2013年9月16日月曜日

明日はどっちだ?(夏風邪と甲状腺がん)

「日本の近代化をめざす琵琶湖疏水とともに生まれた小川治兵衛の庭は、山県有朋によって日本の近代化をはじめて表現した無鄰菴庭園としてその姿を現し、幅広い世界をつくり上げていった。そして山県がつくり上げた大日本帝国が五〇年を経て崩壊してゆくに際して、岩崎小彌太が財閥解体を目前にして鳥居坂本邸に籠りながら眺め、近衛文麿が末期の目で見つめたのもまた、小川治兵衛の庭であった。/ 小川治兵衛は、日清戦争の勝利にはじまり太平洋戦争の敗戦に終わる、すなわち山県有朋にはじまり西園寺公望をへて近衛文麿に終わる日本の近代化のプロセス、そのプロセスを担った山県・西園寺・近衛という大三角形をまるごと包み込む庭園をつくり上げたのであった。」(鈴木博之著『庭師 小川治兵衛とその時代』 東京大学出版会)

季節の変わり目には風邪をひきやすい。当たり前として伝承されていることだとおもう。寝入るときは暑くても、夜半には開け放した窓から夜気が忍び込み、寝ている最中にとりまかれとりつかれてしまう。自然(身体)とのバランスを崩して邪気にやられてしまったならば、暑くてもその熱を追い出すために、蒲団をかぶって寝る。汗を出す。我慢する。それが文化というものだ。おそらく何万年と人類が暮らしてきたなかで体得し伝承してきた。子供が蒲団を蹴とばしてはいだなら、我慢強くまたかけてやる、それが親の受け継がれた作法だったはずだ。ところがわが女房、毎年その作法を性懲りもなく無視し子供に風邪をひかせ発熱させている。低級な身体の快・不快に左右されて卑小なエゴに居直り、自分の脂肪太りのためか女の性質なためか、暑さにも我慢しようともせず、クーラーだの扇風機をかけまわす。そして「反原発」だの「子供を草っぱらで遊ばせよう会」だの「うちの子も甲状腺癌が心配だの」とほざいている。わが子の夏風邪ひとつ防げもしないのに。こんな秋への移行期の暑さなど、虫の鳴き声や空気が皮膚をなぜてゆくその流れに集中してさえいれば、いつしか気持ちが涼しくなって寝入ってくる。そんな単純な自己コントロール、自然との調和の術も忘れた者が、放射能だとぎゃあすか騒ぐ。原発推進派も反対派も、近代下の卑小な自己に依拠しているところで同じ穴のムジナである、という好例だ。しかしおかげでこっちは腹が立ち、寝入れずにこんなブログを夜半に書き込むはめになる。今夜は台風が直撃するというのに、窓を開け放ち、扇風機をまわし、咳をし38度近くまで熱をだしている息子は熱いといって蒲団をはいでのたうちまわっても、暑いからそうなるのだからとなんの対策もとらず、女房ひとりで鼾をかきはじめて寝入っている。なんともいい気なものである。

台風雨で家に閉じ込められた昨日日中は、前の晩に借りたDVDをみていた。息子が、『明日のジョー』がみたいというので、テレビシリーズのものをいくつか借りてきていた。映像としての記憶はないのに、見ているうちに、次にどうなるかのストーリーの細部が、断片的なシーンを脳髄のどこからか掘り起こしながら思い出されてきて、記憶というもののあり方に不思議になる。その漫画のなかで、ジョーが、慈善活動をする金持ちのお嬢さんを、その活動のエゴイストな偽善を囚人衆の前で告発し笑い飛ばすシーンがある。自己弁解のためにやっているだけじゃないか、それが、俺たちのためになっているのか? ……その場しのぎの快を欲する囚人たちは美しいお嬢さんを支持し、ジョーは独り暴力にたかぶっていく。これは、いまもって「連続する問題」だ。というか、今の社会活動なるものは、このジョーの批判を忘れたというよりも、自己満足やエゴなのは当たり前だからとそこを肯定して素通りし、実践的にマシな改善がなされるのだからいいのだ、と居直っているようにおもわれる。しかしほんとうに、そんな程度で、マシになるのか? 配膳されたホームレスはその日をしのげるだろう、が、ジョーの怒りや暴力を発生させているものは収まらないどころか、むしろその慈善=偽善=居直りによって、なおさら深く激しく潜伏してきた、そしてなだめられ抑えつけられたところとはちがった場所から噴火しようとしているのではないのか?

夏風邪と甲状腺がん、あなたは子供のどちらを心配しますか? 明日は、どっちですか? あなたは、どっちの明日を選びますか?

2013年8月16日金曜日

夏休みの宿題にみる戦争(サッカー)の論理

「……幸いにも、アルゼンチン人の女性記者が私の腕を抑えた。「大事なのはフォーメーションだけよ。そのほかのことは書く価値がないわ」と彼女は言った。/ その瞬間だった。イングランドのフットボールの致命的な欠陥が白日の下にさらされた。フットボールを決めるのは選手ではない。いや、少なくとも選手だけではない。フットボールは「形(シェイプ)」、そして「空間(スペース)」、「選手」をどう賢く起用するか、そしてその使い方の中でどう選手が動くかにかかっているのだ。(略)アルゼンチンの女性記者は、効果を狙って少し大げさな表現をしたのだろう。選手の心、魂、やる気、力、パワー、スピード、情熱、そして技――すべてがプレイに影響をおよぼすのは確かだ。しかし、これらの要素とはまた別に存在するのが論理的次元なのである。」(『サッカー戦術の歴史』 ジョナサン・ウィルソン著 野間けい子訳 筑摩書房)

子供の夏休みの宿題をみる。休みまえから小学4年生の一希が、何に混乱しているのかは教科書を調べてわかっていたが、女房との勉強バトルがうかがえなくなるまで、その落ち着いた環境がみえてくるまで、と、時期をまっていた。佐渡へと家族旅行を終えたあとは女房も満足したのか静かなので、その隙にと私が算数の問題をやらせる。一希の頭の混乱は、この4年生の算数上にあらわれてきた、いわば抽象世界と具体世界のかい離に起因し、その整理が頭の中でできないことにあると知れていたからだ。おそらく、教師側でも、そこが難しい説明困難な個所だと気付いているのだろう。だから、夏休みのドリルからは省かれている。ドリルは、計算問題ばかりだ。しかし問題なのは、この具体世界を理解(整理)して心を落ち着かせるには、この世界から離れた抽象的なモデル世界をイメージして論理化してみせる必要が人間にはあるのだ、と気づかせることなのだ。世界は複雑でわからないものなのだ。そこで頭の混乱を収めるために、どんな術をヒトがあみだしているのか? それが、倍数の応用問題として4年算数ででてくる。

問1) カブトムシは20センチでダンゴムシは2センチです。カブトムシはダンゴムシの何倍ですか?

答えは簡単だろう。ならば、逆はどうか。「ダンゴムシはカブトムシの何倍ですか?」と。0.1倍だの10分の1倍だの、現実世界にありうることだろうか?

問2) 3こで1パックになっているヨーグルトのねだんは200円です。ヨーグルト12この代金はいくらですか?

これも、パックをはがして1個の値段をだして、と現実をこえて考えなくてはならない。お店でそんなことをしていたらおこられるだろう。しかも、1個の値段が整数として割り切れなかったら、という場合も教えるという必要がでてくる。この場合の違いとはどういうことなのか、どうして発生するのだ? 
この倍数問題を通過したあとで、図形問題や平行という概念、そして小数点などの導入がでてくるから、教師体制側もそこにつまづきのアポリアがあるとしっているのだろう。が、説明が難しいので、納得させることができないまま、計算問題として処理してすましてしまうだろう。結果、算数(数学)は現実とは関係ないもの、やらなくていいものと子供はその困難を合理化して逃げてしまう、ということになる。もちろん、私もうまくこの難点を説明できない。子どもには、答え(計算)はまちがってもよいから、式(考え方)を理解していこうと、ゆっくり時間をかけた。翌日おなじ教科書の例題問題をやらせてみると、先日はぐずって放棄しようとしていたその問題というか、考え方を披歴できるようになっている。それは、考え方を暗記した、ということなのかもしれないが、私は、それは九九を暗記したのとは違う態度を子どもに植え付けていることなのだと推論している。数学は同じ例題を繰り返しやること、外国語は同じ例題構文を繰り返し前から読んで理解できるようになること。暗記というよりも、その論理にそくした頭の使い方を覚えることが抽象力を鍛えることになるのだとおもう。なんでそんなことが必要なのかは……私はその説明は、政治的な話になるだろうと考える。

<一方、日本をはじめとするサッカー後進国は、”サッカーの本質(カオスとフラクタル)”をストリートサッカー経由で時間をかけて築く前に、先を急ぐあまり、サッカー先進国の型(=練習メニュー)を通じてサッカーを学んでしまったのではないでしょうか。(略)その結果、サッカー後進国は”サッカーの本質”を理解しないまま、サッカーの全体像を理解する前にサッカーの各部分(技術・戦術・体力・精神力・攻撃・守備・パス・トラップ・ドリブル・シュートなど)にばかり目が行ってしまい、サッカーを細分化(要素還元化)して理解することが”習慣化”し、そして細分化(割り算)と統合(足し算)を繰り返す要素還元主義的なトレーニングが”習慣化”されてしまったのではないでしょうか。「”サッカーの本質”を理解しているかいないか」、という最も大切なスタート地点が違うわけですから、同じ練習メニューを行ってもその効果に大きな差が出てきてしまうのも無理はありません。(略)…
 サッカー先進国と後進国の差の原因を、このような”ボタンの掛け違え”と僕が思うようになった理由のひとつは、「問題は、その問題を引き起こした考え方と同じ考え方をしているうちは解けない」というアインシュタインの言葉に出会ったからです。戦術的ピリオダイゼーション理論をより深く理解するために、カオス理論をはじめとする非線形系科学に関する本を読み漁っているときに出会ったのが、このアインシュタインの言葉でした。>(『テクニックはあるが「サッカー」が下手な日本人 日本はどうして世界で勝てないのか?』 村松尚登著 河出書房新社)

しかし、ではなぜアインシュタインは世界を知る基準単位を<光>に求めたのか? それは聖書に、「はじめに光があった」と書かれているからである。その唯一神への信仰が、科学を進化、キリスト教圏の考え方では「進歩(神に近づくこと)」させてきたのである。ゴールとは、神なのだ。その神(目的)が世界を、フィールドを作ったのなら、そこはでたらめに創られているわけがない、真理の法則があるはずだ、それを探せ、となる。冒頭引用した『サッカー戦術の歴史』には、サッカーらしきボールを使う遊びは他の文化圏でも、日本でもあったのに(平安時代の蹴鞠)、なんでヨーロッパでは進化しかのか、という問いがはらまれている。たしかに、日本では蹴鞠のままである。しかしそれは、そこに唯一の真理を見出そうとする信仰がなく、ゆえに科学とその進化も発生しない。またサッカーの戦術歴史を書いた作者は、サッカーが発生したイングランドでその進化が止まって他のキリスト教文化圏で進展していったのは、その「島国根性」にあると見立ててもいる。ならば、後進国で島国日本のわれわれが、そのキリスト教的な論理を受け入れがたくあるのはいたしかたない。サッカー評論家の杉山茂樹氏のような指摘が、日本人一般には受け入れられていないようなのもそのためだ。しかし、杉山氏のコンフェデ3連敗の日本代表への苦言は、たとえばこのブログでも国際ユース大会での北澤元選手の比較や、あるいは「ナオトはテクニックやスピードはあるけど、速くプレーしようとしすぎで空回りしている。焦らずに落ち着け。サッカーはもっと賢くプレーするものだ」とバルセロナで言われた前掲書の村松氏の分析と、根本的には同じものだと私は理解している。

で、理解する必要があるのだろうか? 私は、ある、と返答する。なぜなら、なお世界は西欧が、欧米が、キリスト教文化圏が作っているからである。ビジネスにしろなんにしろ、われわれはその世界で生きていかねばならない。ならば、敵をまず知るべきである。つまり、あの論理を。ロゴスを。ロジスティックを。少なくともこれまで、平和など人類史に存在などしていない。戦後日本の周辺でも、朝鮮やベトナム、インドシナで戦争が頻発しているのだから、日本は平和だったなどと世界理解するのはそれこそ島国根性である。しかしもうそんな根性ではいられないだろう。私が一希に算数を理解させたいのは、戦争に準備する必要としてなのだ。

2013年7月29日月曜日

文学とは何か

「憲法を改正して交戦権を回復し対外的に日本の国家主権を示すことでこそ平和は維持し得るというのはひとつの正論ではある。しかし、「政治上」の細かな議論はおいて「人文上」から観るとどうだろう。この正論は、相対的平和の中で「近代生活」を湯水のごとく享受しながら平和を主張することとどこが違うのか。これもやはり、どこかの国でどんな戦争、どんな紛争があろうと自国だけは「近代生活」を享受できる相対的平和を手放したくない、保持していたいという以上のことを主張していないのではないか。それこそが、概して、平和維持という、口当たりいい言葉の本心ではないのか。/ 問題にしたいのは、「人文上の権利」だ。「政治上の権利」ではない。憲法以前の人文だ。憲法以後の政治ではない。右の正論では「政治上の権利」が理詰めで問われているだけで「人文上の権利」が問われていないのではないか。「近代生活」を拒否していないと不満に思うのではない。「近代生活」を拒否しなくてもいい。ただ、「近代生活」を拒否するのに払わねばならないのと同じくらいの代償がそこで支払われていないのではないかと疑問に思うのだ。この代償を支払うつもりのないままに自衛権が問題いされ、平和の維持が言われてはいないか。じっさい、憲法を改正して交戦権を回復せよと今日言う誰がそれだけの犠牲と代償を自分で引き受けるつもりでそう言っているのか。」
「「憲法にうたわれているような平和と自衛を実現するためには、「近代生活」を犠牲にするのと同程度の代償は支払う覚悟が要るということだ。その代償を払うつもりがあるのかないのか。口先だけの議論でなく実際に何かをしようというのであれば、平和のために何をどうするにせよ、この問いは憲法以前のどこかで必ず問われる。憲法九条に記されていることを本気で活かしたいのであれば、条文や成立経緯をめぐる苦しい窮屈なディベートを自らに強いるべきではない。憲法以前のところで為しているべきことがあるのだ。そこで問題になるのは「人文上の権利」である。」(「人文上の権利」 山城むつみ著『連続する問題』所収 幻戯書房)

子供への虐待が、震災・原発災害地域で増加していると、児童相談上へあげられてくる件数からはっきりしてきたという。そこには、夫婦喧嘩を子供が見ることで受ける障害症状といったものもはいってくるという。直接な被災地とはいえない東京の一家庭でもその統計結果に肯けてしまう現状があるのだから、現地は深刻にちがいない。しかしその夫婦喧嘩、家庭内で発生してしまう根本を探っていくと、上で引用した山城氏の指摘する問題に突き当たらざるを得ない、とわかってくると私は思う。いわば、「近代生活」への未練が、すでに否が応でもその放棄という代償をしはらわされようとしている被災者の方々に葛藤を引き起こしてしまう。これは、酷な言い方だろうか?
福島県には、「近代生活」的なあり方を嫌気して、自給自足的な生活をつくろうと都市部から移住してきた人も多かったときく。その人たちも、放射能で自らの田畑を放棄させられた。またそうした現地へ、にもかかわらずと、自発的に現場に入り、草を刈り田畑を再生させ耕し、あるいは、その他の仕事、建設関係から福祉サービスまで、といった様々に必要な復興の現場に参入し手助けしたいと移民しにきた人もいるだろう。私は、そうした人たちの動きや思いを、たとえば現今の反原発運動も都市部のいい生活をしている人たちのエゴなのだ、といったようなある種のインテリ的な見方で批判してみたいとはおもわない。半面はあたっているとおもうが、それだけでは批判しきれないもう半面があるだろう、と推論するからだ。そしてその推論のあり方が、いわゆる山城氏が保田與重郎にみた「人文上の権利」という見方からくる。要は、私は「文学的」な見方を放棄する気にはなれないのである。ジャーナリズムをみまわしてみると、「文学」を忘れた政治的な、現象面的なものへの反応ばかりの話で、私には説得力としてものたりない、どこか中途半端な、何か大切なものを忘れたうえでの議論におもえてくるのである。

しかし「人文上の権利」、いわば「文学」とは何か? その見方とは? と言われても、明確に言いえないのが難問だ。だがとりあえずここで、私は、現地に同情し入っていく人々、原発に懲りて反対の声を上げる人々、そうした人々の動きには、知的観念からの批判を超えた、「類としての行動」、いわば「自然(史)」の観点がはらまれているだろう、と言うことができる。だから、右からだろうが、左からだろうが、それを批判しきれないのだ。逆に、山城氏は、上での憲法論議に関し、右も左も批判する観点を保持しているのがわかるだろう。しかし、その保持している観点、いわば「人文上の権利」視点、文学とは何なのか?
山城氏は、同じ書籍に集められたエセーのなかで、「少子化」という現実見方(政治ジャーナリズム)に関し、こうも記している。

<人口の問題は、統計学を離れて個人の問題としてみれば、端的に結婚(結婚する、しない)や出産(子を持つ、持たない)の問題として現れる。人生の大事として個々人がそれについて深く考えたり悩んだりしないはずの問題である。そして、そこには当然、打算、欲望、責任、そして決心が複雑にからんで来る。それが意識の問題、意志の問題でないはずはないのだ。では、それはすべて意識次第、意志次第で決定されているかというとそうではなく、我々が何をどう意識しどう意欲しているかにかかわらず、現にあるこの生活をしているというただそれだけのことによって個々の意識の外側から、右に述べたあの「力学」が作用して結果的には集団として出生率が一定値以下に抑えられるのである。何をどう意識し意欲しようと、その意識の仕方、意欲の持ち方そのものがそれによって予め制約されていると言ってもいい。個としては意識のレベルで任意なものとして現れる問題が、いわば種としては自然史のレベルで一定の枠内に制御されているのである。考えてみると、これはフシギなことではないだろうか。
 これが純粋に生物学な現象でないのは言うまでもないが、しかし、純粋に経済的な現象でもないだろう。いわんや、政治、政策の効果などではない。『資本論』の著者はその序文に「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんな諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」(岡崎次郎訳)と断っていたが、地上の人類の活動に作用している「力学」をグローバリズムや世界資本主義の問題として分析する現代のエコノミストはそれを「自然史的過程」として考えているだろうか。人口の動態と推移を分析する人口統計学は、結婚、出産に関わる「自然史的」なフシギをどう扱っているのか。人が結婚したり結婚を控えたりするのは、また人が子を持ったり持つのを控えたりするのは、心理(意識や意志)を超えたどんな「自然史的過程」の作用によってなのか。素朴な疑問だが、寡聞にして僕はこれに答えてくれる学を知らない。」(「精子そのものに影が射している」 同上)

この「フシギ」に立ち止っていることが許されて在る見方、学、それが「文学」だとおおまかには言えるかもしれない。のろまやボケといわれようが、その劣等者でいいのだ。
山城氏の文章は、その思考のあり方に触れることは、私をほっとさせてくれる。

2013年7月15日月曜日

連帯(共生)へむけての基礎認識 (引用銘記)――石原吉郎著作から

「この、無意味な世界を生きるに値するものとするということは、無意味を意味におきかえることではない。無意味とたたかいつづけることである。」(『石原吉郎詩集』 思潮社 現代詩文庫

「挫折という痛切な経験は、僕にはない。しかし、一つの時代が挫折するとき、一つの世界が挫折するとき、僕はその挫折の真唯中にあるのであり、僕を含めた一つの全体がそこでは挫折しているのだ、ということをはっきり知らなくてはならないのだ。」(同上)

「最初の淘汰は、入ソ直後の昭和二十一年から二十二年にかけて起り、長途の輸送による疲労、環境の激変による打撃、適応前の労働による消耗、食糧の不足、発疹チフスの流行などによって、八年の抑留期間中、もっとも多くの日本人がこの期間に死亡した。またこの期間は、何人かの捕虜と抑留者が、自殺によってみずからの死を例外的にえらびとった唯一の期間でもある。
 この淘汰の期間を経たのち、死は私たちのあいだで、あきらかな例外となった。私たちの肉体は急速に適応しはじめ、生きのこる機会には敏速に反応する、いわゆる<収容所型>の体質へ変質して行った。
 このような変質は、いうまでもなく、多くの人間的に貴重なものを代償とすることによって行われる。しかしこの、喪失するものと獲得するものとの間には、ある種の本能、人間の名に値する瀬戸際で踏みとどまろうとする本能によって、かろうじてささえられるきわどいバランスがあって、人がこのバランスをついにささえきれなくなるとき、彼は人間として急速に崩壊する。」(「確認されない死の中で」『望郷と海』石原吉郎著 ちくま文庫)

「<共生>という営みが、広く自然界で行われていることはよく知られている。たとえば、ある種のイソギンチャクはかならず一定のヤドカリの殻の上にその根をおろす。一般に共生とは二つの生物がたがいに密着して生活し、その結果として相互のあいだで利害を共にしている場合を称しており、多くのばあい、それがなければ生活に困難をきたし、はなはだしいときは生存が不可能になる。私が関心をもつのは、たとえばある種の共生が、一体どういうかたちで発生したのかということである。たぶんそれは偶然な、便宜的なかたちではじまったのではなく、そうしなければ生きて行けない瀬戸際に追いつめられて、せっぱつまったかたちではじまったのだろう。しかし、いったんはじまってしまえば、それは、それ以上考えようのないほど強固なかたちで持続するほかに、仕方のないものになる。これはもう生活の知恵というようなものではない。連帯のなかの孤独についてのすさまじい比喩である。」(「ある<共生>の経験から」 同上)

「こうして私たちは、ただ自分ひとりの生命を維持するために、しばしば争い、結局それを維持するためには、相対するもう一つの生命の存在に、「耐え」なければならないという認識に徐々に到達する。これが私たちの<話合い>であり、民主主義であり、いったん成立すれば、これを守りとおすためには一歩も後退できない約束に変るのである。これは、いわば一種の掟であるが、立法者のいない掟がこれほど強固なものだとは、予想もしないことであった。せんじつめれば、立法者が必要なときには、もはや掟は弱体なのである。
 私たちの間の共生は、こうしてさまざまな混乱や困惑を繰り返しながら、徐々に制度化されて行った。それは、人間を憎しみながら、なおこれと強引にかかわって行こうとする意志の定着化の過程である。(このような共生はほぼ三年にわたって継続した。三年後に、私は裁判を受けて、さらに悪い環境へと移された。)これらの過程を通じて、私たちは、もっとも近い者に最初の敵を発見するという発想を身につけた。たとえば、例の食事の分配の分配を通じて、私たちをさいごまで支配したのは、人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感であって、ここでは、人間はすべて自分の生命に対する直接の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯であることを、私たちはじつに長い期間を経てまなびとったのである。」(同上)

「こうした認識を前提として成立する結束は、お互いがお互いの生命の直接の侵犯者であることを確認しあったうえでの連帯であり、ゆるすべからざるものを許したという、苦い悔恨の上に成立する連帯である。ここには、人間のあいだの安易な、直接の理解はない。なにもかもお互いにわかってしまっているそのうえで、かたい沈黙のうちに成立する連帯である。この連帯のなかでは、けっして相手に言ってはならぬ言葉がある。言わなくても相手は、こちら側の非難をはっきり知っている。それは同時に、相手の側からの非難であり、しかも互いに相殺されることなく持続する憎悪なのだ。そして、その憎悪すらも承認しあったうえでの連帯なのだ。この連帯は、考えられないほどの強固なかたちで、継続しうるかぎり継続する。
 これがいわば、孤独というものの真のすがたである。孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独は、のがれがたく連帯のなかにはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇気をもたぬかぎり、いかなる連帯も出発しないのである。無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない。」(同上)
 

2013年6月24日月曜日

世界をみるということ

「独身稼業の活動屋人生という、同時代の社会における裏街道を歩いていた小津には、むしろ都市部での皆婚化と家族形成というこの時期新しく始まった日本人の生き方こそが、戦争に淵源する巨大な暴力のもとで形成された、奇妙な様式であることが見えていたのだろうか。やがて佐藤忠男が最初の本格的な小津研究で指摘するように、監督・小津安二郎が誕生した昭和初年とは、実は親子心中の激増を見た時代だった。当時の男性優位の賃金慣行の下で、夫との離婚ないし死別後の母親が自力で子供を育てることがきわめて困難となったためである。軍需主導の重工業化に伴って農村社会が解体し、近世以来の「村」という地域レベルの共同性が衰亡するなかで、「家族」という単位のみに日常生活や相互扶助の基盤を求める日本的な近代化の歩みが、一面では情愛ある家族関係への過剰なまでの羨望を育み、他面では後に遺すぐらいなら子供の命もわが手にかけるという悲劇を生んだのだった。」(与那覇潤著『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』 NTT出版)

最近とみにつきまとう虚ろな感覚を言ってみるならば、自分の体はカリモノであって、その仮の物質を通して、永遠に存在するのだろうような何者かが、他人事のように外の世界をみている、というふうだ。そして霊魂とでもよびたくなる永遠の何者かは、この世に関与せず、ただじっと見ているだけの存在……その沈黙は、私をぞっとさせる静かな恐怖をたたえている。先月、ヒナから育てたインコが逃げてしまって、夜半、早朝、木上や藪の中をその名を呼んで目を凝らしたが、呼ばれ探されているのはこの私であるような錯覚がふとおそってくる。いやその捜索の大半のあいだ、津波に飲み込まれさらわれ、生死のわからぬ行方不明となった肉親を追い求める被災した人たちの気持ちが想起され、小鳥が息子だったらどれほどのつらい真剣さでこの世界をみつめるだろうとおもったのだった。しかしその胸迫る想いと、虚ろな感覚は同時・表裏的な現象なのかもしれぬ。なぜなら、このつらい想いと空々しさは、子どもが生まれ、そのか弱き生から死への想像へとかりたてててやまぬ赤ん坊との共生がはじまったころからせりあがってつきまとう感覚だからである。それ以前にも、この生死への感性と呼び換えてもいいかもしれぬ実感の根は、あったような気がする。しかし子どもとの共存は、私を問い詰めさせる。そのおぞましさは、私の子というより、私自身からたちがってくるような気がする。ハイハイしていた頃の息子の姿や思い出は、目前の大きくなった息子に追いやられ実像を結ぶ暇もないが、呼び起されたおぞましさは、相変わらずなのだ。もうすぐ10歳になる息子はどこか親離れを開始している。そのことが、論理としてもなおさら、子どもから独立した感覚として私に取り残されて在る。もっと強さを増して。親離れする子とともに生は遠のき、老いる私とともに死は強くなっているのかもしれぬ。いや取り残されているのはあくまで意識する私であって、ゆえに、虚ろな感覚はその私の向こうの冷ややかな私を超えた存在との間隔を露わにさせることで、その何者かの存在を、日々私に教えているのかもしれぬ。しかし、だからどうしたのだ?

私はまだ、あきらめていない。何を? 身近なことでいえば、息子のいるサッカーチームをそれ相応に勝てさせてあげたい。その勝敗を伴う真剣さを通して、世界のことを考えていけるようにさせてあげたい。その日々の営みをとおすことで、私自身が子供たちといっしょになって、この世界の悲惨さを少しでもましな方へ変えていきたい。おそらく、そんなとこだ。

コンフェデレーションズ・カップで、日本は三戦全敗。実力通りだったとおもうが、悪くない内容(真剣さ)だったとおもう。ここでの教訓を生かすには、個人の力では限度があるだろう。というか、世界で通じる個人を多数として培っていくためにも、遠藤選手がJリーグやアジア大会での制度改革が必要と説いているように、まず日本という全体が変革されなくてはならない。会場のまわりでは、100万人デモだ。イタリアのバロッテリは、外出禁止の勧告があっても、ブラジルのスラム街へと出かけていったという。おそらく、そこに暮らす子供たちを励ましにいったのだろう。サッカーをやるとは、そうした世界の問題に参加するということなのだ。個人の参加が、世界を変えるということはないのかもしれない。虚ろな感覚は、黙ってみている。しかしその感覚を、死を保持していることは、私を自暴自棄にさせるのではなく、落ち着いた微笑ましさを与えてくれるような気がする。子供の成長を温かく見守っているように、それは、世界を見ているのかもしれない。

2013年5月30日木曜日

数と形(サッカーと政治)

「数式は言葉だ、計算じゃない。」(東進予備校のテレビ・コマーシャルから)

国語・算数・理科・社会・体育・音楽・図工と、君たちは学校でいろいろ勉強しているね。じゃあ、サッカーと一番にている勉強はなにかな? 体を動かすから体育かな? でもここでは考え方、頭の使い方という点で、といえば、どうなるかな? スズキ・コーチの理解では、答えは算数になります。たとえば、よくテレビで試合の解説者が、「数的有利」とか「数的不利」とか言っているのをきかないかな? 君たちも、練習で、この数の問題を学習したよね。1対1、1対2、2対1、2対3、3対2……そして3人対人でのボール取り合いとなればポゼッションゲームだよね。自分がボールを受けてぱっと顔をあげたら、前に相手が2人いる。サッカーでは、これは「数的」に「不利」つまり負けだから無理にしかけない、と判断する。だから味方を待つ。2対2なら引き分け。だからしかけてみる価値もある。3対2なら万全だ。もちろん、ほんとに上手な人なら1人でも突破できるだろうけれど、それは個人の話で、サッカーではこの数の問題を原則的な公式、1+1=2のように受け入れて考えていく、それが一番ゴールという正解を得るための近道と考える、ということなんだ。しかしこの数の問題は、それだけではない。たとえば、2人だったら、二人を結ぶ直線になるね。3人だったら、三角形になるね。そういうふうに、数というものが、形につながっているんだ。そしてこの形が、相手とぶつかったときの君たちの判断を誘ってくる。相手が1人で味方が隣にいる2人だったら、味方へのパスや、1人がおとりになることでのドリブル突破だの、と判断するね。1点なら出てこない発想だろ? 3人の三角形なら、パスコースが増えるね。つまり、君たちは自由気ままにボールを蹴っているようにみえて、実は、この数と形が、君たちの考え方をだいぶにおいて支配しているんだよ。サッカーがわかるようになるとは、この数と形の原理原則を頭にいれて、フィールドで上手に使って、ゴールという正解にたどりつけることができる、フィールドの難問を解くことができる、ということなんだね。
で、この間の試合、去年はいい勝負した相手に16対0で負けたということだけど、どうしてだとおもう? 普段やらないポジションにつかされたりしてということもあったみたいだけど、こと数と形の問題に関していえば、その難問に君たちがはまってしまった、ということなんだ。布陣は、3-2-2だったそうだね。これは8人制サッカーの教科書では、守備的な陣形と教えられているものだ。が、では君たちが相手で、キックオフでボールを得たら、どう攻撃する? 何も考えずに、両サイドに深くあいたスペースへと走りださないかい? 前線の2人は後ろ向きには守備をしにくいし深追いできない、中盤の選手はタッチライン近くを走られると追い付かない、バックはもう後ろがいないので、アプローチしずらい、その迷いを形から強制されている間に、体の大きいキック力ある選手の多い相手チームが、どんどん打ってきたということだね。それが16回、繰り返された、ということじゃないかい? たしかに、相手にせめられっぱなしになりやすい、という点では守備的なフォーメーションだね。とくにサイド深く入られることは長くつづくと、5バックになりやすい、ゆえに8人制では、中盤の選手までが最終ラインに引きずり込まれることになるので、クリアボールを支配するのは相手だけになりがちで、すると、また相手との攻防がゴール前ではじまって抜け出せない、という悪循環が発生する。プロチームでも3枚ディフェンスではそうなりやすいんだよ。この布陣に近いチームモデルといえば、かつてのブラジルの4-2-2-2だね。これには相当強烈なサイドアタッカーが必要とされるのさ。
と、どうだい? 数と形の問題が、本当に試合でもそうだったとおもえてこないかい? サッカーが、だいぶ算数に似てきてないかい?

だけどサッカーでの問題とは、実は君たちが学校でならっている算数とはちょっと違うんだな。君たちのは九九などを暗記してやる計算だね。だけど本当の算数、つまり数学という数の学問がやるのは、ゴールのない暗記計算の繰り返しではないんだな。それはキーパーからバックへ、中盤へ、そして前線へとビルドアップしていくことで達成できる論理、というものなんだ。論理とは、国語の勉強の言葉でいえば、主語、述語、目的語、と順番に組み合わせていくことで意味を獲得できる言葉の力、ということだ。だから日本人がなかなかサッカーが世界で強くなれないのは、その日本語の文法、法則では、主語を省いたりしても文章が成立してしまう、その場の成り行きに任せられる言葉だからかもしれないね。「やるよ」と日本語ではいえるけど、英語では、ちゃんと誰が何を、ということを付け足してないと、言葉にならないんだよ。それだけ、相手にきちんと伝える、という要請が強い文化で生まれたのがサッカーというゲームということなんだ。つまりちゃんとしゃべらなくてもわかりあえる仲間うちではなく、自分が知らない他人とどうコミュニケーションを成立させるか、そのことがずっと問われてきた歴史の中で、サッカーが生まれた、ということでもあるね。
そしてこの論理力が、日本人には一番苦手な難問なんだ。計算問題としての算数はできるけど、つまり足先の技術でパス回しはできるけど、ゴールという目的に即した、意味のあるパス回しを構築していけないんだ。しかもそれができるようになるためには、まずもって、自分たちがどんなサッカーをしたいのかという理想がなくてはならない。それがあってはじめてそれに近づくための作戦がねれて、それを実現していくための技術、とわかってくる。見かけでは、どのチームも、日本のチームもドイツのチームもアメリカのチームも、みんな似たようにボールを蹴り、コントロールし、ミスをする。だけど、目指しているものがあってミスをしているのと、そこがあいまいなままミスをしているのとでは、同じことだろうか? ゴールを真剣に目指して考えやっている上でのミスと、公園での友達とのサッカーでボールコントロールをミスするのとでは、同じかな?

「同じ」じゃないか、と最近、大阪の市長が発言して世界で騒がれてしまったことを、君たちはお父さんやお母さんから、あるいはテレビのニュースできいているかな? 戦争になればみんな人を殺すさ、どの国も同じさ、だから、人殺しをした俺だけをせめるのはおかしい、というようなことをその大阪市長はいったんだね。だけどどうだい? 本当に、真剣に平和を実現するために外国と交渉してきて、そのときのミスのために戦争がおきて人殺しが発生してしまったのと、そんなことを本当には真剣に考えず、まわりが戦争するから自分もはじめて人殺しをしたのとでは、「同じ」かな? 真剣にやってミスをした人が、遊びのサッカーでミスをした人に俺とおまえも「同じ」仲間だね、と言われたら、侮辱されたように感じて怒らないかい? 怒るとおもわないかい? 君たちも日本人の大阪市長といっしょに、どうせ人殺しとして同じなのに、なんで怒るんだ? と頓珍漢になるのかな? だけど、その結果、大阪市長は、もう政治世界のワールドカップにはでられないよ。おまえは俺たちの仲間ではない、と追い出された。だって、世界の平和を作っていく、その努力を否定したのだからね。そのために下からビルドアップして他の国とのパス回しをつくっていく最中のミスを大阪市長は認めないといったのだからね。公園での友達仲間でのサッカーでもミスはあるでしょ、それとおんなじだよと。君たちはどうだろう? 「同じ」だとおもうのかな? はっきりしているのは、それを「同じ」とおもっているかぎり、ワールドカップにはでられない、世界では認められないよ、ということだよ。

参照ブログ<論理と外交と人間と> http://danpance.blogspot.jp/2012/11/blog-post.html

2013年5月12日日曜日

サッカーと戦争(ロジックとロジスティック)

「一般的に皆さんがよく見ているのは、国内外のプロリーグや日本代表の試合だと思いますが、スピードに劣る中学生の試合の方が一つひとつのプレーは見やすいと思います。きっと、ミスの少ないチームが勝つことが多いと感じると思いますし、ミスが多いチームと少ないチームとの違いにも気付くと思います。例えば、昨年優勝したサントスの子たちは、本当に”止める・蹴る”という基本が巧みで、簡単なミスをしない。攻撃でミスが出ないから、守る側は大変です。だから、自然と守備力も身に付いていきます。比較すると、日本のサッカーでは技術が追い付かないくらいにスピードを上げてしまう場面が多くて、そのミスのおかげでボールを奪えていることが多いわけです。まず、しっかりとした技術のベースがあって、次にテクニカルな面で狙えるプレーや戦術が広がっていくということが、よく分かる大会ですよ。日本のこの年代のトップクラスの選手たちも出ますから、日本が今後どのようなことをやっていくべきなのかという指針にもなると思います。」(北澤豪発言「エル ゴラッソ」号外 2013東京国際ユース(U-14)サッカー大会)

ゴールデンウィークに、駒沢競技場で開催された国際ユースの試合をみにいった。見たのは予選リーグだったが、それでも強いチームと弱いチームの差が歴然とわかるものだった。うまいチームではない。強いチームである。マラドーナがでているアルゼンチンのボカ・ジュニア、それとロシアはモスクワのアカデミー所属のチェルタノヴォ。ネイマールが育ったサントスFCはみれなかったが、北澤発言からしても、おそらくボカのようなチームなのだろう。それらと他のチームとの違いは、一人ひとりの選手に、チームとしての体系的な考えが行き届いて、意志統一された戦い方をしているということだ。コーチの話をきいている姿からして、それがみてとれる。コーチ(チーム)自身が理解させることに急いでいないので、選手もマイペースで消化できるよう落ちついて集中してきいている。自分がまず何をすればいいのか、このチームの戦い方にとって何を要求されているのか、その役割をしっかりと握りながらプレーしている。体格もさることながら、もうすでに大人の落ち着きである。それに比べ、日本やソウルのチームとうは、溌剌としているが落ち着きが変で、戦い方もドタバタしている。北澤氏が指摘しているように、お互いのミスのおかげで点をとり、とられる、といった模様だ。自分が持っている思考以上、技術以上のスピードで、無理をしてやっている。が、ボカのようなチームは、難しいことはしない。マラドーナやネイマールのような個人プレーヤーがいるのかなとおもっていたが、そうでない。近くの人へ止めてパス、その安全な連結で一貫している。ゴール前も、無理にこじあけるということが抑制指示されているように、相手が隙をみせたときにだけどばっとしかける。無理だったらしない。確実性と確率性に徹底している戦い方。サッカーが下からビルドアップしていく構築的なものであることがよくみえてくる。まだ日本のチームは前回ブログで冒頭引用した中田氏のいうように、「状況に対する反応」でボール運びをしている。そこにイメージ力を個性としてもった選手をボランチ(司令塔)として置いて、なんとかその個人の打開策がうまくいけば、という賭けのようなサッカーをしている。つまり、キーマンとなる個人へよりかかった戦い方である。

(そうした中でも、フランスのパリ・チームは、アフリカ人(黒人)の速さ、高さといった身体能力にかけた戦い方に徹していた。相手ディフェンダーの裏をとらせる前線へのミドルパス。しかも、3人でしかせめてこない、せめさせない。パワーゲームだ。あらっぽい。これで子どもたちが育つのかな、と疑問におもう戦い方だ。成長よりも目先この大会での結果を追求していくようなやり方で一貫していた。賞金かせぎとか、何か裏にあるのか、と疑いたくなる。)

この14歳以下の国際ユースのサッカー大会をみているだけでも、とても日本はまだまだ世界で対等には戦えない、とおもわせられる。コーチの話をきいている姿だけでも、その違いは、いつかのこのブログでも言ったとおもうが、親の躾け方の違いが根底にあるだろうことを推論させる。知り合いのコロンビアのママは、幼い娘を叱るとき、突然人格がかわったような形相になってしゃがみこみ、子どもの目をみつめながらバシッとピンタする。そしてピシッと一言。次の瞬間、またもとのやさしい母親になる。が、こっちときたら、日常そのままのぎゃーすかの延長でぐだぐだ文句をつらねていくだけで、示しがつくような感じではない。親が真剣になる、ということが(他の文化圏と比べたら)、親自身わかっていないような感じだから、子どもだってわかるようにはならないだろう。南米チームのようにはなるには遠い。というか、習慣原理がちがう。

ゴール(目的)をめざして前線にボールを運ぶロジックを考えること、それはつまり、戦争でいう兵站ということ、ロジスティックということだ。この補給路を確保していくということが、すなわち戦争をやるということだ。それが考えられないうちは、無理な仕掛けをしない。われわれは、この戦争の原理を、しっかり握っているだろうか? 「状況に対する反応」だけで戦争をしてしまって、それから出まかせに補給路を考えようとし、パスコースが消されて孤立した前線に、我慢しろ、根性だ、玉砕だと、精神主義的な「道」づれを養成してしまう、そんな癖をつけたままなのではないだろうか? 本当に、真剣に、戦争をするつもりなのか? つもりだったのか? と東京裁判で問われて、責任ある地位についていたものたちは、誰一人として、戦争するつもりだったと答えていない。こんなふざけたことがあっていいのか(原発事故であってしまったのだが……)? どれだけのひとたちが犠牲になったというのか? あれはお遊びだったのか? これからも、そんなことがあるのか(原発事故があってしまったのだが……)? いまなお、あるのか?

昨今の政治経済事情がわれわれ庶民に突きつけてきているのも、そんな真剣な論理のことなのではないだろうか? ほんとに、やる気があるの? と。