「数学の行為とともに生み出されていく風景をその歴史とともに見てきたこの連載のなかで、浮かび上がってきたのは数学を支える盤石な基礎としての普遍ではなく、終わりなき探究とともに生成していく普遍だ。デカルトの代数方程式も、リーマンの多様体も、デデキントやカントールの集合も、すべてはあらかじめ「普遍化可能」な概念として既存の数学のなかに埋め込まれていたのではなく、概念と、その概念を支える数学の足場が相互に形成しあうプロセスを通して、徐々に形作られてきたものである。ここには、概念の普遍化する力のもう一つの範型がある。
アプリオリな普遍を性急に措定することが、しばしば差異に対する目を閉ざし、わかるべき他者の存在を抹消していくのに対し、概念の普遍化する力は、むしろ差異を原動力として、わからないという緊張を契機として動き出す。差異と対峙し、ときには自己の信念が覆される傷みをも厭わず、歩み続ける。そうして連綿と継承されてきた数学の営為は、差異を無効にするどころか、いくつもの正しい幾何学、様々な数の体系、そしてその背後にある構造たちが織りなす豊かな数学の宇宙を浮かび上がらせてきたのだ。
私たちは生成する未完の世界に参加しながら、それでもなお、必然を確信して手を取り合える場所を探し求め続けることができる。その終わりなき探究のプロセスにこそ、普遍は生命を宿すのである。」(森田真生著「『普遍』の探究」『新潮』2018.7月号)
「今年からの課題」として、年頭、サッカーとアメフト(野球)のルールに伺える考え方の違いから、アメリカの民主主義に孕む問題をよりつきつめていくこと、と書き込んだ。それは、ヨーロッパとアメリカの民主主義の違い、さらには、日本の民主主義というものがあるのか、という問いにも連なっていく。最近の世間騒がせなスポーツ界に言及した文脈でいえば、「日本らしい」サッカーなんてあるのか? あるとしたらどんな?――というよりも、冒頭引用した「探究」にならえば、日本で「サッカー」を追求していくことにおいて、事後的に、その特殊な場所がそのままで普遍的かもしれぬ「サッカー(世界)」に参列していくことになるのである。実際、現場の森保監督は、「日本らしい」サッカーを目指しようもなく(無理してそんなことしたら迷ってしまうだけだろう)、ただ勝つために、または負けないために、試行錯誤するだけである。このメンバーで、どう戦おうか、と。それが事後的に、そのメンバーの群衆論理においてある特殊性の発揮の結果が、世界に達した(参列しえた)、と承認・了解されるのみだろう。ボールを奪うときにまず体を当てるのが南米らしいサッカーの特徴とか言われるが、彼らは意図してやっているのではなく、教えなくともそうなっていくのだと当地の育成コーチは発言していた。「日本人らしさ」も、結果からついていくもののように追求されなくてはならない、ということだ。
しかし私はまずはもっと一般的に、民主主義と平和(ルール)、ということを考えようとしたのだった。今年も続いたスポーツ界の不祥事のために、回り道をさせられているが。この主題を歴史的に振り返ってみたとき、次のようにも言い換えられると気付いた。
①パックス・ロマーナ ②パックス・アメリカーナ ③パックス・トクガワーナ(ヤポニカ)
この気づきは、もともと「朴石の庭」について考えていく文脈で、富士講、という江戸時代から流行った庶民信仰の調べにいき、そして江戸時代という平和な時代に、なぜその信仰の中興の祖と言われた食行身禄は餓死という幕府への抗議の自殺を遂げていったのか、という考察の中で交差してきたのだった。江戸の平和を世界史的に並列させた論考『日本文明とは何か』(山折哲雄著・角川書店)がヒントだったが、その問いを論理的に詰めていくと、結局はヘーゲル哲学を受けたコジェーブから『歴史の終焉』のフランシス・フクヤマにゆく、ということだった。山折氏は、日本の平和が「島国」という特殊性によって成立していることを把握しながら、自分の考えを推し進めるためにそこを捨象してその条件下でこそ発生した日本の宗教的なあり様に普遍性を求めるのだった。この論理を飛躍させた上でのトートロジーとしての「日本らしい」「平和」ではなく、よりその論理を緻密化させた上での、つまりはあくまで「未完の世界」への参列する意志としての「平和」がありうるのか、と私は考察したいのだ。その結果として、事後的に、「日本らしい」「平和」として他者たちから承認・了解されるものと期待して。その「必然」を信じて。
2018年8月10日金曜日
サッカー界だけがわかっていること(4)
「ある東京五輪の関連番組に出演していた瀬古利彦さん(日本陸連マラソン強化プロジェクトリーダー)は、「日本人は外国人ランナーより暑さに強いから、メダルのチャンスがある」と、嬉しそうに語っていたが、その結果、日本人が東京五輪で晴れてメダルを獲得しても、こちらとしては大喜びする気にはなれない。このメダルへの期待感は「これは命に関わる危険な暑さ。運動は避けて下さい」に大きく逆行しているのだ。炎天下でも頑張るのが日本人の姿だと言わんばかりである。どっちに従えばいいのか。…(略)
天気予報士が深刻そうに伝える天気予報が終わり、画面が甲子園に切り替わるや、一転、炎天下での運動は危険だと言い出しにくいムードに包まれる。「災害級の猛暑」という触れ込みは、記念大会の盛況に水を差しかねない迷惑な要素となっている。嘘臭い世界とはこのことだ。」(杉山茂樹のBLOGマガジン)
サッカー評論家の杉山氏は、とくにはサッカー経験者の間では、評判がよくないようだ。システムを論じることから批評活動が注目されたように見受けられるが、ゆえに布陣ではないと、経験者から言われるらしい。私も、ブラジルまでサッカーにトライしたコーチから揶揄されたことがある。しかしそれは、私からいわせれば、形、ということ、その唯物論的な現実の切迫性が、日本では理解されていないからだ。数学的な論理の現実性が、日本人にはなんのことかわかっていない、と言ってもいい。
たとえば、私たちは、カネ、貨幣がなかったら生きられないような社会に住んでいる。近代以前は、別にカネなど持ってなくとも、生きていける社会は厳然としてあった、ということに思いはせれば、むしろ現代の在り方の方が特異なのでは、と疑問になることには誰もが了解いただけるだろう。この当然な疑問を追求したのが、マルクスの『資本論』である。その冒頭章は、「価値形態論」と題されている。私たちがなぜにこんなにもカネに振り回されなくてはならないのか、その社会の形を、微分的に解析してみせたのである。
形式論理と人間、社会との現実性を理解されたい方は、柄谷行人氏の『内省と遡行』や、小室直樹氏の『数学嫌いな人のための数学』などの著作を読むと、抽象的な形と具体的な社会現場との関わりの切実性が了解されてくるかもしれない。なお、若手の森田真生氏の『数学する身体』(新潮社)や、氏が時折文芸誌『新潮』で連載している『「『普遍』の探究」なども、面白い。小学生を教えている私自身は、「サッカーIQテスト」としてまとめ、子供にも配布したことがあるけれど。
とにかくも、冒頭引用の杉山氏の感想は、まっとうなものではないだろうか? 甲子園、協会(組織)自体がやっているから問題視されないが、もし個人(監督・コーチ)が実践していたら、今の基準では「パワハラ」になるだろう。
杉山氏のサッカー界での立ち位置は、まだ文壇がかろうじて生きていた時代の、村上龍氏の立場に似ている、と私は感じる。内輪で自己満足的なお偉い人たちに対する、外からの視点、相対化させる批評行為である。だからそんな村上氏は、中田英寿選手と意気投合した対談をしていた。
杉山氏はゆえに、ロシア・ワールドカップ以降の日本サッカー界の現状を、私のこのブログの言葉で言えば「鎖国」的になっているのではないかと憂慮している。私としてはさらに、西野監督の「スピリッツ」発言から推察し、「神風」に頼り始めている、「オカルト化」しているのでは、と言いたくなるのだが。
<世界的に見て、これほど不自然なスポーツイベントはないはずだ。きわめて日本的な、古典的な匂いさえするこのスポーツ文化と、サッカーは別の道を歩まなければならないが、ジャパンウェイとか、オールジャパンとか、日本人らしいとか、日本人をリスペクトしてくれる云々とか、会長が自己を肯定する台詞を連発する最近の日本サッカー界は、気質がこれに似てきている気がしてならない。>(同上)
そう、「サッカー界だけがわかっていること」があるはずだ。新代表監督の森保氏は、たしかに、「日本人らしさ」を連発した。が、その発言は、どもって、いた。私の推理では、口数少ない森保氏は、言うことがすぐに思い浮かばなかったので、協会の空気を「忖度」し、口パク、したのだ。そうだとしたら、そうやってしまうこと自体が代表監督のメンタリティーとしては致命的だろうが、サッカーのことをわかっているがゆえに、自身の発言をためらい、どもってしまったのだ、と私はおもう。
だから、なおさら、杉山氏の締めの文章を追記せざるをえない。
<外国的のよいところを積極的に取り入れる気質こそが、サッカーのよさなのではないか。旧態依然とした夏の甲子園を見て、改めてそう感じる次第だ。>
天気予報士が深刻そうに伝える天気予報が終わり、画面が甲子園に切り替わるや、一転、炎天下での運動は危険だと言い出しにくいムードに包まれる。「災害級の猛暑」という触れ込みは、記念大会の盛況に水を差しかねない迷惑な要素となっている。嘘臭い世界とはこのことだ。」(杉山茂樹のBLOGマガジン)
サッカー評論家の杉山氏は、とくにはサッカー経験者の間では、評判がよくないようだ。システムを論じることから批評活動が注目されたように見受けられるが、ゆえに布陣ではないと、経験者から言われるらしい。私も、ブラジルまでサッカーにトライしたコーチから揶揄されたことがある。しかしそれは、私からいわせれば、形、ということ、その唯物論的な現実の切迫性が、日本では理解されていないからだ。数学的な論理の現実性が、日本人にはなんのことかわかっていない、と言ってもいい。
たとえば、私たちは、カネ、貨幣がなかったら生きられないような社会に住んでいる。近代以前は、別にカネなど持ってなくとも、生きていける社会は厳然としてあった、ということに思いはせれば、むしろ現代の在り方の方が特異なのでは、と疑問になることには誰もが了解いただけるだろう。この当然な疑問を追求したのが、マルクスの『資本論』である。その冒頭章は、「価値形態論」と題されている。私たちがなぜにこんなにもカネに振り回されなくてはならないのか、その社会の形を、微分的に解析してみせたのである。
形式論理と人間、社会との現実性を理解されたい方は、柄谷行人氏の『内省と遡行』や、小室直樹氏の『数学嫌いな人のための数学』などの著作を読むと、抽象的な形と具体的な社会現場との関わりの切実性が了解されてくるかもしれない。なお、若手の森田真生氏の『数学する身体』(新潮社)や、氏が時折文芸誌『新潮』で連載している『「『普遍』の探究」なども、面白い。小学生を教えている私自身は、「サッカーIQテスト」としてまとめ、子供にも配布したことがあるけれど。
とにかくも、冒頭引用の杉山氏の感想は、まっとうなものではないだろうか? 甲子園、協会(組織)自体がやっているから問題視されないが、もし個人(監督・コーチ)が実践していたら、今の基準では「パワハラ」になるだろう。
杉山氏のサッカー界での立ち位置は、まだ文壇がかろうじて生きていた時代の、村上龍氏の立場に似ている、と私は感じる。内輪で自己満足的なお偉い人たちに対する、外からの視点、相対化させる批評行為である。だからそんな村上氏は、中田英寿選手と意気投合した対談をしていた。
杉山氏はゆえに、ロシア・ワールドカップ以降の日本サッカー界の現状を、私のこのブログの言葉で言えば「鎖国」的になっているのではないかと憂慮している。私としてはさらに、西野監督の「スピリッツ」発言から推察し、「神風」に頼り始めている、「オカルト化」しているのでは、と言いたくなるのだが。
<世界的に見て、これほど不自然なスポーツイベントはないはずだ。きわめて日本的な、古典的な匂いさえするこのスポーツ文化と、サッカーは別の道を歩まなければならないが、ジャパンウェイとか、オールジャパンとか、日本人らしいとか、日本人をリスペクトしてくれる云々とか、会長が自己を肯定する台詞を連発する最近の日本サッカー界は、気質がこれに似てきている気がしてならない。>(同上)
そう、「サッカー界だけがわかっていること」があるはずだ。新代表監督の森保氏は、たしかに、「日本人らしさ」を連発した。が、その発言は、どもって、いた。私の推理では、口数少ない森保氏は、言うことがすぐに思い浮かばなかったので、協会の空気を「忖度」し、口パク、したのだ。そうだとしたら、そうやってしまうこと自体が代表監督のメンタリティーとしては致命的だろうが、サッカーのことをわかっているがゆえに、自身の発言をためらい、どもってしまったのだ、と私はおもう。
だから、なおさら、杉山氏の締めの文章を追記せざるをえない。
<外国的のよいところを積極的に取り入れる気質こそが、サッカーのよさなのではないか。旧態依然とした夏の甲子園を見て、改めてそう感じる次第だ。>
サッカー界、頑張れ!
2018年8月8日水曜日
日大アメフト部事件から(4)
「…日本のスポーツいついて、何か問題点が見えたり、それをアメリカではどういうシステムで行っているかという類の情報をシェアしようとしたとき、いつも目に見えない壁にぶち当たる。/「どこの誰に話せば良いのか?」という壁だ。対岸の大火事をただ見ていられるような性分ではないので、なんとかしなければ、誰かに伝えよう、となる。そうしたとき、スポーツに関して言えば、以下のような窓口リストが出てくる。
・JOC/・JSC/・スポーツ庁/・文部科学省/・日本体育協会 …(略)
それぞれが最新鋭の技術を搭載した消防車や消火設備を備えているのに、その火事がどこの管轄か、瞬時に判断できない。そして、通報を受けた隊員も、ボスの、そのまたボスに確認しないと行動ができないのである。そればかりか、数軒隣に位置する消防署同士の横のつながりはほとんどなく、大きな火事の原因となる小さなボヤが、たらいまわしになってしまうのである。
一極集中とは言わないが、もう少し窓口を減らしてほしい。そして、良い意味で、彼・彼女の一声ですべてが動くような、強大な牽引力を持ったリーダーに現れてほしい。」(河田剛著『不合理だらけの日本スポーツ界』ディスカバー携書)
上引用は、日大のアメフト部事件を予期するかのように出版されていた、スタンフォード大学アメフト部のアシスタントをしているという人物の著作からである。
下引用は、佐藤優氏の最近作、『ファシズムの正体』(インターナショナル新書)から。
しかし当時の日本には、空軍がありませんでした。海軍と陸軍は「海軍航空隊」と「陸軍航空隊」という形で、それぞれ別個に航空機を持っていたのですが、両者はまったく別の兵器体系だったので、ネジの大きさもエンジンの規格も違っていました。そうなると陸軍は陸軍の、海軍は海軍の部品しか互換性がありません。
それに対して、米軍の兵器の規格はみな共通していました。だから戦場で、壊れた機種が何種類かあっても、それらを合わせて一つの航空機をつくることが可能だったのです。…(略)また戦前の日本の軍隊には、ロジスティックス(戦場において戦闘部隊の後方で行う、物資の調達や補給)という思想がまったくありませんでした。…(略)そうした兵站軽視とセクショナリズムが端的に現れたのが、一九四二(昭和一七)年以降、陸軍が一生懸命に航空母艦を建造したことです。ミッドウェー海戦のあと、海軍が輸送船の護衛をしてくれないからと、陸軍は「あきつ丸」をはじめとする四隻の揚陸艦を航空母艦に改造しました。さらに陸軍は、艦載機まで自力で開発しています。世界の陸軍で空母を造ったのは、おそらく日本だけではないでしょうか。」
佐藤氏によれば、多元的な「縦割りシステム」として「しらす」思想、いわば「忖度による統治」がめざされた日本では、独裁的な「ファシズム」は不可能なのだという。大政翼賛会は成立したが、結局は独裁として揶揄され機能しなかった現実を、片山杜秀氏の『未完のファシズム』を参照して指摘する。ゆえに、河田氏が期待する「強力なリーダーシップを望むことなどできません。」となる。
*追記として、今日8.11に買ってきた川渕三郎著『黙ってられるか』(新潮新書)の、渡邉恒雄氏との対談から。
<川渕 長年、さまざまなリーダーをご覧になってきた渡邉さんの目から見て、最近のリーダー、リーダー候補者の中で、「これは」という人はいますか。
渡邉 うーん……昔と今とでは違いますからね。たとえば政界でも、安倍さんのような独裁的ではない、柔らかい人柄の人がいつの間にかトップに行きました。まあ実際には独裁的なところもあるのかもしれないけれど。
ポスト安倍と言われていた石破(茂)さんとか野田(聖子)さんとかは、今は総理になれっこない状況になっている。その次の候補者は、岸田(文雄)さんとも言われているが、これもおよそ独裁的ではない。開成の後輩にあたりますが、大人しい。こういう人がいいと言われているのだから、あまり独裁的なリーダーは望まれていないのではないでしょうか。
昔は経団連、日経連などでも独裁的な人が会長になりました。しかし財界でも穏やかな人がなっているんじゅやないかな。
日本は独裁者が流行らないんじゃないでしようか。…>
佐藤氏は、ではなぜ日本ではそのような発想になってしまうかとは問わない。とにかくそうなってしまうことに注意喚起し、個(アトム)や全体(ファッショ)の回路に回収されない「中間」の団体を強くすることが実践的な重要さだと処方箋を説く。これは京都学派とライプニッツの関連などを論じた柄谷行人氏の論法をふまえた見解だろうが、柄谷氏はNAMという中間団体実践後、その「なぜ」を「世界史の構造」そして「遊動論」として再考したのだった。私はその要約を、「相撲界の混乱から」というブログでおこなった。
しかし「中間団体」においても、たとえば町場の地域少年サッカークラブでも、なかなか独裁的にはなれない、ちょっと前までは成立したが、もう成れない状況なのだった。チームを成立・存続しようとすると、佐藤氏のいう「しらす」思想をふまえた、「ミニ天皇」的にやる必要がでてきてしまう。不安な親たちが「強力なリーダー」で子供をしつけてくれと望んでも、戦後の長い平和で日本的な地が前景化されてしまったその地盤では、実際的に機能しない。望んだ(意識した)本人たちが揚げ足をとり、出る杭を打つ無意識を張り巡らす。そんな空気が読めてしまったら、少なくとも私には無理だ。空気が読めないコーチは追い出された。自分の息子が上級生にいる間は他コーチの問答を封じて独裁的に頑張ったが、忍耐がもたない。自分が手を引くとどうなっていくかは予測できでも、次の世代に「やってみろ」と忍耐が切れてしまったのだった。……
そしてそれは、安倍政権でも同じ様態にみえる。森友学園風にやりたいのに、できない。
最近も、「クラスジャパン」中間団体を作って、不登校をみな登校させていく、という方針を転換した。あるいは、「ジャパン・ハウス」なる安倍日本思想の海外発信拠点を新造したが、思想広報などどうもできやしないらしい。(世界相手にでは無理だろう。ヤルタ体制への謀反になるので。)――そうした保守系の教育運動、「江戸しぐさ」や「親学」といった森友学園と関連している思想集団でも、紆余曲折になった経緯があると、原田実氏は指摘している。(『オカルト化する日本の教育――江戸しぐさと親学にひそむナショナリズム』ちくま新書)が、原田氏が最後に暗示しているのは、日本の「未完のファシズム」にとって怖いのは、彼らが意識的に実践しようとすることなのではなく、それを取り巻く私たちの無意識、ということになるのだ。
<そもそも「江戸しぐさ」の背景に、薩長の流れをくむ日本の保守層に対して批判的な歴史観があったことはすでに指摘したところである。また、親学の背景にあるGHQ陰謀論にしても、それがもともと左派でもてはやされた主張であったことも説明した。…(略)
親学およびその歴史的根拠としての「江戸しぐさ」は、第二次以降の安倍政権の文教政策と密接に結びついている。安倍晋三自身が親学の支持者であることはすでに述べてきたとおりである。しかし、自民党以外の政党にまで親学支持者がいる以上、政権交代は必ずしも親学推進の終焉を意味するわけではない。大手メディアの対応に見られるように親学や「江戸しぐさ」は安倍政権に批判的な勢力までとりこんでしまいかねない代物なのである。>
*<…親学では子供から親への感謝の念を歌う親守詩なるものが推奨されている。子供が子守歌を歌ってもらうように、父兄の方が子供から「親守」してもらうというのは私には異様に思える。現代の親たちは親であることに対して、そこまで自信を失っているというのだろうか?
このグロテスクさは、親学が父兄および推奨する教師たちの感動と満足のためにあることに由来している。子供たちが大人に、感動や満足をもたらすことは一見、いい話のようである。けれど、そこまで大人たちは子供に感謝されたいのだろうか。>(同掲書)……私が洞察するかぎり、挨拶をしないサッカー・クラブの少年に、心因的な問題はない。なかには甘やかされ過ぎだな、と思える子がいるとしても、自然な情動(成長)の内にある。だから自然解決できる。今の社会現状でも。が、それを不満とする大人が声高になって社会を変えてしまったとき(「挨拶やり直し!」)、自然成長の速度を阻害された子供たちは、なんらかの心因性の病気を抱え込んで不健康、屈折していくだろう。単に、自分が率先して挨拶していればいいだけの話だ。
・JOC/・JSC/・スポーツ庁/・文部科学省/・日本体育協会 …(略)
それぞれが最新鋭の技術を搭載した消防車や消火設備を備えているのに、その火事がどこの管轄か、瞬時に判断できない。そして、通報を受けた隊員も、ボスの、そのまたボスに確認しないと行動ができないのである。そればかりか、数軒隣に位置する消防署同士の横のつながりはほとんどなく、大きな火事の原因となる小さなボヤが、たらいまわしになってしまうのである。
一極集中とは言わないが、もう少し窓口を減らしてほしい。そして、良い意味で、彼・彼女の一声ですべてが動くような、強大な牽引力を持ったリーダーに現れてほしい。」(河田剛著『不合理だらけの日本スポーツ界』ディスカバー携書)
上引用は、日大のアメフト部事件を予期するかのように出版されていた、スタンフォード大学アメフト部のアシスタントをしているという人物の著作からである。
下引用は、佐藤優氏の最近作、『ファシズムの正体』(インターナショナル新書)から。
⇕
「真珠湾やマレー沖海戦で、日本は航空機の重要性を示しました。どのような巨大戦艦でも、束になった爆撃機には勝てないことが明らかになったわけです。しかし当時の日本には、空軍がありませんでした。海軍と陸軍は「海軍航空隊」と「陸軍航空隊」という形で、それぞれ別個に航空機を持っていたのですが、両者はまったく別の兵器体系だったので、ネジの大きさもエンジンの規格も違っていました。そうなると陸軍は陸軍の、海軍は海軍の部品しか互換性がありません。
それに対して、米軍の兵器の規格はみな共通していました。だから戦場で、壊れた機種が何種類かあっても、それらを合わせて一つの航空機をつくることが可能だったのです。…(略)また戦前の日本の軍隊には、ロジスティックス(戦場において戦闘部隊の後方で行う、物資の調達や補給)という思想がまったくありませんでした。…(略)そうした兵站軽視とセクショナリズムが端的に現れたのが、一九四二(昭和一七)年以降、陸軍が一生懸命に航空母艦を建造したことです。ミッドウェー海戦のあと、海軍が輸送船の護衛をしてくれないからと、陸軍は「あきつ丸」をはじめとする四隻の揚陸艦を航空母艦に改造しました。さらに陸軍は、艦載機まで自力で開発しています。世界の陸軍で空母を造ったのは、おそらく日本だけではないでしょうか。」
佐藤氏によれば、多元的な「縦割りシステム」として「しらす」思想、いわば「忖度による統治」がめざされた日本では、独裁的な「ファシズム」は不可能なのだという。大政翼賛会は成立したが、結局は独裁として揶揄され機能しなかった現実を、片山杜秀氏の『未完のファシズム』を参照して指摘する。ゆえに、河田氏が期待する「強力なリーダーシップを望むことなどできません。」となる。
*追記として、今日8.11に買ってきた川渕三郎著『黙ってられるか』(新潮新書)の、渡邉恒雄氏との対談から。
<川渕 長年、さまざまなリーダーをご覧になってきた渡邉さんの目から見て、最近のリーダー、リーダー候補者の中で、「これは」という人はいますか。
渡邉 うーん……昔と今とでは違いますからね。たとえば政界でも、安倍さんのような独裁的ではない、柔らかい人柄の人がいつの間にかトップに行きました。まあ実際には独裁的なところもあるのかもしれないけれど。
ポスト安倍と言われていた石破(茂)さんとか野田(聖子)さんとかは、今は総理になれっこない状況になっている。その次の候補者は、岸田(文雄)さんとも言われているが、これもおよそ独裁的ではない。開成の後輩にあたりますが、大人しい。こういう人がいいと言われているのだから、あまり独裁的なリーダーは望まれていないのではないでしょうか。
昔は経団連、日経連などでも独裁的な人が会長になりました。しかし財界でも穏やかな人がなっているんじゅやないかな。
日本は独裁者が流行らないんじゃないでしようか。…>
佐藤氏は、ではなぜ日本ではそのような発想になってしまうかとは問わない。とにかくそうなってしまうことに注意喚起し、個(アトム)や全体(ファッショ)の回路に回収されない「中間」の団体を強くすることが実践的な重要さだと処方箋を説く。これは京都学派とライプニッツの関連などを論じた柄谷行人氏の論法をふまえた見解だろうが、柄谷氏はNAMという中間団体実践後、その「なぜ」を「世界史の構造」そして「遊動論」として再考したのだった。私はその要約を、「相撲界の混乱から」というブログでおこなった。
しかし「中間団体」においても、たとえば町場の地域少年サッカークラブでも、なかなか独裁的にはなれない、ちょっと前までは成立したが、もう成れない状況なのだった。チームを成立・存続しようとすると、佐藤氏のいう「しらす」思想をふまえた、「ミニ天皇」的にやる必要がでてきてしまう。不安な親たちが「強力なリーダー」で子供をしつけてくれと望んでも、戦後の長い平和で日本的な地が前景化されてしまったその地盤では、実際的に機能しない。望んだ(意識した)本人たちが揚げ足をとり、出る杭を打つ無意識を張り巡らす。そんな空気が読めてしまったら、少なくとも私には無理だ。空気が読めないコーチは追い出された。自分の息子が上級生にいる間は他コーチの問答を封じて独裁的に頑張ったが、忍耐がもたない。自分が手を引くとどうなっていくかは予測できでも、次の世代に「やってみろ」と忍耐が切れてしまったのだった。……
そしてそれは、安倍政権でも同じ様態にみえる。森友学園風にやりたいのに、できない。
最近も、「クラスジャパン」中間団体を作って、不登校をみな登校させていく、という方針を転換した。あるいは、「ジャパン・ハウス」なる安倍日本思想の海外発信拠点を新造したが、思想広報などどうもできやしないらしい。(世界相手にでは無理だろう。ヤルタ体制への謀反になるので。)――そうした保守系の教育運動、「江戸しぐさ」や「親学」といった森友学園と関連している思想集団でも、紆余曲折になった経緯があると、原田実氏は指摘している。(『オカルト化する日本の教育――江戸しぐさと親学にひそむナショナリズム』ちくま新書)が、原田氏が最後に暗示しているのは、日本の「未完のファシズム」にとって怖いのは、彼らが意識的に実践しようとすることなのではなく、それを取り巻く私たちの無意識、ということになるのだ。
<そもそも「江戸しぐさ」の背景に、薩長の流れをくむ日本の保守層に対して批判的な歴史観があったことはすでに指摘したところである。また、親学の背景にあるGHQ陰謀論にしても、それがもともと左派でもてはやされた主張であったことも説明した。…(略)
親学およびその歴史的根拠としての「江戸しぐさ」は、第二次以降の安倍政権の文教政策と密接に結びついている。安倍晋三自身が親学の支持者であることはすでに述べてきたとおりである。しかし、自民党以外の政党にまで親学支持者がいる以上、政権交代は必ずしも親学推進の終焉を意味するわけではない。大手メディアの対応に見られるように親学や「江戸しぐさ」は安倍政権に批判的な勢力までとりこんでしまいかねない代物なのである。>
*<…親学では子供から親への感謝の念を歌う親守詩なるものが推奨されている。子供が子守歌を歌ってもらうように、父兄の方が子供から「親守」してもらうというのは私には異様に思える。現代の親たちは親であることに対して、そこまで自信を失っているというのだろうか?
このグロテスクさは、親学が父兄および推奨する教師たちの感動と満足のためにあることに由来している。子供たちが大人に、感動や満足をもたらすことは一見、いい話のようである。けれど、そこまで大人たちは子供に感謝されたいのだろうか。>(同掲書)……私が洞察するかぎり、挨拶をしないサッカー・クラブの少年に、心因的な問題はない。なかには甘やかされ過ぎだな、と思える子がいるとしても、自然な情動(成長)の内にある。だから自然解決できる。今の社会現状でも。が、それを不満とする大人が声高になって社会を変えてしまったとき(「挨拶やり直し!」)、自然成長の速度を阻害された子供たちは、なんらかの心因性の病気を抱え込んで不健康、屈折していくだろう。単に、自分が率先して挨拶していればいいだけの話だ。
2018年8月4日土曜日
サッカー界だけがわかっていること(3)――日大アメフト事件(3)
「同じ問題は、今も、福島第一原子力発電所を始めとする日本各地の原子力関連施設や在日米軍基地の周辺にある。原理的に問わねばならない。市民とは何か。
我々は、労働力を売り、得た給料で様々な商品を買い、それを消費して生活している。それは市民にはあたりまえとしか見えない。しかし、我々は意識してはいないが、この市民生活そのものが「横暴や残虐性」として作用する<そこ>が必ずどこかに存在する。次回以降に詳述する予定だが、マルクスによれば、その暴力を「個々人の意識」から隠し、消し去るからくりは商品交換の内部にある。たしかに、商品は自明で平凡な物としか見えない。しかし、今日、膨大に集積して我々を取り巻いている商品は、大航海時代に血と火の暴力を背景に成立したきわめて奇怪な物象なのだ。今もその流通が維持されているのは、「横暴や残虐性」が<そこ>に展開しているからにほかならない。ブレヒト的に言えば、銀行設立は、それに比べたら銀行強盗さえちゃちなものでしかない巨大な暴力を前提としている。しかし、市民社会では、後者は違法で不当な犯罪、前者は合法的で正当な事業としか見えない。マルクスは、この無意識の中で、この無意識に規定されながら、この無意識が、なぜ、いかに、どのようにして生じるのかを解明した。この無意識ともみ合い、そこに働く暴力を断ち切るために、だ。」(山城むつみ著「連続する問題」第一回『すばる』2018.8月号)
こんどは、アマチュア・ボクシング界から騒ぎが起きている。
サッカー界では、Jリーグ立ち上げ後、清水市をサッカー王国にしていくのに貢献した堀田哲爾氏が失脚させられたりした経緯がある。草創期の混乱を切り開き統括していく押しの強い人格を持った者が、体制の安定化にともない、疎んじられていくパターンだ。
ところが、はや世界では戦後の安定体制など一時として崩れ、そのヘゲモニーを握っていたアメリカもが、三代目坊ちゃんまでいったエスタブリッシュメントな系譜に見切りをつけ、成りあがりの実力者を大統領に選んでいる。日本ではしかし、今なお、ブランド志向、長く見える者に巻かれろで、三代目坊ちゃんにしがみついている。それで、世界を渡っていけるのか? いや世界が、見えているのか? 世界の法、掟、ルールを作っていくものは、それを変え、壊していく者である。優等生的な坊ちゃんで、張り合い、泳いでいけるのだろうか?
さっそく森保氏を代表監督に据えた日本のサッカー協会も、混沌とし始めた世界を見るのが怖いかのように、日本人神話、先のブログの言葉で言えば、「神風」が吹いているとの錯覚にしがみつきはじめたように、私には受け止められた。「日本人らしさ」、と、念仏のように会見では唱えている。まずは、きちんと検証しよう、乾選手が言ったように、日本人は10人のコロンビア・チームにしか勝てなかったのだから。その分析能力がないのならば、それができる人を外ででも探し、呼んでき、盗んでから自分たちのものにすればいいのではないのか? 目を無理やりつむった鎖国、そんな気がしてならない。八百長疑惑で解任されたアギーレは、エジプト代表の監督に就いたという。わたしは悪くないの、と潔癖に閉じこもりたがっているような日本市民は、こうした世界の事態も、自らの頭の中で整理できないだろう。そしてその弱さに暗黙には気づいているがゆえに、ことさらブランドや「神風」にしがみつくのだ。藁にも縋るおもいで。
『砕かれたハリルホジッチ・プラン』という五百藏正容氏の新書(星海社)を読んだ。私にはその妥当性の是非を判断するサッカー領域の知見はないが、私の文学・哲学的な教養センスの文脈上、説得力をもった意見と判断している。
以下、目立ったところを引用する。
***** ***** *****
<ハリルホジッチが招聘された理由は、もとより「どこかのエリアだけ」に留まらない多彩なエリア戦略を採れるチームを作り上げること、日本サッカーにそのような戦略的・戦術的多様性と柔軟性をもたらすことでした。その計画を破棄し、「日本人のDNA」「日本人らしいサッカー」「選手たちに制限をかけないサッカー」へと舵が切られた今となっては詮無いことですが、このグループリーグ最終戦は、その意味ではハリルホジッチに率いられた日本代表にとって、またブラジルW杯の蹉跌を乗り越えようと強く意識してきた日本サッカーにとって、まさに現時点での集大成といえる試合となったに違いありません。>
<…「弱いところをあえて晒し、相手を引き付けて痛撃をくらわす」といえば、日本では大阪冬の陣における「真田丸」戦法が思い起こされます。
最終予選ではUAE戦(アウェイ)、サウジアラビア戦、オーストラリア戦(ホーム)などで見られました。要するに「絶対に勝ちにいく試合」で相手に食いつかせ逆手をとれるよう、弱点をあえて放置していた可能性があるのです。
CBによるスペース迎撃やその他の方法がW杯本線でも採用可能な程度の質に高められるかどうかがこの「3CHのチェーン切れ問題」を「真田丸」となせるかどうかの鍵だったでしょうが、その答えは永遠に封印され、後には「味方の動いたスペースをカバーできない」日本選手の問題が残りました。ハリルのやり方を踏襲するのか、別の解決策を提案するのか。本線で問われる以上に、今後の日本サッカーの展望にも関わる難題でしょう。>
<ですが、本書で明らかにした通り「日本人らしいサッカー」をやろうがやるまいが、現代サッカーの構造上デュエルは必然として生じますし、戦術的・戦略的な重要性は高まる一方です。1試合ごとに最低でも200のデュエルが発生しているとも言われます。それが現実である以上、「デュエルの必要性を問う」こと自体が、無意味な立論なのではないでしょうか? そういった認識がうまれるほどの議論、コミュニケーションすら存在しなかったことは、ハリルホジッチの仕事にとって致命傷のひとつだったように感ぜられます。>
<本章で検討してきたように、ハリルホジッチのチームをめぐって起きていた「コミュニケーションの問題」は、監督ー選手間に限らず多岐にわたる形、しかも深刻な形で抽出可能です。こういった状況下で、ハリルホジッチが積み上げてきた仕事は結果をもって検証されることもなく放棄されるに至りました。本書は、「日本サッカーにビジョンはあるか?」との副題を備えていますが、率直に言ってここで問われるべき「ビジョン」は「日本人らしいサッカーとは」「世界で勝つには」といった、気高い理想を仮託するようなものではないのではないか、そのような理想を問えるレベルに日本サッカー自体、まだないのではないか、もしくはより低い水準に後退してしまったのではないか、とすら思えます。>
我々は、労働力を売り、得た給料で様々な商品を買い、それを消費して生活している。それは市民にはあたりまえとしか見えない。しかし、我々は意識してはいないが、この市民生活そのものが「横暴や残虐性」として作用する<そこ>が必ずどこかに存在する。次回以降に詳述する予定だが、マルクスによれば、その暴力を「個々人の意識」から隠し、消し去るからくりは商品交換の内部にある。たしかに、商品は自明で平凡な物としか見えない。しかし、今日、膨大に集積して我々を取り巻いている商品は、大航海時代に血と火の暴力を背景に成立したきわめて奇怪な物象なのだ。今もその流通が維持されているのは、「横暴や残虐性」が<そこ>に展開しているからにほかならない。ブレヒト的に言えば、銀行設立は、それに比べたら銀行強盗さえちゃちなものでしかない巨大な暴力を前提としている。しかし、市民社会では、後者は違法で不当な犯罪、前者は合法的で正当な事業としか見えない。マルクスは、この無意識の中で、この無意識に規定されながら、この無意識が、なぜ、いかに、どのようにして生じるのかを解明した。この無意識ともみ合い、そこに働く暴力を断ち切るために、だ。」(山城むつみ著「連続する問題」第一回『すばる』2018.8月号)
こんどは、アマチュア・ボクシング界から騒ぎが起きている。
サッカー界では、Jリーグ立ち上げ後、清水市をサッカー王国にしていくのに貢献した堀田哲爾氏が失脚させられたりした経緯がある。草創期の混乱を切り開き統括していく押しの強い人格を持った者が、体制の安定化にともない、疎んじられていくパターンだ。
ところが、はや世界では戦後の安定体制など一時として崩れ、そのヘゲモニーを握っていたアメリカもが、三代目坊ちゃんまでいったエスタブリッシュメントな系譜に見切りをつけ、成りあがりの実力者を大統領に選んでいる。日本ではしかし、今なお、ブランド志向、長く見える者に巻かれろで、三代目坊ちゃんにしがみついている。それで、世界を渡っていけるのか? いや世界が、見えているのか? 世界の法、掟、ルールを作っていくものは、それを変え、壊していく者である。優等生的な坊ちゃんで、張り合い、泳いでいけるのだろうか?
さっそく森保氏を代表監督に据えた日本のサッカー協会も、混沌とし始めた世界を見るのが怖いかのように、日本人神話、先のブログの言葉で言えば、「神風」が吹いているとの錯覚にしがみつきはじめたように、私には受け止められた。「日本人らしさ」、と、念仏のように会見では唱えている。まずは、きちんと検証しよう、乾選手が言ったように、日本人は10人のコロンビア・チームにしか勝てなかったのだから。その分析能力がないのならば、それができる人を外ででも探し、呼んでき、盗んでから自分たちのものにすればいいのではないのか? 目を無理やりつむった鎖国、そんな気がしてならない。八百長疑惑で解任されたアギーレは、エジプト代表の監督に就いたという。わたしは悪くないの、と潔癖に閉じこもりたがっているような日本市民は、こうした世界の事態も、自らの頭の中で整理できないだろう。そしてその弱さに暗黙には気づいているがゆえに、ことさらブランドや「神風」にしがみつくのだ。藁にも縋るおもいで。
『砕かれたハリルホジッチ・プラン』という五百藏正容氏の新書(星海社)を読んだ。私にはその妥当性の是非を判断するサッカー領域の知見はないが、私の文学・哲学的な教養センスの文脈上、説得力をもった意見と判断している。
以下、目立ったところを引用する。
***** ***** *****
<ハリルホジッチが招聘された理由は、もとより「どこかのエリアだけ」に留まらない多彩なエリア戦略を採れるチームを作り上げること、日本サッカーにそのような戦略的・戦術的多様性と柔軟性をもたらすことでした。その計画を破棄し、「日本人のDNA」「日本人らしいサッカー」「選手たちに制限をかけないサッカー」へと舵が切られた今となっては詮無いことですが、このグループリーグ最終戦は、その意味ではハリルホジッチに率いられた日本代表にとって、またブラジルW杯の蹉跌を乗り越えようと強く意識してきた日本サッカーにとって、まさに現時点での集大成といえる試合となったに違いありません。>
<…「弱いところをあえて晒し、相手を引き付けて痛撃をくらわす」といえば、日本では大阪冬の陣における「真田丸」戦法が思い起こされます。
最終予選ではUAE戦(アウェイ)、サウジアラビア戦、オーストラリア戦(ホーム)などで見られました。要するに「絶対に勝ちにいく試合」で相手に食いつかせ逆手をとれるよう、弱点をあえて放置していた可能性があるのです。
CBによるスペース迎撃やその他の方法がW杯本線でも採用可能な程度の質に高められるかどうかがこの「3CHのチェーン切れ問題」を「真田丸」となせるかどうかの鍵だったでしょうが、その答えは永遠に封印され、後には「味方の動いたスペースをカバーできない」日本選手の問題が残りました。ハリルのやり方を踏襲するのか、別の解決策を提案するのか。本線で問われる以上に、今後の日本サッカーの展望にも関わる難題でしょう。>
<ですが、本書で明らかにした通り「日本人らしいサッカー」をやろうがやるまいが、現代サッカーの構造上デュエルは必然として生じますし、戦術的・戦略的な重要性は高まる一方です。1試合ごとに最低でも200のデュエルが発生しているとも言われます。それが現実である以上、「デュエルの必要性を問う」こと自体が、無意味な立論なのではないでしょうか? そういった認識がうまれるほどの議論、コミュニケーションすら存在しなかったことは、ハリルホジッチの仕事にとって致命傷のひとつだったように感ぜられます。>
<本章で検討してきたように、ハリルホジッチのチームをめぐって起きていた「コミュニケーションの問題」は、監督ー選手間に限らず多岐にわたる形、しかも深刻な形で抽出可能です。こういった状況下で、ハリルホジッチが積み上げてきた仕事は結果をもって検証されることもなく放棄されるに至りました。本書は、「日本サッカーにビジョンはあるか?」との副題を備えていますが、率直に言ってここで問われるべき「ビジョン」は「日本人らしいサッカーとは」「世界で勝つには」といった、気高い理想を仮託するようなものではないのではないか、そのような理想を問えるレベルに日本サッカー自体、まだないのではないか、もしくはより低い水準に後退してしまったのではないか、とすら思えます。>
2018年7月22日日曜日
進撃の女房
「2007年の夏に働き始めてから1年でスタンフォード大学の学生アスリートたちが、どのように勉強とスポーツを両立しているか、どれだけ勉強することを強いられているかを見てきた。言わずもがなだが、それと比較して、日本のアスリート、特にオリンピックレベルのアスリートが、どれだけ競技に集中できる環境にあるか、すなわち、勉強などする必要がないことを理解していた。もちろん、どちらの国のケースも、全員がそうでないこと、つまり、極論であることは、承知のうえだ。…」「たとえば、日本の学生スポーツを、アメリカのそれのようなシステムに変えようと深く考えていくと、日本の教育制度を変えなければならないという結論に至ってしまう。/日本で「部活の休みを増やして、(アメリカ人のように)家族との時間を増やそう」とするなら、我々が長く営んできた生活や慣習、家族の在り方にまで要らぬメスを入れることになる。そんなことができるわけもないし、それは、挑む相手が大きすぎる。」(河田剛著『不合理だらけの日本スポーツ界』 ディスカバー携書)
認知症で放浪癖のでていた父親が、家の階段からひっくり返って腰椎骨折。動脈も切れていたということで、救急搬送をためらっていたら、死んでいたかもしれないと弟。集中治療室に入って輸血もしたという。これからは、寝たきりになるのかもしれない。すでに母は、父のいる家での暮らしを「地獄」と喩えていたと兄。私は、東京から電話でそんな話を聞きながら、息子とテレビ録画していた『進撃の巨人』を見入っていた。たまに、女房が人食い映像の前をふらふらと行ったり来たりしていると、女房と似ている人食いババアもいるものだから、巨人が画面から出てきたのかと錯覚される。それは突然といつでもどこでも現れて進撃してき、息子を食ってしまうかのようだ。
じっさい、巨人の容姿は、モデルがいるのではないかとおもわれるくらい、一人一人がリアルなので、人とされる主人公たちより人間にみえる。というか、私には、認知症になった老人たちが放浪している世界のように想像されてくるのだった。とろんとした巨人の表情は、最後に残った欲望を赤ん坊のように純粋に表現しはじめる老人たち、父の顔に確認したそれと似ている。放浪しながら、道端になっている果物をとっては食べ、道端に落ちているゴミを拾い、思いついたような動きを緩慢と繰り返す。私の近所にも同じようにゴミを拾う婆さんがいて、植木屋として垣根下などを掃き掃除している私に「きれいになるねえ」と、声をかけてくる。後ろには、息子の嫁がついてあるいている。若い頃、私がよく通った蕎麦屋のおばさんだった。違う界隈へと引っ越ししてからもう20年は経つだろうが、それでも私のことを覚えているようだった。世間知らずの私がアパートを借りて住み始めたころ、近所のおばさんたちから「本当にかわいかったんだよ」といわれていることを、なおその近所の職場に勤める私は聞き知っていた。
女房の父親は、すでに老人ホームに入っている。月30万ぐらいの特養クラスのだそうだ。そうした所得と資金が、高度成長下において、差別されていた地域の犠牲の上に獲得されたものではないか、という疑問はどけておこう。一緒に働いている職人さんの家では、母親が最後数年は寝たきりだったが、老人ホームへなどという発想はでてこない。資金がないこともあるが、自分の親をよそへ送るという考えが内発的にはでてこないだろう。2DKの住まいに、寝たきり婆さんと夫婦、そして子供3人が助け合いながら雑居していても、大変ではあっても嫌悪感や忍耐できないもの、という前提意識は発生しなかっただろう。が、子供の教育(進学)に熱心で、ブルジョワ的な、共同体というより個人・核家族的な価値観を刷り込まされてきた世代・階層には、もう不可能な雑居住まいであろう。女房はすぐに、やってられなくなって共倒れになるのだから老人ホームへ、と言い散らしはじめるが、そんな余裕は、一般的に、高度成長期を通して預金を積み立てられた団塊世代ぐらいまでだろう。若い世代になるほど、そんな余裕は、一握りの階層の家族内でしかなくなるだろう。
そのとき、進撃の巨人がはじまる。丸裸にされた老人たちがふらふらと歩きはじめ、社会資本を、人類の遺産を食い始める。昔のように、おばすて山へ、というわけにはいかないが、選ばれた戦士たちが、人類の悪を引き受けて、老人たちを切って捨てていくのだ。相模原事件や、最近の女性看護師の末期の老人の点滴に洗剤を入れて早まって殺してしまった事件など、そんな来るべき社会の予兆であるのかもしれない。しかしあくまでネガ、消極的な事件にすぎない。将来は、それを「進撃の巨人」の社会のように、社会システムとして積極的に内蔵させ、そしてその悪を不可視にしていくだろう。
私にできることは、覚悟を決めることだけだろうか? そして、こんなふうに、私の理解していると思っていることを書き留め、後世への参考にと願うだけか? プチブルから職人階層の家族に移行した私の家で、他の職人さんたちのような助け合いの共同性は育まれにくい。私は知的にそれを認識し、変容させるよう努力はしているが、巨人には言葉はとどかない。息子は、小学生から受験地獄に飼いならされて目が死んでいく今風・都会風の子供たちに遅ればせながら、ようやく暗くなり、大人しくなり、忖度官僚に近づいてゆく。進撃する女房から、息子だけは逃げ延びて、生き延びて欲しいと私は願うけれども、あがけばあがくほど、人食い母親のシステムの中に内蔵されてゆく。そうやって自らが官僚化した巨人になるか、母親と刺し違えるか……私は、この綱渡りのようなバランスを認めながら、とりあえず期を伺っていることしかできない。児童相談所への相談などは、取り返しのつかない痕跡を子どもに植え付けてしまうだろう。それを考えたこともあるけれど、その手段はある意味、システムを受け入れるという諦めた覚悟をした上での最終的手段である。つまり、私たち固有の関係を放棄して、そこにしかない本当の解決の糸口を離して、巨人のシステムを受容するということだ。それでのいったんの解決とは、問題の先送りプラス複雑化であり、おそらくもはや大人になった子供自身、息子自身の力ではどうにもならない社会的痕跡が、新たに付加されてしまうということなのだ。そして私の判断では、女房と息子との軋轢は、峠を越している。もう少しだが、油断はできない。と同時に、次の局面がくることも予測しておかなくてはならない。高校に入学したらしたらで、また何か過干渉が起きるだろう。結婚したらしたらで、うるさい姑になるだろう。がそこまでいけば、幼少期の問題は移行されている。対処は、より容易になるはずだ。
どこの家庭も、似たり寄ったりだと、少年サッカーチームに関わっていてみえてくる。程度の違いはあっても、女房たちのほうが進学に神経質。おそらく、自分の腹を割って出てきた存在なので、なお子供たちが自分の体の一部なのだ。自分の右手が言うことを聞かなければ、イライラするだろう。が、昔のように右手(子ども)が二つも三つもあれば、言うことをきかないなんてことに慣れて、認識しだす。だから、ほっとく余裕もうまれる。今は少子化で、子離れする自然的条件が少ない。また日本では、父親が割って入る西洋的なエディプス的な契機が文化的に希薄だ。しかしこの母子癒着的な構造は、洋の東西を問わず本源的だろう。子は、母から、女から産まれるのだから。女は、子宮で考えると言われる。進学、といった制度的な観念もが、自分の体の延長として理解される、というか、そういう身体化的理解でしか物事が認識できないように自然条件づけられているのではないか、とおもう。だから、システム(進学)にイロニー的に距離感を置ける男たちとちがって、システムをそれでしかありえない自然的な身体のごとく受容する。その真面目さが、言うことを聞かない子供という存在を前に、いら立つこととして現象される。
そんな女房たちの進撃に、男たちは、どう対応したらよいのか? システム自体を変えなくてはいけない節目の時に。
認知症で放浪癖のでていた父親が、家の階段からひっくり返って腰椎骨折。動脈も切れていたということで、救急搬送をためらっていたら、死んでいたかもしれないと弟。集中治療室に入って輸血もしたという。これからは、寝たきりになるのかもしれない。すでに母は、父のいる家での暮らしを「地獄」と喩えていたと兄。私は、東京から電話でそんな話を聞きながら、息子とテレビ録画していた『進撃の巨人』を見入っていた。たまに、女房が人食い映像の前をふらふらと行ったり来たりしていると、女房と似ている人食いババアもいるものだから、巨人が画面から出てきたのかと錯覚される。それは突然といつでもどこでも現れて進撃してき、息子を食ってしまうかのようだ。
じっさい、巨人の容姿は、モデルがいるのではないかとおもわれるくらい、一人一人がリアルなので、人とされる主人公たちより人間にみえる。というか、私には、認知症になった老人たちが放浪している世界のように想像されてくるのだった。とろんとした巨人の表情は、最後に残った欲望を赤ん坊のように純粋に表現しはじめる老人たち、父の顔に確認したそれと似ている。放浪しながら、道端になっている果物をとっては食べ、道端に落ちているゴミを拾い、思いついたような動きを緩慢と繰り返す。私の近所にも同じようにゴミを拾う婆さんがいて、植木屋として垣根下などを掃き掃除している私に「きれいになるねえ」と、声をかけてくる。後ろには、息子の嫁がついてあるいている。若い頃、私がよく通った蕎麦屋のおばさんだった。違う界隈へと引っ越ししてからもう20年は経つだろうが、それでも私のことを覚えているようだった。世間知らずの私がアパートを借りて住み始めたころ、近所のおばさんたちから「本当にかわいかったんだよ」といわれていることを、なおその近所の職場に勤める私は聞き知っていた。
女房の父親は、すでに老人ホームに入っている。月30万ぐらいの特養クラスのだそうだ。そうした所得と資金が、高度成長下において、差別されていた地域の犠牲の上に獲得されたものではないか、という疑問はどけておこう。一緒に働いている職人さんの家では、母親が最後数年は寝たきりだったが、老人ホームへなどという発想はでてこない。資金がないこともあるが、自分の親をよそへ送るという考えが内発的にはでてこないだろう。2DKの住まいに、寝たきり婆さんと夫婦、そして子供3人が助け合いながら雑居していても、大変ではあっても嫌悪感や忍耐できないもの、という前提意識は発生しなかっただろう。が、子供の教育(進学)に熱心で、ブルジョワ的な、共同体というより個人・核家族的な価値観を刷り込まされてきた世代・階層には、もう不可能な雑居住まいであろう。女房はすぐに、やってられなくなって共倒れになるのだから老人ホームへ、と言い散らしはじめるが、そんな余裕は、一般的に、高度成長期を通して預金を積み立てられた団塊世代ぐらいまでだろう。若い世代になるほど、そんな余裕は、一握りの階層の家族内でしかなくなるだろう。
そのとき、進撃の巨人がはじまる。丸裸にされた老人たちがふらふらと歩きはじめ、社会資本を、人類の遺産を食い始める。昔のように、おばすて山へ、というわけにはいかないが、選ばれた戦士たちが、人類の悪を引き受けて、老人たちを切って捨てていくのだ。相模原事件や、最近の女性看護師の末期の老人の点滴に洗剤を入れて早まって殺してしまった事件など、そんな来るべき社会の予兆であるのかもしれない。しかしあくまでネガ、消極的な事件にすぎない。将来は、それを「進撃の巨人」の社会のように、社会システムとして積極的に内蔵させ、そしてその悪を不可視にしていくだろう。
私にできることは、覚悟を決めることだけだろうか? そして、こんなふうに、私の理解していると思っていることを書き留め、後世への参考にと願うだけか? プチブルから職人階層の家族に移行した私の家で、他の職人さんたちのような助け合いの共同性は育まれにくい。私は知的にそれを認識し、変容させるよう努力はしているが、巨人には言葉はとどかない。息子は、小学生から受験地獄に飼いならされて目が死んでいく今風・都会風の子供たちに遅ればせながら、ようやく暗くなり、大人しくなり、忖度官僚に近づいてゆく。進撃する女房から、息子だけは逃げ延びて、生き延びて欲しいと私は願うけれども、あがけばあがくほど、人食い母親のシステムの中に内蔵されてゆく。そうやって自らが官僚化した巨人になるか、母親と刺し違えるか……私は、この綱渡りのようなバランスを認めながら、とりあえず期を伺っていることしかできない。児童相談所への相談などは、取り返しのつかない痕跡を子どもに植え付けてしまうだろう。それを考えたこともあるけれど、その手段はある意味、システムを受け入れるという諦めた覚悟をした上での最終的手段である。つまり、私たち固有の関係を放棄して、そこにしかない本当の解決の糸口を離して、巨人のシステムを受容するということだ。それでのいったんの解決とは、問題の先送りプラス複雑化であり、おそらくもはや大人になった子供自身、息子自身の力ではどうにもならない社会的痕跡が、新たに付加されてしまうということなのだ。そして私の判断では、女房と息子との軋轢は、峠を越している。もう少しだが、油断はできない。と同時に、次の局面がくることも予測しておかなくてはならない。高校に入学したらしたらで、また何か過干渉が起きるだろう。結婚したらしたらで、うるさい姑になるだろう。がそこまでいけば、幼少期の問題は移行されている。対処は、より容易になるはずだ。
どこの家庭も、似たり寄ったりだと、少年サッカーチームに関わっていてみえてくる。程度の違いはあっても、女房たちのほうが進学に神経質。おそらく、自分の腹を割って出てきた存在なので、なお子供たちが自分の体の一部なのだ。自分の右手が言うことを聞かなければ、イライラするだろう。が、昔のように右手(子ども)が二つも三つもあれば、言うことをきかないなんてことに慣れて、認識しだす。だから、ほっとく余裕もうまれる。今は少子化で、子離れする自然的条件が少ない。また日本では、父親が割って入る西洋的なエディプス的な契機が文化的に希薄だ。しかしこの母子癒着的な構造は、洋の東西を問わず本源的だろう。子は、母から、女から産まれるのだから。女は、子宮で考えると言われる。進学、といった制度的な観念もが、自分の体の延長として理解される、というか、そういう身体化的理解でしか物事が認識できないように自然条件づけられているのではないか、とおもう。だから、システム(進学)にイロニー的に距離感を置ける男たちとちがって、システムをそれでしかありえない自然的な身体のごとく受容する。その真面目さが、言うことを聞かない子供という存在を前に、いら立つこととして現象される。
そんな女房たちの進撃に、男たちは、どう対応したらよいのか? システム自体を変えなくてはいけない節目の時に。
2018年7月6日金曜日
サッカー界だけがわかっていること(2)
「サッカーの生態系は破壊されてしまった。「今より少し良いサッカー界」を目指す人びとが意気消沈し、反知性主義の時代が幕を開けている。長く競技規則にあった「非紳士的行為」を一九九七年に「反スポーツ的行為」とし、二○一○年代にはとうとうFIFAみずからが立派な「反社会的勢力」になっていた――のだからまったく笑い話にもならない。挙げ句は、そんなFIFAから「いつになったら会長を公明正大な選挙で選ぶのだ」といわれてやっと密室の扉を開けた日本サッカー協会。サッカー・ファミリィーなるものからの離脱感情が芽生えてしまうのは当然の成り行きと言えるだろう。」(佐山一郎著『日本サッカー辛航記』 光文社新書)
凱旋として日本国民から迎え入れられたと言ってもいいだろうサッカー日本代表チーム。起伏あるストーリーを演出して見せてくれて、私も興奮し、楽しんだ。が一方、観客としてだけでなく、実際に小学生チームの指導にもなお携わっているサッカー界の末端にいる実践者としては、複雑な思いにさせられるワールドカップだった。
私は、決勝トーナメント1回戦対ベルギー戦、0対6ぐらいで負ける可能性も出てきしまったのではないか、と判断した。判断の根拠というか、そう感想させた材料は、試合前の本田選手と西野監督のインタビューへの返答だった。本田選手は、「俺はもってる」「俺がここでいいとこもっていっていいのか、というような場面が出てくるのではないか」、というようなことを発言していた。その発言内容自体はいつもの通りなので問題は感じなかったが。そのどこかにやけた表情に、ひっかかるものがあった。そして西野監督は、こう言った、「このチームには、スピリッツ的なところがある」と。その表情にも、どこか本田選手と似たところがあると感じたが、私がひっかかったのは、その「スピリッツ」という用語である。スポーツでよく言われる、メンタル、という言葉ではない。メンタルとはは、mindの形容詞型で、その慣用<in the mind>が「心の中で」と日本語翻訳されるのでややこしくなるが、あくまで人知の頭脳の中で思い浮かぶもの、であるのに対し、spiritとは、人間を超えてより精霊的、妖精的な力の意味合いをもつ。インテリな西野監督は、よりそういう傾向として、この語をあえて使ったはずである。つまりは、中心選手と監督が、最近の日本プロ野球界の俗語でいえば、「俺たちは神ってる!」、と発言したのである。しかも、冗談ではなく、本気・本心を隠すようにどこかにやついた感じで。
私は、せっかく前回のポーランド戦、玉砕的な特攻作戦とは一線を画した冷静な賭けの論理を披露してみせていたのに、つまりは日本運動部的な情理とは違うサッカー界の論理、先発/補欠と固定区別して戦う根性主義ではなくその発想を転倒させる現実政策(先発6人変え)を含めて――を対置してみせてくれたのに、ここにきて、「神風」が俺たちには吹いているというのか? その試合前態度に、私は、不吉な懐疑を覚えたのである。
その不吉な懐疑は、杞憂に終わっただろうか? 確かに、内容的にも結果的にも、日本代表は善戦した。が、冷静にこの試合を振り返ってみれば、というか、リアルタイムで見ていたその時も、いやその時こそ、本当に「神風」が吹いたのではないか、と私たちは錯覚した一瞬を味わなかっただろうか? 柴崎のスルーパスはすごかった、が、あれが本来通ってしまうものなのか? 乾のシュートは冷静で正確だった、が、あの無回転というよりは単なるインサイドキック(浮かしたミドルでは普通にでる)の練習のような間(スペース)が、あんなバイタルエリアで発生するものなのか? パスを受けた原口、ボールを乾にあげた香川自らが、一瞬、ほんまか、というような表情をしている。このゴールへとつながった空白な時間に、まさにワールドカップ・ベスト16で発生していいのか、と問いたくなるような奇蹟、いわば「神風」が吹いた、としかいいようがない現象が起きていたのだ。そして本当に、もし本田の最後のフリーキック、まさにあれこそが無回転のブレ球といえるシュートが入っていたなら、私たちはまさに、「神風」が吹いた、と口にもださずにはいられなかったろう。
が、現実は違った。あれからベルギーは本気をだしたと、選手にも監督にも感じられ、他のベスト16の試合を観るにつけても、そのガチガチな削り合いの闘争の中で、あんな空白な時間が発生する余地など見られない。おそらく、それは「神風」などではなく、単に、対戦相手が私たち日本チームだったから起き得た余白、相手の油断ゆえに、と理解すべきなのだろう。確かに、西野監督は、うまく日本チームをまとめあげた。が、選手が日本人だったからこそできた手腕だろう。彼が、他の代表監督や、ヨーロッパのクラブチームを任せられる、という評価はないだろう。実際、交替をベルギーより早く、そして3人目の交代枠を使っていたら、ロスタイム終了間際でのカウンターを食らう時間はなかったかもしれない。また私は思い出した。前回ブラジル・ワールドカップ前でのコンフェデレーションズ・カップでの対イタリア戦、たしか勝ってゲームを進めていた日本があたえたコーナーキック、日本選手がゴール横で水を飲んでいる間、ピルロは走った、そしてすぐにボールを蹴りあげ待ち受けていたイタリア人選手がシュートを決め、試合の流れが変わり敗戦した試合。こういうレベルの油断、相手の抜け目なさへの洞察・感覚、は、フィードバックされているのか?
西野監督は、インタビューで話す際、「私」は、という主語を使っていない。日本の「サッカー界は」、という。今大会の結果も、これが良かった、という完結的な言い方をしていない。成功させるのも失敗させるのも、これからの4年で問われるのだ、という。私も同感だ。もし、サポーターや末端指導者も含めた日本の「サッカー界」が、「神風」がなお吹いていると錯覚したままなら、おそらく結果は悲惨なものになっていくだろう。今回のワールドカップの成績で、日本代表の世界ランキングは上昇するかもしれない。が、それ自体が、転落と裏腹の関係にあるとは、60位からはじめた今回代表が証明してみせてくれたことだ。
サッカーは、「進歩」してゆく。それは、「科学」の進歩と同じである。平安時代の「蹴鞠」は、いつまでもそのままで、ただテクニックだけが「進化」してゆくかもしれないが、サッカーは、「真理」という目的(ゴール)があるゆえに、それを目指して、追求して「進歩」してゆくのだ。この強迫的な論理、一神教的な現実の実際は、私たちにはわかりにくい。ゴール(ゴッド)に近づてい行く真理を、その法則を探せ、そのあくなき探究に参加するということが、とりあえず、現今の「世界」に参加するということだ。この仮借ない闘争の世界から、降りるという選択肢もあるかもしれない。が、おそらく私たちは、もう降りるには相当な贅沢を世界から享受している。降りることなど、許されていないのだ。ならば、そこで戦いながら、よりよい世界へと誘導していく他ない。「世界の壁」など、私たちはとっくに通り越している。というか、引きずり入れられたのだ。そしてそこで、敗者でいろと、国連憲章でも定義されているのである。が、負けに甘んじたままでいいのか? そんなのはいやだ、という気概はあることを今回の代表は示し、日本人としてのサッカーを目指す道筋をつけられたのではないか、と監督・選手ともどもいう。が、この気概が、神風的な、スピリッツ的な神掛かり作法、島国的慢心に陥ってしまったらもともこうもない。あるいはその近代日本への反動としての、子供天国だったと幻想される近世(江戸の平和)への回帰、楽しければいい、子供ファーストなサッカーへの停滞。
少なくとも、日本の「サッカー界」には、その分裂を理論・実践的に解決していこうとする科学的な知性が挿入されている、と私は認識している。おそらく西野氏は、その知的な試み、作業のことを「サッカー界」という主語に仮託しているのだろうとおもう。マスメディアや末端指導者は、この試行錯誤の文脈と意義を、正当に理解・評価しているだろうか? テレビ報道と、自分の所属するチームを思い浮かべると、私は心もとなくなるのである。目先(のテクニック)にこだわらず、もっとでっかく考えないのか、と。そういうと、批判され、揚げ足とられてきたわけだが。……
凱旋として日本国民から迎え入れられたと言ってもいいだろうサッカー日本代表チーム。起伏あるストーリーを演出して見せてくれて、私も興奮し、楽しんだ。が一方、観客としてだけでなく、実際に小学生チームの指導にもなお携わっているサッカー界の末端にいる実践者としては、複雑な思いにさせられるワールドカップだった。
私は、決勝トーナメント1回戦対ベルギー戦、0対6ぐらいで負ける可能性も出てきしまったのではないか、と判断した。判断の根拠というか、そう感想させた材料は、試合前の本田選手と西野監督のインタビューへの返答だった。本田選手は、「俺はもってる」「俺がここでいいとこもっていっていいのか、というような場面が出てくるのではないか」、というようなことを発言していた。その発言内容自体はいつもの通りなので問題は感じなかったが。そのどこかにやけた表情に、ひっかかるものがあった。そして西野監督は、こう言った、「このチームには、スピリッツ的なところがある」と。その表情にも、どこか本田選手と似たところがあると感じたが、私がひっかかったのは、その「スピリッツ」という用語である。スポーツでよく言われる、メンタル、という言葉ではない。メンタルとはは、mindの形容詞型で、その慣用<in the mind>が「心の中で」と日本語翻訳されるのでややこしくなるが、あくまで人知の頭脳の中で思い浮かぶもの、であるのに対し、spiritとは、人間を超えてより精霊的、妖精的な力の意味合いをもつ。インテリな西野監督は、よりそういう傾向として、この語をあえて使ったはずである。つまりは、中心選手と監督が、最近の日本プロ野球界の俗語でいえば、「俺たちは神ってる!」、と発言したのである。しかも、冗談ではなく、本気・本心を隠すようにどこかにやついた感じで。
私は、せっかく前回のポーランド戦、玉砕的な特攻作戦とは一線を画した冷静な賭けの論理を披露してみせていたのに、つまりは日本運動部的な情理とは違うサッカー界の論理、先発/補欠と固定区別して戦う根性主義ではなくその発想を転倒させる現実政策(先発6人変え)を含めて――を対置してみせてくれたのに、ここにきて、「神風」が俺たちには吹いているというのか? その試合前態度に、私は、不吉な懐疑を覚えたのである。
その不吉な懐疑は、杞憂に終わっただろうか? 確かに、内容的にも結果的にも、日本代表は善戦した。が、冷静にこの試合を振り返ってみれば、というか、リアルタイムで見ていたその時も、いやその時こそ、本当に「神風」が吹いたのではないか、と私たちは錯覚した一瞬を味わなかっただろうか? 柴崎のスルーパスはすごかった、が、あれが本来通ってしまうものなのか? 乾のシュートは冷静で正確だった、が、あの無回転というよりは単なるインサイドキック(浮かしたミドルでは普通にでる)の練習のような間(スペース)が、あんなバイタルエリアで発生するものなのか? パスを受けた原口、ボールを乾にあげた香川自らが、一瞬、ほんまか、というような表情をしている。このゴールへとつながった空白な時間に、まさにワールドカップ・ベスト16で発生していいのか、と問いたくなるような奇蹟、いわば「神風」が吹いた、としかいいようがない現象が起きていたのだ。そして本当に、もし本田の最後のフリーキック、まさにあれこそが無回転のブレ球といえるシュートが入っていたなら、私たちはまさに、「神風」が吹いた、と口にもださずにはいられなかったろう。
が、現実は違った。あれからベルギーは本気をだしたと、選手にも監督にも感じられ、他のベスト16の試合を観るにつけても、そのガチガチな削り合いの闘争の中で、あんな空白な時間が発生する余地など見られない。おそらく、それは「神風」などではなく、単に、対戦相手が私たち日本チームだったから起き得た余白、相手の油断ゆえに、と理解すべきなのだろう。確かに、西野監督は、うまく日本チームをまとめあげた。が、選手が日本人だったからこそできた手腕だろう。彼が、他の代表監督や、ヨーロッパのクラブチームを任せられる、という評価はないだろう。実際、交替をベルギーより早く、そして3人目の交代枠を使っていたら、ロスタイム終了間際でのカウンターを食らう時間はなかったかもしれない。また私は思い出した。前回ブラジル・ワールドカップ前でのコンフェデレーションズ・カップでの対イタリア戦、たしか勝ってゲームを進めていた日本があたえたコーナーキック、日本選手がゴール横で水を飲んでいる間、ピルロは走った、そしてすぐにボールを蹴りあげ待ち受けていたイタリア人選手がシュートを決め、試合の流れが変わり敗戦した試合。こういうレベルの油断、相手の抜け目なさへの洞察・感覚、は、フィードバックされているのか?
西野監督は、インタビューで話す際、「私」は、という主語を使っていない。日本の「サッカー界は」、という。今大会の結果も、これが良かった、という完結的な言い方をしていない。成功させるのも失敗させるのも、これからの4年で問われるのだ、という。私も同感だ。もし、サポーターや末端指導者も含めた日本の「サッカー界」が、「神風」がなお吹いていると錯覚したままなら、おそらく結果は悲惨なものになっていくだろう。今回のワールドカップの成績で、日本代表の世界ランキングは上昇するかもしれない。が、それ自体が、転落と裏腹の関係にあるとは、60位からはじめた今回代表が証明してみせてくれたことだ。
サッカーは、「進歩」してゆく。それは、「科学」の進歩と同じである。平安時代の「蹴鞠」は、いつまでもそのままで、ただテクニックだけが「進化」してゆくかもしれないが、サッカーは、「真理」という目的(ゴール)があるゆえに、それを目指して、追求して「進歩」してゆくのだ。この強迫的な論理、一神教的な現実の実際は、私たちにはわかりにくい。ゴール(ゴッド)に近づてい行く真理を、その法則を探せ、そのあくなき探究に参加するということが、とりあえず、現今の「世界」に参加するということだ。この仮借ない闘争の世界から、降りるという選択肢もあるかもしれない。が、おそらく私たちは、もう降りるには相当な贅沢を世界から享受している。降りることなど、許されていないのだ。ならば、そこで戦いながら、よりよい世界へと誘導していく他ない。「世界の壁」など、私たちはとっくに通り越している。というか、引きずり入れられたのだ。そしてそこで、敗者でいろと、国連憲章でも定義されているのである。が、負けに甘んじたままでいいのか? そんなのはいやだ、という気概はあることを今回の代表は示し、日本人としてのサッカーを目指す道筋をつけられたのではないか、と監督・選手ともどもいう。が、この気概が、神風的な、スピリッツ的な神掛かり作法、島国的慢心に陥ってしまったらもともこうもない。あるいはその近代日本への反動としての、子供天国だったと幻想される近世(江戸の平和)への回帰、楽しければいい、子供ファーストなサッカーへの停滞。
少なくとも、日本の「サッカー界」には、その分裂を理論・実践的に解決していこうとする科学的な知性が挿入されている、と私は認識している。おそらく西野氏は、その知的な試み、作業のことを「サッカー界」という主語に仮託しているのだろうとおもう。マスメディアや末端指導者は、この試行錯誤の文脈と意義を、正当に理解・評価しているだろうか? テレビ報道と、自分の所属するチームを思い浮かべると、私は心もとなくなるのである。目先(のテクニック)にこだわらず、もっとでっかく考えないのか、と。そういうと、批判され、揚げ足とられてきたわけだが。……
2018年6月20日水曜日
サッカー界だけがわかっていること――日大アメフト事件(2)
「山内 ……そういうことからすると、鎖国をしていったときの動機は、やはりカトリックの国のスペインへの警戒心、いかにして日本を守るか、ということになるのでは。徳川三代将軍にとっての大きな関心事は、スペインがどういう出方をするかということであり、そのなかでの鎖国だったわけです。決して、外国に対して背を向けて国を閉ざしたということではないんです。
中村 フロイスの『日本史』などを読むと、やはりイエズス会というのは怖かったろうとおもうんです。当時の人たちには。
山内 いやあ、すごいですよ。イエズス会のガッツには本当にたじろぎます。(『江戸の構造改革』山内昌之・中村彰彦著 集英社)
サッカー・ワールドカップ、日本代表初戦、なんとか勝てたのはとりあえず喜ばしい。運がよかった、相手がこちらをなめてきたのか警戒しすぎたのかは知らないがやる気がみえない。実力で、勝者のメンタルをもって勝ち切った、というのではないだろう。駄目押しの決定機を、乾(あがっていたのか?)、大迫が逃し、最後の逃げ切りもおどおどと、という感じだ。選手たちが勘違いして、チャレンジ精神を失ったら、次の2戦は敗れるだろう。
がともかく、西野監督のこの大会へ向けてのチーム作りは成功し、初戦の采配は当たった。年功序列だ。香川、本田が得点にからんだ。しかしそんな日本的信頼作りの基層を押さえた上で、調子のいい選手からだすぞという選ばれた各選手への対等意識を掘り起こさせた。先発には本田ではなく香川、大島ではなく柴崎、牧野ではなく昌子、負傷した大迫の代わりは、武藤ではなく岡崎になる。日本人同士にあっては、文句の言いようもないオーソドックスな定石になる。そもそもが、そんなメンタル安定させるための選手選考でもあったろう。奇を衒わない落ち着いた考えだ。私は共感していた。
私のスポーツ経験と教養の内では、サッカー界だけが、よくわかっている。日本の、歴史と現実を。このブログでも、Jリーグをたちあげた平田竹男氏と桑田真澄氏の対談をとりあげ、サッカー界が野球の「軍国主義」を反面教師として取り組んできた、きていることを告白しているのを指摘した。おそらく、学徒出陣へのトラウマがあるのでは、と推論している。サッカー協会の中心は、早慶を中心とした大学出で、エリートなのだ。西野監督も、岡田武史元監督の早稲田の後輩だ。だから、その協会の実践は、頭でっかちになる。末端にいくほど、いわゆる日本の運動部活系の、根性主義のような地が強くでてくる。新宿区の少年連盟に参加している私の周りでも、「すぐヨーロッパの真似をするんだ」と、協会からの指導方針を批判する声をきく。
日本代表戦まえ、NHKで、「岡田武史とレジェンドたちが切るFIFAワールドカップ」という番組が放映されていたが、この会談の雰囲気をみよう。野球界でいえば、岡田元監督自身まだ若い方になるが、世代的には、川上哲治→長嶋・王ときた次の、江川・原世代のようなところだろう。それでも、そうした重鎮に、まだ現役選手で活動している松井選手のような者が、あんなフランクな感じで話し合いに加われるか? 野球部出身だったら、そんな年上の先輩には恐縮してピリピリ状態だろう。サッカー界がそうはならないのは、岡田元監督自身が野球部出身で、中学のとき、その部活のハードさについていけず、ふと隣で楽しそうにサッカーをやっているのをみて、転向した者なのだ。だから、NHKの会談で、楽しくだけでなく「勝つ」ためにやるんだ、ということを日本の文脈で強調するとき、その発言に実は説得力はでない。認識的には、この会談での岡田氏の発現に私はとても共感し同感だ。日本のサッカー界、とくに少年レベルでは、ゆえに「楽しむ」サッカーと結果至上の「勝ち」に固執するサッカーとに分裂している。指導者個人の内でも、どううまく実践していっていいのか、葛藤が発生してしまう。しかし、この「葛藤」自体の自覚が、他のスポーツ界にはないのだ。
そして、この「葛藤」は、楽しさと真剣さとのバランス、とかいった問題ではない。まずはそれをひとつとしていくための理論的な問題なのだ。世界でどう生きるか、という倫理の問題なのである。だから、日本が、なお頭でっかちになるのはやむをえない。それを自己嫌悪してみても、自虐史観だと自己批判してみても、前進にならない。
私は、まだ日本がヨーロッパから学ぶべきことがあるとしても、ワールドカップまでの4年間、最初の2年は外国人監督でも、本番とそれへ向けた最後の2年は、日本人監督にやってもらいたい。もうそこまで来ているし、それは鎖国ということでもない。日本人が世界でどう生きるのか、生きていけるのか、を試していく、試行錯誤な理論的実験なのだ。
中村 フロイスの『日本史』などを読むと、やはりイエズス会というのは怖かったろうとおもうんです。当時の人たちには。
山内 いやあ、すごいですよ。イエズス会のガッツには本当にたじろぎます。(『江戸の構造改革』山内昌之・中村彰彦著 集英社)
サッカー・ワールドカップ、日本代表初戦、なんとか勝てたのはとりあえず喜ばしい。運がよかった、相手がこちらをなめてきたのか警戒しすぎたのかは知らないがやる気がみえない。実力で、勝者のメンタルをもって勝ち切った、というのではないだろう。駄目押しの決定機を、乾(あがっていたのか?)、大迫が逃し、最後の逃げ切りもおどおどと、という感じだ。選手たちが勘違いして、チャレンジ精神を失ったら、次の2戦は敗れるだろう。
がともかく、西野監督のこの大会へ向けてのチーム作りは成功し、初戦の采配は当たった。年功序列だ。香川、本田が得点にからんだ。しかしそんな日本的信頼作りの基層を押さえた上で、調子のいい選手からだすぞという選ばれた各選手への対等意識を掘り起こさせた。先発には本田ではなく香川、大島ではなく柴崎、牧野ではなく昌子、負傷した大迫の代わりは、武藤ではなく岡崎になる。日本人同士にあっては、文句の言いようもないオーソドックスな定石になる。そもそもが、そんなメンタル安定させるための選手選考でもあったろう。奇を衒わない落ち着いた考えだ。私は共感していた。
私のスポーツ経験と教養の内では、サッカー界だけが、よくわかっている。日本の、歴史と現実を。このブログでも、Jリーグをたちあげた平田竹男氏と桑田真澄氏の対談をとりあげ、サッカー界が野球の「軍国主義」を反面教師として取り組んできた、きていることを告白しているのを指摘した。おそらく、学徒出陣へのトラウマがあるのでは、と推論している。サッカー協会の中心は、早慶を中心とした大学出で、エリートなのだ。西野監督も、岡田武史元監督の早稲田の後輩だ。だから、その協会の実践は、頭でっかちになる。末端にいくほど、いわゆる日本の運動部活系の、根性主義のような地が強くでてくる。新宿区の少年連盟に参加している私の周りでも、「すぐヨーロッパの真似をするんだ」と、協会からの指導方針を批判する声をきく。
日本代表戦まえ、NHKで、「岡田武史とレジェンドたちが切るFIFAワールドカップ」という番組が放映されていたが、この会談の雰囲気をみよう。野球界でいえば、岡田元監督自身まだ若い方になるが、世代的には、川上哲治→長嶋・王ときた次の、江川・原世代のようなところだろう。それでも、そうした重鎮に、まだ現役選手で活動している松井選手のような者が、あんなフランクな感じで話し合いに加われるか? 野球部出身だったら、そんな年上の先輩には恐縮してピリピリ状態だろう。サッカー界がそうはならないのは、岡田元監督自身が野球部出身で、中学のとき、その部活のハードさについていけず、ふと隣で楽しそうにサッカーをやっているのをみて、転向した者なのだ。だから、NHKの会談で、楽しくだけでなく「勝つ」ためにやるんだ、ということを日本の文脈で強調するとき、その発言に実は説得力はでない。認識的には、この会談での岡田氏の発現に私はとても共感し同感だ。日本のサッカー界、とくに少年レベルでは、ゆえに「楽しむ」サッカーと結果至上の「勝ち」に固執するサッカーとに分裂している。指導者個人の内でも、どううまく実践していっていいのか、葛藤が発生してしまう。しかし、この「葛藤」自体の自覚が、他のスポーツ界にはないのだ。
そして、この「葛藤」は、楽しさと真剣さとのバランス、とかいった問題ではない。まずはそれをひとつとしていくための理論的な問題なのだ。世界でどう生きるか、という倫理の問題なのである。だから、日本が、なお頭でっかちになるのはやむをえない。それを自己嫌悪してみても、自虐史観だと自己批判してみても、前進にならない。
私は、まだ日本がヨーロッパから学ぶべきことがあるとしても、ワールドカップまでの4年間、最初の2年は外国人監督でも、本番とそれへ向けた最後の2年は、日本人監督にやってもらいたい。もうそこまで来ているし、それは鎖国ということでもない。日本人が世界でどう生きるのか、生きていけるのか、を試していく、試行錯誤な理論的実験なのだ。
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