最後の事務局体制は、あみだ籤で選ばれた新会長とともに「ウンドウ」系と言える人たちなような気がする。当時大学院生だった事務長は、今なお環境保護的な運動を続けている。私がいた時の事務長は、大学の先生をつづけているのではないだろうか。が、私がよく知らずに推論するのは、解散間近のドタバタの中で、運動系の事務局は、そのままこの組織を、極端な言葉でいえば、のっとろうと陰謀を企んでいたのではないか、ということである。そういう事務会議の痕跡を、偶然私が見つけてしまったりしていたのである。おそらく、そのままNAMが続けられていたら、かつての左翼運動ともなんらかの形で人脈的にもつながった、そういう運動系の人たちが中心になっただろう。しかしそれはそれで、真摯な意欲でもあるのだろうと、今はおもう。「今は」、というのは、いわゆる常識しか知らないような私には、そんなことしていいの? という思いのほうが強かったからである。
しかし、そうした世俗的な思惑の渦みたいなものが、NAMの創立に関してもあったのだな、ということはここに関わりが深まるにつれて見えてきたことだった。そこで見えてきたのは、創立に中心的に関わった誰もこの運動をやりたいとおもっていない、ということだった。それは、この『ゲンロン4』の、浅田氏の発言をみても確認できるだろう。運動に周りを強引に巻き込んだ柄谷氏本人でさえ、自分はこういうことは苦手だからと、早めに他人に任せて元老的な位置に引きこもりたいということだったろう。私自身、組織内の著名人の間での雰囲気は、勤め先の会社で入れ札に行かせられたときに周りの業者からおまえが出す金額はいくらかと探ってくるような嫌な感じと重なって感じられた。私の親方が実は「辞退」と記入してそういう社会とは距離を置いてなんとか独立・自立性を保とうとするように、私にも生理的な辞退が反応になった。近畿大の拠点学部で植木技術の講師ができないかと示唆してきた柄谷氏や、私のことを「ダークホース」とか呼んで当時の現代思想の編集長と引き合わせた岡崎さんや、たしかその岡崎さんの出版祝いの飲み会でトイレにいった私に「批評空間」編集長だった内藤氏がついてきて何か声をかけられたりしたこともあったが、そういうことも私にとっては、馬の耳に念仏、猫に小判みたいなものだ。世の中いやだなあ、とひきこもりたくなる。
「ゲンロン4」の言説の中では、私の意見というか根本にある感じは、フリーターという立場から言論を立ち上げている杉田俊介氏に近いな、という気がする。そしてそうであるがゆえに、この「平成批評の諸問題2001-2016」では言及もされていない、佐藤優氏の出現、がインパクトを持ったのだ。「いやだなあ」とみたがらない政治のリアルから逃げないで、そこでの具体洞察から理論と運動(実践)をつなげてみせている。外務省にいた佐藤氏の柄谷テクストの使用の仕方は、フリーター世界や職人世界で言論的に防戦していた私の読み方とも似ていた。具体的な現場での使用実践である。が、私が佐藤氏に注目したのは、柄谷氏と佐藤氏が対談するまえだ。そしてちょうどどこかの雑誌で二人の対談があったすぐあとぐらいに、NAMを再起動させるかどうかの会議があって、まだNAMパソコンを壊していない新会長も出席し、私も誰もこないだろうのにわざわざ親しい人が場所を作ったのだからと、参加した。もし、私が会議の進捗にびっくりして、再起を前提にしてやっているの? と水を差さなかったならば、その会議の空気として運動系的な方向として再起動していたのだろうか? がここでいいたいのは、その会議の途中、関井光男氏が参入してきて、どうも柄谷氏を具体的にフィードバックする運動組織が再導入できる脈があるのかないのか、情勢をさぐりにきたのではないかということ、ゆえに会議の空気に首肯的であったようだが、そこに私が佐藤優氏の発言を引用してぼそっと言ったことが、とくには関井氏の目の色を変えさせて、その空気を牽制させるような効果を持ったということである。何をいったのかは忘れたが、たぶん、リアルな政治的な話の引用だったろう。一般的にいえば、佐藤氏の着眼点が、旧社会運動的な発想を黙らせてしまったのである。そして、会議の終了間際にあった私の水を差すその発言で、一気に再起動はやらない、となり、新会長もパソコンを壊す決断をするようになったらしい。
こたつの中で読んだのは、他に、『トランプは世界をどう変えるか?』(朝日選書)と謳った佐藤優氏とエマニュエル・トッド氏の文章が並列されているものがある。トッドの分析を私が面白いと思ったのは、NAM解散間際ぐらいだとは最近のこのブログでも書いた。トッド氏の分析も、佐藤優氏と似たようにリアルなものだったのである。佐藤氏は、以前トッド氏を、実証的にも正確でないものがあることを論理の立点にしていると批判している。それを冒頭で引用した浅田氏の発言とあわせてみれば、トッド氏が本当に実証的な経験主義者なのかどうか、揺れがみえてくるだろう。たしかに、トッド氏の言説を通俗的に受ければ、浅田批判はあてはまる。私も、中根千枝の「タテ社会の構造」や丸山眞男の「日本の思想」といった高校の頃の課題図書を想起させて懐かしい、とブログに記述している。が、そうした見解からは、トッド氏のシャリル運動批判のような思考は射程に入れられないだろう。私には、そのジャーナリスティックな分析は、マルクスのドイツイデオロギー批判や、ボナパルティズム分析と同類だと思える。おそらく、去年の推薦図書でトッドの『家族システムの起源』を推した柄谷氏は、そういう受け止め方をしているのではないか? というか、理論から運動へといった柄谷氏が、佐藤優氏とトッドを重視しているところに、批評誌「ゲンロン」の論点は注目していない。つまり、私の今の文脈でいえば、「リアル」なものへの関わり方の変移に、である。
東氏も投票したという小池都知事は、山本七平氏の「空気の研究」や日本の敗戦の教訓ものを政治態度の言説的根底に置いていることをアピールしているようだ。トッドの言説も、その国土の風習的な地をまずは捉えておく、ということで親和性があるだろう。その政治的態度を、理論的な後退戦と自覚しているならば(つまり、単に舌戦で自民党に勝つためにということだけでなく、より高尚な理念へと社会を導くための一段階的な方策として――)、小池氏の実践は先鋭的なのかもしれない。が、そうではないだろう、ということがわかってしまうために、共感はできても支持できない。支持しても暫定的だ、ということになる。そういう世俗立場を導き出すノウハウ本としても、佐藤・トッド氏の言論は存在しているし、それが狭義の批評世界を超えて世俗に影響を与えているし、同時に、理論的な詰め作業にも接続・継承されている、という視点は、「ゲンロン」批評界にはないのだろうか? それとも、あまり教養豊ではない私の、トンチンカンな疑問なのだろうか?
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