2021年11月22日月曜日

テロの予感とプラットフォーム

 


アメリカ経由の祭りハロウィンの当日、ハリウッド映画『ジョーカー』をなぞって、渋谷での喧騒をのぞいたあとでの24歳の若者による京王線内での犯行は、犯罪心理学者の専門家等から、精神異常者のものではなく、単に世間の注目を集めたいだけの私的な犯行になろう、と評価されているようだ。BBCニュースでは、いまでも日本は安全です、となる。

 

しかし他国の大都市に比べ、日本の日常での安全がつづくのは、それだけ、普段の抑圧が強いだけでなく、それに気づけないほど隠蔽されているからだろう。私が子どもの頃の時代劇のセリフで、「てめえら人間じゃあねえ、たたき斬ってやる!」と、突然正義の浪人だかが暴れはじめるのがあった。つまりは、そうになるまで、「じっと我慢の子であった」(という定番ナレーションのはいる時代劇もおもいだすが…)、大人しくしていた、ということだ。真珠湾の奇襲攻撃も、そんな、もう我慢ならねえ、という正義感の爆発でもあろう。普段は、内にストレスを溜め込まされていく体制であるが、それが一気に噴出して体制への反抗となってあらわれるのである。

 

しかも、この若者も、すぐあとに続いた60過ぎの男の便乗のような犯行も、死刑になりたかったから人を殺そうとした、とか言っているようだ。ということは、外への加害というより、内への自殺衝動が変形されての爆発となっている。時代劇よりも、日本的な内向性鬱屈がひどくなっている、と言えるのではないか?

 

私はこの事件から、オウムによるテロのような事件発生の予感を感じた、と以前ブログで書いた。日本の場合、宗教や思想信条に結びついていくような常態的な関連が人々の間で希薄だから、テロ、というより、暴動、というあり方に近くなっていくのかもしれないが、そう予感した下地には、そのブログで言及したコロナ・ワクチン体制のほかに、皇族の娘の結婚をめぐるメディア状況というものがあったろう。天皇家が、天皇制(同調圧力)に抑圧されるまでになっている。若い二人は、アメリカへと亡命したわけだろう。私は、近い将来、天皇(家)から自殺者がでるのではないかとも、心配してしまう。

 

さらに、このまだ文学が生きていたころなら天皇制と通称されていた「同調圧力」なるものは、SNS等のネット環境が世界中を同期させている現今では、日本だけに固有の問題とも言えないのではないか、いや逆に、この環境が、日本の天皇制的な体制を補強してゆくようなツールとして機能していったがためにこそ、鬱屈が加速され噴出のタイムリミットにも近づかせているのではないか、とも思えるのである。

 

そう考えを思いめぐらせていたところに、大塚英志氏の1989年出版『物語消費論』の現代版へのアップデートだという『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』なる新書を手にした。この考察は、説得力がある。このブログでの文脈で言い換えれば、プラットフォームが「同調圧力」(無償労働による意識されない疎外)を産み出している、ということになろう。だからテロとは、実はそこにおいて、それをめがけてなされているのだ、と分析される。そういう意味では、なお治験中であるワクチンの接種も、ボランティア労働による圧力になり、いま権力やマスメディアが抑圧・隠蔽にやっきになっているのも、それが「陰謀」だという言論なようだから、その抵抗の目指している先に、やはりなにか核心的なものがあって、そこに触れている、虎の尾を踏んでしまっている、ということへの無意識的な「否認」の仕草なのだろう。日本の文脈で言い換えるなら、天皇制とがプラットフォーム(ほぼ皆が関心いいね!をもたされてしまう、そう無償労働で搾取されてしまう…)なのだから、そこに抵触している、ということになる。

 

大塚氏の指摘は、トランプ現象は小説家集団Qによって文学テクニックで仕掛けられものだとするものからはじまって多岐にわたるのだが、ここでは、このブログでも言及してきたような問題領域に重なる部分の引用にとどめておこう。

 

<つまり、高度消費社会に於いて、そこで私たちがただ「生きる」こと自体が「労働」であり、私たちは無自覚に「搾取」されている、という「問題」の所在とそのような「制度」への「名付け」として、ルーサー・ブリセットがあったことが改めて確認できる。プラットフォームによるビッグデータの収集というビジネスの成立した現在、ようやく、あのサッカー選手の名を偽装した「オープンポップスター」の正体を私たちは知ることができるのである。ブリセットは搾取される私たちであり、だからブリセットは「たくさんいる」ことが必要だった。/しかし、今やブリセットの名は、忘れさられている。だから、ブリセットが「プラットフォーム」の比喩だとしても、例えば私たちは自分がTwitter社に「労働」を搾取されている「たくさんのブリセット」とは思わない。/だから、渡邊博史や青葉真司の「事件」で立論されるべきは、彼らはプラットフォーム的なものが体現した新しい社会のアイコンとしての人気作品の関係者を脅迫し、アニメ社会に火を放ったという犯行の枠組みである。渡邊の事件、青葉の事件の双方に共通するのは、既に述べたように、これが新しい社会システムへのテロリズムだという側面がある点だ。>

<それは例えば、Uberの配達員がいくら働いても個人事業主としての充足を得られなかった時に表出するかもしれない「怒り」とも似ている。それは「隷属」を「参加」と言いくるめることができたことで生じる破綻である。ファンと作者、個人事業主と企業を「同じ」と言い繕いつつ、そこには歴然として越えられない「階級」がある。しかし労働者はファンや個人事業主として「名付け」されているので「階級」としての「名」はない。/しかしこのような透明化された「階級制」への抗議が、政治活動やましてやテロリズムとして行動化されるのは、極めて例外的である。せいぜいがプラットフォームの「乗り換え」で済まされる。渡邊が『黒子のバスケ』に拘泥せず、アイドルグループの名を挙げてそのファン活動にとどまるという選択肢があったことを「後悔」しているのは、そういう意味である。>(「物語隷属論」『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』大塚英志著 星海社)

 

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