ポストコロナ、とかいわれる。インテリはその思想的意味をとき、政府は「新しい生活様式」を推奨している。私としては、その国内的な意味は、昨日朝日新聞に掲載された、大塚英志氏の「日常に入り込んだ公権力」と題して意見された論を共有する。それは「新しい」のではなく、戦前の大政翼賛会が説き女性中心に実践された「新生活体制」や「自粛」の反復であると。国際的には、人類は何度もウィルスと戦ってきた経緯をもち、いまの常態もその構造的な反復であることを確認している論調が目立つ。反復ではなく、変化だと受け止める論調としては、テレワークに象徴されるような、あともどりできない人間関係の変化の社会的必要と意味を、世界規模的なテクノロジーを前提依拠してその必然を説いているものが目立つ。私としては、世界的な文脈においては、エマニュエル・トッド氏が朝日新聞にのせていた、変化ではなく、それ以前の現実問題が加速されただけだ、という論点を共有する。
その論点は、このブログで再三説明してきたことであるが、コロナ文脈において、また確認する。
いわゆる近代社会においては、現象として、二つのベクトルが共存していた。個人(アトム)化と集団(ナショナリズム)化だ。古典的な意味での共同体が崩れていって、個人がバラバラになった大衆になり、ゆえに、近代政治的な集団性にからめとられたのだと、と解釈される。農地からおいだされた人々が、都会での工場労働者になっていったという、囲い込み運動の歴史をふりかえれば、いわば、資本とネイションという相反した二つのベクトルが、一体となって人々をからめとってきた、という事態である。ポストコロナ風にいえば、テクノロジー的に可能的なソーシャル・ディスタンスをとったがゆえに、ナショナルな集団的再編成が新しくやりやすくなった、ということになる。が、このこれまでの一般的な解釈に、異議を導入したのがトッドだった。近代化(アトム化と集団化)が民主主義として成功裡に成立した社会とは、実は、文明中心(ユーラシア)地域から周辺や亜周辺に位置した、文明伝播が中途半端に遅れた地域においてであって、そこではそもそも、文明以前の核家族的な、個人の方向へのバイアスが強かったのであって、そうした世界史的風潮のなかでも、実は、文明中心地では、中央集権的な村(共同体)は共産主義として生き延びていたのだ、ソ連が崩壊し、いっとき「歴史の終焉」として自由民主主義しかなくなったとおもわれたが、現在は「帝国(文明)」とその価値の逆襲の時期にのみこまれている。最新のテクノロジーを屈指して社会全体をコンピューター管理しはじめた中国をみれば、それが、「新しい生活様式」なのか、これまでの「中央権力的な共同体」の基盤が補強されただけなのか、判然としないだろう……私風な言葉使いでいえば、こうなるだろうか。
しかし上の文脈で、私が考慮しておきたい視点は、近代化にともなって発生した「少子化」という事態だ。トッド氏は、それを女性の識字率の上昇ということに、一番に関連づけている。ナショナルな集団は、「濃密接触」であったはずなのに、子どもはうまれなくなる。再生産が、うまく機能していかなくなるのだ。女性が、産むことを回避してくるからである。逆にいえばおそらく、民主化(一夫一婦制)の下では、そう簡単にハーレムなりレイプはできない、女性の避妊が通りやすくなる、ということでもあるだろう。だとしても、中央集権化(男=父性中心化)していく村落共同体にせよ、民主的な国家主義の社会下においてにせよ、女性は、そうした集団性の濃密さを嫌う、そんなところでは子どもを産みたくない人がおおくなってくる、という歴史は構造的反復というよりは、不可逆なのだ。ポストコロナとかで、社会的距離を問題にするならば、テレ何とか、というテクノロジーの推奨ではなく、この男女間に象徴的にうかがえる距離感を焦点化できなければ、なんら問題把握にもならないだろう。ここで「象徴的」といったのは、性の問題にはとどまらない射程をはらんでいるからだ。たとえば、コロナ下でのテレ学校で、集団一斉授業という近代形式になじまず、教室での引っ込み思案や引きこもりの子が、遠隔個人授業的になったら、会話をし質問をするようになった、という事例がでてきている。ならば、何が「濃密(深く考える、ということ)」なのか、一概には言えなくなるだろう。(この近代化での一斉集団授業の件に関しても、子どものサッカー問題をとおして、このブログでも再三いってきた。)男女間の距離に関しても、何をもって「濃密接触」というのか、ということだ。レイプされて子を産んでも、それは、濃密接触なのか? 他者との交通が、戦争をも含めるのだとしたら、そうともいえるのかもしれない。それは、ウィルスと共存・交換してきたように、人類史的な構造的反復なのだ、と。柄谷行人氏は、それを、ポストコロニアル(植民地主義)という思想との駄洒落で、「ポストコロナリスム」とか呼んでいる(『群像』7月号「コロナウィルスと古井由吉」。)このエセーでは、我と汝(ウィルス)との、単独―普遍的関係と、個―類一般関係という位相が古井の引用をとおしてごっちゃにされているわけだが、人類史という、同一性の構造的反復としてだけの理解ではすまない、不可逆な、一回性的な、つまりは単独的な関係の現実もが浮き彫りにされている、ということなのだ。
また別に、そういう観点をふまえた議論があることを、最近知った。芸術(美術)関係の人があつまってテレ議論した、「「文化/地殻/変動」訪れつつある世界とそのあとに来る芸術」である。そこで、造形作家の岡崎乾二郎氏が、人間とではなく他の生物との出産アイデアを提示したりしている長谷川愛氏の作品をとらえて、「再生産」という意味を読みかえている。生物的な意味での再生産ではなく、文化(事物)としての再生産が残ればいいのだと岡崎氏は言い切りたいらしいのだが、私はそこまではわからない。ショーヴェ洞窟でのように、何万年と隔てて、いわば時空のソーシャル・ディスタンスをもって、熊とネアンデルタール人やクロマニヨン人が交流し絵画を再生産している。その下地の視点は、このブログでも紹介した。
私は、人類史的な反復をとくインテリに対しては、それは現象としては当たり前な話だろうとおもい、社会現象的には、大塚氏が意見した認識(反復)を共有し、しかしそこに、不可逆(変化)的な現実もが控えている、と認識するが、それは現テクノロジーとは直接的には関係なく、本来的な人間能力としての距離感にまつわる現実としてだ、ということだ。東日本大震災の時にも、3.11以降の思想とかが説かれた。社会現象的には、何も変わらなかった、人間は変わらなかった、くだらないものが反復された、かもしれない。が、私は、あれ以来、涙もろくなってしまった。関西の人たちは、阪神大震災の衝撃で、そうなったのか、とも遅れてきた人間として、そう推察したりする。が、あの時、私は若く、テレビも所持していなかった。3月11日の時は、松葉杖で家におり、ずっとリアルタイムでテレビをみていた。体の芯のタガが外れてしまったのは、その年齢と環境の違いからなのだろうか? あるいは、テレビとスマホとの違い? たしかに、マスメディアより在野の個人からの情報を選択するようになっているだろう。しかしそれでも、あの放射能におびえた当時と、このウィルスにおびやかされた現在が、似たような心理状態を惹起させても、これが二度目であることが、私を身構えさせたのだ。おそらく、このウィルス騒動は、フェイクだ。どこまでが陰謀であり、その思惑がどこまでうまくいっているのかもわからない。近所の火葬場で、死体が山積みにならなかったのだから、日本では大したことはない。が世界をみると、より大変なニュースになっている。が、ニュースで日本をみても、大変なままになっている。虚構(先の設計図)を実現していこうとする人間の意志、能力。それが、その想像力が、人類を繁栄させた、と人類史は説くわけだ。ネアンデルタール人が滅んだのは、その虚構の共有ができなかったからだと。が実は、彼らも虚構世界を想像できてた、というのが最近の学説になってきているようなのをうかがうと、むしろ、想像力のあるなしは、種の繁栄と絶滅には関係がない、ということなのかもしれない。いま人類が、虚構の共有によってこそ破滅へと自らを追い込んでいるのかもしれないとしても。
よりよく生きるとは、どういうことだろうか? 涙もろくなった身体の変異のあとで、それを抱えて、考えているのだろう。
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