2022年1月16日日曜日

コロナ団欒

 


金曜日、仕事から帰ってくると、高3になる息子が、玄関の前でうろうろしている。また鍵をもっていくのを忘れたのだな、と思いながら自転車から降りたが、スマホを手にして何やら電話している息子の姿は、ハイになりすぎている。何かあったのかな? と乗馬ズボンのポケットから鍵をとりだしていると、「俺、濃厚接触者になったかもしれない」という。

 「昨日、バイトで一緒にやってた人がコロナ検査で陽性になったらしいんだ。一緒に弁当食べてたりしてたから。これから、バイト先から親に電話するって」と、いったん閉じたスマホを手にしたまま、ドアをあけて家に入る。後ろからつづいて、地下足袋を脱いでいると、「明日センター試験なんだけど、どうなるのかな?」と聞こえてくる。声の抑揚からすると、うれしがっているような…。

 リヴィングに入って、ガスストーブをいれて、寺の松の手入れで冷たくなった両の手をあたためた。女房は、どこに行ってんだ? ストーブのそばのソファに座って、息子は足を温めている。「バイトの友達は、無症状なんだって。15分以上一緒の部屋にいた人は、PCR受けなくちゃならないかもしれないって。だけど俺は、10分くらいだからなあ。」と息子は話している。手が少し温まってから、感染してる可能性もあるのだから、除菌タオルで手すりとかみんな拭いておけ、そのスマホも拭いておけ、ママにうつったら大変だぞ、と息子に言って、作業着から普段着に着替え、風呂場にいき、掃除。ということは、すでに風呂場も感染の可能性があるということだから、カビキラーで洗っとこ、とそのスプレーをバスタブの内側にかける。だけど、もう出かける、ってことか? 掃除途中でまたリヴィングの方へ向かうと、息子がスマホを渡してきた。

 息子のバイト先のスタンドを統括管理している会社の者からだった。要はたぶん、ほとんどの時間は外での作業だし、一緒にいたのも、息子が言うには10分くらいのことだからと、検査はせず様子見のほうがいい、検査を受けたら明日の試験は受けられなくなるのだから、という勧めなのだろう。「だけど、その10分が濃厚接触者にあたらない、というのは、そちらの会社の判断、ということですよね? だけど、誰が判断する、ってことになるんですか? 保健所はもうしまっているし、明日からは土日ですからね。それでも、一緒に働いていた他のバイトの子は、検査を受けにいってるってことですよね?」会社の人の話は矛盾していると感じると同時に、明日センター試験でなければ、息子にも症状がでているわけではないのだから、この週末は様子見でもいいだろう、が、不分明なまま、試験に行かせていいものか? そう思い至って、基準の10分も15分も曖昧ですから、検査を受けさせようとおもいますが、と返答すると、ならば今すぐ指定の病院に連絡をしてくれ、と言う。検査費は会社がだすが、そこに近い病院は6時でしまってしまう。今予約をとれば、多少遅刻にあっても、だいじょうぶだろうと。

 そこで、居住地と同じ地区にある病院に電話する。看護師が、息子本人に話を聞き取り調査していく。話をきいていると、やはり、10分程度なら濃厚接触者にあたらないかも、検査結果は明後日になるだろうから試験は受けられないかも、と検査は勧めない方向にいっている。そこで息子に、もう試験は諦めでいいから、と言い、息子も看護師にそう伝えると、ならばどうやってこちらに来るのか、と聞かれ、車で、というと、ならば14分で着くはずだから、と、自家用車に息子をのせてすぐに出かけることになったのだった。

 車に乗り込むさい、表向きは平静でも、行動が、ずれてうわついていることに気づく。電気を消すのにつけていたり、車に乗るのに自転車にのるときの保温手袋をもっていったり…。運転だいじょうぶか? と動揺に気づけない自分を冷静に見つめ直そうとする。一緒に働いている職人さんの娘が濃厚接触者になった、ときいたときは、やはり他人事だったのだな、女房は、いなくてよかったな、と思えてくる。帰宅してから、10分後には、もう出発だ。

 車の中で、「濃厚接触者は、別室で試験できるようにする、とか、テレビで言ってなかったっけ?」と私の質問に、息子が学校へと連絡する。電話口では、配布していたパンフをみて対応してくれ、たぶん、試験センターに電話してどうするかわかることになるとおもう、担任にも電話しといて、みたいな話をしている。

 スマホのグーグルナビを頼りに、病院に着いたとおもったら、同じ名前の歯科医だ。再検索していると、病院から電話があり、息子が通話案内でひとり向かっていった。車の中にもどり、携帯がつながらない女房へ、ラインをおくる。しばらくして、返信がくる。いま電車の中だと、もうすぐ着く、と。

 すぐに、検査を終えた息子が、「鼻が痛え」ともどってくる。

 家には、すでに女房が帰っていた。息子から話をきいている。「今日は、もうトンカツ弁当にしよう」と言っている。風呂場の掃除をおえた私と向かい合うと、「病院、6時でおわり」って、どういう意味? とラインで私が記したことを聞いてくる。質問の意味がわからない。「6時で閉まるってことだろが」と答えると、「閉まってたら、どうするつもりだったの?」と返ってくる。救急でしょ、みたいなことを訴えたいのかな、と思いあたる。閉まってたら、空いてる指定病院があるかバイト先に聞き返し、ダメなら週末は自宅で様子見、明日の試験は強行するか自制するか、こっちで判断しなくちゃならなくなる、ってことだろう、とケースによって判断が変わるなどとは女房の頭には説明できないので、黙ったまま答えず、風呂にはいった。

 その間、女房は、近所にあるサボテンでロースカツ弁当を買いにいった。夜食は、息子に部屋で食べさせるのだろうな、と思っていたが、買って来るや、食卓に3つ並べる。2階の自室にいっていた息子を呼んで、3人で食べ始める。息子と女房は、まるでお祭りにでも参加したように、生き生きと会話している。「明日ワクチンの予約はいってたんだけど、キャンセルしないとダメよね」と、女房は声をはずませる。コロナと接触したかも、が、退屈な日常の破れ目となって、晴れの日になったのか? たしか、去年の今頃は、まさにコロナ重症患者の特徴が、発熱以外すべて出そろって、ぜえぜえ言っていたはずだ。弁膜症だったのだが。しかしその術後の検査結果がおもわしくなく、虫垂偽粘液腫という、100万人に1人ぐらいの病気を発見され、その手術中の目視では陰性だったが、術後にわかる精密検査では陽性の癌、転移の可能性がということで、またより広範にわたる摘出手術をするかとなって、もう手術ばかりで苦しいからやめる、と今にいたっているのだった。

 それがいま、コロナ談義で、家族団欒になっている。

 「で、明日はどうなるんだ?」と私がきく。息子は、「濃厚接触者は、公共の交通機関を使わないで会場にいき、別室で試験を受けるんだって」と言う。「タクシーでいけ、ということか?」「いや、タクシーはだめなんだよ」「じゃあ、自転車でいくのか?」「自転車ではだめ、って書いてあるよ」「じゃあ、歩いていけってのか?」「車だよ」と、仕事も休みになっていた私が、また試験会場まで息子を送迎することになったのだった。

 試験中、予定より早い検査結果が、自宅への電話にとどいた。陰性、ということだった。ちょうど昼ごろだったので、息子に、ラインで知らせた。「電車で帰ってこい」とも。すると、「それはダメだと言われたので、車でお願いします」と返事がくる。陰性でも、23日は自宅にいて、と病院から前もって言われ、学校にも当分来るな、と担任からも言われているらしい。

試験後、車の中での話によると、2百人くらい入れる部屋で、自分ひとり、に試験官が2人つき、窓がずっと空いていたので、寒かった、と。そして「東大で事件おきたんでしょ? ○○がそこでやってたんだけど、ヘリコプターの音がうるさかったってさ」

 オミクロンの潜伏帰還は3日くらいということだったか、ならば、私と女房も、今回は大丈夫なのだろう。

   ***

最近の気になったニュース。

ブースター接種繰り返し、免疫系に悪影響の恐れ | ブルームバーグ | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)(東洋経済)

コロナワクチンに対しての145カ国を対象とした過去最大となるビックデータ研究(ベイズ分析)により、「接種が進むほど事態が悪化している」ことが明確に判明In Deep

 *日経新聞にでた、去年10月までの日本での超過死亡者数予測6万人こえる、というのも驚きだった。一昨年は、コロナ感染死者増えた、と言われながら、結果は、2万人近く全体死者数減少していたわけだが、今年は、というか去年2021年は、どうなることやら。

2022年1月5日水曜日

今年に向けて

 


まだ正月休みがつづいているが、やることが結構あって、時間がたりない。

 

体を使う仕事上、毎朝のちょっとしたリハビリ・トレーニングのようなものもかかせない。今朝も近所の公園ですましてきまたばかりだが、明日の天気が雪でもあるということで、そこに寝泊まりしている男性に、カイロと小銭をわたしてきた。ときおり話をする仲になっている。「カイロはいっぱいあるんだ」「(現金は)や~あ、助かるよ」と笑った。「俺も日給の肉体労働者だからなんともいえないけど」と私も笑い声をあげて、杖をついてあとにしてきた。

 

雪は、降るのだろうか?

 

おそらく今年、いまの職場を去って、空き家となっている女房の千葉の実家のほうへ移る。団塊世代の職人さんも、もうやめると言っているが、おそらく、親方から説得されるだろう。親方も必死な心痛だ。自分と、対話の切れたような三代目若社長の息子と残されるようなことになる。仕事はあるのだから経済的には問題ないとしても、それをつづけられる自分の体力と、維持しうるやりくりがどうなるのか、不透明になってくる。団塊世代の職人さんは、「まともに動けないから申し訳なくて」、「迷惑かけているんじゃないかと」、「またシルバー人材でもあれば」、「生活保護でも」と、仕事納めの酒を飲みながら、訴えていた。たぶん、やめられないだろう、親方に説得されるだろう、服従していくような関係は嫌でしょうがないのだが、そういう世界のメンタリティーで生きてきた。祖父は十手をもっていたというからそういう家系なのだろうが、近所のほかの職人さんも、爺さんは博徒だったというし、親方も、「俺たちは部落民みたいなものだからな」と、私がまだ二十代のころに聞かされていた。「俺は、幸せ者だとおもうんですよ。消防団の誰かや、親方とめぐりあって、ここまでこれた」団塊世代の職人さんは、ビールを飲みながら、語った。

 

しかしもう、三代目ともなれば、そんな価値観は、痕跡はあっても希薄であり、自覚がない。だから、国と金(資本)に対する距離感が持てず、長いものに巻かれていくだけだ。私は、そんなものに巻かれたくない。だから、大学でても、フリーターでやってきたのだ。もう今年で初老を迎える。まだ体の動くうちに、また自由になって、初めから出直そう。

 

いつも年明けには、初夢のことを描写していたとおもう。見ていちど頭にいれたが、忘れてしまった。去年は、襲ってくる洪水の夢ではなく、そこに自ら立ち向かうように飛び込んだり、そして、だいぶしばらく、水の夢から遠ざかっていたのだが、たしか初夢に、山から鉄砲水のようなものが雪崩てきた。恐ろしいとはおもわなかったが、立ち向かっていくような高揚もなかった。これはどういうことかな、と夢から覚めて、思ったとおもう。

 

今日はこれから、女房と息子と一緒に、小平にある共同墓地へ、義父母の墓参りにゆく。息子がいくのは、はじめてだ。明日は、息子を、私の実家につれていく。

 

雪が降れば、明後日になるだろう。

2021年12月26日日曜日

量子論と現象学


 量子論と、<単独―普遍>をめぐる柄谷行人著の『探究』誌上での関連について、少しまえブログで指摘した。

その『探究』は、外部(他者)へ向けての内省的な遡行を突き詰めた先での、行き詰まり破綻からの「転回」として実行された、と説明された。現象学的な追求としてではなく、論理的な前提として他者は導入されなくてはならない、となった。

 

が、量子論をめぐる識者の文章を読んでいくと、柄谷が直面していたアポリアが、いわゆるアインシュタインやボーアとの間で議論された、「観測問題」といわれるものと重なってくることに気づかされた。波(無)であった状態が、観ることによって物質(有)となるという原子以下で気づかされた現象の謎。そこを突き詰めるに貢献したアインシュタインは、その不可思議さにとどまり、「ならば月は、見ていないときは存在していないというのか?」と、謎をそのままにして実用化されていった産業科学的なあり方に抵抗した。のちに、月は見ていない時には存在しない、のミクロ現象は、問題なのではなく現実、科学的事実なのだとアスペの実験などによって実証されてしまった。その実証に後押しされるように、謎は棚上げされたまま、いまは量子コンピューターの開発が競われているようなものだろう。

 

そうした現代において加速していくような科学の在り方、とくに、量子論の水準において異議を提出した者に、廣松渉氏がいたわけだ。廣松氏のその異議の視点は、日常的に物をみる有り様にだって、同様な謎が思考しえる、というものだった。

 <円筒型は見え姿の無限集合であるといっても、そして、それの形成に際しては過去の体験に俟つとしても、一つの見え姿以外は「可能態」(デュナミス)ないし「潜勢態」(ポテンティア)としての見え姿にとどまる。それらはしかじかの視点から現に見られることにおいて「現実態」(エネルゲイヤ)に転化するが、円筒型が円筒型たるかぎり、それはさしあたり可能的、潜勢的な(未在的に既在的な)見え姿の無限集合ないしそのアルゴリズムである。…(略)…

 量子力学的次元での観測対象についても、これと全く同様な論理構成になっている。観測理論のプロブレマティックを劃したとも称されうるあの確率波的解釈をボルンが持出したとき、どのような論理構成になっているか? ボルンは電子という対象が、或るときには粒子的な見え姿(量子的作用)で、また或るときには波動的な見え姿(回析や干渉)で“見える”ということ、このいわゆる粒子性と波動性とを統一的に捉えるべく、波動函数を確率波的に解釈してみせたわけであって、このかぎりでは、それはあの円筒型の場合と同様、しかじかの条件のもとではしかじかの「見え姿」を呈するところの或るものetwas Identischesにほかならないわけである。>

<観測に際して直接的現相を対象化的に措定する者、量子力学的次元を意識していえば、波動函数を定式化する者は、いかに具身の個人であるとはいえ、単なる一私人ではない。“学問的知性の一代表”ともいうべき者、謂うなれば認識論的主観を具現する者として彼が認証されているかぎりで、彼の観測が「観測」として通用geltenするのだということ、このことはもはや駄目押しするまでもあるまい。――単なる一私人が、所与の「見え姿」から対象を措定したり、波動方程式を立てたりしたのであれば、それがいかに能知・所知的な被媒介的形象であるにせよ、「対象」としての認証に値しえないであろう。しかるに、観測に基いた対象措定が間主観的な認証性をもつところから、それが第二次観測に先立っては「可能態的存在」にとどまろうとも、これには対象的存在性が認められうるのである。>……引用中の傍点部分は省略(『事的世界観への前哨』 廣松渉著 筑摩書房 2007年発行)

 

現在では、田口茂氏の『現象学という思考 <自明なもの>の知へ』(筑摩選書2014年発行)が、この日常的な自明的な有り様にこそ、量子論的現実が潜んでいることを、フッサールの読解において提示している(他にも、郡司ペギオ幸夫著『時間の正体』講談社、もそうかもしれない)。ここからみると、柄谷氏の「転回」が、早まった錯誤のようにみえてくる。田口氏の読解上では、柄谷はフッサールの「超越論的主観性」めぐる微妙な物言いをとらえきれなかった、ということになるのだろう。いわば、柄谷の『内省と遡行』のなかに、『探究』が挿入できるのだ。

 <「変様」とは、現象学が扱う基本現象の一つであり、随所に起こる特徴的な構造をもった現象である。「現在」は絶えず「過去」へと流れ去るが、そこで現在は過去と決定的に異なると同時に、「過去もかつては現在であった」という意味では、今ある現在と並列されうる。そこにあるのは流れる変様現象であり、現在は流れのなかでしかつかむことができない。「つかもう」とする眼差しをつねに逃れ続ける現在が、それでも他の現在と並列され、「つかみうる」ものとなる現象が、変様の現象である。

さらに「現在」は、空想変様によって空想的可能性とも並列可能になる。これはきわめて身近な変様であって、われわれの日常的経験においてもつねに起こっている。そのなかでわれわれは、他の可能性とまったく並べられていない比類のない純粋な現在をそれとして「つかむ」ことはほとんどできない。ここでも、「つかもう」とする眼差しを逃れる現在が、他のものと並列可能になることによって「つかみうる」ものとなる現象が見てとれる。

ここで、類型的予科が機能しない不意打ち的な場面に遭遇した自我を思い起こそう。そこで自我は、類型から引き剝がされ、「原事実」的現在に放り込まれる。それは私のコントロールが利かない状況である。だがそこで、自我は瞬時に過去・現在・未来・空想を駆けめぐるモードに入る。動かせない現在を、変様によって「つかみうる」ものに変え、私の自由によって扱いうるものに変質させるのである。おそらくこの場面が、自我の基本性格を示す原型的場面である。個であり普遍であるような自我のあり方は、ここに根差している。

それはまた、反省的思考の起源でもある。危機における自我のあり方を、「平時」において自由に発動できるようになったのが反省である。そこで自我は、遺憾なく自らの本領を発揮する。だがそこでは「変様」によって、比類のない原事実的現在は、いつもすでに手の届かないものとなっている。反省的思考のなかでは、過去・現在・未来・空想を「駆けめぐる」自我のモードが支配的になっているからである。このモードゆえに、自我は一切を自らの視点から見渡していると誤認する。原事実的現在に巻き込まれて生きる経験のモードは、そこでは忘却されている。

この状態から私を再び原事実的現在へと引き戻してくれるのが、「他者」である。現象学は、この現実的他者の呼びかけと同様に、思考を反省の手前へと呼び戻さなければならない。現象学的コミュニケーションは、そのための媒介となるのである。>(『現象学という思考 <自明なもの>の知へ』 田口茂著 筑摩選書)

 

柄谷のいう「他者」、用例として後付けされた坂口安吾の「突き放される」体験とが、現象学でいう「原事実」ということになろう。

 

が、<自明なもの>の謎の有り様が解明されたからといって、それが、実践的に「コントロール」されてくるわけではない。むしろそのアポリアの不可避性、解決困難さがクローズアップされてくるのである。柄谷に「転回」を強いた病が、快癒されたわけではないのだ。

 

現今の科学は、この「コントロールの利かない状況」を、アポリアを認識しているのだろうか? 原発もなお稼働しつづけたままなのは、コントロールできる、できている、と思っているからなのか? できなくても使わざるを得ない、と思っているからなのか?

 

棚上げされた問題が、実験室のなかではなく、この世界で、日常的に現実化されてくるのを目の当たりに観測できるまで、私たちは<進撃の科学>でやっていこうというのか?

2021年12月12日日曜日

交換とジェンダー(1)

 


文芸誌『群像』10月号の「創刊75周年記念号」にて書かれた柄谷行人のエセー「霊と反復」が、物議を呼んでいるというような話を知って、図書館から借りて読んでみた。

私自身は、このエセー自体から、特別な感想を抱かなった。「交換」を「霊」と言い換えてみる曖昧さのほうが気になって、すぐには腑には落ちてこなかったからだ。

が、すぐ次に、蓮見重彦の「大江健三郎『水死』論」があったのでそれも読んでみて、その「曖昧さ」がはっきりしてきたので、ブログにメモしておくことにした。

 

蓮見が、この「創刊記念号」にて、自身の文章が柄谷のそれと並べて掲載されることを知って、敢えて、『水死』を選んで大江論をのせようと思ったのかは知らない。しかし私には、この大江論は、最近までの柄谷の思想への、そしてそれが伴うかもしれない社会的な動きへの批判として提出されたもののように思えたのである。

 

蓮見がこの大江論で言いたい論点は、一見マッチョにみえる大江文学を作品内部から批判・脱構築させていくような、女たちの視点の喚起である。大江とおぼしき主人公は、実父の思想態度にうかがわれるかもしれない、「昭和(明治)の精神」を継承していくかにみえる。が、その夏目漱石経由の作家の思想などは、「男たちの「幻想」」にすぎないとみる「女たちの優位」の「重要さ」を蓮見は指摘してみせているのだ。「それが『水死』の作者たる大江健三郎自身にふさわしい読み方だと断言するのはさしひかえておく」と留保されながら。

 

柄谷の「交換(霊)」論は、この「明治(昭和)の精神」が言い換えられてやってきたものである。柄谷は、交換Dという理念系の在り方を、柳田がとらえた山人の「遊動」的な在り方とだぶらせる。では、なぜ「遊動」がいい価値なのか? それは、「誇り高い」からであり、抽象的な物言いでは、それは「高次元」とされるのだ。そこには、「明治の精神」に殉じた漱石の「こころ」の先生を評価した柄谷の漱石論が伏在している。(参照ブログ<柄谷行人著世界史実験読む>)しかし、蓮見が読む大江の『水死』論では、そんな男たちの「精神」を茶化すような、「犬の縫いぐるみさながらに、「『メイスケさんの生れ替り』の御霊の縫いぐるみを飛び回らせる……」女たちの芝居がピックアップされる。

 

つまり、交換Dの国家(定住)に抵抗する誇り高き「精神」を「高次元(霊)」とみなす思想など、男たちの「幻想」にすぎない、と蓮見は言っているわけであろう。

 

この蓮見の批判的視点を、私は共有している。

 

が、それは、だから男が悪く、女性に「優位」があると措定してみているのではない。そこに、検討の余地がある、と私が見ているということだ。

 

たとえば、柄谷は、交換を四つの形態で抽出する。本当に、それしかないのか? もっと、いろいろな交換がないのか? そう単純化して、いいのか? 柄谷が参照しもしたエマニュエル・トッドは、その四つに構造化させる定義を、「ピタゴラス的幻想」であり、「デカルト主義の呪術的宇宙」への退行だと、自己批判的に学術方を修正した(ブログ<トッド家族システム起源ノート1))。

 

要は、柄谷の四象限、幾何学的構図は、男性的とも呼べるだろう、ということだ。

 

が、演繹法から帰納法的な学術態度に変更したトッドのやり方とは、いわば交換(家族形態)にはたしかおおざっぱに20種類ぐらいあって、その組み合わせヴァリエーションで対象を理解しようとするものになるだろう。つまり、基本の四つの家族形態で構図化できても、それは、ベクトルの図になる。基本要素の組み合わせ割合によって、濃艶や強度の変化がでてきて、四象限のどれかに在るか、ではなく、具体的にどの点にあるのか、が示唆されるのだ。交換ABCD、のどれか、ではなく、それらの要素の組み合わせバリエーションによって、縦軸A3と横軸D1の交点、として交換の強度が指示される。

 

『群像』でのエセー「霊と反復」では、柄谷は、「四つの交換様式ABCDのどれが主要か、それらがどのように組み合わさっているかによって違ってくる」という言い方をしているが、このような言い方でその交換様式を示してみせたのは、柄谷では、はじめてではないだろうか? もちろん、柄谷の理論からではなく、そこから常識的に推論して、私は、要するには組み合わせになってしまうのだろう、と推論してもいたわけだが。以前の交換はなくならず、とか、国家と資本が結託する、という物言いから、四象限の図を安定的にではなく、ベクトル的な動的な図としてみることもできるのだろうと。

 

となれば、蓮見の批判は、あくまで男性と女性の差異(区別)に依拠しているということで、批判としては弱いものになってくる。性差が、区別ではなく、組み合わせ割合であり、グラデーションの濃艶であったら、どうなるのか? という理解前提になっていることになるからだ。実際、最近のLGBTの現実の露呈が示しているのは、染色体レベルでは明確に区別される男女差の根底に、RNAレベルでなのか、多様な遺伝要素の組み合わせが様々な性的傾向を現象させているのではないか、ということではないだろうか?

 

ジェンダーとは、セックス(男女)という生物学的な性差を超えた、社会・文化的な獲得形質を肯定していく思想、ということだったはずだが、性の多様さは、実は生物学的な、身体的な現実であって、その自然の多様さを、実は男と女という文化的・社会的な区別が抑圧してきた、という逆転の真実を、現今の科学が露呈させてきている、のではないだろうか?

 

だとしたら、「贈与」という一つ言葉で要約されるその交換にも、実は、多様性がはらまれているのではないか、ということになる。まずそこには、おおまかな傾向割合としての、男女差があったりするかもしれない。――「男の贈与が建前に縛られた、いわば<硬い贈与>であったとすれば、女の贈与は――これもけっして本音を語っているわけではないが――はるかに融通のきく<軟らかい贈与>であった。」(桜井英治著『贈与の歴史学』中公新書)硬い⇔軟らかい、の様々な度合いが発生する交換実践……そういう理解前提から問われてくるのは、「誇り高い」「高次元」を想定する発想の是非であり、それが本当だというなら、その担保とは、根拠とは何か、ということである。個人的な趣味で、というのは、思考約束事上、とりあえずどけて考えてみなければならない。またそれを示せないならば、そんなのは男たちの「幻想」であり、「観念的な力(霊)」などとは男たちの「形而上学」にすぎない、とそれを「犬の縫いぐるみ」のように放り投げる女たちからの批判に答えることにならない。

 

しかしまた一方で、ならば、色々あるよ、グラデーションだよ、レインボーだよ、という態度は、実際には、どんな実践になり、どんな意味方向を持ってくるというのだろう?

 

私は、わからないので、両方を、考えているわけだ。

 

最後にヒントとして、私が考えさせられている私のブログに、リンクをはっておくことにしよう(<切腹いいね!>)。また、もともと以上の問題点への想起は、2週間まえぐらいの朝日新聞での女性学者の未成年への性的暴力に関するエセーからあったものだったのだが、柄谷・蓮見のエセーを読んだので、これは「交換とジェンダー(1)」として先に書き、女性学者のエセーからの思考は、(2)として、時間できたら、例題として、追記してみようかと思っている。

2021年12月8日水曜日

コロナ現状


急激に感染者なり重症者なりが減少し、ほぼゼロ状態といってもいい状況がつづいている日本のコロナ情勢。といっても、ワクチン接種がすすんで底をうったようになる減少から一月ほどあと、これまでにないぐらいの急激な感染増加率を示したきたのが欧米の現状らしいので、政府も第六波に次はなるのだという想定のもとに準備をしている、ということなのだろう。そして三回目のワクチン接種を早めたいと。私には、ワクチンをみなで打ってしまったから急拡大みたくなったとしかおもえないのだが、それはひとまず置いておこう。

 

とにかく、日本でのこの静けさはなぜだ? という話になる。

 

で、生活クラブの会合での、おばさんたちの話でそうなったのか、それは、マスクのおかげだ、とわが女房が言い張るのだった。

 

そんなことはありえないだろう、と私が反論してもゆずらない。日本人はマスクをちゃんとしているから感染が予防されているのだと。ほんとうにマスクで世界的パンデミックがおさまるなら、医学もなんにもいらないだろうに。私には、世界大戦に竹やりで戦えていると思い込んでいた、終戦間際の日本民衆みたく見えてしまう。

 

とりあえずこの件で、説得力あるとおもえたニュースは、まずは東大ミレーション報告、それと、日本でのデルタ酵素変化があったとする研究報告。

 

しかしそれでも、群馬でいきなりクラスター発生です、とかなるのだから、単に検査体制が不備だったり、オリンピックで対応出遅れ、重症になるべく遺伝免疫の人はすでにみな感染してしまったから、という話なのかもしれない。もともと東アジアではリスクが少ないわけなのに、日本では相対的に死亡者が多く、ゆえに「コロナ敗戦」とも呼称されてもいるわけだから、この今の静けさは、敗戦の焼野原ということなのだとか?

 

だとしたら、これが荒野であることを、私たちは気づいていない、ということになる。いま、ガウンにひざ掛けしてパソコンのキーボードを打っているが、冬の雨景色をみせる部屋の窓も、その技術の様は、もう先進国でもなんでもない、断熱効果もへったくれもない掘っ立て小屋の技術水準のままである、ということも、最近スマホニュース知った。建築分野でも、世界基準からは却下されてしまうあり様になっていようとは。

 

外が見えなくなり、竹やりで世界大戦に対応できるとおもっている、ということだろう。 

2021年11月22日月曜日

テロの予感とプラットフォーム

 


アメリカ経由の祭りハロウィンの当日、ハリウッド映画『ジョーカー』をなぞって、渋谷での喧騒をのぞいたあとでの24歳の若者による京王線内での犯行は、犯罪心理学者の専門家等から、精神異常者のものではなく、単に世間の注目を集めたいだけの私的な犯行になろう、と評価されているようだ。BBCニュースでは、いまでも日本は安全です、となる。

 

しかし他国の大都市に比べ、日本の日常での安全がつづくのは、それだけ、普段の抑圧が強いだけでなく、それに気づけないほど隠蔽されているからだろう。私が子どもの頃の時代劇のセリフで、「てめえら人間じゃあねえ、たたき斬ってやる!」と、突然正義の浪人だかが暴れはじめるのがあった。つまりは、そうになるまで、「じっと我慢の子であった」(という定番ナレーションのはいる時代劇もおもいだすが…)、大人しくしていた、ということだ。真珠湾の奇襲攻撃も、そんな、もう我慢ならねえ、という正義感の爆発でもあろう。普段は、内にストレスを溜め込まされていく体制であるが、それが一気に噴出して体制への反抗となってあらわれるのである。

 

しかも、この若者も、すぐあとに続いた60過ぎの男の便乗のような犯行も、死刑になりたかったから人を殺そうとした、とか言っているようだ。ということは、外への加害というより、内への自殺衝動が変形されての爆発となっている。時代劇よりも、日本的な内向性鬱屈がひどくなっている、と言えるのではないか?

 

私はこの事件から、オウムによるテロのような事件発生の予感を感じた、と以前ブログで書いた。日本の場合、宗教や思想信条に結びついていくような常態的な関連が人々の間で希薄だから、テロ、というより、暴動、というあり方に近くなっていくのかもしれないが、そう予感した下地には、そのブログで言及したコロナ・ワクチン体制のほかに、皇族の娘の結婚をめぐるメディア状況というものがあったろう。天皇家が、天皇制(同調圧力)に抑圧されるまでになっている。若い二人は、アメリカへと亡命したわけだろう。私は、近い将来、天皇(家)から自殺者がでるのではないかとも、心配してしまう。

 

さらに、このまだ文学が生きていたころなら天皇制と通称されていた「同調圧力」なるものは、SNS等のネット環境が世界中を同期させている現今では、日本だけに固有の問題とも言えないのではないか、いや逆に、この環境が、日本の天皇制的な体制を補強してゆくようなツールとして機能していったがためにこそ、鬱屈が加速され噴出のタイムリミットにも近づかせているのではないか、とも思えるのである。

 

そう考えを思いめぐらせていたところに、大塚英志氏の1989年出版『物語消費論』の現代版へのアップデートだという『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』なる新書を手にした。この考察は、説得力がある。このブログでの文脈で言い換えれば、プラットフォームが「同調圧力」(無償労働による意識されない疎外)を産み出している、ということになろう。だからテロとは、実はそこにおいて、それをめがけてなされているのだ、と分析される。そういう意味では、なお治験中であるワクチンの接種も、ボランティア労働による圧力になり、いま権力やマスメディアが抑圧・隠蔽にやっきになっているのも、それが「陰謀」だという言論なようだから、その抵抗の目指している先に、やはりなにか核心的なものがあって、そこに触れている、虎の尾を踏んでしまっている、ということへの無意識的な「否認」の仕草なのだろう。日本の文脈で言い換えるなら、天皇制とがプラットフォーム(ほぼ皆が関心いいね!をもたされてしまう、そう無償労働で搾取されてしまう…)なのだから、そこに抵触している、ということになる。

 

大塚氏の指摘は、トランプ現象は小説家集団Qによって文学テクニックで仕掛けられものだとするものからはじまって多岐にわたるのだが、ここでは、このブログでも言及してきたような問題領域に重なる部分の引用にとどめておこう。

 

<つまり、高度消費社会に於いて、そこで私たちがただ「生きる」こと自体が「労働」であり、私たちは無自覚に「搾取」されている、という「問題」の所在とそのような「制度」への「名付け」として、ルーサー・ブリセットがあったことが改めて確認できる。プラットフォームによるビッグデータの収集というビジネスの成立した現在、ようやく、あのサッカー選手の名を偽装した「オープンポップスター」の正体を私たちは知ることができるのである。ブリセットは搾取される私たちであり、だからブリセットは「たくさんいる」ことが必要だった。/しかし、今やブリセットの名は、忘れさられている。だから、ブリセットが「プラットフォーム」の比喩だとしても、例えば私たちは自分がTwitter社に「労働」を搾取されている「たくさんのブリセット」とは思わない。/だから、渡邊博史や青葉真司の「事件」で立論されるべきは、彼らはプラットフォーム的なものが体現した新しい社会のアイコンとしての人気作品の関係者を脅迫し、アニメ社会に火を放ったという犯行の枠組みである。渡邊の事件、青葉の事件の双方に共通するのは、既に述べたように、これが新しい社会システムへのテロリズムだという側面がある点だ。>

<それは例えば、Uberの配達員がいくら働いても個人事業主としての充足を得られなかった時に表出するかもしれない「怒り」とも似ている。それは「隷属」を「参加」と言いくるめることができたことで生じる破綻である。ファンと作者、個人事業主と企業を「同じ」と言い繕いつつ、そこには歴然として越えられない「階級」がある。しかし労働者はファンや個人事業主として「名付け」されているので「階級」としての「名」はない。/しかしこのような透明化された「階級制」への抗議が、政治活動やましてやテロリズムとして行動化されるのは、極めて例外的である。せいぜいがプラットフォームの「乗り換え」で済まされる。渡邊が『黒子のバスケ』に拘泥せず、アイドルグループの名を挙げてそのファン活動にとどまるという選択肢があったことを「後悔」しているのは、そういう意味である。>(「物語隷属論」『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』大塚英志著 星海社)

 

2021年11月9日火曜日

映画『MINAMATA』を観る

 


久しぶりの祝日がきて、女房と映画『MINAMATA』をみにいく。

当初は、この映画はカメラマンのロマンス伝記みたいな気がして、今月末公開とかいう原一男の『水俣曼荼羅』はみにいくだろうからと、観賞予定はなかったのだが、天気もいいし、と。ただ、女房を誘うのはためらわれた。彼女は、水俣病をおこした会社チッソの重役の娘だったからだ。なんとなく行くかときくと、「行きたい」と強く答えてくる。そこで、吉祥寺の映画館へとでかけた。

 

最終日を一日前に控えた祭日だったからか、結構お客さんがはいっていた。やはり、年増な人たちがおおい、という印象だ。映画自体は、やはりというか、洗練されたエクゾチズム、芸者や金魚といった露骨すぎるオリエンタリズムを経験したあとでの、ある趣味階層へのマーケティング結果、という気がしてくる。いま上映中の『ONODA』にも、そうした外国人の異国趣味な視点を、薄められた普遍的問題で模糊してみせる、みたいな傾向になっているのではないか、だからそれらがなんでこの時期にそろったのかな、というほうに、私は考えさせられてしまう。映画のドラマが終わって、たしかチェルノブイリ原発災害からはじまって、世界で引き起こされた公害の告知映像が続いていったのだが、フクシマの災害まで挿入されていたのか、記憶は不確かだ。なかったような。ただその世界的企業による公害映像をみせられながら、私はどうしても、いま世界中の人が接種している新型ワクチンのことを連想しないわけにはいかなかった。いつから、人々は、とくに東電の原発災害の記憶がなおなまなましいはずの日本の民衆が、こんなにも素直に、産業科学の安全妥当性の広報を信頼してしまうようになったのだろう? 私が個人文脈で勉学した意見では、原子力から遺伝子そして量子コンピューターへと連なる現在の先端的技術は、アインシュタインのいう観測問題として露呈されてきた、生命体にはコントロール不能の境域が関わっている。DNAのらせん構造といっても、それは可視光線的な枠での人為的区切りにすぎない。陽子一粒の水素結合で構造が支えられているとは、他の不可視な系との(ワープ的な)繋がりが全的にあるのだろう。放射性物質の内部被爆のように、その水準で改変操作された人工物質が、身体内の全的な系の調和を乱し、体に変調を引き起こさないように願うばかりだ。

 

そしておそらく、そうした産業科学にたずさわっている多くの技術者は、意図的な悪意で陰謀的に仕事をしているわけではないだろう。善意で邁進したがゆえに、その結果に直面したとき、精神分析でいう「否認」の態度に陥るのだろう。

 

映画観賞後の喫茶店で、女房と会話してみる。…(東北帝大の理学系出身の)父は、(会社を創業した)野口に憧れてチッソを選んだ。野口は、水力発電などで名をはせた技術者だった。ほとんどのエリートは、東京から出たくないので、熊本になど行かないのだ。とくに、お嬢様を嫁にむかえた夫は、まずいかない。私の母もお嬢様だったが、子どもにお母さまなどと呼ばせたりする世間は嫌だったし、子どものころ満州から引き上げてきた経験をもつ父も(飢えと紙一重だったと、私は父の弟、まるで兄にたかりにゆく漱石作品の自由人として生きてきたような人からきいている)、東京が好きでなかった。中学のころから熊本市の寮にいかされていたので、事件のことは知らなかった。悪いなどとおもったことはない。東京本社は、熊本の工場などつぶれてもいいとおもっていた(というような話を、父から耳にしたのだろうか?)。たいがいは熊本に来ても、単身赴任の出向で、帰っていく。高校の途中で、会社をやめ、千葉に引っ越してきたのだ。(おそらく、一仕事終えたので、系列の会社へ移動したのだろうとおもう。生前に、少し事件をめぐって話したことがあるが、自分たちが仕出かしてしまったことに、反省というより、心底おそれおののいているような印象だった。「銀行にいって、会社つぶれるぞ、いいのか、と脅してたんだ」とも言っていた。私と女房との縁が、社会運動組織にあったと知っていたからか、「環境問題に興味があるのなら、知り合いがやっているから、紹介するぞ」とも言っていた。「あれは、ほんとうに悪いことなんだ」とつけ加えながら。)

 

数か月まえから、我が家は、「生活クラブでんき」にはいっている。女房は、山梨県まで、その太陽光発電所を見学にもいったのだそうだ。「山梨で作った電気がこの中野区まで来るっていうの?」と私がきくと、「そうよ。説明きかされたけど、ぜんぜんわからなかった」と、返事がくる。ありえない、と私は考える。原理的にいって、つまり量子論的にいって、電子の同一性というのはない(不明な)のだから、わかりえるのは、ここまでの電線経路での他の様々な発電所からくる電流の量合算から、この借家で使う分量での割合が仮説的に推測できるだけだろう。生活クラブのホームページにはそこまでの説明はないが、明細書には、生活クラブでんきとか呼ばれるものと他電気を比較的に並べた%の割合がのっているらしい。が、原発や火力発電が減少しないなら、電気の全体量が増えてそれらの割合が減るだけで、やはり、国策的なものが変更にならないかぎり、クリーンエネルギーとかいう政治パフォーマンス広報にしかならないのではないか?

 

つまり、太陽光発電といっても、東電が仕切る送電線への参加の許認可をめぐるとかいった、国策を前提とした政治的配分の問題が想定される。とおもっていたら、元公明党議員による、クリーン発電を企業している会社からの収賄だか補助金詐欺だかの事件がでてきた。衆院選の結果あとのこの事件の提示に、自民党と公明党、さらには維新との政治駆け引きがあるのではないかとも勘繰らせるが、いいことをめぐっても、色々なグレーゾーンがあるのだろう。

 

こういうことを付記したのは、女房の実家であった千葉の空き家へと引きこもろうと考えているさい、電気の自給もできないかと太陽光発電のことなど調べはじめたからなのだが、昨年の台風でその近辺、一週間の停電になったのだが、民家の屋根上のパネルも吹き飛んでいたらしい。台風が巨大化していくのも、善意な産業科学のおかげなのだろうか?

※たくさんの著名人が称えているなかで、私に近い感想のブログあったので、リンク。

https://yuuhikairou.blog.ss-blog.jp/2021-09-25