夕飯まえの食卓について、目薬をつけながら、氾濫した河川と水没した家屋の映像をながしつづけるニュースをみていると、団地の粗大ゴミ置き場から拾ってきていた球形のソファで寝ていた息子がおきあがり、テレビの前をよぎって、「風呂はいれる?」ときいてくる。土曜の夕刻はいつも、ガソリンスタンドへバイトにいくはずなのだが、今日はないのだそうで、その理由を聞く気もおきないまま、プラタナスの葉裏の粉でなおごわごわした瞼とこぼれる涙をタオルでふいて、非常事態宣言のコロナ下でもよくつづけてくれたと一万円の報奨金をもらっていたはすだがと思い返す。コンビニのトイレが使えなくなって、スタンドで用をすましにくる人たちがおおくなって、息子は、そのトイレ掃除をしてその日の仕事を終えるのだといっていた。その息子が使用した、バイト先と高校で配布された使い捨てのマスクを回収して洗濯し、ため置きしていたものが私の植木仕事で役にたつとはおもわなかった。あてどなくコンビニの袋の中で増えていったマスクは、しかし日に二・三個は文字通り使い捨てになる街路樹の剪定作業が一週間つづいて、みななくなった。雨と汗でずぶ濡れになったマスクは、呼吸ができなくなるばかりか、口にあてがっただけで、咳がとまらなくなる。目に見えるほどの、毛ばった黄色い粒子が鼻や喉を突いてきて、匂いも、食べものが据えたようなツンとくる感じで、一・二度洗ったぐらいでは、作業着からもとれることはなかった。私が木にのぼり、3代目の若社長が高所作業車にのって外から切っていく。私のあとから、七十歳すぎの職人がつづいて登ってくる。木の下では、熊手をもって、ある日は若社長の姉の高2になる長男と、若社長の女房の大学生になる甥っ子が、またある日は、町内会の付き合いからか、近所の学生の何人かがアルバイトとしてついて来る。そしてその周りを、元請けの会社のまだ20代だろう現場監督の青年や、入社したての女子が見上げている。「去年より予算さがって余裕がないんです」「レンタル車を早く返したいので雨でもやります。ご協力お願いします」と、土砂降りのなかでの作業後に若社長からメールがはいり、「つまり人の命より、レンタル料のほうが大事だってことですよね。アメリカの大統領だって、少しは自粛したんですけどねぇ」と、七十を過ぎて平気で木に登れといわれた職人さんとうなずきあったりもしたのだった。もう、下請けとなって手伝ってくれるよその会社もいなくなって、年寄り二人にしか頼れなくなったということなのか。
昨夜から再び降りはじめた雨は、朝になってもふりつづいていた。そして朝の段階ではなお警報だったものが、夜には家屋をのみこむ洪水として報道されていた。私が弁当を用意しているあいだ起きてきて、食卓の椅子に腰掛けてニュースを見入りはじめた妻は、子供のころ、小学校の下駄箱がよく水没したものだと語りはじめたのだった。年に五・六回は、だめになった靴をもって、靴下で校庭をあるかなくてはならなかった、とまだ回復していない声帯をふりしぼって言う。妻は、熊本が育ちだった。その地方での災害が警報されていて、夜には実際のものとなっていた。私は、去年、台風にみまわれた実家とのやりとりをおもいだしていた。利根川に近い河川が氾濫し、避難勧告がだされた夜、ネットから情報収集した私は、「避難の必要はない」と母や兄に助言したのだった。実家のすぐ北側をはしる堤防が決壊することはなかったが、その判断が正確だったのか、偶然だったのか、今もって、わだかまったままだ。「大仰にさわいで」、と私は妻から非難された。
その妻はいま、台所に立つ。寝室としている和室で横になっていたが、息子が起きあがる少しまえ、風呂から私があがったことを確認してからなように、やおら居間へとでてきて、「昼間からずっとこのニュース」、と子供向けのアニメの動物キャラのような甲高くはねあがった声を落としていった。心臓のオペを操作するカメラは、喉からとおされるのだとか。全身麻酔で意識がなかったわけだから、息苦しさなど感じなかったろうが、意識がもどってからの、医師が集中治療室からかけてきた電話口での応答は、ただ、ぜえぜえという息のもれる音だけが伝わってきて、そこに女性の医師の声が、「うなずいているので、わかってますよ」と重なってきたのだった。そもそも、医師が連絡をいれてきたのも、回復すべき検査数値が予定どおりでなく、そのための点滴を増やしていくことの了解を身内からとるためだった。おそらく、金銭的な件が暗黙にあったのだろう。手術まえの、執刀医から説明を受けるにあたっても、お金の件は質問しなかった。とりあえず、その心配はなかった。その代わりにか、息子には、俺の稼ぎで母親の医者代が払えてるとおもうな、おまえのじいさんが残してくれたお金があるから母親は手術をうけられる、そしてその金は、教科書にもでてくる公害で人をたくさん殺してしまった会社のものかもしれないんだぞ、と伝え、青空文庫にある有島武郎の「小さきものへ」のリンクをラインに添付し、おまえの学校でもコロナでみえてきた格差があるだろう、少しは文学を読めと書き添えて……あれから、まだひと月もたっていないだろう。退院した妻の心臓検査での数値もおもわしくないようで、それは盲腸と関係があるのかもしれないと、現在なお服用している、血液をさらさらにする薬がきれる9月はじめころに、盲腸切除の予定がたてられていた。8月のお盆には、夫婦でその説明を医師から受ける予約もはいっている。
テレビのニュースが、東京都で新たに131人、三日連続で感染者数が三桁との報道にかわったころ、息子が風呂からあがってき、着替えるや食卓下の床に座りこみ、スマホをいじりはじめる。もれてくる音声から、みているものがスポーツであり、サッカーだということがしれてくる。そういえば、スポーツ専門のネット配信番組に入っていいか、と女房にきいているのを一昨日だかにまた聞きしたような気がする。妻はだめだと言っていたはずだが、自分でお金はらうからいいよね、と息子は話をうちきり、そのまま入会したのだろう。台所にも、実況をつたえる音声はもれているはずだし、息子もとつぜん「おう」だのなんだの感嘆の声をあげているのだから、わからないはずはないのだが、妻は黙ったまま台所にいつづけている。「それは、Jリーグかい?」とテーブルでさえぎられて顔のみえない床上の息子にきいてみる。「今日が、開幕か?」息子は、「再開だよ」と答えて、また「おう」と頓狂な声をあげる。「お金は、クレジットなのか?」と私はきく。「ちがうよ。コンビニで、カードを買って、そのコードを打ち込めばいいんだ。五台までだったかな、パパのスマホでもみれるよ。テレビにも、回線つなげればみれるようになる。みる?」ときいてくる。「スマホでみてると頭痛くなるから、いいよ」と、二人で受け答えしている間も、女房が割ってはいってくることはなかった。声が、うまくだせないからだけではないだろう。勉強しろ、という勢いも伝わってこない。体力が落ちて、熱意を発揮できないだけというのではなく、入院し、手術をし、変わったのだ、と思える。死ぬことを意識したようだ。風呂上りなど、アトピーでかゆくなった体を息子がかきはじめると、塗り薬を手に取って、全身に塗りたくってやる。最近は、一日おきの学校のため、休みのときは友達とフットサルをやって筋肉痛になってくる息子の、マッサージなどもやっているようだ。「ぎゃあ!」とかの、息子の苦痛の悲鳴が、寝室で寝ている私の耳元までひびいてきた。母子関係上の気味の悪いものも感じてくるが、自分がいつ死ぬかもしれないという意識に、なにか最期の別れをこめて、我が子とスキンシップをしているような気がするのだった。
ニュースは、明日の都知事選にかわり、やがて、特集番組の、「人体VSウィルス」になる。ノーベル賞をとった教授が解説として席についている。新型コロナが人体に入り込んでいくアニメーション的な画像や、電子顕微鏡で撮影したという免疫細胞の様子などが視覚できて、私の体のなかでこんなことが展開されているのか、気づきもできないのにと、面白くなる。が、いま問題のウィルスの特徴というより、ウィルス一般の話に還元されてしまえるのではないか、とおもえてき、それはタイトルからしてそうであると気づかされる。これは新しいといいながら、実はこれまでのものと同じ、と言っているに等しい。その新しさ、特異な現象、無症状な若者たちから感染がひろがるという解釈に根拠があるのか。夜の街で、金を落としていくのは稼ぎの少ない若者たちではないだろう。免疫力の強い若者たちから若者たちへと、たとえ感染なるものが拡大していても、症状がないのならば、べつだん問題ではないだろう。感染が、免疫力の落ちた中高年にとって問題であるのが現実であるならば、その年齢でこそやはり感染者数は増えていくと、症状を訴えてくるはずの彼らの行動から知れてくるはずだ。がただ、数だけが増えていく。積極的な検査体制のもとで夜の街の若者たちの感染が明確になってきているということで、非常事態宣言を再発令する必要はないと政治は解説しているが、それは、ターゲットをしぼって検査すればどんどん出てくる、つまり、どこにでも、ほぼ誰にでもある、誰もがもっているウィールスということになるのではないか? それが、その私たちにとっての常在ウィルスとよべるものが、他の人種には本当に致命的な感染症をひきおこすのかはわからない。そこでの違いを、テレビの教授は、ファクターXとか呼ぶのだろう。番組は、四回にわたって放映されるということで、何か、新しさを示す根拠が提示されるのかもしれない。がだとしても、それはすでにネット上では伝わっているものでしかないのが、いまのメディアの状況なのだから、私は何をぼけっとみているのやら、という気もしてくるのだった。
夕飯は、まだできてこなかった。妻が退院してきたばかりの2・3日間だけ、私がひきつづき食事をつくってみたが、家事をすることは女房にとっての存在証明にもなっているように感じられ、また実際、私のワンパターンの飯よりはバラエティーにとんでいた。なんで無理して面倒なものを試みて失敗するんだと以前はおもっていたが、いまは、そうは思えなくなっていた。食えればいい、すきっ腹がおさまればいい、というものではないのが、文化であって、社会的に評価されるわけでもない日々の用事の積み重ねのなかに、少しづつの新しさ、新しいメニューが反復されてゆく。しかしその反復も、歳とともに、病とともに、ゆっくりなペースになって、崩れていく時も、あるのかもしれない。無症状だった若者が、中高年になって、突然にか、次第にか、発症するようになったらどうだろう? 被爆や、公害の被害者のように。私は、妻や、白血病になったその妹の様をみて、もしかして、これは水俣病なんではないのか、とおもうことがあった。彼女たちは、子どものころ、加害者側の家族として海辺で遊んでいたとしても。妻は、魚が好きだった。
特集番組がおわるころ、料理がでてきた。キャベツの豚肉巻き、というのか。あとは、メンマ、トマトとゴボウのドレッシング和え、カブの漬物、そしてアボガドのはいった味噌汁……「これ、変な味しない?」と、テーブルの上にスマホをたてかけて、もう試合も終わりそうなサッカー観戦をしていた息子が、箸で緑色の物体を赤茶色い味噌汁のなかからつまんでとりだし、顔のまえにもってくる。「そうかもしれない」と、妻は調子のはずれたままの声をだす。「アボガド? 俺だめなんだよ。レバーとアボガドはだめなんだ」、と女房の味噌汁のお椀のなかへとひたすら箸をもってゆく。ひとつ、またひとつとつまんでゆく。
女房は、黙ったままだった。「なんでも食えるようにならなきゃ」と私は言ったが、独り言のようになったのは、母子二人の関係に、そのままでは入っていけないほどの不透明さがでてきていることを感じているからだな、と内省されてきた。肉巻きは、ほぼ息子が次から次へと食べていった。残りがひとつになったとき、私は、少し間をあいて、席をたった。おそらく、その間を、この残りは、あまり食べていない母親の分だぞ、というメッセージだと息子は理解したのだろうか、息子も箸をその間にはださなかった。私自身、ふた巻きを茶碗一杯のご飯ですましただけで、まだ腹は減っていた。「そればっかりじゃなくて、いろいろやってな」と息子の脇を通りぬけるさい、女房のかわりなようにひと言いった。最後のひとつを、どちらが食べたのだろう? 歯をみがいているあいだ、背後の気配で感じとろうとしたが、静かなままだった。自身のおもったことをすぐに口にだす妻と知り合ったのは、社会運動の会合でだった。その運動を立ち上げた男は、組織が混乱していくなか、評議会のメールにて、「こんな女には、徹底的に冷淡にすべきだ」と告発していたのだった。みなが、賛同し、押し黙った。私は事務員として、端からそのメーリングリストをながめていた。
明日は、選挙になる。女帝と呼ばれはじめた現都知事が再選を果たすのだろう。私はおそらく、国営放送をぶっこわすと声をあげた男に、立場の考えはちがうけれども、労働者の匂いのする彼に、投票することになるのだろう。
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