2021年11月3日水曜日

選挙結果と放火事件

 


予想通りな衆院選挙結果となった。とりあえず、選挙へ行くような国民の半数の内の多くが、成り行き任せな共同体の自壊をなお選んでいる、ということなのであろう。私としては、主体的に既得権益勢力をぶっこわすと言明しているN党にでも投票しておこうかというところが当初だったが、たぶん今回で消えてなくなり、野党勢力も苦戦するだろうからと、リベラル派定番どおりに、小選挙区が立憲民主、比例で共産、というところに落ち着いた。野党が政権をとったほうが、なおさら何も決められない「未完のファシズム」となって、自壊がはっきりしていくだろうなと。維新の会の急激な躍進が以外だったが、これは「未完」としてではなく、もっと強力なリーダーシップを発揮した列記としたファシズムたれ、という反動的な民意の反映なのだろう。それが自壊を加速させるだけとは気づいていない人々の、無意識的な思い、かなえられない願い、みたいなものなのだろうか?

 

そんな選挙よりも、私が気になったのは、その開票中に起きた京王線での放火事件のほうだ。おそらくこちらの方は、選挙には行かない、ある若い世代たちの民意を反映しているのではないか、と。映画「ジョーカー」を模倣したという。それと渋谷のハロウィン騒ぎの件について、二年前だかにこのブログでも言及したことがあるが、おそらく、オウムのテロ事件に似た、もっと大きな暴動が日本で起きることになるだろう、と私は予測している。

 

私の推測では、この日本の若い世代たちのストレスを産み出しているものは、コロナ騒ぎでの用語を使えば、「同調圧力」ということになる。マスクにしろ、ワクチンにしろ、言論の戦いとして意識化される世間がない。もうそうしろとの暗黙の決定しかなく、他の意見ははじめから異端においやられている風潮だ。スマホの普及した子どもたち、若者たちの間では、この世間にあわせないといけないという、世間体、友達の間での見栄、外見のつじつま合わせみたいのが、相当な圧力として存在しているようだ。私の息子が自衛隊などを受験するのも、その狭い世間下に追いやられて、という風にみえる。戦争の悲惨さなど、戦後のリベラル派の教育が説いてきた論理をもちだしても、聞く耳が持てない。大人がそんなこといっても、世界は違うではないか、と見えるというより、圧力がかかるのだ。黒沢清は、映画「東京ソナタ」で、バブルはじけて失業したサラリーマンの大学生の息子が、大人がなに言ったって、結局はビラくばりのような仕事しかないじゃないか、とその虚しさと鬱屈から、アメリカの海兵隊に入隊しイラクへ派遣されていく家族のエピソードを挿入している。その映画では、失業を恥ずかしくて家族に言えないサラリーマンが、見栄を捨てて清掃業についていくことで、人間としての本当の姿を回復していく希望を垣間見せるように終わっていくのだが、私の場合、はじめから、清掃業のような仕事なのだった。だから、そんな落ちはない。

 

どころか、先月まで、三代目若社長の仕事手伝いで街路樹作業をやっていたが、とうとう、遺伝子スイッチというか、本能的な判断が生起した。その仕事が終わり、親方との寺の手入れ作業にもどったとき、一服時のコーヒーを飲みながら、話を切り出す。「私はもう、三代目の仕事はやりません。仕事がないときは、なくていい。空き家になっている千葉の実家に行く予定をたてますので、来年からは、そのつもりで段取りをつくってください。」――自意識的な思いめぐらしというより、サッカー元日本代表監督の岡田氏の言葉でいえば「遺伝子スイッチ」がはいる、主体的にではなく、受態的に、決然と私が追いやられる、という感じ。身の危険を本能的に感じた、とも言える。ここから逃げるぞ、場所を変えるぞ、という強迫観念だ。最近のこのブログでの言及用語でいえば、「中動態」的な決断、とも言えるかもしれない。

 

街路樹作業の手伝いには、就職も決まった大学四年生がいれかわりバイトに呼ばれてきた。一流大ではないだろうが、あまりコロナとか関係なく、観光業以外は、職はあるような話をしていた。が、自分たちがいくのが、ほぼブラックなんではないかと、自覚的になっている。宅建の勉強して不動産業にゆくものは、もうその実態に気づいている。しかし、行くしかないではないか? 戦争、それが悲惨で悪だとは知っている、しかし、行くしかないではないか……おそらく、若者たちは、その八方ふさがりなような世界を感じて生きているのだ。

 

理屈など通じない。自ら、身を以って、その壁を壊してやると進んでいくだけだ。

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